流罪 - みる会図書館


検索対象: 日本の怨霊
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1. 日本の怨霊

五百枝王はその後、二十年近くも伊予の国 ( 愛媛県 ) で罪人として身の不遇をかこっことになる。 二十六歳から四十歳すぎまで、男として、官吏としてもっとも充実するはずのこの時期を、都のは るか波路の彼方へ追放されたこの王の心境はいかばかりのものであっただろうか。ここにもひとり、 政争の犠牲になった王がいたのである。 今は流罪という刑罰はないが、昔は律令の規定で、死罪に次ぐ重い刑として流罪があり、それも ちゅうるこんる おんる 罪の重さによって、「遠流・中流・近流」と都を基点にした流刑地が定められていた。 一番重い遠流は伊豆 ( 静岡県 ) 、安房 ( 千葉県 ) 、常陸 ( 茨城県 ) 、佐渡 ( 新潟県 ) 、隠岐 ( 島根県 ) 、 土佐 ( 高知県 ) などが流刑地であり、中流は信濃 ( 長野県 ) 、伊予 ( 愛媛県 ) 、近流は越前 ( 福井県 ) 、 安芸 ( 広島県 ) などである。都から遠くに追放されるのは辛かっただろうが、妻妾同伴が認められ ていたので、今の刑務所での禁固刑とは一味違おう。 天皇、皇子から高官、高僧に至るまで、歴史上さまざまな人たちが流罪の憂き目にあっているが、幻 それがまた多くの伝説、伝承を伴い、「流人の文芸」「流刑の文化」を生んでいるのも事実である。 流人の歌を一例あげてみよう。 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはっげよ海人の釣り舟 たかむら 承和五年 ( 八三八 ) 隠岐の国に流される時に、小野篁が詠んだこの歌が『古今集』に伝えられ、 後の「百人一首」に採られ有名になった。 じようわ やそしま

2. 日本の怨霊

恒貞親王はその後皇太子を廃され、代わって仁明天皇の長子、当時十六歳の道康親王 ( 後の文徳 天皇 ) が皇太子に立つ。 呂 承和九年 ( 八四一 l) 七月二十八日、伴健岑は隠岐国へ流罪となり、橘逸勢は本姓を除かれ、姓を室 文 「非人、と改めさせられ伊豆国へ流された。『橘逸勢伝』によれば、逸勢は流罪の途中、八月十三日、 勢 遠江国板築駅で没したという。時に六十余歳であったという。 逸 かしよ、つ 嘉祥三年 ( 八五〇 ) 三月二十一日、仁明天皇崩御。 子 母 四月十七日、道康親王即位して文徳天皇となる。 王 親 同 五月四日、嵯峨太皇大后橘嘉智子死去。 予 伊 仁明天皇、橘嘉智子など、「承和の変」の関係者が亡くなり、文徳天皇の即位もあってか、流人 のまま死去した橘逸勢は、この年の五月十五日、もとの官位より二階級昇進して正五位下を追贈さ吉 原 れる。生前三十数年間も昇格がなかった逸勢は、皮肉にも死去八年後にやっと昇進したのである。 藤 死後怨霊として認定されたからであろうか。 もんとくじつろく 々 神 『文徳実録』にはその折の名誉回復の記事がある。 の 性は放誕であったという。放誕とは、おおげさなことを一一一一〔うことである。文人であり、「橘秀才」蹴 と呼ばれたとも。晩年は病弱になり出仕できなかったとある。しかし「承和の変」で逮捕されたが 拷問にも屈せず、伊豆国に流されたという。 その流罪の時、逸勢の娘が泣きながら後を付いて来たので、官兵が追い払うと、昼は休み、夜間 一口 もんとく

