は未成立で、以下の六官を管していたと思われ臣竺羅、誄一一内命婦事「次直廣肆紀朝臣眞人、誄ニ膳職事「〇乙丑、諸僧尼」亦哭一一於 五↓一五二頁注九。 殯庭「是日、直大參布勢朝臣御主人、誄ニ大政官事「次直廣參石上朝臣麻呂、誄一一法 六↓四〇〇頁注一三。十年十二月に「物部連 麻呂」と見え、物部連は + 三年 + 一月朝臣姓を官事「次直大肆大三輪朝臣高市麻呂、誄一一理官事「次直廣參大作宿禰安麻呂、誄ニ大 賜わった。ここは石上朝臣としての初見である が改姓の年時は未詳。石上の名は物部氏の本拠藏事「次直大肆藤原朝臣大嶋、誄ニ兵政官事「〇内寅、僧尼亦發哀。是日、直廣肆 地で同氏が祭祀にあたっていた石上神宮 ( 補注 阿倍久努朝臣麻呂、誄一一刑官事「次直廣肆紀朝臣弓張、誄ニ民官事「次直廣肆穗積朝 ー九 ) の名による。 セ大宝・養老令制の式部省。↓三七六頁注六。 臣蟲麻呂、誄一一諸國司事「次大隅・阿多隼人、及倭・河内馬飼部造、各誄之。〇丁 へ↓三九六頁注一四。 九大宝・養老令制の治部省。↓四四八頁注二 卯、僧尼發哀之。是日、百濟王良虞、代一一百濟王善光一而誄之。次國々造等、隨ニ參 一 0 ↓補注ー二四。 赴一各誄之。仍奏ニ種々歌併「 = 大宝・養老令制の大蔵省に相当するもので、 三蔵の一である大蔵の管理・出納にあたる職の日本書紀卷第廿九 発展したものであろう。↓田雄略紀補注「三蔵」。 一ニ↓補注四ー一六。 一三大宝・養老令制の兵部省。↓四一八頁注四。 一四↓四一八頁注一六。 一五大宝・養老令制の刑部省に相当する官司。 = ( 持統六年三月、天皇の伊勢行幸に際し留守 官となった。 一七大宝・養老令制の民部省。↓四一一九頁注一一 五。天↓四七五頁注三三。 一九↓四五二頁注二七。 ニ 0 ↓補注四ー一三。連姓を賜わっているのに造 とあるのは、馬飼部の伴造としての立場で誄し たことによる。 ニ一郎虞とも書く。義慈王 ( 一三八頁注二一 ) の 孫、善光の子、昌成 ( 四一四頁注二四 ) の弟、敬 福の父。大宝三年八月伊予守となり、天平九年 七月散位従四位下にて没。続紀、天平神護二年 六月条敬福の伝に良虞を「奈良朝廷従四位下摂 津亮」とする。一三↓三六〇頁注二五。 一三↓四二四頁注一一。 天武天皇下朱鳥元年九月
もみいくさ とある。ニ五↓二四四頁注三。左大臣には大化 性肉を食ふが故に持たり。若し官軍の爲にとして、弓矢を儲けたらば、齶田浦 三四 五年四月任。薨時の年齢は公卿補任によると六 よ さづ かみし きょあきらか みかどっかへまっ 十六歳。冠位は続紀、神亀元年六月六日条・天 の神知りなむ。淸き白なる心を將ちて、朝に仕官らむ」とまうす。仍りて恩荷に授 平宝字五年四月九日条によると大繍である。 こほりのみやっこさだ つひありまのはま わたりの せうおっしゃう ニ六引田臣比羅夫。↓三三六頁注四。以下は家 月乙上を以てして、代・津輕、二郡の郡領に定む。遂に有間濱に、渡 毛百八十は単 記による記事。↓補注 % ー一 おは あへ かへしつかは に多数の意。天秋田県秋田市付近。ニ九秋田しま、てみしども 嶋の蝦夷等を召し聚へて、大きに饗たまひて歸す。 県能代市付近。三 0 オセルは遠くから望見する 四 0 さっき みまごたけるのみこみとしやっ いまぎのたにうへ こと。三一雄物川河口付近という。三ニ未詳。 男鹿 (%t) という地名による名との説があるが、 五月に、皇孫建王、年八歳にして薨せましぬ。今城谷の上に、殯を起てて收む。 恩と男とは別音。三三寒風山 ( t) 本山の神その 他付近の地方神と結びつける諸説があるが、特 定の神にあてず、海を支配する神ととるのが自獻二鸚鵡一隻「災二岡本宮「 = 西古代日本人の尊重した精神。清明心と 三年秋七月丁亥朔己丑、覩貨邏國男二人女四人、漂二泊于筑紫「言、臣等初漂二泊于 しては↓一四二頁注一。明直心としては↓二八 四頁注一六。 海見嶋「乃以レ驛召。〇辛丑、作二須彌山像於殘鳥寺西「且設二盂蘭瓮會「暮饗二覩貨 三五大化五年冠位の第十五。↓表一一。 0 九月、有間皇子、性黠陽狂、云々。往ニ牟婁温湯「僞」療」病來、讚ニ = 一上文の齶田・渟代二郡と対照して、この津邏人「羅人。 軽を秋田とする説、今日の青森県の津軽に擬す る説、他の個所での用例から日本海沿岸一般と國體勢一日、纔観一一彼地「病自消、云々。天皇聞悅、思二欲往観「◎是歳、使二々於 する説がある。