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検索対象: 日本の怨霊
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1. 日本の怨霊

東大寺を中心にした聖武天皇の千二百五十年の大遠忌の記念事業にはスケールで比べものになら ないが、このささやかな本で五百枝王の貢献を明らかにしたことで、五百枝王を顕彰し、『万葉集』 成立、千二百年を祝いたいと思う。本書執筆の大きな動機のひとつがこの『万葉集』の成立祝いで あり、千二百年後の世に棲む者のっとめだと思ったのである。 ところで『万葉集』の原本は、今は伝わってはいない 。はじめは二十巻の巻物になっていたもの だろう。 平城天皇の即位した大同元年五月十八日の大極殿には二十巻の巻物として献納されていたのだろ う。その巻物はその後どうなったのだろう。平城天皇は『万葉集』に目を通したのであろうか。目 を通したどころではなく、ひょっとしたら平城帝は『万葉集』にのめりこんだのではなかろうか。 あれほど平城古京への思慕に明け暮れ、譲位後、奈良に移り住み、挙句は平城遷都を企てた原因は おくりな この『万葉集』への憧れが起爆剤になっているのではなかろうか。この天皇への諡号が「平城」と なっているのも今更一言うまでもない。 帝が狂おしいばかりに平城古京を求め始めたのは即位後からである。 りよううんしんしゅう ぶんかしゅうれいしゅう 一方、平城帝の後を受けて帝位に就いた嵯峨天皇は『凌雲新集』や『文華秀麗集』などの漢詩文 集編纂に力を入れ、和歌を省みることがなかった。いわゆる「国風暗黒時代」と呼ばれる時代を創 生した天子であったが、それは兄・平城帝の『万葉集』への異常な傾倒ぶりに、おぞましさや危う さを感じたからではなかったか。幼い頃から怨霊に祟られ、精神不安定なところがあった兄帝が、 160

2. 日本の怨霊

五百枝王の先ほどの上表文の末尾に、これからの春原家の子孫の繁栄を願「て、こう表現して文 を結んでいる。 栄 = 宗枝於萬葉一 ( ただし、『日本後紀』の表記では葉の字は草冠と木の間が世ではなく、云にな「て このように「萬葉」という文字が目立たぬようにひっそりと上表文に記されているのである。 。この五百枝王の上表文以の 「萬葉」ということばは『万葉集』以外、その使用例は極めて少ない 前を探すと、『日本後紀』延暦十六年 ( 七九七 ) 二月に『続日本紀』編纂が終わり、それを天皇に集 奉「た上表文の最後の部分に「萬葉に伝え、而して鑑となす」という表現が見られる。この国史を防 万代永久に伝え、鑑となるように、と〔う意味である。延暦十六年ならばまだ五百枝王は伊予に流一 罪中の身で、こうした国史が編纂されたことは知る由もなか「ただろう。だが、第二十一代雄略天家 ほ、つじ 皇の巻頭歌から第四十七代淳仁天皇の天平宝字三年までの二十、弋、およそ三百年、具体的には 第 = 一十 = 一代推古天皇で終わる『古事記』の後を継ぐように第三十四、舒明天皇から始まると考魂 の 玉史、正史に引けをとらない 『万葉集』は歌集とはい、 へ えるのなら十四代、 ' よそ百一一 立派な一一十巻の歌の国史」ともいうべき作品を五百枝王は一人で編纂したのである。それはまさ王 に「萬葉」に伝えるべき「歌国史」であり、鑑となすべきもう一つの正史だったのである。その 『続本紀』の編纂完成の上表文を帰京後に五百枝王がたまたま見る機会があり、その字句に感動、 反応して自分が編纂した歌集の名を『万葉集』と名づけたのではなかったか。

