あるとすればここしかない 本人麻呂を祭神とて祀る柿本神社である。 ひとまる 、昔から学問、安産、除火の神として崇敬を受 柿本神社は地元では人丸神社、 けている神社である。 全国に柿本人麻呂を祀る社は七十ヶ所ほどあるが、島根県にある柿本神社と並んで、この社は由 きようほ , っ 緒と格式を他より誇り、享保八年 ( 一七二三 ) に人麻呂一千年祭を記念して、この二ヶ所の人丸社 に「正一位柿本大明神」の神位神号が宣下されている。 現在の社は明石市の東、小高い丘の上に鎮座している。東経一三五度、いわゆる子午線上に位置の ・けっしようじ している。神社の西隣には、やはり人麻呂に由来を持っ月照寺があり、明治の神仏分離令によって集 それぞれ独立したものである。 では、この人丸神社がなぜ明石にあるのだろう。 島根県の人丸社ならば、『万葉集』巻二に人麻呂の石見での辞世歌が伝えられているので、その家 建立の由来を求めることができるのだが、この明石の地ではどうなるのだろうか。 一般的な理解では、明石が人麻呂の歌と深く関係しているところから、それを顕彰して、この地魂 にネ社が建立されたと言われている。なるほど人麻呂は『万葉集』に、 やまとしま ひな ながち 天離る鄙の長道ゅ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゅ という歌をはじめとして、明石付近を詠んだ旅の歌が多い。また『古今集』にも、 あまざか ( 巻三ー二五五 )
廃太子になった恒貞親王や隠岐国に流された伴健岑らのその後は杳として知れない。逸勢だけが 怨霊になったというのは、それだけ橘逸勢が無実の罪であることを反映しているのかもしれない。 ごうだんしよう ここんちよもんじゅう 『江談抄』や『古今著聞集』には、能筆家逸勢が書いた内裏の安嘉門の額の字が、髪が逆さに生 えた童が沓をつけているように見え、昔、その門の前を通りかかる人が、時々、踏み倒されたので、室 密かに人がその門に登ってその額の中央を消したという怪談を伝えている。 また逸勢が書いた額には霊が宿り、人を害したともいうので、彼の怨霊は字にまで宿って宮中に逸 出入する貴族たちに恐れられたのだろう。 達筆な怨霊ーーそれが橘逸勢である。絵画や写真に宿る幽霊は後の世にも語り伝えられているが、 字に宿る霊はこの橘逸勢をおいて他にないだろう。 庶人・文室宮田麻呂 橘逸勢を巻き込んだ「承和の変」がまだ終息したとはいえない一年後の承和十年 ( 八四 = l) 十一一一 ふんやのみやたまろ 月二十二日に新たな事件が勃発する。それが文室宮田麻呂の謀反である。 この日、宮田麻呂の従者が、あるじが謀反を企てようとしていると密告に及ぶ。直ちに宮田麻呂 を拘束し、彼の京宅と難波宅を家宅捜査してみると武器が発見されたとある。 参議らが宮田麻呂を尋問し、その結果、死罪に相当するが罪一等を減じ、宮田麻呂は伊豆国へ流 罪、息子二人も佐渡と土佐へ。従者や連坐した者たちもそれぞれの配所に送られることになった。
とものよしお であった。後の貞観八年の応天門炎上で罪に問われた大納言伴善男も伊豆に流されている。古いと しおやき ころでは塩焼王も同地に流されているので、流罪の中でも最も罪の重い遠流に相当する地が伊豆で 呂 麻 ある。単なる偶然であろうが、生前、没後にわたり個性豊かな人物が伊豆に流されたことになる。 田 宮田麻呂がどのような祟りを発動させたのかは分からない。 室 文 貞観五年五月の「御霊会」の三ヶ月後、八月十五日、宮田麻呂の田宅は貞観寺に施入されたとあ る。