崇道天皇 - みる会図書館


検索対象: 日本の怨霊
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1. 日本の怨霊

同四月、崇道天皇のため、小倉を建て、怨霊に謝す。崇道天皇司を任じ、改葬する。 おそらくこの時、淡路から遣骨を迎えて、後述する奈良市にある一 ( 道天皇八嶋 したものだろう。 同七月、山科 ( 天智 ) 、後田原 ( 光仁 ) 、崇道天皇三陵に唐国物を献上。 同十月、崇道天皇のために一切経を書写。 こうした間に地震ばかりでなく、富士山までもが大噴火しており、天変地異が続く。こうした異 変はすべて早良親王の怨霊のなせるわざとして桓武天皇周辺を苦しめたことだろう。 このように悲愴なまでに早良親王の怨霊鎮魂につとめる桓武天皇であったが、その合間を縫って 取り付かたように鷹狩に出掛けている島坏隠ぬ行動にあド しかし、暦二十三年末から、とうとう桓武天皇も病の床に就き、大事にしていた狩猟用の鷹や 念 までも手放してしまう。 して延暦二十五年三月十七日、桓武天皇は早良親王の怨霊から解放されるように崩御する。春の 太 秋七十。天皇家の光と影の交錯する世界を奔馬に乗って駆け抜けたような人生であった。この日、 皇 春宮寝殿の天井から血がしたたり落ちてきたとあるのも不気味だ。怪異は桓武の臨終の日まで続い 王 たのである。 親 良 遺一言が二つあった。 早 一つは延暦四年の種継暗殺事件で流罪中の者の罪を許し、官位を剥奪されていた大伴家持たちを 復位させること。

2. 日本の怨霊

奈良の遺跡を訪ねてーーー早良親王への鎮魂の旅 2 次に早良親王の遺跡を奈良に訪ねてみよう。 まずは早良親王を祀る「崇道天皇八嶋陵」へ参拝に 崇道天皇八嶋陵は大和国添上郡八島郷 ( 現・奈良市八島町 ) にあり、『日本後紀』延暦二十四年 ( 八〇五 ) 四月に「崇道天皇司を改葬すーとあるから、淡路島から遺骨を迎えてここに祀ったもの に違いない。「延喜式」諸陵寮にも「八嶋陵」として、 「崇道天皇。在大和国添上郡。兆域東西五町南北四町。守戸一一烟」 おとむろ とあり、皮肉なことに、桓武天皇柏原陵、桓武天皇の皇后藤原乙牟漏陵とともに「三近陵」として ひとくくりにされている。 その現在地は、前に大伴家持への「鎮魂の門」ではないかと推定した、東大寺の南大門をまっす ぐ南下したところにある。昔の平城京域からいうと、九条の東南はずれの山麓で「八嶋」という地 名は崇道天皇陵以前からある地名なのかどうかはわからない。 現在の八嶋陵は宮内庁管理の立派なもので、堀池を前にして南面して造られている。そしてこの 陵より東の山側に島田神社という小さな社があり、そこにも崇道天王として合祀されており、石灯 籠にもすべて「崇道天王社」と刻銘されている。 土地の古老の話によれば、御陵もともと東の山寄りにあったのだが明治こなって島田神社の 188