3. 日本の怨霊

もう一つ崇道天皇ために諸国の国分寺僧をして、春秋二回、七日間金剛般若経を読むこと。 この遺言をみても桓武天皇の懊悩の深さ、早良親王の祟りの重さを知る思いである。 遷都や東夷征伐などの事業を通じて、古代社会を脱却し、近代的な国家建設に邁進してきた桓武 天皇にとって、早良親王の祟りとは、捨象してきたはずの古代生活の中のもっとも古代的なるもの からの復讐であるともいえよう。 二ヶ月後の五月十八日、号も大同元年と改元して、早良親王の怨霊に取りつかれていた病弱の 安殿皇太子が即位し平城天皇なる。十二歳で立太子した安殿は三十三歳になっていた。 しかし、やはり祟りの影がずっと天皇にまとわりついて離れないのか、平城天皇の在位期間は短 くす、」 く、後の薬子の乱を経て自滅していったのは周知の通りである。平城天皇が奈良の旧都に異常なく らい執着を持って退位後に ' 五度もその居を移したり、参内した妃よりもその娘に付いてきた義母に く子に人道をはずれた愛情を注ぐなど、平城天皇の安定しない魂を見る思いがする。 、 = 一口。、桓武天皇の、心を受け継ぎ、平 平城天降、嵯峨、淳和、仁明、文徳、清和と続く 安京を中心に律令国家体制を整備していくのだが、一方、彼らもいわば桓武の業病ともいうべき、 早良親王の祟りを負わされ、それぞれその影におびえることになる。 こうにん 弘仁元年 ( 八一〇 ) 、嵯峨天皇が病んだ折、早良親王などの追福を祈り、多くの社寺、御陵で るいじゅうこくし 鎮魂する ( 『類聚国史』 ) 。 承和六年 ( 八三九 ) 、仁明天皇は建礼門に御し、使者を派遣して、田原 ( 光仁 ) 、八嶋 ( 崇道 ) 、 楊梅 ( 平城 ) の諸陵に唐物を奉っている ( 『続日本後紀』 ) 。 じようわ リ 4

4. 日本の怨霊

承和九年 ( 八四一 l) 七月十五日、嵯峨太上天皇五十七歳で崩御。 事件はこの嵯峨太上天皇の崩御の二日後の七月十七日に勃発する。 とものこわみね 東宮坊帯刀伴健岑と橘逸勢らの謀反が発覚したのである。これがいわゆる「承和の変」と呼ばれ麻 ありわらのなりひら た事件である。事の発端は、阿保親王 ( 平城天皇の子、在原業平の父 ) が、嵯峨太皇太后であり時の室 かちこ 天子・仁明天皇の生母である橘嘉智子に密書を送ったことに始まる。 つねさだ それによると嵯峨太上天皇が崩御したならば国家が乱れることになろうから、皇太子の恒貞親王逸 を奉じて東国に入ろうと伴健岑や橘逸勢ら東宮職員たちが画策しているというのである。次ページ の系図を参照しながら説明すると、皇太子の恒貞親王は先代淳和天皇の子で、仁明天皇には従兄弟母 でもあり甥にも当たる人物である。淳和天皇が仁明天皇へ譲位する時に、皇太子にと依頼したのが みちやす 我が子・恒貞親王であった。しかし、仁明天皇には藤原良房の妹・順子の間に生まれた道康親王が - 」、つにん 成長しつつあった。光仁天皇から桓武天皇への譲位の折と似た、相変わらずの皇位継承争いが火種吉 になっていたのである。 よしふさ 退位後もゆるぎなき皇権を誇った嵯峨太上天皇の目の黒いうちは、良房ら藤原氏一族といえども 手出しはできず、隠忍の態度を保つであろうが、嵯峨帝崩後は一気に良房らが恒貞親王への行動を神 起こすことを健岑や逸勢らは危惧し、皇太子の将来のことをあれこれと話し合っていたものだろう。 健岑や逸勢は大伴氏、橘氏という、いずれも名門の出自であるが、今は衰退して謀反を起こせるほ霊 どの地位も権勢もなかった。また謀反を起こさずとも仁明天皇の後は、皇太子である恒貞親王はそ のまま即位するであろうから、動く必要などなかったはずである。懸念するとすれば、良房からの じようわ

5. 日本の怨霊

せない。 ただ、もしこの宇佐八幡への勅使が清麻呂でなく、例えば白壁王であったら、歴史はもっと違っ たものになっていた可能性はあろう。要は、女帝や道鏡が勅使として派遣する人材を誤ったという ことである。 『日本後紀』の卒伝には、清麻呂が宇佐八幡に参籠して神意を迫る場面が描かれているが、八幡 の神が身の丈三丈 ( 約一〇メートル ) ばかり、満月色の姿を忽然とあらわし、清麻呂は度肝を抜か れ、その姿を仰ぎ見ることができなかった、とあるところは面白い 姉・法均尼は延暦十八年一月二十日に七十歳で没し、弟・清麻呂も一ヶ月後、姉の後を追うよう に二月二十一日に六十七歳で没しているのも不思議な姉弟縁である。 護景雲四年 ( 七七〇八月、称徳天皇崩御。白壁王立太子。 道鏡の本貫地である河内弓削に設けた由義宮へ度々行幸していた称徳女帝は、この年の六月頃か ら由義宮で体調を崩していたのだが、八月四日、後継者も定めないままあっけなくこの世を去った。 五十三歳であった。その死因については『水鏡』には道鏡が女帝に喜んでもらおうと思って「思い もかけぬ物」をプレゼントしたところ「浅ましき事出で来て」それが原因で亡くなったとある。 ったい何をプレゼントしたのか、きわものの『水鏡』ですら、 とあるのに従って、ここでも仔細に説明するのは控えたい。ただご興味のある方は、『水鏡』に、 「細かに申さば恐れも侍らん」

