理の筋道が違うような気がする。 やすくなった。 京都のどこにでもあるような神社のたたずまいであるが、本殿では御霊八社を祀り、相殿や末社 では宮廷で非業の死を遂げた人々が祀られており、東京に遷都した後の天皇家の負の遺産をすべて 受け継いだような重い雰囲気が漂うといえば、私の思い過ごしであろうか。 歴代朝廷から厚く祀られていたが、皇位継承争いの因果というのか、応仁の乱 ( 一四六七 ) の戦 ほ、つれき 一時荒廃したが復興し、現在の社殿は宝暦五年 ( 一七五五 ) 宮中の内侍所 場となって兵火にあい、 の建物を移築して造営したといわれる。 宮司は前に紹介した小栗栖家で、歴代に亘ってこの御霊神社を護っておられる。 下御霊神社は下と名が付くように下町の風情を残す一角にひっそりと鎮座している。「御霊神社 の標示さえなければ、ごく普通の神社である。京都御所の南北をこうして護っているのだが、御所 の北八割が上御霊神社の管轄で、南二割が下御霊神社の管轄といわれる。宮司は出雲路氏が歴代に 亘って勤めておられる。 毎年、五月二十日午前零時に、歴代宮司が家人をも立ち合わせず、たった一人で行う神秘の祭祀 しんせん があるそうで、その時、本殿の神前にすすめる神饌は六基であるという。御霊八社を祀りながら、 神前にすすめる神饌は六基。 200
火雷神 火雷天神 吉備大臣 吉備聖霊 これら祭神を整理すると、二社とも早良親王 ( 崇道天皇 ) を筆頭御霊に据え、上では井上内親王 親子、下では藤原吉子・伊予親王親子、藤原広嗣を祀っているという違いがある。 両社の創建の時期、事情については明らかでないが、大まかに言えば、延暦十三年の遷都後に創 られたものだろう。 成 日 1 ゝ って開拓された里だという。現在でも上御霊神社近くに出雲路という地名や一。 . ,. 加茂川 . に架かる出雲集 万 路橋という名が残されている。そこに伝教大師最澄創建と伝える雲寺いう寺があったそうで、 上出雲寺、下出雲寺と後に分けられたという。そして最澄は早良親王や井上内親王の祟りに苦しむ一 桓武帝のために御霊堂を建て、それが上御霊神社の創建の基礎になったという。『延喜式』神名帳家 半 にも確かに「出雲井於神社」とも「出雲井の上上社」ともあるので、『大日本地名辞書』が語るよ 魂 うに、そこで御霊会が開かれたり、御霊寺とも呼ばれたりしながら、御霊を祀る基礎が造られてい の ったのだろう。出雲寺は後に廃絶したが、その寺の鎮守だった神社が独立して上御霊神社になった へ ものと考えられる。「出雲井上社」とあるから、当初は井上内親王を中心にして祀っていたものだ王 良 ろうか。そうなるとあの奈良県五條市の霊安寺・御霊神社本宮から分祀してきたとも考えられる。 じようがん そして清和天皇の貞観五年 ( 八六一一 D 五月、神泉苑で修せられた「御霊会」を契機として、天皇 家や都に祟る怨霊を一堂に集めて祀るようになっていったものと思われる。その意味では清和天皇
祀るという鳥居と小さな石祠が安置されている。いっ訪ねても、人影まばらで、いかにも鎮魂の寺 と呼ぶにふさわしい森閑とした寺院である。 すべてが 以上が現在まで伝わる常隆寺の趣であるが、山頂の石祠といい、本堂、仁王門といい、 北面しているというのが特徴である。つまり明石海峡の方向に向けられているのである。前述の古 老の意見の通り、御陵や寺社は南面するのが通例なのだが、この常隆寺も「天皇さん」と同じ北面 していることが興味深い。 ところで、南北朝乱世の時代、南朝方として吉野に宮を開いた後醍醐天皇の吉野御陵は、京都を ' にらむようにして北面していることで有名である。右手に御剣、左手の法華経五の巻を持って、正 座し、京都の方角に向けて埋葬されたという後醍醐天皇は、北朝方天皇家が最も怖れる天子である。 今の天皇家は北朝方だから、後醍醐天皇ゆかりの吉野はそれ故敬遠気味だという。随分前の話だ が、今上天皇が皇太子時代、吉野旅行の直後、風邪を引いて休まれ、旅程を変更したことがあった が、それを口さがない人々は「皇太子は北朝系統だから風邪くらいは引くーと噂したという ( 池田 弥三郎著『日本の幽霊』より ) 。 ただ、今の皇太子はもう吉野での宿泊を体験して、その後も健康なので、後醍醐の怨念も平成時 代には威力を発揮できなくなったのかもしれない。 陰陽道の方位占いに基づいて、日本の寺社や御陵はほとんどが南ないし東に向いて建てられてい るのが原則である。北面しているというのは珍しい。怨霊を祀るとか、何らかの事情があると考え られる。井上内親王の御陵や御霊神社は北面していないので、この淡路島の早良親王関係の北面す 178