3. 日本の怨霊

3 にそれぞれ各地へ流罪に処せられて、塩焼王は伊豆国三島へ配流される事件があった。 いおえ 塩焼王というのは天武天皇と藤原鎌足の娘・五百重娘 ( 大原大刀自 ) との間に生まれた新田部皇 子の息子である。天武系の皇子だから血筋は極めていい。 父・新田部皇子は『万葉集』では柿本人麻呂に歌を献じられているほどの人物で、長屋王の変の 折でも、舎人親王らと共に長屋王邸宅に出向き、その罪状糾問を担当したいわば天武系皇子の長老 - を・ いっぽん 格で、天平七年に一品という最高位で死去している。 のか不 \ そんな、エリートの父を持っ塩焼王は中務卿正四位下という高官に叙せられていたが、 , 破内親王あった。 破内 内親王 結ばれたのかは分からないが、天武天皇の孫と、聖武天皇の娘との結婚だから天武系血縁を維持し ていく意味では望ましい結婚であろう。藤原氏に圧倒され続けてきた県犬養広刀自から見ると、う ちの次女はいい夫を掴んだ、というところだろうか。婿の血には天武天皇ばかりでなく、母方の藤伊 原氏の血も流れているのだから、娘の将来がそう邪険に扱われることもあるまい という読みがあ聖 ったかどうかは分からないが、娘をしつかりとした家柄の男に嫁がせて、その幸せを願うという母 王 心は時代を問わず、夂わらないのではなかろうか。 親 内 上 その塩焼王、流罪に処られたのである。いったい何があったのか。 井 いうまでもなく流冫死罪に次ぐ重罪である。律令の規定では流罪はその罪の重さによって三種 おんる ちゅうるこんる 類あり、遠流・中流・近流と定められている。 にいたべ

4. 日本の怨霊

淡路島の遺跡を訪ねてーー早良親王への鎮魂の旅 1 次に早良親王への鎮魂の旅へ出ることにしよう。 早良親王ゆかりの地は、長岡京証芋淡路、奈良八嶋陵京都あるいは岡山などである が、まず初めに淡路島に渡ってみることにしよう 延暦四年 ( 七八五 ) 九月二十三日の種継暗殺事件のあおりを受け、早良親王は淡路島へ流罪にな った。その途中、船中で死亡し、遺体はそのまま淡路島へ運ばれた。淡路島東海岸の仮屋という小 さな漁港にその遺体漂着の伝承が残っていると前述した。 たいまのやましろ じゅんにん 早良親王の二十年前にも淳仁天皇が、母当麻山背と共に淡路島に流され、また延暦元年にも氷上 かわっぐ 真人川継の変で、その母、不破内親王もやはり淡路島に流されている。 律令の流刑地には入っていないが、淡路島は都から近距離にありな を封じ込める島だったようだ。 , がら、海に隔てられた地という地理的条件も配流の地に適っていたものか。国土創生神話の島が、 いつの間にか皇位継承争いの敗者流謫の島になったわけである。 さて、淡路島には早良親王にまつわる遺跡が三ヶ所残されている。 るたく 172

5. 日本の怨霊

わることはない。 ひかみのしけしまろ 神護景雲三年 ( 七六九 ) 五月、不破内親王を都から追放。息子、氷上志計志麻呂を土佐国へ 流罪。 井上内親王の妹、不破内親王はどうも姉と違って、娑婆っ気が多いというのだろうか、権力志向 が強いのか、いつまでも懲りずに裏でじたばたする性格のようである。 今度は塩焼王との間にできた息子・氷上志計志麻呂を皇位に就けようと画策したようで、それが 露見し、度重なる不敬罪で、前回は内親王の身分を剥奪されたが、今回は名前まで取り上げられ、 くりやのまひとくりやめ 「厨真人厨女」という、言ってみれば「台所のクズ女ーというような屈辱的な名前に変えられ、都 あねめ を追放されたのである。同時に県犬養姉女とか、忍坂女王、石田女王等という宮廷の女官たちも流 罪に処せられているので、彼女たちを使って、また同じような呪術をかけようとしたのだろう。 まじもの 「巫蠱ー「厭魅ーの呪術である。 どくろ 呪 『続日本紀』によれば、密かに称徳天皇の髪の毛を盗み、佐保川で拾ってきた汚い髑髏の目の穴の じゅそ にその髪の毛を突き刺して、宮中に持ってきて三度までも称徳天皇を呪詛したというのである。感聖 染呪術だが、それが観世音菩薩などのご加護や神通力で露見したとある。 盗んだ髪の毛を髑髏に突き刺し呪詛するというやり方もすさまじいが、それに対して、死罪を一親 内 上 等減じて流罪にして温情を施したようにみえる称徳天皇であるが、彼女たちの名前を取り上げて、 井 ひどい名前をつけた女帝の方もやはりすさまじい。まさにヒステリー状態にある女同士の戦いであ る。どうもこの女帝は癇癪を起こすと、人を罵り、ひどい名前で呼ぶ癖があるらしい。以前、謀反

