るのも、こうして広嗣の生前の歌を残してくれているからでもある。 桜花が散り急ぐように、寡黙に九州から海の彼方へ向かっていった男ーーーといえば、今度は ちらん かのや ・二六事件」ではなく、九州の鹿屋や知覧の基地から飛び立っていった戦時中の神風特攻隊の 若き兵士を思い浮かべてしまった。「憂国の怨霊」に加えて、「桜散る怨霊」とも呼ばうか。 桜は毎年春に咲く。 日本にかってこうした憂国の男たちがいたのだということを私たちに伝えるために、もしかした ら、毎年、桜はこの国に咲いて、散っていってくれているのかもしれない。 いつの日にか、桜の花の咲く頃、桜花のひと枝を手折って、鏡神社の広嗣に手向けに行くことに しょっ 2 ”藤原広嗣ーーー憂国の怨霊
を経て、今度は娘が皇太子になり、やがて夫の後を受けて女帝となる。これで藤原氏の娘としての 責任が果たせたことになる。娘が天皇になることでどのような運命が展開するのか、光明子ははた してそこまで考えていただろうか。 ひろつぐ だざいのしように 阿倍内親王の立太子から二年後の天平十二年八月、大宰少弐、藤原広嗣が突如、九州大宰府から げんぼうきびのまきび 上表文を送りつけ、僧玄昉と吉備真備の朝廷からの排除を進言してきた。広嗣は藤原式家宇合の長 男である。天平十年十二月に大宰府の次官、少弐として九州赴任中であったが、それを左遷人事と 三野王 葛城王 ( 橘諸兄 ) 佐為王 ( 橘佐為 ) 牟漏女王 光明子 阿部内親王 ( 孝謙天皇 ) 聖武天皇基皇子 合 ( 式家 ) ーーーー広嗣 藤原不比等ー宮子 県犬養三千代 29 井上内親王ーーー聖女の呪い
んだ火雷神の生まれ変わりといっていいだろう。古傷が癒えた頃、その部位に新たな傷が付くと、 せつかく癒えた古傷が疼き出すーーーそれと同じ現象であろう。 京都の御霊神社については、根本的に不可解なことがある。 〈誰が〉という主語はあえて省くが、怨霊に祟られた長岡京を捨てて、せつかく新たな平安京を 建設したのに、なぜまたこの新都にわざわざ怨霊を迎えるようなことをしたのだろう。 怨霊の威力を逆手にとって、新都の守り神とするーーーとも理解できるのだが、そういう逆転の発の 集 想を抵抗もなく素直に納得して受け容れることができたのだろうか。淡路島のところでも述べたが、 葉 万 怖いもの、見たくないものには近づかないのが人間の心理ではないのか。 それとも、気がかりなものを視野の外に放擲すると、かえって不安になるので手放せず、あえて 自分の目の届くところに置いておくということなのだろうか。最近の事件で、自分が産んだと思わ家 れる子供の遺体数体を段ボ 1 ルに入れて、ずっと一緒に暮らしていた母親のことが報道されていた大 魂 が、それと同じ心理なのだろうか。 の 私は心理学や精神病理学には素人の門外漢なので、そうした心の動きは読み取れない。 へ 王 し十 / し 「怖いもの見たさ」というフレ 1 ズがあれば、「触らぬ神に祟りなし」という諺もある。 親 良 日本人の心はどちらが本音なのだろうか。 早 だがとにかく、延暦四年の藤原種継暗殺事件の罪人たちを許すという、早良親王への謝罪行為と、 出直しを図った新たな都に、因縁深い怨霊をあえて迎えるという行為とは、似て非なるもので、論
こういう皇位継承争いのあおりを受けて不如意のまま滅びていった貴人たちは、歴史をひも解け ば他にも沢山いるはずであるが、その死後怨霊として祀られるということは聞かない。やはり怨霊 ほ、つき として祀られるようになるのは天平十二年 ( 七四〇 ) の藤原広嗣から始まり、飛んで、宝亀六年 おさべ ( 七七五 ) の井上内親王と他戸親王母子の死に受け継がれていく。その間、安積皇子や淳仁天皇の 死があったが怨霊として祀られていない。 怨霊になる人、ならない人ーーー・・この違いはどこから生じるのだろう。誰の死も、その死の重さは 変わらない。恨みを残して死んでいった苦悩や宿念もそう違いがあるとは思えないのだが、なぜ怨 霊がある時代の、ある特定の人物から発生するようになったのだろう。 