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検索対象: 日本の怨霊
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1. 日本の怨霊

七六六天平神護一一称徳 七六七神護景雲一兀称徳 七六九神護景雲一一一称徳 光仁 七七〇宝亀元 光仁 七七一宝亀一一 光仁 七七一一宝亀三 光仁 七七一一一宝亀四 光仁 七七四宝亀五 光仁 七七五宝亀六 光仁 七七七宝亀八 光仁 七七八宝亀九 光仁 七七九宝亀十 桓武 七八一天応元 七八一一延暦元 延暦三 桓武 桓武 道鏡に法王の位を授ける。 法王宮職設置。 不破内親王、氷上志計志麻呂流罪。 宇佐八幡宮託宣事件。和気清麻呂、法均尼流罪。 称徳天皇没。白壁王立太子。弓削道鏡下野国へ追放。 白壁王即位 ( 光仁天皇 ) 。井上内親王立后。 他戸親王立太子。 井上皇后、天皇呪詛の罪で廃后、他戸皇太子も廃太子。 山部親王立太子。井上内親王・他戸親王宇智郡に幽閉。 酒人斎王を伊勢神宮へ派遣。 四・二十七井上内親王・他戸親王没。 天皇不予。皇太子不予。井上内親王墓改葬。 皇太子枕席不安。山部皇太子伊勢神宮参拝。 酒人内親王、山部皇太子の子、朝原内親王を出産。 周防国に他戸親王を名乗る物出現。藤原百川没。 伊勢斎宮に美雲出現で改。天皇譲 ~ 、 山部皇太子即位 ( 桓武天皇 ) 良親王立太子。 大伴家持を春宮大夫に任命。光仁太上天皇没。 氷上川継謀反、川継は伊豆に流罪。 母不破内親王は淡路島に配流。 長岡京に遷都。 272

2. 日本の怨霊

0 婚生活での夫の横暴に耐え切れなくなって殺したという。年とったからといって、人間が練れるわ けでもないことを教えられて、おぞましくなった。 『水鏡』には井上内親王が亡くなった時、その身が「龍」になったとある。「龍神」は神々の中で ももっともきつい、威力ある神である。それも井上内親王の性格が反映したというのだろうか。 怨霊となってゆく死後の人生 、亀六年 ( 七七五四月二十七日、大和の宇智郡の没官宅に幽閉されていた上内親王と他戸親 王の親子は同じ日に死ぬ。殺されたものか、正史はその死について何も語らないが、とにかく尋常 な死ではなかろう。 そこから彼女たちのもう一つの人生が始まる怨霊 , なってゆく死後の人生である。 呪 『水鏡』には井上内親王が死後、龍になったとあり、宝亀七年九月には、二十日ばかり、夜毎に の 瓦石土塊が降り、同八年冬には雨が降らず、世の中の井戸水が絶えて、宇治川の水まで絶えようと聖 したとある。あるいは、十二月には藤原百川や光仁天皇の夢に冥界からの使者なのか、鎧兜を着た 百人ばかりの者が来て、二人を探し出そうとしたことがたびたび現れたとゝう。それが井上、他戸親 内 上 親子の死霊の仕業だと思い、光仁天皇は深く憂い、一一。国の国分寺で金剛般若経をませたとある。 井 『水鏡』だけではなく、正史である『続日本紀』にも、 〇宝年五月末、災変がたびたび起こるので大祓えをし、六百人もの僧をして宮中、朝堂で

