早良 - みる会図書館


検索対象: 日本の怨霊
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1. 日本の怨霊

悲憤の死ーそして祟り 早良親王への鎮魂と大伴家持ーー『万葉集』の成立 水漬く屍 五百枝王という人 鎮魂・慰霊の歌集『万葉集』 大伴家持を探しに 淡路島の遺跡を訪ねてーー早良親王への鎮魂の旅 1 奈良の遺跡を訪ねてーー早良親王への鎮魂の旅 2 奈良の町の御霊神社 京都の御霊神社を訪ねて 岡山の崇道神社について 乙訓寺へ 藤原広嗣ーー憂国の怨霊 『平家物語』から 大宰府からの檄文と蜂起 2 。 8 215 128 2 。 7 217 195 148 21 ラ 188 172 リ 7

2. 日本の怨霊

淡路島では早良親王の遺跡が明石の人丸神社と直線で結ばれていると述べたが、この奈良では東 大寺の南大門と直線でやはり南北に結ばれているのである。単なる偶然といってしまえばそれまで であるが、早良親王と大伴家持とがこの一直線の道で結ばれているようで、安らかな気持ちになれ るのは私だけであろうか。 蛇足になるが、この大寺南大皚から崇道天皇八嶋陵へつながる道をさらに南に下、つ、ていくと途 しちのもと わにした 中、カ少しずれるが、天理市櫟本町に歌塚で有名な柿本人麻呂ゆかりの和爾下神社や人麻呂の立 成 墓がかってあった地に行き着く。やはり人麻呂と結びつくのである。 の この地が古くから「治道天王社」と呼ばれていたことも注目したい。和爾下神社の石灯籠にも集 けんしよう 「治道宮天王」 ( 元和元年銘 ) とあり、寿永二年 ( 一一八三 ) の藤原顕昭の『柿本朝臣人麿勘文』に防 も「治道社ーと早くに紹介されている。 持 島田神社の早良ゆかりの「崇道天王社」ー櫟本の人麻呂ゆかりの「治道天王社」。 家 大 なにやらこの一本の道で、家持ー早良親王ー人麻呂と結ばれているようでならないのである。 魂 の 奈良の町の御霊神社 へ 王 親 良 八嶋陵以外にも奈良の町には至る所 ! こ御霊神社が点在している。 八嶋陵から北に向かうと高畑町から紀寺町へと至る。その通りに小さな境内だが「崇道天皇社」 がある。『霊安寺縁起』にも、 じゅえい

3. 日本の怨霊

淡路島の遺跡を訪ねてーー早良親王への鎮魂の旅 1 次に早良親王への鎮魂の旅へ出ることにしよう。 早良親王ゆかりの地は、長岡京証芋淡路、奈良八嶋陵京都あるいは岡山などである が、まず初めに淡路島に渡ってみることにしよう 延暦四年 ( 七八五 ) 九月二十三日の種継暗殺事件のあおりを受け、早良親王は淡路島へ流罪にな った。その途中、船中で死亡し、遺体はそのまま淡路島へ運ばれた。淡路島東海岸の仮屋という小 さな漁港にその遺体漂着の伝承が残っていると前述した。 たいまのやましろ じゅんにん 早良親王の二十年前にも淳仁天皇が、母当麻山背と共に淡路島に流され、また延暦元年にも氷上 かわっぐ 真人川継の変で、その母、不破内親王もやはり淡路島に流されている。 律令の流刑地には入っていないが、淡路島は都から近距離にありな を封じ込める島だったようだ。 , がら、海に隔てられた地という地理的条件も配流の地に適っていたものか。国土創生神話の島が、 いつの間にか皇位継承争いの敗者流謫の島になったわけである。 さて、淡路島には早良親王にまつわる遺跡が三ヶ所残されている。 るたく 172

4. 日本の怨霊

奈良の遺跡を訪ねてーーー早良親王への鎮魂の旅 2 次に早良親王の遺跡を奈良に訪ねてみよう。 まずは早良親王を祀る「崇道天皇八嶋陵」へ参拝に 崇道天皇八嶋陵は大和国添上郡八島郷 ( 現・奈良市八島町 ) にあり、『日本後紀』延暦二十四年 ( 八〇五 ) 四月に「崇道天皇司を改葬すーとあるから、淡路島から遺骨を迎えてここに祀ったもの に違いない。「延喜式」諸陵寮にも「八嶋陵」として、 「崇道天皇。在大和国添上郡。兆域東西五町南北四町。守戸一一烟」 おとむろ とあり、皮肉なことに、桓武天皇柏原陵、桓武天皇の皇后藤原乙牟漏陵とともに「三近陵」として ひとくくりにされている。 その現在地は、前に大伴家持への「鎮魂の門」ではないかと推定した、東大寺の南大門をまっす ぐ南下したところにある。昔の平城京域からいうと、九条の東南はずれの山麓で「八嶋」という地 名は崇道天皇陵以前からある地名なのかどうかはわからない。 現在の八嶋陵は宮内庁管理の立派なもので、堀池を前にして南面して造られている。そしてこの 陵より東の山側に島田神社という小さな社があり、そこにも崇道天王として合祀されており、石灯 籠にもすべて「崇道天王社」と刻銘されている。 土地の古老の話によれば、御陵もともと東の山寄りにあったのだが明治こなって島田神社の 188

