おとめ 桜花に添えて娘子に贈った歌である。この花のひとひらの花片の中には、私のいいたい百通りも のことばが籠もっている、だからあだやおろそかにしてくれるな、という。「傑作」 ( 折ロ信夫 ) か ら「花屋のカードの走り書き」 ( 土屋文明 ) まで評価の分かれる歌だが、無言の花に自分の言えぬ ことばの限りを託した広嗣の寡黙直情型の性格がよく出ているようで、桜より早く散り急いだ広嗣 の姿が重なり哀れである。 その歌に対して返歌した娘子の歌。 ( 巻八ー一四五七 ) この花の一よのうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや 一片のはなびらの中に、さまざまなことばを抱えきれなくて、この桜花は折られたのではありま せぬか と、娘子は少しからかい気味に答えた。 この娘子がいうように、広嗣は抱え持ったことばや主義、理想が重すぎて、自ら折れてしまった 桜花のような男だったのだろう。 広嗣の九州左遷前の贈答歌であろうが、この二人の恋は実ったのだろうか。口に出しては伝えら れない恋心を、こうして桜花に託して贈った純情な広嗣。その純情さを相手に知られてしまうのを 照れて、わざと「おほろかにすな」と素っ気ない命令口調で歌を結んだ広嗣。そんな広嗣の性格を 知り抜いている娘子なので、「あなたの愛のことばが重すぎて折れたのでしよう」とやさしく受け 止める。この娘子は、この後の広嗣の九州での反乱とその死をどのように聞いたのだろう この歌集を鎮魂の歌集と呼ぶことができ 怨霊になった男の声を生で伝えてくれる『万葉集』 234
3 にそれぞれ各地へ流罪に処せられて、塩焼王は伊豆国三島へ配流される事件があった。 いおえ 塩焼王というのは天武天皇と藤原鎌足の娘・五百重娘 ( 大原大刀自 ) との間に生まれた新田部皇 子の息子である。天武系の皇子だから血筋は極めていい。 父・新田部皇子は『万葉集』では柿本人麻呂に歌を献じられているほどの人物で、長屋王の変の 折でも、舎人親王らと共に長屋王邸宅に出向き、その罪状糾問を担当したいわば天武系皇子の長老 - を・ いっぽん 格で、天平七年に一品という最高位で死去している。 のか不 \ そんな、エリートの父を持っ塩焼王は中務卿正四位下という高官に叙せられていたが、 , 破内親王あった。 破内 内親王 結ばれたのかは分からないが、天武天皇の孫と、聖武天皇の娘との結婚だから天武系血縁を維持し ていく意味では望ましい結婚であろう。藤原氏に圧倒され続けてきた県犬養広刀自から見ると、う ちの次女はいい夫を掴んだ、というところだろうか。婿の血には天武天皇ばかりでなく、母方の藤伊 原氏の血も流れているのだから、娘の将来がそう邪険に扱われることもあるまい という読みがあ聖 ったかどうかは分からないが、娘をしつかりとした家柄の男に嫁がせて、その幸せを願うという母 王 心は時代を問わず、夂わらないのではなかろうか。 親 内 上 その塩焼王、流罪に処られたのである。いったい何があったのか。 井 いうまでもなく流冫死罪に次ぐ重罪である。律令の規定では流罪はその罪の重さによって三種 おんる ちゅうるこんる 類あり、遠流・中流・近流と定められている。 にいたべ
つまり桓武天皇の曾孫にあたり、母も桓武天皇の娘で、山部皇太子の血を色濃く受け継いでいる 「みやび男」であるという事実は知っておかねばならないだろう。 桓武天皇の履歴の中では、伊勢斎王という聖処女を犯すという、皇祖神に背く大罪を表立って語 るわけにはいかないが、その話が秘密裡に伝承されて、曾孫の代になって、こうした恋物語として 表装され直して、公に語られるようになった、とも考えられよう。 もう一度、山部皇太子の伊勢参拝の時点に戻ることにする。 くら精神不安定な時期にあるとはいえ、はたして伊勢斎王と 伊勢神宮を訪れた山部皇太子が、い いう聖処女を犯すーーーという皇祖神に背く大罪を犯すてあろうか。