6. 日本の怨霊

六十代半ばに達しようとしていた光仁天皇、五十代後半になっていた井上皇后ーー・普通これくら いの年齢ともなれば程々に人生が練れてきて、妥協や諦めなどで角が立つようなことは避けようと するものなのに、よほどこの夫婦の間には埋まらない溝があったものと思われる。 るいじゅうこくし つきもとのおゅ 『類聚国史』に収録されている『日本後紀』延暦二十二年 ( 八〇一一 l) 正月の記事に、槻本老とい う光仁天皇の旧臣だった人物が紹介されているが、それによると、他戸皇太子が「暴虐もっとも甚 だし。とある。それを老が天皇のためにと思って我慢して監視していると、井上皇后と他戸皇太子 は老が天皇と通じているとして怒り、彼を責め苛んだとある。 あるいは同じ『日本後紀』弘仁三年 ( 八一 (l) 十月の藤原内麻呂薨伝に、皇太子時代の他戸親王 が残虐な性格で、名家の人をいじめるのを好み、怪我するところを見たいがために、わざと暴れ馬 に内麻呂を乗せた、というような記事が出ている。 『日本後紀』は正史なので、『水鏡』と違ってそれなりの権威を認めなくてはならないから、こう した井上内親王や他戸親王の性格のきっさはやはりあったのであろうか。やはり二十年に亘る伊勢 斎王の巫女的生活が彼女をしてただならぬ人格形成に至らしめたのか。それとも二十年間の忍従生 活で溜まりに溜まった不満がここに来て一気に爆発したということか。 最近よく言われる熟年離婚ーー妻がずっと結婚生活を我慢して、夫の定年退職を機にそれが爆発 し、夫を捨てるという時代になっているのもひとつの参考になろう。おとなしくじっと我慢すると いうのは、逆にみれば負のエネルギーを恐ろしいまでに溜めるということかもしれない。 最近の事件でも八十四歳の妻が、八十歳の夫を殺したと報道されていた。五十年以上にも亘る結 うちまろ

7. 日本の怨霊

火雷神 火雷天神 吉備大臣 吉備聖霊 これら祭神を整理すると、二社とも早良親王 ( 崇道天皇 ) を筆頭御霊に据え、上では井上内親王 親子、下では藤原吉子・伊予親王親子、藤原広嗣を祀っているという違いがある。 両社の創建の時期、事情については明らかでないが、大まかに言えば、延暦十三年の遷都後に創 られたものだろう。 成 日 1 ゝ って開拓された里だという。現在でも上御霊神社近くに出雲路という地名や一。 . ,. 加茂川 . に架かる出雲集 万 路橋という名が残されている。そこに伝教大師最澄創建と伝える雲寺いう寺があったそうで、 上出雲寺、下出雲寺と後に分けられたという。そして最澄は早良親王や井上内親王の祟りに苦しむ一 桓武帝のために御霊堂を建て、それが上御霊神社の創建の基礎になったという。『延喜式』神名帳家 半 にも確かに「出雲井於神社」とも「出雲井の上上社」ともあるので、『大日本地名辞書』が語るよ 魂 うに、そこで御霊会が開かれたり、御霊寺とも呼ばれたりしながら、御霊を祀る基礎が造られてい の ったのだろう。出雲寺は後に廃絶したが、その寺の鎮守だった神社が独立して上御霊神社になった へ ものと考えられる。「出雲井上社」とあるから、当初は井上内親王を中心にして祀っていたものだ王 良 ろうか。そうなるとあの奈良県五條市の霊安寺・御霊神社本宮から分祀してきたとも考えられる。 じようがん そして清和天皇の貞観五年 ( 八六一一 D 五月、神泉苑で修せられた「御霊会」を契機として、天皇 家や都に祟る怨霊を一堂に集めて祀るようになっていったものと思われる。その意味では清和天皇