6. 日本の怨霊

護」の役割を勤めている。「喪事監護」は今で一一一一口うと葬儀委員長の役目で、その役割は生前親しく 交流していた者が選ばれることが多いことから、父の親友、大伴家持とは一家ぐるみの交流が続い ていたことが想像される。 いつぼん この母の葬儀には光仁天皇から詔勅が出され、故内親王には一品という最高位が追贈され、二人 の子どもたちには「二世王」という待遇が与えられている。 母の死の半年後、五百井女王、五百枝王は共に従四位下が授けられ、五百枝王は続いて侍従とい とねり う役職を得て、官人として出発することになる。二十二歳、舎人という見習い期間もなく、官人と しては早いスタ 1 トである。 光仁天皇の後の桓武朝下にあっても、五百枝王は志貴家の血に繋がる者としての、それなりの待 遇が与えられ、順調に官吏の道を歩んでいた。 ところが例の延暦四 ( 七八の種継暗殺事件に五百枝王も巻き込まれてしまう。 『日本紀略』によれば当時、従四位上右兵衛督であった五百枝王は「死を降して伊予国に流すー とある。罪は本来ならば死罪にあたるほど重かったが、天皇との近親関係ということもあって罪一 ちゅ、つる 等を減じられたということだろう。伊予国への流罪は律の規定では「中流」にあたる。 五百枝王がこの事件にどのように関与したかは不明であるが、逆に考えれば、死罪に相当する罪 に間われたのだから、彼がそれほど大伴家持や早良皇太子の近くにいたことが知れるのである。二 十六歳であった。 144

7. 日本の怨霊

の出生地が津山というのも信じがたい。やはり平安朝から中世にかけて拡がった御霊信仰がこの地 にまで影を落としたということか。 折ロ信夫のいう「貴種流離譚」の典型のような伝説であるが、ここばかりでなく、崇道・崇導・ 宗道などという社号を持っ神社は兵庫県 ( 三社 ) 、岡山県 ( 三社 ) 、広島県 ( 六社 ) とかなり広範囲 に点在している ( 参考・牛山佳幸著『「小さき社」の列島史』 ) 。 やはり御霊信仰の流布の結果であろうか。 てんこうせん 津山市の近くには後醍醐天皇の隠岐流罪にまつわる例の「天勾践を空しうすること莫れ」で有名 な児島高徳の伝承もあるので、こうした貴種の流罪の話が語り伝えられているうちに、御霊信仰の 代表である早良親王が担ぎ出されたものかもしれない。 とにかく早良親王の影は、こうして全国各地に広く深く宿ったということはいえよう。 乙訓寺へ この章の最後に長岡京の乙訓寺 ( 長岡京市今里 ) を訪ねてみよう。 乙訓寺は、早良親王が延暦四年 ( 七八五 ) の種継暗殺事件に連坐して幽閉され、十数日間飲食を 絶っていた寺で、早良親王生前最期の魂を宿す寺である。 ( の天皇願所で、聖徳太子開基と伝える寺であり、長岡京時代には近郷で最も規模の大きな寺 院だったのだろう。現在の建物は応仁の乱 ( 一四六七 ) の兵火で焼失した後、江戸時代に再建され おとくにでら 208