ごりようえ しんせんえん じよ , つがん 貞観五年 ( 八六一一 l) 、清和天皇は神泉苑で官民一体となった御霊会を修し、その御霊の筆頭に さんだいじつろく 崇道天皇が祀られた ( 『三代実録』 ) 。 てんあん そして、清和天皇の天安二年五八 ) ーには、・ばじめて十陵四墓が制定され、天子が拝すべき亡 魂が定められていくのであるが、それは清和にとって尊崇すべき皇統上の祖霊と、母系の血縁がほ とんどでありながら、やはりその中に、崇道天皇八嶋陵が加えられているのである ( 『三代実録』 ) 。 清和にとって皇統上のネガとポジの両面を祀ったことになろう。 神泉苑での御霊会から、貴賤を問わず、平安朝社会では御霊信仰が瀰漫し、盛行していくが、そ の起因になったのも早良親王の怨霊であるといっていいだろう。 宮廷や皇統に恨みを残して死んでいった人々を一堂に集めて祀る「御霊八社」の信仰は、今日ま で京都の上御霊神社、下御霊神社を中心に、近畿一円に広がっているが、その筆頭で祀られるのも やはり早良親王、崇道天皇なのである。 早良親王の怨霊は具体的には何代までの皇統に祟っていったのだろう。『曾我物語』によると、 曾我五郎は処刑される時、「もし首を切りそこねたら、悪霊となって七代まで祟る」ともらして死太 んでいったとある。また、後世になるが、五摂家の筆頭の近衛家にも七代祟る怨霊がいたそうであ る ( 池田弥三郎著『日本の幽霊』による ) 。あるいはまた、庶民の盆行事でも、供養を施せば過去七王 代の父母は救われるとある。七代が大きな目安になっているのである。 桓武力数え七代目いう清和天皇 , あたる。この時代に御霊会が修せられたことはその意 味でも興味深い。
前に設けられた「お仮屋」と呼ばれるお旅所に遷して祭るという。担当するのは当屋と呼ばれる村 の人たちである。こうして、井上内親王の御霊はこんな小さな集落の人々によって今も守られてい るのである。 その佐名伝を通過し、五條市に入ると、『万葉集』にも「阿太」と歌われた、西阿田町と、道路 を隔てた山田町にも御霊神社がある。二社とも佐名伝と同じような鎮守様のような雰囲気の社であ る。集落も御霊神社も眠るように静かに共生しているのが奥ゆかしく感じられる。 むつくら 吉野川が大きく蛇行する六倉町と対岸の島野町にも吉野川を挟んで、御霊神社がある。島野町の 御霊神社は小さな境内だが、朱塗りの鳥居、周囲の板塀が朱と黒に鮮やかに塗り分けられているの が、いかにも御霊を祀っているという雰囲気が漂う。 えいぎんじ そうした御霊神社の中で、面白いと言っては変だが、藤原氏ゆかりの栄山寺の境内にも御霊神社 むちまろ があることである。五條市小島町にある栄山寺は藤原南家武智麻呂、養老三年 ( 七一九 ) 創建の由伊 女 聖 来をもっ古刹で、武智麻呂の墓もその境内の奥にある。国宝の六角堂の横に朱塗りの鳥居を構え、 まるで藤原氏の横暴を許さぬとばかりに、武智麻呂の墓の裾に御霊神社が鎮座しているのである。 井上内親王にとってもっとも許せぬ相手が藤原氏であったはずだが、今はこうして静かに共存して親 いるのも時代の流れだろう。もっとも藤原氏といっても多様で、井上内親王にとっての直接の政敵上 は南家藤原氏ではなく、式家藤原氏だろうから、こうして共存できているのかもしれない。 あだ
う存在もしない能動態を空想で創りあげてしまうーーー人間という動物は唯一、妄想を抱き、その妄 想にさいなまれる生き物なのだということと、この世の中はひょ「としたら妄想と錯覚で成り立「 ているのかもしれないということを改めて心に刻んでおくことも必要かもしれない。 怨霊研究の難しいところはそのあたりなのである。 さて京都では、まず御霊神社を訪ねてみよう。 御霊神社は京都御所の南北にそれぞれ一社ずつ鎮座して、それを通常、 , 霊神 ( 京都市上京区上御霊前通鳥丸東 ) 御霊対 ( 京都市中京区寺町丸太町下ル ) と呼んでいる。それぞれ八座の御霊を祀り、それを「八所御霊」、「御霊八社」と呼び習わしている。 上下社の祭神が微妙に違「ているので、上下に対照させると次のようになる。 ( 下御霊神社 ) ( 上御霊神社 ) 崇道天皇 崇道天皇 藤原広嗣 井上内親王 伊予親王 他戸親王 藤原吉子 藤原吉子 橘逸勢 橘逸勢 文室宮田麻呂 文室宮田麻呂 196