御霊として祀られた宮田麻呂はその時でもまだ身分は取り上げられたままで「庶人文室宮田麻逸 呂」とある。 前に紹介した、貞観年間に清和天皇の『万葉集』成立の質問に歌で答えた、文屋有季はこの宮田母 麻呂とはどういう血縁関係にあったものだろう。清和天皇は貞観五年の「御霊会」に祭神として祀親 伊 られた六人の御霊については、きっとただならぬ興味を抱いただろう。 その中でも最も新しい祭神として祀られた文室宮田麻呂にもその事跡への質問があったのではな吉 原 いか。それに対して、文屋有季がさまざまな事件のあった朝廷の歴史を語ったのではなかったか。 藤 やすひで また同じ文屋でも、六歌仙の一人、文屋康秀も宮田麻呂の縁者であろうか。もしそうだとすれば、 々 神 宮田麻呂の供養のために「百人一首」に採られた康秀の秀歌をここに捧げることにしよう。 の 社 吹くからに秋の草木のしほるればむべ山風をあらしといふらん 御 ( 『古今集』巻五秋歌下 )
( 巻九ー四〇九 ) ほのばのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく船をしぞ思ふ という歌は、「よみ人しらず」でありながら、「或人曰く、柿本人麿作ーとされ、この歌の方がかえ って後世に人麻呂代表歌とされていて、確かに人麻呂と明石との関係は深いものといえる。 しかし、歌人がその地で名歌を詠んだからといって、歌碑ならばまだしも、神社が建てられ、神 として祀られるというのはあまりに大袈裟すぎるのではなかろうか。 「月照寺由緒」にはその創建を次のように伝える。 こうにん 五十二代嵯峨天皇、弘仁二年 ( 八一一 ) 、弘法大師空海がこの地に巡錫のみぎり、赤松山に一寺 こうこう にんな を建立し、湖南山楊柳寺と称した。その後、五十八代光孝天皇、仁和三年 ( 八八七 ) に、時の住僧 覚証和尚が、一夜、人麻呂の霊夢を見て、この地に人麻呂の神霊が留まるを感得して、大和国柿本 寺より船乗十一面観世音を勧請し、寺中に観音堂を設け、海上安全を祈り、同時に寺内に人麻呂の 祠堂を建て、寺の鎮守となした、というのが人丸神社の起源であるという。また「柿本大明神縁 起」では、 かぜあしくすで せと 扨、明石の迫門は西海一の難所にて風悪敷已に舟かへさんとせしに御神を祈り丹心に、歌の道 船の道をも守るとて明石の浦に跡たれし神と、読て、其難の遁れし成。 とあるように、人丸神社が明石海峡の水難を守る神として祀られており、あるいは「人丸縁起」な すいじゃく どになると、人丸大明神が十一面観音の化身であり、住吉明神、玉津嶋明神の垂迹でもあると伝え さて 182
淡路島では早良親王の遺跡が明石の人丸神社と直線で結ばれていると述べたが、この奈良では東 大寺の南大門と直線でやはり南北に結ばれているのである。単なる偶然といってしまえばそれまで であるが、早良親王と大伴家持とがこの一直線の道で結ばれているようで、安らかな気持ちになれ るのは私だけであろうか。 蛇足になるが、この大寺南大皚から崇道天皇八嶋陵へつながる道をさらに南に下、つ、ていくと途 しちのもと わにした 中、カ少しずれるが、天理市櫟本町に歌塚で有名な柿本人麻呂ゆかりの和爾下神社や人麻呂の立 成 墓がかってあった地に行き着く。やはり人麻呂と結びつくのである。 の この地が古くから「治道天王社」と呼ばれていたことも注目したい。和爾下神社の石灯籠にも集 けんしよう 「治道宮天王」 ( 元和元年銘 ) とあり、寿永二年 ( 一一八三 ) の藤原顕昭の『柿本朝臣人麿勘文』に防 も「治道社ーと早くに紹介されている。 持 島田神社の早良ゆかりの「崇道天王社」ー櫟本の人麻呂ゆかりの「治道天王社」。 家 大 なにやらこの一本の道で、家持ー早良親王ー人麻呂と結ばれているようでならないのである。 魂 の 奈良の町の御霊神社 へ 王 親 良 八嶋陵以外にも奈良の町には至る所 ! こ御霊神社が点在している。 八嶋陵から北に向かうと高畑町から紀寺町へと至る。その通りに小さな境内だが「崇道天皇社」 がある。『霊安寺縁起』にも、 じゅえい