3. 日本の怨霊

聖武 七四六天平十八 七四七天平十九 聖武 七四八天平二十聖武 七四九天平勝宝一兀孝謙 七五一一天平勝宝四孝謙 七五一一一天平勝宝五孝謙 七五四天平勝宝六孝謙 七五六天平勝宝八孝謙 七五七天平宝字一兀孝謙 七五八天平宝字一一淳仁 七五九天平宝字一一一淳仁 七六〇天平宝字四淳仁 七六一天平宝字五淳仁 七六一一天平宝字六 淳仁 七六四天平宝字八称徳 七六五天平神護一兀称徳 僧玄昉没、広嗣の怨霊のせいという。 井上内親王この年以前に伊勢斎王解任か。 井上内親王一一品に叙せられる。 元正太上天皇没。 天皇譲位。阿倍内親王即位 ( 孝謙天皇 ) 。 藤原仲麻呂を紫微令に任命。 東大寺大仏完成。開眼会。 井上内親王・白壁王結婚か。 井上内親王第一子、酒人内親王誕生。藤原宮子没。 聖武太上天皇没。遺詔により道祖王立太子。 橘諸兄没。道祖王廃太子。大炊王立太子。 橘奈良麻呂の変。道祖王、奈良麻呂ら没。 天皇譲位。大炊王即位 ( 淳仁天皇 ) 。 藤原仲麻呂、恵美押勝の姓名を賜う。 大伴家持、因幡国庁にて万葉集最終歌。五百枝王誕生。 光明皇太后没。 井上内親王へ稲十万束下賜。第二子、他戸親王誕生か。 天皇と太上天皇不仲となる。 恵美押勝の乱、恵美押勝没。淳仁天皇淡路へ配流。 孝謙太上天皇重祚 ( 称徳天皇 ) 。 淳仁廃帝、淡路島で没。 271 年表

4. 日本の怨霊

万葉集ーー「万の言の葉」説、「多くの紙数の集」説など、その名義については諸説あるが、延 暦十六年の上表文をこうして並べてみると、万世、永遠にと、天皇の御世を言祝ぐ歌集名であった ことが分かろ一つ。 そして『万葉集』の最終歌は、 ' 宝字三 ( 七五九 ) 正月元旦、大伴家持が因幡国庁で元旦初 雪を祝福して乍っこんあ ( 巻二十ー四五一六 ) 新しき年の初めの巷の ~ 「日降る雪のいやしけ吉事 一兀旦新春の今日降る雪のように積もれ、良き事よー・ーと明るく力強く宣言するこの家持の歌は、 四十七年の歳月、時空を超えて、今この、延暦二十五年 ( 八〇六 ) 五月十八日に即位しようとする ( 0 平城天皇の未来に向けられたように響き合う。 天平宝字三年の家持の歌で、なぜ『万葉集』が閉じられているのだろう。家持はそれ以後、歌わ ぬ歌人になってしまったのだろうか。彼はその後、二十七年間も生き続けている。あれほど歌が好 きだった家持が一首も残していないとは到底考えられない。だが、『万葉集』は天平宝字三年で終 わっている。 そうなると、家持の文脈で考えては解けないのである。そこで改め、最終編纂である五百枝 王の文脈で考えてみることにする。 天平宝字三ゝら延暦二十五の四七年にわたる歳月ーーそれは、まさにそのまま五百枝王の 巧 4

5. 日本の怨霊

七一五霊亀元 七一七養老元 七一八養老一一 七二〇養老四 七二一養老五 七二四神亀元 七二七神亀四 七二八神亀五 七二九天平元 七三七天平九 七三八天平十 七四〇天平十一一 七四一一天平十四 七四四天平十六 七四五天平十七 聖聖聖聖聖聖聖聖聖聖元元 フ匸フ匸兀兀 武武武武武武武武武武正正正正明日 平城京へ遷都。 首皇子立太子。 天皇譲位。氷高内親王即位 ( 元正天皇 ) 。 井上内親王誕生か ( 母・県犬養広刀自 ) 。 阿倍内親王誕生 ( 母・光明子 ) 。 右大臣藤原不比等没。ー・ー′目、イ「第一彡 長屋王右大臣に。井上内親王を斎内親王とする。 元明太上天皇没。 天皇譲位。首皇子即位 ( 聖武天皇 ) 。 基皇子誕生 ( 母・光明子 ) 基皇子立太子。 井上内親王伊勢神宮へ派遣。 基皇太子没。安積皇子誕生 ( 母・県犬養広刀自 ) 。 長屋王一族自害。藤原光明子立后。 天然痘流行。藤原四兄弟没。玄昉を僧正に。 藤原広嗣従五位下。 阿倍内親王立太子。橘諸兄右大臣に。 広嗣大宰少弐へ左遷。 広嗣、九州で反乱、広嗣ら処刑。聖武天皇彷徨始まる。 塩焼王流罪。 安積皇子没。 天皇不予。僧玄昉を筑紫へ派遣。 270