◎御霊神社本宮 ( 五條市霊安寺町 ) さていよいよ吉野川を渡って御霊神社本宮へ向かうこと にしょ一つ。 御霊神社は「御霊さん」「御霊宮大明神」「四所御霊大明 神」などさまざまな名で呼ばれており、その周辺一帯を霊 安寺町と呼ぶ。今はなくなったが、かって井上内親王らの 霊を弔うための寺、霊安寺があったところから付けられた 地名である。 『日本後紀』延暦二十四年 ( 八〇五 ) 二月六日の記事に、 と、つぐ、つ物は、つ 僧百五十人に命じ、宮中及び春宮坊等に於いて大般若 経を読ましむ。一小倉を霊安寺に造り、稲三十束を納 む。 ( 略 ) 神霊の怨魂を慰むなり。 とあるので、もうその頃すでに霊安寺が建立されていたこ とがわかる。延暦二十四年当時は桓武天皇の「聖体不予」 体調不良で正月の朝賀も廃止された年であった。 本宮の由緒書によると御霊神社の創建は延暦十九年か、 とある。 104
佐名伝は五條市が市制を定めた時に、吉野郡大淀町に編人された土地で、吉野川の右岸にある小 さな集落である。 に沿って五條方面に向かうと佐名伝に至る。 物【、佐名伝の御霊神社は集落の北のはずれのこんもりとした小高い丘の中腹に鎮座している。御霊神 ど又社という額さえなければごく普通の村の鎮守様という雰囲気である。嘉禎四年 ( 一二三八 ) という から鎌倉時代になるが、その頃、御霊神社本宮より分祀されたという。平安朝時代から続く御霊信 うぶすながみ 仰がこの時代にまで影を落とし、土地の産土神だった社に御霊をお迎えしたものだろう。この地か ら東には御霊神社はなく、ほとんどが八幡神社だという。 石段を昇り、神殿に向かって手を合わせた。人影もない鎮守の森にはウグイスがさえずり静かな 雰囲気である。と、突然、神殿からゴオッという凄まじい音が鳴り響いてきた。何事かと思い目を しているところだった。近鉄吉野線が鎮守の森を断ち切るように神殿のすぐ裏手を走っているので ある。私も長年、近鉄電車を利用して吉野に入っていたが、こんな御霊神社のすぐ横を線路が通っ ているとはここに来るまで知らなかった。 これでは御霊もしずかに鎮座できないだろうと、お析りもそこそこにして、その社を離れた。 ここでの祭りは毎年十月二十三日に行われ、宮司は吉野町から出張して来て、五條の本宮とは今 は直接の交渉はないとのことである。祭りの日、ご神体を榊に載せて迎えに行き、一週間、公民館
とか、『藤森社縁起』には、、仁天皇の時、蒙古襲来の際に大将軍に任命された早良親王が当社に 戦勝祈願したことから「弓兵政所」という異名が付いたという、荒唐無稽な起源説があるが、どう ゃぶさめ も軍神的な側面が漂う。今も流鏑馬や甲胄行列などが祭礼の折に行われ、その伝統は生きている。 早良親王、井上内親王、他戸親王などの御霊をはじめ、神功皇后など、計十二柱が祀られ ているが、早良親王などは中世の御霊信仰の隆盛から加えられたのだろうが、いつの間にか、それ ら御霊たちが主神のようになってしまったのだろう。 藤森神社は怨霊を祀る社としてはもっとも広い境内を誇り、怨霊を祀っている薄暗さはなく、上 高野の崇道神社と好対照である。参拝客もこの社が怨霊を祀っているとは気付かないようで、明る い雰囲気である。 だから神社としてはさして間題にならないように見受けられるが、一点挙げるとすれば杜武天 皇の柏原陵と目と鼻の先にあるという両者の距離的な近さである。 まるで「恨むもの」「恨まれるもの」が隣り合わせで暮らしているようなものである。これだと 桓武天皇も安らかに眠りにつけないのではないかと心配するくらいである。 桓武帝柏原陵の位置を知りながら、まるで死者への嫌がらせをするように、こんな近くに早良親 王の霊を勧請したのはどういう理由からであろう。また桓武系皇統である宮廷側が、平安朝を開い た皇祖ともいうべき桓武帝の眠りを妨げるようなこの勧請をどうして許したのだろう。こうした点 が不可解なのである。 206
◎上御霊神社 ( 京都市上京区 ) ◎下御霊神社 ( 京都市中京区 ) 早良親王への鎮魂と大伴家持 『万葉集』の成立 2 0 1