3. 日本の怨霊

岡山の崇道神社について 早良親王ゆかりの地をこうして訪ねてきたが、今まで紹介した地以外に、とんでもない土地に彼 く′」、つ とまた の伝説が残されている。岡山県苫田郡加茂町公郷 ( 現・津山市 ) といえば、岡山県の中央、津山駅 からさらに因美線で北へ向かうと美作加茂駅に着く。そこの公郷という里に崇道天皇を祭神とする立 成 ネ丐↑がある。 の 玉 土地の伝説では、早 は藤原種継二言」迫い ーされることになったが、母の出生集 万 地が津山市野村であったので、その縁を頼、途中逃げ出してその地に隠棲したという。だが、 藤原氏に探知されたので、そこからまた逃げ出し、この加茂町公郷に辿り着き、その地で悲運な生 持 涯を閉じたと伝えられる。 家 到着の地を着到塚と呼び、今も小字名になっており、仮の御殿があった所を公郷山、住居があっ 魂 た所は、今は三倉という字になったがかっては御座という地名であったという。 崇道天皇を祀る加茂神社は、地元では「崇道さま」と呼ばれ今も崇敬され、崇道天皇の御陵までの 王 ある。 親 良 そして、親王に従って来た家来たちは全員その地で帰農したので、今もその里は全戸神道だとい 早 われる。 なぜこのような中国山地の山中に早良親王の伝説が語り伝えられているのだろう。母、高野新笠

4. 日本の怨霊

ごりようえ しんせんえん じよ , つがん 貞観五年 ( 八六一一 l) 、清和天皇は神泉苑で官民一体となった御霊会を修し、その御霊の筆頭に さんだいじつろく 崇道天皇が祀られた ( 『三代実録』 ) 。 てんあん そして、清和天皇の天安二年五八 ) ーには、・ばじめて十陵四墓が制定され、天子が拝すべき亡 魂が定められていくのであるが、それは清和にとって尊崇すべき皇統上の祖霊と、母系の血縁がほ とんどでありながら、やはりその中に、崇道天皇八嶋陵が加えられているのである ( 『三代実録』 ) 。 清和にとって皇統上のネガとポジの両面を祀ったことになろう。 神泉苑での御霊会から、貴賤を問わず、平安朝社会では御霊信仰が瀰漫し、盛行していくが、そ の起因になったのも早良親王の怨霊であるといっていいだろう。 宮廷や皇統に恨みを残して死んでいった人々を一堂に集めて祀る「御霊八社」の信仰は、今日ま で京都の上御霊神社、下御霊神社を中心に、近畿一円に広がっているが、その筆頭で祀られるのも やはり早良親王、崇道天皇なのである。 早良親王の怨霊は具体的には何代までの皇統に祟っていったのだろう。『曾我物語』によると、 曾我五郎は処刑される時、「もし首を切りそこねたら、悪霊となって七代まで祟る」ともらして死太 んでいったとある。また、後世になるが、五摂家の筆頭の近衛家にも七代祟る怨霊がいたそうであ る ( 池田弥三郎著『日本の幽霊』による ) 。あるいはまた、庶民の盆行事でも、供養を施せば過去七王 代の父母は救われるとある。七代が大きな目安になっているのである。 桓武力数え七代目いう清和天皇 , あたる。この時代に御霊会が修せられたことはその意 味でも興味深い。

5. 日本の怨霊

は軽視されてしまうかもしれないが、侮れない点もある。 それは御霊信仰が、勝者と敗者の逆転現象を起こすところにある。 皇位継承争いや、政治紛争で敗れた側、滅ばされた側が、死後祟りを発動させて、勝者を圧迫し ていくことで、滅ばした側は政治的、現世的には勝者でありながら、敗者を常に意識し、敗者を鎮 魂、慰霊し、謝罪しなければ、勝者の立場が保持できない状況に追い込まれるわけである。 これでは我が世の春を謳歌するどころか、どちらが勝者か敗者か分からなくなってしまうほど、 権力者は謙虚に己の罪業の深さを反省する日々を余儀なくされる。 早良親王の章でも触れたが、桓武天皇は滅ばした実弟、早良廃太子の霊に向けて何年にも亘って 慰霊、謝罪している事実を見ればわかるだろう。 〇遣諸陵頭調使王等於淡路国。奉謝其霊。 ( 延暦十一年六月 ) 〇遣僧一一人於淡路国。転読悔過。謝崇道天皇霊也。 ( 延暦十六年五月 ) 〇鎮謝在淡路国崇道天皇山陵。 ( 延暦十九年七月 ) 〇奉為崇道天皇建小倉。 : : : 謝怨霊也。 ( 延暦一一十四年四月 ) これらの記事に随所に「謝」という文字が点在しているのが分かろう。 これを見ても、勝者が敗者に謝罪するという、逆転の文化現象がここに見られるのである。 欧米の文化にこうした現象はあるのだろうか。 少なくとも、勝者の論理で歴史が形成されてきた欧米の文化には、敗れた側を許すことはあって も、勝ったことを謝る文化は聞いたことがない。中近東を中心にキリスト教とイスラム教との対立 261 怨霊とは何か - ーー御霊信仰について