8. 日本の怨霊

恒貞親王はその後皇太子を廃され、代わって仁明天皇の長子、当時十六歳の道康親王 ( 後の文徳 天皇 ) が皇太子に立つ。 呂 承和九年 ( 八四一 l) 七月二十八日、伴健岑は隠岐国へ流罪となり、橘逸勢は本姓を除かれ、姓を室 文 「非人、と改めさせられ伊豆国へ流された。『橘逸勢伝』によれば、逸勢は流罪の途中、八月十三日、 勢 遠江国板築駅で没したという。時に六十余歳であったという。 逸 かしよ、つ 嘉祥三年 ( 八五〇 ) 三月二十一日、仁明天皇崩御。 子 母 四月十七日、道康親王即位して文徳天皇となる。 王 親 同 五月四日、嵯峨太皇大后橘嘉智子死去。 予 伊 仁明天皇、橘嘉智子など、「承和の変」の関係者が亡くなり、文徳天皇の即位もあってか、流人 のまま死去した橘逸勢は、この年の五月十五日、もとの官位より二階級昇進して正五位下を追贈さ吉 原 れる。生前三十数年間も昇格がなかった逸勢は、皮肉にも死去八年後にやっと昇進したのである。 藤 死後怨霊として認定されたからであろうか。 もんとくじつろく 々 神 『文徳実録』にはその折の名誉回復の記事がある。 の 性は放誕であったという。放誕とは、おおげさなことを一一一一〔うことである。文人であり、「橘秀才」蹴 と呼ばれたとも。晩年は病弱になり出仕できなかったとある。しかし「承和の変」で逮捕されたが 拷問にも屈せず、伊豆国に流されたという。 その流罪の時、逸勢の娘が泣きながら後を付いて来たので、官兵が追い払うと、昼は休み、夜間 一口 もんとく

9. 日本の怨霊

以上が事件のあらましである。 文室宮田麻呂がいったい誰。 こ対して、何のために謀反を企てようとしたのか、一切不明である。 散位従五位上という微官である宮田麻呂が朝廷に楯を突くとは思われないし、押収された武器も弓 計二十五張、剣十四ロ程度であるから、とても謀反といえるような規模ではない。何か下級官僚同 士のいさかいでもあって宮田麻呂が武器を用意していた程度だったのかもしれない。 文室宮田麻呂の素性については明らかでない。 文室氏はもともと天武天皇の皇子、長皇子の子智努王・大市王兄弟が天平勝宝四年 ( 七五一 l) に 臣籍降下して賜った氏である。宮田麻呂はその一族の者か。 一族の者と思われる文室秋津は文室浄三 ( 智努王 ) の孫で、正四位下、春宮大夫・左近衛中将を 兼ねていたが「承和の変」に連坐して出雲員外守に左遷され、承和十年三月、配所で五十七歳で没 している。酒席では必ず酔い泣きの癖があったとある。宮田麻呂はこの秋津とかかわりのある人物 であろうか。秋津が死んで九ヶ月後に謀反の疑いで逮捕されているので、「承和の変」の残り火が まだくすぶり続けていたものだろうか。 この文室宮田麻呂も橘逸勢と共に貞観五年 ( 八六三 ) の神泉苑での「御霊会」で御霊として祀ら れており、後の奈良や京都の御霊神社にも祭神として祀られているのである。 事件からわずか二十年後に祭神として祀られているのだから、極めて新しい御霊である。 おそらく流罪地の伊豆で没したものだろうが、その死亡年月は不明である。逸勢も流罪地は伊豆 きよみ おおち 2 5 2

10. 日本の怨霊

を経て、今度は娘が皇太子になり、やがて夫の後を受けて女帝となる。これで藤原氏の娘としての 責任が果たせたことになる。娘が天皇になることでどのような運命が展開するのか、光明子ははた してそこまで考えていただろうか。 ひろつぐ だざいのしように 阿倍内親王の立太子から二年後の天平十二年八月、大宰少弐、藤原広嗣が突如、九州大宰府から げんぼうきびのまきび 上表文を送りつけ、僧玄昉と吉備真備の朝廷からの排除を進言してきた。広嗣は藤原式家宇合の長 男である。天平十年十二月に大宰府の次官、少弐として九州赴任中であったが、それを左遷人事と 三野王 葛城王 ( 橘諸兄 ) 佐為王 ( 橘佐為 ) 牟漏女王 光明子 阿部内親王 ( 孝謙天皇 ) 聖武天皇基皇子 合 ( 式家 ) ーーーー広嗣 藤原不比等ー宮子 県犬養三千代 29 井上内親王ーーー聖女の呪い