8. 日本の怨霊

翌日、急報を受けた桓武天皇は水雄岡から長岡京に還幸し、暗殺の一味徒党を摘発する。 逮捕されたのは大伴継」 ) ~ ' ) 大伴複んど大伴氏一族の者たちを中心にした数十人。直ちに斬罪、 流罪に処せられたそらく大伴氏という旧臣勢力と、桓武天皇の威光を背景に、新都建設の中心 勢力として隆盛を極めようとしていた藤原式家との確執があったとみていいだろう。主導権を種継 に奪われ、鬱積していた不満が、彼らの頭領と仰ぐ大伴家持の死去によって、その歯止めを失い 桓武天皇の留守をついて、一気に噴出したのが、この種継暗殺事件であろう。 だがこの造反は、謀反と呼ぶにはあまりにお粗末な計画性のない暴発で、かえって桓武天皇には 不平分子を一掃するいい機会を与えたようなものである。 大伴家持は死去 ' ているにもかかわらず、責任を問われ、官位を剥奪され、除名処分を受け、息 子大仁永主は隠岐島に流罪になる。 念 この家持のみならず、春宮坊職員のほとんどが種継暗殺事件に連坐して逮捕されていったあと、 であった。早良親王がこの事件に関与の みずかがみ していたかどうかは分からない。 『水鏡』には早良親王が天皇に不満を持っていたこと、種継と太 にほん、りやノ、 の間に確執があったことなどが紹介されていたり、『日本紀略』にも桓武天皇を倒し、早良親王を 帝位に迎えようとする、またしても皇位継承争いがあったことなどが記されている。が、この種継王 暗殺事件の真相は未だに分からない。 とにかく、事件に連坐したか、あるいは長岡京留守役の責任上か、暗殺事件の五日後の九月二十 おとくにでら 八日、早良親王は長岡京にある乙訓寺に幽閉されることになった。父帝の意向で実弟早良が皇太子

9. 日本の怨霊

とものよしお であった。後の貞観八年の応天門炎上で罪に問われた大納言伴善男も伊豆に流されている。古いと しおやき ころでは塩焼王も同地に流されているので、流罪の中でも最も罪の重い遠流に相当する地が伊豆で 呂 麻 ある。単なる偶然であろうが、生前、没後にわたり個性豊かな人物が伊豆に流されたことになる。 田 宮田麻呂がどのような祟りを発動させたのかは分からない。 室 文 貞観五年五月の「御霊会」の三ヶ月後、八月十五日、宮田麻呂の田宅は貞観寺に施入されたとあ る。御霊として祀られた宮田麻呂はその時でもまだ身分は取り上げられたままで「庶人文室宮田麻逸 呂」とある。 前に紹介した、貞観年間に清和天皇の『万葉集』成立の質問に歌で答えた、文屋有季はこの宮田母 麻呂とはどういう血縁関係にあったものだろう。清和天皇は貞観五年の「御霊会」に祭神として祀親 伊 られた六人の御霊については、きっとただならぬ興味を抱いただろう。 その中でも最も新しい祭神として祀られた文室宮田麻呂にもその事跡への質問があったのではな吉 原 いか。それに対して、文屋有季がさまざまな事件のあった朝廷の歴史を語ったのではなかったか。 藤 やすひで また同じ文屋でも、六歌仙の一人、文屋康秀も宮田麻呂の縁者であろうか。もしそうだとすれば、 々 神 宮田麻呂の供養のために「百人一首」に採られた康秀の秀歌をここに捧げることにしよう。 の 社 吹くからに秋の草木のしほるればむべ山風をあらしといふらん 御 ( 『古今集』巻五秋歌下 )

10. 日本の怨霊

外側は覆い隠されていたことはあり得るので、この「うつほ舟」の伝承は案外事実を伝えているの かもしれない。 『大日本地名辞書』にはあの有名な「高瀬舟」というのは、山崎高瀬橋を本拠として淀川から京 都五条までの運河を行き来したことから付いた名前であるという。 「高瀬舟、といえば、すぐ思い出すのが森鵐外の名作『高瀬舟』である。罪人を乗せて流刑地ま で護送する物語である。早良親王もそういう舟に乗せられたのであろうか。ならば鴎外の『高瀬 舟』にあるように、船中で同行役人が罪人に事件の顛末を問いかけるというようなことをしなかっ たのであろうか。断食で衰弱していた早良親王は何も答えなかったかもしれないが。『日本紀略』 には早良親王を護送した役人の名が記されている。 かきもり 宮内卿石川垣守らとある。早良親王の生前最後の姿を見た人であり、その最期を看取った人であ る。垣守は翌十一月に二階級特進している。垣守は宝亀九年に井上内親王の墓の改葬を担当した官 人であることも何か因縁を感じる ( 爲ペ 1 ジ参照 ) 。鵐外の『高瀬舟』の役人のように罪人を思いや る心優しい人であってくれたら嬉しいのだが、あるいは逆の人だったかもしれない。 悲憤の死ーそして祟り こうして早良親王は淡路島へ流罪の途中、絶命する。死去した正確な日付は分からない。 てんち しようむ 十月八日に天智天皇陵、志貴皇子陵、聖武天皇陵へそれぞれ、早良を廃太子にするという報告が 128