とものよしお であった。後の貞観八年の応天門炎上で罪に問われた大納言伴善男も伊豆に流されている。古いと しおやき ころでは塩焼王も同地に流されているので、流罪の中でも最も罪の重い遠流に相当する地が伊豆で 呂 麻 ある。単なる偶然であろうが、生前、没後にわたり個性豊かな人物が伊豆に流されたことになる。 田 宮田麻呂がどのような祟りを発動させたのかは分からない。 室 文 貞観五年五月の「御霊会」の三ヶ月後、八月十五日、宮田麻呂の田宅は貞観寺に施入されたとあ る。御霊として祀られた宮田麻呂はその時でもまだ身分は取り上げられたままで「庶人文室宮田麻逸 呂」とある。 前に紹介した、貞観年間に清和天皇の『万葉集』成立の質問に歌で答えた、文屋有季はこの宮田母 麻呂とはどういう血縁関係にあったものだろう。清和天皇は貞観五年の「御霊会」に祭神として祀親 伊 られた六人の御霊については、きっとただならぬ興味を抱いただろう。 その中でも最も新しい祭神として祀られた文室宮田麻呂にもその事跡への質問があったのではな吉 原 いか。それに対して、文屋有季がさまざまな事件のあった朝廷の歴史を語ったのではなかったか。 藤 やすひで また同じ文屋でも、六歌仙の一人、文屋康秀も宮田麻呂の縁者であろうか。もしそうだとすれば、 々 神 宮田麻呂の供養のために「百人一首」に採られた康秀の秀歌をここに捧げることにしよう。 の 社 吹くからに秋の草木のしほるればむべ山風をあらしといふらん 御 ( 『古今集』巻五秋歌下 )
そこで法均尼の弟である和気清麻呂を代わりに派遣して神託を改めて問い直すことになった。法 均尼や清麻呂の属する和気氏はもともと古くからある吉備国の豪族である。 清麻呂出発の際、道鏡は清麻呂を呼び寄せて、 「宇佐の神が宮廷からの使いを呼ぶのは、おそらく我が即位のことを告げようということだろう から、うまく取り計らえば官爵は思いのままになるぞ と、生臭餞のこと、を贈った。 よ道鏡の野望を打ち砕くものであった。 だが帰朝した清麻呂から伝えられた神託 ! 「我が国は国家開闢以来、君臣の別が定まっている。臣を以って君となすは未だそれあるを聞か ひつぎ ず。天つ日嗣は必ず皇族から立てよ。無道の人はすべからく掃除すべし」 という前の神託とは正反対の託宣であった。 わけべのきたなまろ 烈火のごとく怒った道鏡は和気清麻呂の名を別部穢麻呂と改名して大隅 ( 鹿児島県 ) に流罪にし、 ひろむしさむし 呪 の 姉、法均尼も還俗させ俗名の広虫を狭虫と改名して備後に追放した。 女 聖 このひどい改名から判断すると、やはり女帝の例の悪い癖が出たものと考えられる。 岡山県東部に位置する和気郡和気町には今も和気神社があり、清麻呂を祀り顕彰しているが、道親 鏡に媚びず、我が身をも省みずに正反対の神託を伝奏した清麻呂の真意はいかなるものだったのだ上 こほんこうき ろう。『印本後紀』延暦十八年 ( 七九九 ) の「清麻呂伝」以来、清廉潔白な硬骨漢として今日まで 歴史的評価は高いが、伝説化された彼の生涯の中で藤原氏との関係が見え隠れしていることも見逃 ー′むけ
奈良麻呂は取り調べに対し、仲麻呂の政治の無道を責め、東大寺大仏建立で人民を苦しめたから 決起しようとしたと敢然と述べた。晩年の父、諸兄の無念を晴らそうとしたのか、父よりも血の気 が多かったのだろうが、仲麻呂の前ではあまりに無謀な戦いであった。 その結果、黄文王・道祖王・大伴古麻呂他三名は拷問のうえ杖に打たれて死亡し、安宿王は妻子 ともども佐渡に流罪など、この粛清によって多くの犠牲者が出た。道祖王は四ヶ月前までは皇太子 だった人である。黄文王、安宿王は長屋王の遺児である。奈良麻呂については何も記されていない いんがいのそち が、おそらく最初に処刑されたものだろう。仲麻呂の実の兄である右大臣豊成ですら大宰の員外帥に 左遷されているのに、塩焼王だけは本来流罪になるところだが、罪を許すとある。