6. 日本の怨霊

う存在もしない能動態を空想で創りあげてしまうーーー人間という動物は唯一、妄想を抱き、その妄 想にさいなまれる生き物なのだということと、この世の中はひょ「としたら妄想と錯覚で成り立「 ているのかもしれないということを改めて心に刻んでおくことも必要かもしれない。 怨霊研究の難しいところはそのあたりなのである。 さて京都では、まず御霊神社を訪ねてみよう。 御霊神社は京都御所の南北にそれぞれ一社ずつ鎮座して、それを通常、 , 霊神 ( 京都市上京区上御霊前通鳥丸東 ) 御霊対 ( 京都市中京区寺町丸太町下ル ) と呼んでいる。それぞれ八座の御霊を祀り、それを「八所御霊」、「御霊八社」と呼び習わしている。 上下社の祭神が微妙に違「ているので、上下に対照させると次のようになる。 ( 下御霊神社 ) ( 上御霊神社 ) 崇道天皇 崇道天皇 藤原広嗣 井上内親王 伊予親王 他戸親王 藤原吉子 藤原吉子 橘逸勢 橘逸勢 文室宮田麻呂 文室宮田麻呂 196

7. 日本の怨霊

当然このふたりの霊前にも供えられたと判断する方が納得できよう。 平城天皇即位当日は一セットだけだったかもしれないが、その後、早良親王や大伴家持の霊前に それぞれ献納された可能性はあろう。 家持への『万葉集』は散逸してしまったかもしれないが、早良親王の場合はどうだろう。 もうこの当時、早良親王の遺骨は淡路島から迎えられ、奈良に崇道天皇八嶋陵として立派にその 墓が設けられている。もし、『万葉集』がその八嶋陵に持ってこられたのなら、早良親王の眠る石 棺の中にそれを納めるということはなかったであろうか。 大同二年 ( 八〇七 ) 正月十七日、「唐国の信物」を諸山陵に献じる。 かわらでら 大同五年 ( 八一〇 ) 七月末、崇道天皇のための供養。川原寺で法華経の供養など。 これらは『日本紀略』に散見する項目で、そういった具体的なことは書かれていない。ただ、嵯 峨天皇の意向で早良親王関係の記事はかなり削除されているようなので、正史では細かい動向は分 からなくなっている。 夢のような話だが、大同元年に編纂された幻の『万葉集』の原本がもし現代にまで残っていると するならば、その可能性のある場所は、たった一ヶ所、早良親王の眠る石棺の中をおいて他にはな いと考える。 最近、明日香村での「高松塚古墳」や「キトラ古墳」の壁画を巡ってさまざまな論争を呼んでい るが、古墳の石棺を開示する是非については今後も慎重な検討を要しよう。 162