5. 日本の怨霊

当然このふたりの霊前にも供えられたと判断する方が納得できよう。 平城天皇即位当日は一セットだけだったかもしれないが、その後、早良親王や大伴家持の霊前に それぞれ献納された可能性はあろう。 家持への『万葉集』は散逸してしまったかもしれないが、早良親王の場合はどうだろう。 もうこの当時、早良親王の遺骨は淡路島から迎えられ、奈良に崇道天皇八嶋陵として立派にその 墓が設けられている。もし、『万葉集』がその八嶋陵に持ってこられたのなら、早良親王の眠る石 棺の中にそれを納めるということはなかったであろうか。 大同二年 ( 八〇七 ) 正月十七日、「唐国の信物」を諸山陵に献じる。 かわらでら 大同五年 ( 八一〇 ) 七月末、崇道天皇のための供養。川原寺で法華経の供養など。 これらは『日本紀略』に散見する項目で、そういった具体的なことは書かれていない。ただ、嵯 峨天皇の意向で早良親王関係の記事はかなり削除されているようなので、正史では細かい動向は分 からなくなっている。 夢のような話だが、大同元年に編纂された幻の『万葉集』の原本がもし現代にまで残っていると するならば、その可能性のある場所は、たった一ヶ所、早良親王の眠る石棺の中をおいて他にはな いと考える。 最近、明日香村での「高松塚古墳」や「キトラ古墳」の壁画を巡ってさまざまな論争を呼んでい るが、古墳の石棺を開示する是非については今後も慎重な検討を要しよう。 162

6. 日本の怨霊

実は私も、平城帝の奈良思慕ならぬ明日香思慕なのか、奈良県の明日香村に家を借りてほば毎週 末、神戸から明日香村に通うという生活がかなり長く続いている。その借りている家が「キトラ古 墳」のすぐ近くなのである。その地域の人々は実は当初、「キトラ古墳」の発掘をあまり歓迎して いなかった。地区長が亡くなったり、あまり ) しいことが起きないからだというのが、理由である。 ではさて、崇道天皇八嶋陵の石棺の中に幻の『万葉集』の原本が、早良親王と共に眠っているで あろうか。私はその可能性は大だと思う。 立 成 の 和紙ならば既に朽ち果てているかもしれないが、盗掘はないと考える。なにしろ怖ろしい怨霊に なった人の墓だから、盗掘のプロといえどもためらうはずだ。もし無事で発見されたら、「高松塚集 万 古墳」や「キトラ古墳」をはるかに超える超国宝級の大発見になることだろう。 はたして発掘してよいも 『万葉集』成立の千二百年祝賀事業としては最高の事業といえようが、 のかどうか。原本とともに早良の怨霊が目覚めでもしたら大変である。やはりそっと怨霊には眠っ家 大 ていただくのがよかろう。幻の原本は幻のままでいいのかもしれない。 もしなにもその石棺から出なかったら、私は世紀の大ハッタリ屋になってしまうが、宮内庁が一魂 の 切発掘を認めないことを見越して、早良親王の眠る石棺の中に『万葉集』の原本も絶対に眠ってい へ 王 ると、ここに高らかに宣言して『万葉集』成立の千二百年を祝しておきたい。 親 良

7. 日本の怨霊

もう一つ崇道天皇ために諸国の国分寺僧をして、春秋二回、七日間金剛般若経を読むこと。 この遺言をみても桓武天皇の懊悩の深さ、早良親王の祟りの重さを知る思いである。 遷都や東夷征伐などの事業を通じて、古代社会を脱却し、近代的な国家建設に邁進してきた桓武 天皇にとって、早良親王の祟りとは、捨象してきたはずの古代生活の中のもっとも古代的なるもの からの復讐であるともいえよう。 二ヶ月後の五月十八日、号も大同元年と改元して、早良親王の怨霊に取りつかれていた病弱の 安殿皇太子が即位し平城天皇なる。十二歳で立太子した安殿は三十三歳になっていた。 しかし、やはり祟りの影がずっと天皇にまとわりついて離れないのか、平城天皇の在位期間は短 くす、」 く、後の薬子の乱を経て自滅していったのは周知の通りである。平城天皇が奈良の旧都に異常なく らい執着を持って退位後に ' 五度もその居を移したり、参内した妃よりもその娘に付いてきた義母に く子に人道をはずれた愛情を注ぐなど、平城天皇の安定しない魂を見る思いがする。 、 = 一口。、桓武天皇の、心を受け継ぎ、平 平城天降、嵯峨、淳和、仁明、文徳、清和と続く 安京を中心に律令国家体制を整備していくのだが、一方、彼らもいわば桓武の業病ともいうべき、 早良親王の祟りを負わされ、それぞれその影におびえることになる。 こうにん 弘仁元年 ( 八一〇 ) 、嵯峨天皇が病んだ折、早良親王などの追福を祈り、多くの社寺、御陵で るいじゅうこくし 鎮魂する ( 『類聚国史』 ) 。 承和六年 ( 八三九 ) 、仁明天皇は建礼門に御し、使者を派遣して、田原 ( 光仁 ) 、八嶋 ( 崇道 ) 、 楊梅 ( 平城 ) の諸陵に唐物を奉っている ( 『続日本後紀』 ) 。 じようわ リ 4