しかも相手はいくら美人とはい え、今しも死霊となって祟り、我が身を苦しめている相手の娘である。母から娘に受け継がれる血 の濃さは、そのまま恨みの濃さにもなる。 そうした二重三重の負性をも省みず、彼が斎王に接近したとすれば、それは単なる色香に迷った 行動ではなく、彼の病気治療の最終手究極の記才オったと見るわけにはいかないだろうか。 『続日本紀』には「数ヶ月間あらゆる医療を加えたが平復せず」とある。病の原因は分っている。 井上内親王の怨霊である。かなり強い毒気を放って心身を苦しめる病原菌である。 ならば、「毒をもって毒を制す」 この諺にすがるようにして究極の治療として、井上内親王の血を引く娘、伊勢斎王として神に仕 える聖なる処女と通じ、それがひいては皇祖神を冒濆する行為であることを承知でこの伊勢神宮参 85 井上内親王ーー -- 聖女の呪い
を経て、今度は娘が皇太子になり、やがて夫の後を受けて女帝となる。これで藤原氏の娘としての 責任が果たせたことになる。娘が天皇になることでどのような運命が展開するのか、光明子ははた してそこまで考えていただろうか。 ひろつぐ だざいのしように 阿倍内親王の立太子から二年後の天平十二年八月、大宰少弐、藤原広嗣が突如、九州大宰府から げんぼうきびのまきび 上表文を送りつけ、僧玄昉と吉備真備の朝廷からの排除を進言してきた。広嗣は藤原式家宇合の長 男である。天平十年十二月に大宰府の次官、少弐として九州赴任中であったが、それを左遷人事と 三野王 葛城王 ( 橘諸兄 ) 佐為王 ( 橘佐為 ) 牟漏女王 光明子 阿部内親王 ( 孝謙天皇 ) 聖武天皇基皇子 合 ( 式家 ) ーーーー広嗣 藤原不比等ー宮子 県犬養三千代 29 井上内親王ーーー聖女の呪い
ッたちが一家心中のような形で非業の死を遂げる。 いったい何が起きた 長屋王は天武天皇の長男、高市皇の嫡子いわば天武直系のエリートである。藤原不比等没後 を受けて、従二位・右大臣に就き、さらに聖武天皇即位の当日には正二位・左大臣に昇格して太政 かなめ 官最高の地位を得て、まさに聖武王朝の要となる人物であった。そんな人物が国家を傾けようとす る謀反を企てるということがあるのだろうか。今で言うならば、時の総理大臣がク 1 デタ 1 を起こ そうとしたというに等しい 長屋王の父、高市皇子も壬申の乱 ( 六七一 l) の折には、父とともに軍勢を率いて天武天皇の長男 としてふさわしい活躍をし、天武崩後でも太政大臣として持統王朝を補佐してきた実績を持つ、天 武系王朝を支える屋台骨のような存在であった。長屋王もその高市皇子を父とし、母は天智天皇の 娘、御名部皇女。妻の吉備内親王は持統天皇の息子、草壁皇子の娘。非の打ち所もない王族エリ トである。ならば皇位継承権の筆頭にあってもおかしくはない家系なのだが、なぜ彼らが皇位継承伊 の対象になのす、行政職筆頭に甘んじていたかといえば、結局高市皇子の母の身分が低かったこ聖 とに由来しよう。つまり、「卑母」だったのである。 あまこのいらつめ むなかたのきみとくぜん 高市皇子の母は胸形君徳善の娘・尼子娘という。当時の天皇家の子女は宮中で育てられること親 はなく、産まれるとすぐ、しかるべき家に預けられ 1 ぞ、一」 ' で養育されるのが慣わしであった。養母、上 つまり乳母が定められたのである。天武天皇もおそらくその慣わしに添って他家に預けられたので むなかた あろう。預けられた家が胸形氏、字を変えれば宗像氏、つまり当時、北九州一帯に勢力を誇ってい みなべ くさかべ