8. 日本の怨霊

淡路島では早良親王の遺跡が明石の人丸神社と直線で結ばれていると述べたが、この奈良では東 大寺の南大門と直線でやはり南北に結ばれているのである。単なる偶然といってしまえばそれまで であるが、早良親王と大伴家持とがこの一直線の道で結ばれているようで、安らかな気持ちになれ るのは私だけであろうか。 蛇足になるが、この大寺南大皚から崇道天皇八嶋陵へつながる道をさらに南に下、つ、ていくと途 しちのもと わにした 中、カ少しずれるが、天理市櫟本町に歌塚で有名な柿本人麻呂ゆかりの和爾下神社や人麻呂の立 成 墓がかってあった地に行き着く。やはり人麻呂と結びつくのである。 の この地が古くから「治道天王社」と呼ばれていたことも注目したい。和爾下神社の石灯籠にも集 けんしよう 「治道宮天王」 ( 元和元年銘 ) とあり、寿永二年 ( 一一八三 ) の藤原顕昭の『柿本朝臣人麿勘文』に防 も「治道社ーと早くに紹介されている。 持 島田神社の早良ゆかりの「崇道天王社」ー櫟本の人麻呂ゆかりの「治道天王社」。 家 大 なにやらこの一本の道で、家持ー早良親王ー人麻呂と結ばれているようでならないのである。 魂 の 奈良の町の御霊神社 へ 王 親 良 八嶋陵以外にも奈良の町には至る所 ! こ御霊神社が点在している。 八嶋陵から北に向かうと高畑町から紀寺町へと至る。その通りに小さな境内だが「崇道天皇社」 がある。『霊安寺縁起』にも、 じゅえい

9. 日本の怨霊

奈良の南里の紀寺の天皇と申すも崇道天皇にてまします成。彼等は紀の貫之の建立の寺也。故 に彼氏の紀字を呼つけて紀寺と云也。 れんじようじ とあ、紀寺、又の名、城寺いうが、その寺の鎮守として祀られていたものである。大同元年 ( 八〇六 ) カ早良親王を祀るという由来を持っ社である。 がん」うじ しわゆる奈良町の細い通りを元興寺方面へ向かうと、その街中に「御霊 その社からさらに北へ、 ) 神社」がある。やはり元興寺の鎮守神として祀られていたとある。 こく小さい井上神 この崇道天皇社と御霊神社は親子の神職で守られているが、両社の間に、、 。 ) ) があり、町名も ( 「上町」とある空間がある。早良親王ゆかりの場所はやはり井上内親王にも 0 知かりの場所なのである。 」大日本地名辞書』には「宝亀三年に井上内親王が皇后を廃された時に、この地の屋敷に籠居さ せられていた」とある。 ほうき そうすれば宝亀三年 ( 七七一 l) 三月二日に弗上内本王〉は皇后を廃され、息子の他戸親王も三ヶ月 後の五月二十七日に廃太子にされているので、翌宝亀四年十月十九日に宇智郡の没官宅に親子共々 きよ、つばて 幽閉されるまでの、一年半余の間、この平城京域の下町、京終とも呼ばれるこの地に、親子で蟄居 させられていたのだろうか。この御霊神社がその屋敷跡といわれている。 狭い通りに小さな社寺が点在し、各商店が軒を連ねるこの奈良町は今、観光客で賑わうようにな って、奈良散歩にはうってつけの町だが、こんな所に千二百年前に時の皇后、皇太子が幽閉蟄居さ でら 192

10. 日本の怨霊

水漬く屍 えんりやく 延暦二十五年 ( 八〇六二月十七日の桓武天皇の臨終の場にもう一度立ち戻ってみよう。 ることは前に述べた。この遺言は日本の文化史上、大きな意味を持っことになるの 遺一一一一口が で、細かく検討を加えてみたい。 すどう 秋二ロ七日間、金剛 二つ目の方から先にいえば、崇道天皇のために諸国の国分寺イ 分寺で毎年、春秋七日間、死者の亡魂供養のためにお経が上げられることが民間にも浸透し、家ご とに祖先や亡魂の供養を行うようになったとみていいだろう。 桓武天皇の亡くなった翌日の三月十八日から七日間、諸国の国分寺で一斉に怨霊鎮魂のための読 経の声が響き渡れば、怪異や災害で苦しんでいる民衆たちも仕事の手を止め、読経に耳を傾け、瞑 早良親王への鎮魂と大伴家持ーー『万葉集』の成立 リ 7