6. 日本の怨霊

医学文献に紹介されているそうである。 この二十年間の凍結から解凍へという、まるで電子レンジのような「井上効果」が夫にも波及し たものか、白壁王も従四位下に凍結されていた身分が、天平宝字元年 ( 七五七 ) に二階級特進し、 正四位下に叙せられることになった。奇しくもこれも二十年ぶりである。白壁王も二十年間、酒浸 りの世界という異界に暮らしていたということか。翌年天平宝字二年には正四位上、その次の年に は従三位と、凍結していた身分が一気に雪解水の奔流するごとくに出世の階段を駆け上がりはじめ た。まさに正妃・井上内親王効果以外のなにものでもない。 皇位継承をめぐる暗闘 一人の結婚生活について正史は何も伝えて去、い、、 そこで二人を取り巻く当時の状況を、概説を加えながら年表風に辿っていくことにしよう。 かいげんえ 天平勝宝四年 ( 七五一 l) 東大寺大仏完成。天皇行幸、開眼会を行う。 同五年 ( 七五三 ) 井上内親王、白壁王の正妃となる。 がんじん 同六年 ( 七五四 ) 聖武太上天皇、大仏の前で鑑真和上より受戒。酒人女王誕生。 同八年 ( 七五六 ) 二月、橘諸兄左大辞職五月、聖武太上天皇崩御。遺詔により ふなど 道祖王立太子。 年齢的なものもあったが、橘諸兄がついに政権を投げ出すようにして、左大臣を致仕した。紫微

7. 日本の怨霊

系図を見ていただきたい。 日王ーー安貴王ーーー市原王 天智志貴 五百井女王 光仁天皇桓武天白 早良親王 立 成 高野新笠 能癶内親五百枝王 の 集 葉 てんちょう 枝王は天長六年 ( 八二九 ) に七十歳で没しているので、そこから溯れば生年は天平宝字三年防 了てつにん 七五九である。父は系図にある通り、志貴皇子の曾孫、市原王で、母は光仁天皇の娘で、桓武 のと 天早良親王と可け能登内親王である。したがって、桓武天皇とは血筋がつながる志貴皇家 大 子の血を引く父母との間に生まれた、志貴家の一族の人といってよかろう。 と 父の市原王は幼い時から大伴家持と親友で、『万葉集』にも名歌を残している歌人でもある。「正魂 しよ、つほ、つ 倉院古文書」に天平勝宝三年 ( 七五一 ) に市原王が「歌林七巻」を所持していたという記録が残の されているので、市原王は家持と共に『万葉集』稿本の整理に携わっていたのかもしれない。した王 良 がって、五百枝王にとって家持は父の親友、いわば「大伴のおじさん」と呼ぶべき間柄であったの 早 天応元年 ( 七八一 ) 五百枝王の母、能登内親王が四十九歳で亡くなった折、大伴家持が「喪事監

8. 日本の怨霊

) 0 ′ 上内親王であった。 藤原不比等は首皇子の即位を見届けることなく、養老四年に没するが、将来に禍根を残さぬため 0 、 g にも、早めに芽を摘み取「ておくに越したことはない、宮廷という皇位継承の火花が飛び散る現場 からは、できるだけこんな物騒な火種になりかねない第一皇女を遠ざけておくのが得策だと、不比 等の遺言でもあったものか。誰にも文句の付けようのない方法で藤原一族にとって邪魔になる皇女 を宮廷から遠ざけるー。。ー・それが伊勢斎王として、伊勢神宮に送り込むという合法的な「島流しーで あった、と言っては言い過ぎか。 こうして十一歳になった井上内親王は神亀四年 ( 七二七 ) 九月三日、斎王として伊勢神宮に派遣 されることになる。父は三年前の神亀元年に元正天皇の譲位を受けて即位し、聖武天皇となってい 、つる、つ 翌月の閏九月二十九日、その厄介払ゝを待っていたかのように、光明子に十年ぶりに第二子が誕 もとい 生する。待望の男子誕生である基皇子名づけられ、生後二ヶ月で皇太子に立てられることにな る。宮中あげての献上品や下賜品飛う大盤振る舞いの大騒ぎ。その騒ぎは遠く伊勢の地にいる 井上斎王にまで届いたのだろうか。 県犬養広刀自は井上内親王の次にもう一人の娘、不破内親王をもうけたが、光明子が男子を産ん だことで、第一夫人の座はこれで確定したようなものである。藤原氏や県犬養氏など、皇族の血を 引かない他氏出身の夫人は当時では皇后にはなれないが、皇太子の母というまぎれもない国母の立 、カら