て よう」う 祟り・たたるーーーということばは、出現・示現・発現・影向など、もともと神霊の発動を意味す 6 る「たっ」を語根とした語である。「秋立つ」「風立ちぬ」などの「たっ」も神のみわざとしての動仰 霊 きを伝える語で、きざし、しるしを意味することばから始まっている。 『日本書紀』朱鳥元年 ( 六八六 ) に、 何 天皇の病をトふに、草薙剣に祟れり。 とあるのが「祟り」の語の初見であるが、天武天皇の病気の原因が草薙の剣の祟りであるというの翻 である。つまり草薙の剣に宿る神霊の発動を「祟り」という語で表している。 したがって「祟り・たたる」とは、基本的には神仏の霊威の発動を意味することばであり、人間
う。陰があるから、闇が深いからこそ陽が輝き、表が明るく見えることを忘れてはならないだろう。 裏や影や陰、あるいは太陽に対して、見えない月ーーー闇夜の中で姿は見えないけれど、確かにそ こに存在するーーーそうした負の世界が支えてきた日本の文化にもっと目を向ける必要のある時代が、 今日なのではなかろうか。 「日本の怨霊」ーーそれが日本文化の原点といっていいだろう。 それは誰にも分からない。たが、見えない存在に心澄ま 怨霊は存在するのか、しないのか して謙虚に向き合う精神をもう一度日本人が取り戻さないと、豊饒な日本文化はやがて立ち枯れて しまうことになるだろ一つ。 ある夜、 最後に『日本霊異記』の作者、薬師寺の僧・景戒が語ったことばを記しておきたい 景戒は自分が死に、その身が焼かれる夢を見る。しかし屍が思うように焼けないので、自ら我が身 を工夫して焼く。そして傍らの人々の耳元に口を当てて遺言を叫び伝えようとするが、死者の声は 生きている者には聞こえないことを吾る。そして景戒はこういう。 こえ たましひこえ 死にし人の神は音なきがゆゑに、わが叫び語る音も聞こえぬなりけり ( 『日本霊異記』下巻第三十八 ) たましひこえ これが怨霊となった人々への鎮魂であり、これからの日本人の持 死者の神の音なき音を聴く つべき心根であろう。この書がそうした死者の神の音なき音を聴くための「死者の書」になれば望 合掌 外の幸せである。 0 268
たものであるから延暦四年当時の面影はない。それでも境内には早良親王の供養の石塔が建てられ ている。若き日に東大寺で出家し、僧籍に身を置いていた早良親王が、人生最期の十数日間、自分 の心にひとり向き合っていたのが、やはり寺院であったというのも、この人の宿世である。悲憤慷 慨の中で飲食を絶ったのであろうが、幽閉された一室で、静かに端座し、滅罪生善ーーー諸々の悲憤 を滅却して無の境地に達していたのだろうか。いや、せめてそうあってほしいと願う。 乙訓寺はその後、平安京への遷都や、怨霊と化した早良親王ゆかりの寺ということもあって敬遠立 されたのか、堂は雨漏りし、垣根は壊れと、かなり荒廃したようである。 ところか こんな妖気漂う荒廃寺に自ら望んで入った人がいる。 ~ 第訓 今ー
う存在もしない能動態を空想で創りあげてしまうーーー人間という動物は唯一、妄想を抱き、その妄 想にさいなまれる生き物なのだということと、この世の中はひょ「としたら妄想と錯覚で成り立「 ているのかもしれないということを改めて心に刻んでおくことも必要かもしれない。 怨霊研究の難しいところはそのあたりなのである。 さて京都では、まず御霊神社を訪ねてみよう。 御霊神社は京都御所の南北にそれぞれ一社ずつ鎮座して、それを通常、 , 霊神 ( 京都市上京区上御霊前通鳥丸東 ) 御霊対 ( 京都市中京区寺町丸太町下ル ) と呼んでいる。それぞれ八座の御霊を祀り、それを「八所御霊」、「御霊八社」と呼び習わしている。 上下社の祭神が微妙に違「ているので、上下に対照させると次のようになる。 ( 下御霊神社 ) ( 上御霊神社 ) 崇道天皇 崇道天皇 藤原広嗣 井上内親王 伊予親王 他戸親王 藤原吉子 藤原吉子 橘逸勢 橘逸勢 文室宮田麻呂 文室宮田麻呂 196