塩焼王が前回の 事件に懲りて、よほどうまく立ち回ったか、それとも仲麻呂が例によって、塩焼王に恩義を着せて 自分の手持ち札の一枚として取り込んだものか。それはこの後に起こる事件で明らかになる。 / 宝宀一 ( 七五八 ) 八月、孝謙天皇譲位。淳仁天皇卩立。 しゅんにん 孝謙天皇は四十一歳で皇太子大炊王に譲位し、第四十七代 , 淳仁天皇が即ュする。 ひかみのまひと して、氷上真人塩焼を その昇格人事で白壁王は正四位上に昇格、塩焼王もあの事件以後臣 名乗り、従三位に上がる。そして仲麻呂は「太保、と改められた右大臣に就任し、功田百町と功封 三千戸を授与され、また私印を公印として使用することを許可され、名前も「恵美押勝」という美 名まで与えられた。まさに独裁専制の頂点に君臨したのである。 たいほ
以上が事件のあらましである。 文室宮田麻呂がいったい誰。 こ対して、何のために謀反を企てようとしたのか、一切不明である。 散位従五位上という微官である宮田麻呂が朝廷に楯を突くとは思われないし、押収された武器も弓 計二十五張、剣十四ロ程度であるから、とても謀反といえるような規模ではない。何か下級官僚同 士のいさかいでもあって宮田麻呂が武器を用意していた程度だったのかもしれない。 文室宮田麻呂の素性については明らかでない。 文室氏はもともと天武天皇の皇子、長皇子の子智努王・大市王兄弟が天平勝宝四年 ( 七五一 l) に 臣籍降下して賜った氏である。宮田麻呂はその一族の者か。 一族の者と思われる文室秋津は文室浄三 ( 智努王 ) の孫で、正四位下、春宮大夫・左近衛中将を 兼ねていたが「承和の変」に連坐して出雲員外守に左遷され、承和十年三月、配所で五十七歳で没 している。酒席では必ず酔い泣きの癖があったとある。宮田麻呂はこの秋津とかかわりのある人物 であろうか。秋津が死んで九ヶ月後に謀反の疑いで逮捕されているので、「承和の変」の残り火が まだくすぶり続けていたものだろうか。 この文室宮田麻呂も橘逸勢と共に貞観五年 ( 八六三 ) の神泉苑での「御霊会」で御霊として祀ら れており、後の奈良や京都の御霊神社にも祭神として祀られているのである。 事件からわずか二十年後に祭神として祀られているのだから、極めて新しい御霊である。 おそらく流罪地の伊豆で没したものだろうが、その死亡年月は不明である。逸勢も流罪地は伊豆 きよみ おおち 2 5 2
あるとすればここしかない 本人麻呂を祭神とて祀る柿本神社である。 ひとまる 、昔から学問、安産、除火の神として崇敬を受 柿本神社は地元では人丸神社、 けている神社である。 全国に柿本人麻呂を祀る社は七十ヶ所ほどあるが、島根県にある柿本神社と並んで、この社は由 きようほ , っ 緒と格式を他より誇り、享保八年 ( 一七二三 ) に人麻呂一千年祭を記念して、この二ヶ所の人丸社 に「正一位柿本大明神」の神位神号が宣下されている。 現在の社は明石市の東、小高い丘の上に鎮座している。東経一三五度、いわゆる子午線上に位置の ・けっしようじ している。神社の西隣には、やはり人麻呂に由来を持っ月照寺があり、明治の神仏分離令によって集 それぞれ独立したものである。 では、この人丸神社がなぜ明石にあるのだろう。 島根県の人丸社ならば、『万葉集』巻二に人麻呂の石見での辞世歌が伝えられているので、その家 建立の由来を求めることができるのだが、この明石の地ではどうなるのだろうか。 一般的な理解では、明石が人麻呂の歌と深く関係しているところから、それを顕彰して、この地魂 にネ社が建立されたと言われている。なるほど人麻呂は『万葉集』に、 やまとしま ひな ながち 天離る鄙の長道ゅ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゅ という歌をはじめとして、明石付近を詠んだ旅の歌が多い。また『古今集』にも、 あまざか ( 巻三ー二五五 )