このように明石を宮廷領の境界として捉えてみると、その地に人麻呂の霊魂が留まっているとい うのは、人麻呂の霊魂をそこに据えて、外側から侵入してこようとする災いを防ごうという意識が あったからではないか。 タ側から侵入してこようとする災い、そのもっとも布ろしい具体的な災いと言えば、淡路島から 一直線に延びて、明石海峡を越えて都に向かおうとする早良親王の怨霊以外にはない。 その明石海峡を越えてくる早良の怨霊を明石の波打ち際で受け止めるのが柿本人麻呂の歌魂であ立 成 しし。し力ないだろうか の ると見るわナこよゝゝ 死者の魂を慰めるのは歌のカである。人麻呂の歌に明石付近を詠んだものが多く、人麻呂が明石集 海峡の守り神として祀られるのも、人丸神社が明石海峡と淡路島を臨んで建てられているのも、そ防 れらは南から海峡を越えてくる早良の怨霊に対峙するために設けられた防御システムではなかった カ 家 大 先に紹介した『古今集』の、 魂 ほのばのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく船をしぞ思ふ の へ という歌をもう一度眺めてみよう。朝霧の中に明石海峡から淡路島に隠れていこうとする船の姿を王 きんとう わかくほん 良 詠んだ叙景歌だが、この歌は藤原公任の『和歌九品』では、歌の最上位の「上品上生」におかれ、 早 「古今伝授」では生老病死の人生の真髄が歌われたと評価され、さまざまな伝説を生んだ歌である。 朝霧の中、淡路島に隠れるように渡ろうとしている船ーーーそうした船の中でもっとも印象深い船
とにかく人麻呂が明石海峡の守り神のようにして祀られてきたわけであるが、では人麻呂を祀る 必然性をどこに求めたらいいのだろうか。 げんな 元和六年 ( 一六二〇 ) 、小笠原 ところで人丸神社ははじめから現在の地にあったわけではない。 忠政が、「月照寺由緒」にある赤松山を利用して明石城を築城した折、現在の地に移したのである。 したがって、もともとは人丸神社の西、現在の明石城本丸付近が赤松山であり、そこに楊柳寺、人立 丸社があったわけである。その当時の赤松山がどの程度の山であったか、楊柳寺がいかなる規模のの 寺であったかは知る由もないが、明石城がこの山を利用して築かれたとみるならば、現在の人丸社集 万 よりも高い丘か杜になっていたものだろう。 また、現在の明石市の中心区域は明石城より南に拡が「ているが、もともと明石城付近までは海一 だったというから、楊柳寺のあった赤松山は波打ち際に面して、こんもり繁る小山であったと見て家 大 よかろ一つ。 明石城の本丸跡には今なお「人丸塚」と称される築山風の塚が残されている。築城後も城の守り魂 の 神として祀られていたものだろう。 へ 王 この赤松山に弘法大師が楊柳寺を建立し、そこに人麻呂の霊魂が留まっていたというのである。 親 ところで、霊魂と土地との関係については、多くの場合、重ね合わせて考えてみなければならな良 いのは、霊魂と境・丨ー国境、村境、峠、坂などいわゆる境界ーーーとの関連である。霊魂はこうした 境界、境目に置かれたり、留まったりしているのが、日本の霊魂信仰上の約束である。代表的な例