日本の怨霊を調べはじめてからほば三十年が経ってしまった。 昭和五十三年 ( 一九七八 ) 、当時の勤務校の論集に早良親王の怨霊のことを発表 ( 「柿本人麻呂外 伝」『山手国文論攷』一号 ) したのがきっかけだった。ただしその後、怨霊ばかりを研究してきたわ けではなく、専門の民俗学とか、国文学の研究の合間に少しずつ調べを進めていった程度だった。 日本の怨霊を研究するといっても、当初、いったい何をどうやって調べていけばその実態が明ら かになるのか、皆目見当もっかなかった。そもそも怨霊に実態や実像があるものなのか、その確認 からはじめなければならなかったからである。 古代の天皇家の皇位継承争いなどで、恨みを呑んで死んでいった人々が、死後、化けて出てその 恨みを発動させ、相手に祟ってゆく現象ーーーそれが日本の怨霊なのであるが、はたしてそういう怨 霊が実際に出現したものなのかどうかも分からないし、もっと厳密にいえば、そうやって死んだ 人々が本当に限みを残して死んだのかどうかも分からない。死後、化けて出てやるとも、怨霊にな ると言い残して死んだわけでもないのだから、すべては闇の世界である。そんなことを自問自答し ながら、結局、怨霊にとり憑かれたのか、魅せられたのか、闇の世界に引き込まれていったのがこ あとがき 27 ラ
の罪で処刑された、道祖王や黄文王らも「マドヒ」や「タブレ」などという変名で呼ばれている。 母の操り人形のように従順に帝位についていた聖女も一皮めくれば魔性の女の顔がのぞくという ことか。前回は恵美押勝、今回は弓削道鏡ーーー女はっき合う男によって、聖女にもなれば、魔女に もなる。これは古今東西変わらぬ人の世の性というものか。 できることならば、お互い魔性の本性を出さない、出させないように 、だまし、だまされ、穏や かにつき合うのが一番得策のようです。 申護景雲三年 ( 七六九 ) 九月、宇佐八幡宮の神一 この呪詛事件の嵐が収まるカ収まらないかといううちに、またしても新たな事件が起きる。今 度。兄主役の回しである。 九州の神職から宇佐八幡の神託だといって、 「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平にならむ」 という、神託とも思えないような、みえみえの「ご託宣」が都にもたらされた。 道鏡はこの神託を聞いて「深く喜びて自負す」とあるから、僧衣の下に隠している魔性の顔が思 わず満面の笑みを浮かべたのだろう。 称徳女帝もその前夜、夢に宇佐八幡神の使いが出て来て、 ほうきんに 「大神が伝えたいことがある。法均尼という尼僧を宇佐に遣わせ」 という、お告げがあったと言い出した。
と賭けをしたところ、皇后が勝ってしまった。皇后はその後、天皇に男を要求して責め続けた。天 皇は冗談だったのにと、苦りきってしまったが、藤原百川が、 「それならば、山部親王を皇后にあげなさい」 と進言した。嫌がる山部親王を天皇は、 「孝というのは父の一一一一口うことに従うことだ。私は年老いてもう力がない、だから速やかに皇后の 、もとに一何け」 と説得して押し付けた。仕方なく山部親王が皇后のもとに行くと、五十六歳になる皇后はこの三十 六歳になる壮年の親王を溺愛し、手放さなかったので、天皇は苦々しく思っていた。 ある時、皇后が天皇を早く死なせて、我が子、他戸親王を帝位につけようと「まじわざーをして 井戸の中に何かを入れたのを百川が発見した。その他にも、皇后の側近八人が非道なことをして衆 人を苦しめていたので、百川が天皇の許可を得て、その八人を処罰した。 なかろう。自殺か他殺かーーーとにかくただならぬ死であることは間違いなかろう。 こうして皇位継承の犠牲者がまたしても出た。いったい井上内親王は何をしたというのだろう。 ここで『水鏡』の語るところを紹介してみよう。ただし『水鏡』という平安末期に成立の歴史書 はかなり眉唾もので、性悪ーー人間を悪く描くことを目的にしたような作品なので信用度はもうひ とつないことを前もってご了解いただきたい。 『水鏡』によると、宝亀三年に天皇と井上皇后がおそらく双六だろう、博打をしていて、天皇が、 「もし私が負けたら壮年の男をあげよう。皇后が負けたら美女を斡旋してくれ」