の第七子といえば皇族といえども陽の当たらない皇子である。そういう皇子をことばは悪いが、手 元にストックしておいて、いざというときに自分の手持ち札として活用する、それが仲麻呂のやり 方なのである。諸兄が亡くなった直後にも従五位下の石津王という王族を藤原氏に改姓させ仲麻呂 の養子として迎え入れているのも同じ目的と思われる。 こうして道祖王は皇太子を廃され、新たに大炊王が皇太子に選ばれた。さらに同年五月、仲麻呂 は軍事権を掌握できる紫微内相に自ら任じ、これによって仲麻呂の権勢はいよいよ揺るぎないもの になっていった。 ならまろ 天平宝字元年 ( 七五七 ) 七、橘奈良麻呂の変 一方、こうした仲麻呂の専横に反旗を翻す勢力も結集しつつあった。この年の六月ころから反対 勢力の不穏な動きが次々と密告で明らかになってゆく。たまりかねた孝謙天皇や光明皇太后は諸王 臣の邪心を戒め、自重を求める詔勅を出したが、結局、自白によって次のようなクーデター計画が伊 女 聖 明らかになった。 七月二日の闇にまぎれて挙兵し、まず田村第を攻めて仲麻呂を殺害し、次いで皇太子大炊王に退 位を迫り、光明皇太后のもとにある公印である鈴印を確保する。その上で右大臣藤原豊成に号令さ親 あすかべ せて孝謙天皇を廃して塩焼王・道祖王・安宿王・黄文王の四王の中からだれかを即位させるーーーと上 いう計画であった。 そのクーデターの首謀者が亡き諸兄の子、橘奈良麻呂であった。 きぶみ
廃太子になった恒貞親王や隠岐国に流された伴健岑らのその後は杳として知れない。逸勢だけが 怨霊になったというのは、それだけ橘逸勢が無実の罪であることを反映しているのかもしれない。 ごうだんしよう ここんちよもんじゅう 『江談抄』や『古今著聞集』には、能筆家逸勢が書いた内裏の安嘉門の額の字が、髪が逆さに生 えた童が沓をつけているように見え、昔、その門の前を通りかかる人が、時々、踏み倒されたので、室 密かに人がその門に登ってその額の中央を消したという怪談を伝えている。 また逸勢が書いた額には霊が宿り、人を害したともいうので、彼の怨霊は字にまで宿って宮中に逸 出入する貴族たちに恐れられたのだろう。 達筆な怨霊ーーそれが橘逸勢である。絵画や写真に宿る幽霊は後の世にも語り伝えられているが、 字に宿る霊はこの橘逸勢をおいて他にないだろう。 庶人・文室宮田麻呂 橘逸勢を巻き込んだ「承和の変」がまだ終息したとはいえない一年後の承和十年 ( 八四 = l) 十一一一 ふんやのみやたまろ 月二十二日に新たな事件が勃発する。それが文室宮田麻呂の謀反である。 この日、宮田麻呂の従者が、あるじが謀反を企てようとしていると密告に及ぶ。直ちに宮田麻呂 を拘束し、彼の京宅と難波宅を家宅捜査してみると武器が発見されたとある。 参議らが宮田麻呂を尋問し、その結果、死罪に相当するが罪一等を減じ、宮田麻呂は伊豆国へ流 罪、息子二人も佐渡と土佐へ。従者や連坐した者たちもそれぞれの配所に送られることになった。
く、その処断に従った。 そして臣下が召集され、新たに誰を皇太子にするかという協議がなされた。 ながて 豊成と中務卿藤原永手はどういういきさつで彼を選んだのか理解できないが、道祖王の兄、例の ふんやのちぬ おおとものこまろ 塩焼王を推し、文室智努と大伴古麻呂は舎人親王の子、池田王を推した。それに対し、仲麻呂ひと りが「臣を知る者は君にしかず、子を知る者は父にしかず。ただ天意に従うのみ」と孝謙天皇の判 断に一任した。その発言を受けて、天皇は、 「舎人、新田部両親王家は皇室の長であるので、それらの家系から皇嗣を選ぶべきであるが、道 祖王はあの通り身持ちが悪く、では舎人親王の子からと思うのだが、船王も閨房が修まらず、池田 王は孝行でない。塩焼王・は聖武天皇に無礼を働いた。その点、大炊。まだ年若いが悪評は聞いた ことがないので、この王を立てようと思う」と述べた。 