。他の女性にもう一人の女児を産 実は首皇子は井上内親王の生まれた渤・、二年 ( ませてし 孝諏天皇 , なる阿倍内親王の誕生である。母は藤原不比等の第三女、藤原光明子、 こうみよ、つ 後の光明皇后である。首皇子と同年齢、やはり「添ひ伏し」として藤原氏一族の期待を担って首皇 子のもとに出仕していたものか。『続日本紀』の崩伝によれば、光明子十六歳の折に入内したとあ れいき るから、それは霊亀二年 ( 七一六 ) のことである。光明子の母は県犬養三千代。やはり県犬養氏の 出身で、また後に触れるが、かなりの女傑である。 周知の通り、藤原氏は自分の家の娘を皇子や天皇に嫁がせ、その娘の腹に男子が誕生して、やが てその子が天皇になると、その天皇との外戚関係の立場を利用して権力を掌握する、という政略結 婚、閨政治で繁栄してきた一族である。首皇子を例に挙げてもそれは歴然とする。皇子は藤原不 比等の娘を母とし、そのうえまた不比等の他の娘を妻として迎えている。つまり母の妹、叔母と結 ばれたとい一つことになる。 不比等はこういう形で早めに首皇子を藤原氏の中にがっちりと取り込んで、皇子の即位に備えよ伊 うとしていたに違いない 。ところが計画が狂った。首皇子の性への目覚めが予想よりも早かったと聖 いうべきか、光明子よりも早く他氏である県犬養氏の女に第一子を産ませてしまったのだ。 それでも不比等にとって幸いだったのは、生まれた子が女の子だったということである。男なら親 ば当然、将来の皇位継承該当者として遇されることになる。ならば光明子が男の子さえ産めば、わ上 が家は安泰ーーそう思っていたところ第汝児 0 阿倍内親・王の誕生だったのである。藤原氏に較べる とさしたる家柄でもない県犬氏の血を引く皇女であるが、第一皇女という順位はゆるがせにでき けいまっ じゅだい
信じられてきた橘にちなんで、橘姓を賜った。 ( 『続日本紀』 ) 県犬養橘三千代は、おそらく江戸時代の徳川将軍家の大奥に絶大な権力を誇っていた春日局のよ うな存在で、宮廷生活に隠然たる勢力を持った女傑ではなかったか。 だからこそ、王族といえどもうだつの上がらぬ三野王に見切りをつけ、不比等に近づいたと見る ことができょ一つ。 三千代の死後 ( 天平五年 ) 、遺児である葛城王や佐為王たちが母の貰っていた橘姓を受け継ぎ、 橘諸兄、橘佐為と名を改め、それぞれ臣籍降下していったのである。『万葉集』巻六にはその折の 祝賀の宴に詠まれた元正太上天皇の歌が残されている。 ( 巻六ー一〇〇九 ) 橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹 光明皇后にとっては自分の後ろ盾となっていた父方の藤原四兄弟を失ってしまったからには、今 度は母方の異父兄である橘諸兄を頼らざるを得なかったのであろう。 天平九年 ( 七三七 ) に橘諸兄は大納言に任じられ、翌十年正月に光明皇后の娘、阿倍内親王立太 子に沿って、諸兄も右大臣に昇格する。おそらく光明子と諸兄との間に娘の立太子と右大臣昇格と の取引があったものであろう。皇后の位を手に入れた光明子は、ついに娘、阿倍内親王を皇太子と して天下に認めさせたのである。 自分が産んだ子が将来天皇になる。基皇太子は満一歳にならない前に亡くしてしまったが、十年 AJ ア」は
汁 る伊勢斎王がこうして誕生する。 えんりやく そして元号も延暦と改元し、伊勢大神宮の禰宜らの位階を一級昇格させている。 すくなまろ おとむろ 延暦二年四月には酒人内親王ではなく、 原宿奈麻呂の娘、乙牟漏を皇后に立てる。さらに延暦 三年十一月には人心の一新を図る〈く七十全年も続〔た平城京を捨て、山城国乙訓郡の長岡宮に 遷都する。母の一族の地盤である。 一旦 任を得て、めきめき頭角を現してきた人物である。とにかく二人で強硬に遷都を推進したのである。 藤原種継暗殺事件と皇太子の死 の •:- ーそして延暦四年 ( 七八五 ) 八月、またしても伊勢斎王がらみの事件が発生する。 先に延暦元年八月一日に朝原内親王が伊勢斎王にト定されたことを述べたが、その後、彼女は斎太 王になるべく平城京で物忌みの生活に入っていたが、三年間の斎期が満了し、八月二十四日に、い よいよ伊勢神宮へ向かうことになった。当時まだ七歳という幼い斎王である。そうした幼さもあっ王 てか、桓武天皇は見送りのために平城京に出向いた。斎王の母である酒人内親王もおそらくその見良 送りの列に加わっていたものだろう。幼い我が娘が、これから自分が体験した同じ斎王という孤独 な境遇に置かれる この娘の人生を酒人内親王はどのような気持ちで送り出したことだろう。