8. 日本の怨霊

◎崇道大皇八嶋陵 ( 奈良市八島町 ) 場所を利用して、この立派オノ嶋陵、ゝ辷られ、島田神ネ を今の場所に移したのだという大日本地名辞書』 も「八島陵は八島に廟存すれど、陵地を失へり」とある ので、明治時代に陵墓が大幅に改葬されたもようである。 そうなれば前に『万葉集』の原本が早良親王の眠る石 棺の中にあるはずだという、大胆な私説はどうなるのか。立 : い物背い亠ならば、改葬した折に石棺は開けないでそのまま移動さの 集 せたことを祈るばかりである。 葉 事実の程は分からないが、『霊安寺縁起』には、延暦防 十九年 ( 八〇〇に早良親王が崇道天皇と追号された時、 遺骨を八嶋陵から取り出して、それを生きていた時の体 半 の形に整え並べ、その骨に衣装を着せて、即位儀礼とし幻 し J みそぎ ての禊や大嘗祭を行ったと、すさまじいことが書かれて魂 いる。その後、遺骨は箱に納められて「社頭の内に置きの 奉り給ひき」とある。明治の改葬の時、その骨箱を移葬王 良 したというのだろうか またこの地には早良親王の霊安寺「八島寺」が建立さ れていたと伝えるのだが、早くに廃されたのか、今はそ 第 ~ イ ~ 耘ー

9. 日本の怨霊

奈良の南里の紀寺の天皇と申すも崇道天皇にてまします成。彼等は紀の貫之の建立の寺也。故 に彼氏の紀字を呼つけて紀寺と云也。 れんじようじ とあ、紀寺、又の名、城寺いうが、その寺の鎮守として祀られていたものである。大同元年 ( 八〇六 ) カ早良親王を祀るという由来を持っ社である。 がん」うじ しわゆる奈良町の細い通りを元興寺方面へ向かうと、その街中に「御霊 その社からさらに北へ、 ) 神社」がある。やはり元興寺の鎮守神として祀られていたとある。 こく小さい井上神 この崇道天皇社と御霊神社は親子の神職で守られているが、両社の間に、、 。 ) ) があり、町名も ( 「上町」とある空間がある。早良親王ゆかりの場所はやはり井上内親王にも 0 知かりの場所なのである。 」大日本地名辞書』には「宝亀三年に井上内親王が皇后を廃された時に、この地の屋敷に籠居さ せられていた」とある。 ほうき そうすれば宝亀三年 ( 七七一 l) 三月二日に弗上内本王〉は皇后を廃され、息子の他戸親王も三ヶ月 後の五月二十七日に廃太子にされているので、翌宝亀四年十月十九日に宇智郡の没官宅に親子共々 きよ、つばて 幽閉されるまでの、一年半余の間、この平城京域の下町、京終とも呼ばれるこの地に、親子で蟄居 させられていたのだろうか。この御霊神社がその屋敷跡といわれている。 狭い通りに小さな社寺が点在し、各商店が軒を連ねるこの奈良町は今、観光客で賑わうようにな って、奈良散歩にはうってつけの町だが、こんな所に千二百年前に時の皇后、皇太子が幽閉蟄居さ でら 192

10. 日本の怨霊

同四月、崇道天皇のため、小倉を建て、怨霊に謝す。崇道天皇司を任じ、改葬する。 おそらくこの時、淡路から遣骨を迎えて、後述する奈良市にある一 ( 道天皇八嶋 したものだろう。 同七月、山科 ( 天智 ) 、後田原 ( 光仁 ) 、崇道天皇三陵に唐国物を献上。 同十月、崇道天皇のために一切経を書写。 こうした間に地震ばかりでなく、富士山までもが大噴火しており、天変地異が続く。こうした異 変はすべて早良親王の怨霊のなせるわざとして桓武天皇周辺を苦しめたことだろう。 このように悲愴なまでに早良親王の怨霊鎮魂につとめる桓武天皇であったが、その合間を縫って 取り付かたように鷹狩に出掛けている島坏隠ぬ行動にあド しかし、暦二十三年末から、とうとう桓武天皇も病の床に就き、大事にしていた狩猟用の鷹や 念 までも手放してしまう。 して延暦二十五年三月十七日、桓武天皇は早良親王の怨霊から解放されるように崩御する。春の 太 秋七十。天皇家の光と影の交錯する世界を奔馬に乗って駆け抜けたような人生であった。この日、 皇 春宮寝殿の天井から血がしたたり落ちてきたとあるのも不気味だ。怪異は桓武の臨終の日まで続い 王 たのである。 親 良 遺一言が二つあった。 早 一つは延暦四年の種継暗殺事件で流罪中の者の罪を許し、官位を剥奪されていた大伴家持たちを 復位させること。