9. 日本の怨霊

しびちゅうだい う新設の官庁の長にも就任する。新設された役所「紫微中台」というのは光明皇后の皇后宮職を改 組し、即位した孝謙天皇を光明皇太后が補佐して実質的に権力を掌握する機関である。橘諸兄は左 大臣であり太政官のトップにいるが、それに対抗しうる光明皇太后側の権力機関が創設されたので ある。円ー この孝謙天皇即位の折に、聖武天皇の意向が働いたということも考えられる。第二皇女に天皇の 位を譲るのはもう既定の事実だが、そうなるとこの娘は一生独身を通さねばならない。その上、第 一皇女までもが伊勢斎王あがりでまた生涯を独身で過ごそうとしている。ならばせめてこちらの娘 だけでも幸せな結婚生活を送ってほしい、という父親としての願いが口をついて出なかっただろう か。井上内親王はこの時三十三歳になっている。 七一 ク・あるいは天平勝宝三年聖武太上天皇はかなり重い病にかかって天下に大赦を施したこともあり、 まオ平勝宝五年には今度は珍しく光明皇太后が重い病にかかり、天下に大赦を施している。 せんみよう 病の折はどんな人間でも心弱くなるものである。憂苦のある人は救いたいという宣命まで出して いるのだから、目障りな女といえども何らかの施しをした方が病も癒えるのではないかと光明子は 考えなかっただろうか。なにしろ二十年に亘って皇祖神に仕えた斎王だから、この女に施しを与え たら、皇祖神からの見返りが来て、私の病も快方に向かう、加えて夫の杞憂もそれで取り除くこと もできるーーそこまで考えたかどうかは分からないが、差し障りのない、無難な男と形式的でいし のだから結婚させる。どうせ三十路半ばの女に子どもなどできるはずもない。そこで仲麻呂に命じ て、もっともうだつの上がらぬ皇子、白壁見つけ出してきた、というシナリオを勝手に描いて

10. 日本の怨霊

信じられないといっては失礼か、「女の意地」といえばいいのだろうか、井上内親王は結婚した 翌年三十八歳で、当時としては驚異的な高齢出産で女子を産んだのだ。 十代後半から二十代前半で出産するのが当たり前の時代にあって、三十代後半での初産はちょっ とありえない話である。ありえないことを可能にしたのはやはり二十年間に及ぶ斎王生活のなせる 神業であろうか。とにかく彼女の驚異的な「女の意地」に敬意を表したいと思う。 , 驚くのはそれだけではない。 、井上はその後、もう一人子どもを産んでいるのである。 ほうき みずかがみ さべ 。後世の歴史書『水鏡』によれば、宝亀二年 ( ・ ( 七七ご、他戸親王が皇太子に立「た時、十一歳だ「たという。そうなれば、他戸親王の誕生は天 まうじ / 一 ) となり、酒人内親王誕生の七年後、井上内親王四十五歳の時の子どもという 平宝字五年ス七・ ~ 、 ! ことになる。三十八歳で初産、四十五歳で第二子。現代の女性ならばありえないことはないが、今 でもそうした例は驚異的である。またしても神業であろうか。この他戸親王の出生や年齢をあやし む歴史家も多く、この親子関係は謎に包まれた部分が多いことも事実で、『水鏡』の記述はよから ぬ想像をせよ、とばかりにあやしげな話を描いているが、とにかく他戸親王が井上内親王の立后を 受けて皇后の嫡男として皇太子に立ったことは事実である。 他戸親王が生まれたとい宝字五年十月十一日に井上内親王は他の九人の王、女王らと共に 十万束の稲を下賜されている。藤原仲麻呂の百万束を別格にすれば、それに次ぐ厚遇ぶりである。 なぜこの時期に十万束もの稲が井上内親王に、と考えると、ありえない高齢で出産した「ごほう