えられていないのである。とにかく幸福の絶頂にあると思っていたら、いきなり訓だの謀反だの という暗転である。 そうなれば呪詛なんかにまったく関与していない、でっち上げの事件かもしれない。その可能性 もないとはいえない。 前に光仁天皇即位の折、天武系から天智系に乗り換えた藤原一族の暗躍について触れた。藤原氏 の失地回復には光仁治世という時間稼ぎが必要だとも述べた。 もうこの当時、藤原氏が娘を介して婚姻関係を結ばうとするにも、その相手となる天武系の血を 引く有力な皇子は枯渇している現状だったのである。塩焼王、淳仁天皇、道祖王などそのほとんど が皇位継承争いの渦の中に巻き込まれ消えていった。唯一残る他戸皇太子は年が若すぎて、娘を嫁 がせ子を儲けるまでにはかなりの時間がかかるだろう。そこまで先行投資する余裕は当時の藤原氏 にはなかったはずだ。 呪 そこで天武系へのこだわりさえ捨てれば、有力な皇子はいる。 の 光仁天皇の第一子、山部王である。母は卑母だが、四品に叙せられ三十代半ばの働き盛りの中務聖 卿という要職にある親王である。狩りを好み、政治的能力も卓抜なものを持っている。藤原南家の 王 娘、吉子がすでに嫁いでおり、伊予王という息子までいた。 親 広嗣の乱で面目が潰れていた藤原式家の宿奈麻呂 ( 良継 ) や百川は、失地回復のために一層の拍上 車がかかった動きをしていたことだろう。そうなれば光仁帝の後継者にこの山部王を擁立する、そ のためには井上皇后によからぬ噂を立てて廃后にし、その上で一気に他戸皇太子も廃太子に追い込 : し
人目を忍び、一行に従ってきたという。しかし、逸勢は遠江国板築駅でついに亡くなってしまうと、 みようちゅ、つ 娘は父の屍のそばを離れず、髪を下ろし尼となって妙冲と名乗ったという。そこを通過する旅人は その姿を哀れんで皆泣いた。そこで本郷での帰葬が認められると、尼妙冲は父の屍を背負って都へ と帰っていったという。時の人々はその姿を怪しんだが、誠の孝女であると記事は結ばれている。 ほっしんしゅう 鴨長明の『発心集』にも似たような話でこの娘の孝行が語られているので、事実のほどは分から ないが、早くから民間で逸勢にまつわるこうした話が伝承されていたものだろう。 現在でも浜名湖の北西、姫街道の本坂山 ( 静岡県引佐郡三ケ日町本坂 ) には橘逸勢の墓が残され、 娘・妙冲尼の庵跡に建てられたという逸勢を祀る橘神社がある。 こうして藤原良房の謀ったであろう陰謀に巻き込まれた結果、流罪の途中非業の死を遂げた橘逸 勢は死後、怨霊になったようである。 ′」りようえ しんせんえん じよ、つがん その祟りの実相は明らかでないが、貞観五年 ( 八六一一 D 五月、神泉苑で行われた「御霊会」で、 早良親王らとともに逸勢は御霊として祀られているので、平安朝の御霊信仰の流行の一翼を担った 怨霊になったものだろう。逸勢が祟りを発動させる対象としては当然、藤原良房であろうが、良房 てんあん は天安元年 ( 八五七 ) に太政大臣にまで昇格し、権勢をほしいままにしているので、逸勢の祟りは 神経の太い狡猾な政治家には通じなかったようである。ただし、仁明天皇は四十一歳、その後を継 いだ文徳天皇は在位わずか八年、三十二歳の若さで亡くなっているので、皇位継承のトラブルから 発した怨霊はやはり皇位に就いた人の人生を狂わせるものなのだろうか。 2 ラ 0