そこで法均尼の弟である和気清麻呂を代わりに派遣して神託を改めて問い直すことになった。法 均尼や清麻呂の属する和気氏はもともと古くからある吉備国の豪族である。 清麻呂出発の際、道鏡は清麻呂を呼び寄せて、 「宇佐の神が宮廷からの使いを呼ぶのは、おそらく我が即位のことを告げようということだろう から、うまく取り計らえば官爵は思いのままになるぞ と、生臭餞のこと、を贈った。 よ道鏡の野望を打ち砕くものであった。 だが帰朝した清麻呂から伝えられた神託 ! 「我が国は国家開闢以来、君臣の別が定まっている。臣を以って君となすは未だそれあるを聞か ひつぎ ず。天つ日嗣は必ず皇族から立てよ。無道の人はすべからく掃除すべし」 という前の神託とは正反対の託宣であった。 わけべのきたなまろ 烈火のごとく怒った道鏡は和気清麻呂の名を別部穢麻呂と改名して大隅 ( 鹿児島県 ) に流罪にし、 ひろむしさむし 呪 の 姉、法均尼も還俗させ俗名の広虫を狭虫と改名して備後に追放した。 女 聖 このひどい改名から判断すると、やはり女帝の例の悪い癖が出たものと考えられる。 岡山県東部に位置する和気郡和気町には今も和気神社があり、清麻呂を祀り顕彰しているが、道親 鏡に媚びず、我が身をも省みずに正反対の神託を伝奏した清麻呂の真意はいかなるものだったのだ上 こほんこうき ろう。『印本後紀』延暦十八年 ( 七九九 ) の「清麻呂伝」以来、清廉潔白な硬骨漢として今日まで 歴史的評価は高いが、伝説化された彼の生涯の中で藤原氏との関係が見え隠れしていることも見逃 ー′むけ
史上最初の怨霊となる 藤原広嗣への鎮魂の旅 御霊八社の神々ーー藤原吉子・伊予親王母子、橘逸勢、文室宮田麻呂 天皇に偏愛された母子 伊予親王の変 達筆の怨霊・橘逸勢 庶人・文室宮田麻呂 怨霊とは何かーー御霊信仰について 年表 亠のとがき 269 275 229 224 2 5 ラ カバー写真「雛供養」 ( 撮影・藤田勇 ) 装丁東幸央 237
奈良麻呂は取り調べに対し、仲麻呂の政治の無道を責め、東大寺大仏建立で人民を苦しめたから 決起しようとしたと敢然と述べた。晩年の父、諸兄の無念を晴らそうとしたのか、父よりも血の気 が多かったのだろうが、仲麻呂の前ではあまりに無謀な戦いであった。 その結果、黄文王・道祖王・大伴古麻呂他三名は拷問のうえ杖に打たれて死亡し、安宿王は妻子 ともども佐渡に流罪など、この粛清によって多くの犠牲者が出た。道祖王は四ヶ月前までは皇太子 だった人である。黄文王、安宿王は長屋王の遺児である。奈良麻呂については何も記されていない いんがいのそち が、おそらく最初に処刑されたものだろう。仲麻呂の実の兄である右大臣豊成ですら大宰の員外帥に 左遷されているのに、塩焼王だけは本来流罪になるところだが、罪を許すとある。塩焼王が前回の 事件に懲りて、よほどうまく立ち回ったか、それとも仲麻呂が例によって、塩焼王に恩義を着せて 自分の手持ち札の一枚として取り込んだものか。それはこの後に起こる事件で明らかになる。 / 宝宀一 ( 七五八 ) 八月、孝謙天皇譲位。淳仁天皇卩立。 しゅんにん 孝謙天皇は四十一歳で皇太子大炊王に譲位し、第四十七代 , 淳仁天皇が即ュする。 ひかみのまひと して、氷上真人塩焼を その昇格人事で白壁王は正四位上に昇格、塩焼王もあの事件以後臣 名乗り、従三位に上がる。そして仲麻呂は「太保、と改められた右大臣に就任し、功田百町と功封 三千戸を授与され、また私印を公印として使用することを許可され、名前も「恵美押勝」という美 名まで与えられた。まさに独裁専制の頂点に君臨したのである。 たいほ