大炊王とは舎人親王の第七皇子で時に二十五歳。 意外な人事であったーーーと表面的には見えるが、実は裏があったのだ。 まより 仲麻呂には真従という長男がいたのだが、それが早死にし、その嫁、粟田諸姉という寡婦が残っ ていたのだが、その諸姉に大炊王を添わせて自分の邸宅・田村第に住まわせていた。つまり大炊王 は仲麻呂の庇護下にある養子のような存在だったのである。だから、仲麻呂が公卿会議の時に特定 の皇子を推薦せず、「天意のままに」と孝謙天皇の判断を仰いだというのも、あらかじめ二人の間 では打ち合わせができていたのだろう。 後に仲麻呂のことを「ただの卿ではなく我が父と思う」とまで大炊王に言わせている。舎人親王 たむらのてい もろあね
( 巻九ー四〇九 ) ほのばのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく船をしぞ思ふ という歌は、「よみ人しらず」でありながら、「或人曰く、柿本人麿作ーとされ、この歌の方がかえ って後世に人麻呂代表歌とされていて、確かに人麻呂と明石との関係は深いものといえる。 しかし、歌人がその地で名歌を詠んだからといって、歌碑ならばまだしも、神社が建てられ、神 として祀られるというのはあまりに大袈裟すぎるのではなかろうか。 「月照寺由緒」にはその創建を次のように伝える。 こうにん 五十二代嵯峨天皇、弘仁二年 ( 八一一 ) 、弘法大師空海がこの地に巡錫のみぎり、赤松山に一寺 こうこう にんな を建立し、湖南山楊柳寺と称した。その後、五十八代光孝天皇、仁和三年 ( 八八七 ) に、時の住僧 覚証和尚が、一夜、人麻呂の霊夢を見て、この地に人麻呂の神霊が留まるを感得して、大和国柿本 寺より船乗十一面観世音を勧請し、寺中に観音堂を設け、海上安全を祈り、同時に寺内に人麻呂の 祠堂を建て、寺の鎮守となした、というのが人丸神社の起源であるという。また「柿本大明神縁 起」では、 かぜあしくすで せと 扨、明石の迫門は西海一の難所にて風悪敷已に舟かへさんとせしに御神を祈り丹心に、歌の道 船の道をも守るとて明石の浦に跡たれし神と、読て、其難の遁れし成。 とあるように、人丸神社が明石海峡の水難を守る神として祀られており、あるいは「人丸縁起」な すいじゃく どになると、人丸大明神が十一面観音の化身であり、住吉明神、玉津嶋明神の垂迹でもあると伝え さて 182
注意しておいていいだろう。 仲麻呂はその後の行動を見ても分かる通り、権力志向の強い男である。その男が前年に光明皇后 の推挙があったものか、参議。 こ取り立てられたばかりである。 藤原氏の失地回復もせねばならない。光明皇后にも認めてもらいたい そんな権勢意欲に燃え ているところに、行幸供奉の一行から離れて、わずかな部下に伴われて弱った安積皇子が恭仁京に 帰ってきたのである。そこには大伴家持や市原王などの取り巻きもいない。恭仁京は皆出払ってい て人目を気にすることもない。 それこそ「飛んで火に入る夏の虫」と仲麻呂は思わなかったか。 あるいは「この機会に自分が汚れ役になって、光明皇后の杞憂を払えば皇后に大きな貸しができ るはず」と仲麻呂は計算しなかったか。 この閏正月十三日の恭仁京でいったい何が起きたのかは分からない。脚病で帰って来た十七歳の 安積皇子があっけなく亡くなり、藤原仲麻呂という留守官がそこにいたという事実が残っているだ けで、聖武天皇の唯一の男皇子がこうしていなくなったということである。 その後、仲麻呂は光明皇后の信任を得て、兄豊成を差し置いてとんとん拍子に出世していること も事実である。 ただここで、安積皇子の死と直接関連するかどうかは分からないが、その前にあったもう一つの , り事件も視野に入れておかねばならな」。 によじゅ 一、しお・やき・。。「 ' 積皇子 ヶ月前の天平十四年 ( 七四一 l) 冬十月に正四位下塩焼王、五人の女孺と共