三七次の渡島の解釈に関連して、 上文の齶田浦の一部とみる説と、青森県の深新羅一日、欲下將 = 沙門智達・間人連御廐・依網連稚子等「付 = 汝國使「令送 = 到大唐「 浦・鰺ケ沢 ( が ) ・十三 ( う ) ( 旧名エルマ、現 新羅不」肯一一聽送「由」是、沙門智達等還歸。西海使小花下阿曇連頬垂・小山下津臣 在の市浦村 ) などの港津に比定する諸説とが分 れる。三八海を渡ったかなたの辺境という意味。 傴僂、確至自 = 百濟一還、獻 = 駱駝一箇・驢二箇「石見國言、白狐見。 ↓補注 % ー一一。三九中大兄皇子と、蘇我倉山田石 川麻呂の娘の遠智娘 ( 2 い ) との子。唖であった。 四年春正月甲申朔内申、左大臣巨勢德太臣薨。 0 夏四月、阿臣、。率 = 船師一 ↓天智七年二月二十三日条。四 0 白雉二年生か。 四一大和志は今木村 ( 奈良県吉野郡大淀町今木 ) 百八十艘「伐二蝦夷「齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞」降。於是、勒」軍、陳二船於齣 の法共良塚 ( しを建王の墓に擬するが、次の 田浦「齣田蝦夷恩荷、進而誓日、不下爲二官軍一故持中弓矢但奴等、性食」肉故持。 詔によれば斉明天皇の陵に合葬されたはず。し かし天智六年二月二十七日条によると陵前に葬若爲 = 官軍「以儲 = 弓矢「齶田浦神知矣。將 = 淸白心「仕二官朝一矣。仂授 = 恩荷「以ニ られたのは建王の姉の太田皇女であった。今城 は我川上流一帯の古名で斉明陸のある奈良県 小乙上、定二渟代・津輕、二郡々領「遂於二有間濱「召二聚渡嶋蝦夷等「大饗而歸。 高市郡高取町もふくむ。 0 五月、皇孫建王、年八歳薨。今城谷上、起」殯而收。 当↓一三〇頁注九。 齊明天皇二年是歳ー四年五月 0 ひととなりししくら つど 4 こころも つかる ま もがりた をさ
( 十九日 ) あめのしたおほみたからもろもろのあしきことな まへつきみたちつかさつかさ みづのとのみのひ 二四。天関東地方の総称。東国総領からの献癸巳に、詔して日はく、「群臣・百寮及び天下の人民、諸惡を作すこと ( 二十三日 ) 上とする説もある。↓補注ー七。 あ ことしたが つみ ひのとのとりのひすめらみことたかやすの もをか 一九師光年中行事・公事根源などにこれを後世 莫。若し犯すこと有らば、事に隨ひて罪せむ」とのたまふ。丁酉に、天皇、高安 の祈年穀奉幣の初めとしているのは当らない。 いでま ニ 0 雅楽寮の歌入・歌女の制度のはじまりか。 地方民衆の芸能が国家によ「て宮廷にとり入れ城に幸す。 三三 三四三五 なまこむてんちう だいけむたいまぼくむま つき せしむちうぐわんだいけむきふさんこむひそ られたことを示す。ここの国名は、催馬楽 ( ) 是の月に、新羅、王子忠元・大監級金比蘇・大監奈末金天沖・第監大麻朴武摩・ の歌詞に含まれる国名とほば一致する。 三九四 0 おくるつかひなまこむふな なまこむかうふく せしむちう みつきたてまっ 一 = 侏儒は滑稽なわざを職とするこびと。伎人 だいさこむらくすゐら は倡優・俳優に同じ。↓一六頁注一七・一八。第監大舍金洛水等を遣して、調進る。共の送使奈末金風那・奈末金孝細、王子忠 一三↓補注四ー一。万葉一三に「十市皇女伊勢の神 宮に参赴りし時、波多の横山の巌を見て吹英刀 卩日、勅日、元來諸家貯二於神府一寶物、今皆還一一共子孫「 0 冬十月丁丑朔乙酉、大來 自 ( い ) の作る歌」があり、左注にこの時の歌皀 とする。この両皇女の伊勢派遣も壬申の乱の際 皇女、自ニ泊瀬齋宮「向一一伊勢訷宮「 の神宮の協力に対する報賽の意味をもつもので あろう。ニ三↓三六八頁注一三。ニ四天智三年二 四年春正月丙午朔、大學寮諸學生・陰陽寮・外藥寮、及舍衞女・墮羅女・百濟王善 月、諸氏の民部・家部を定めたことをさす。 = 五↓三六〇頁注一七。実親王の称の初見。天光・新羅仕丁等、捧二藥及珍異等物一進。〇丁未、皇子以下、百寮諸入拜朝。〇戊中、 皇の兄弟・皇子を示す称。毛採草・狩猟・漁 撈・灌漑等のために占有を禁じたもの。「前後」百寮諸人、初位以上進」薪。〇庚戌、始興ニ占星臺「〇壬子、賜二宴群臣於朝庭「〇壬 については、前を大化改新以前、後を天智朝に おける賜地と解する説がある。↓大化元年八月戌、公卿大夫及百寮諸人、初位以上、射一一于西門庭「是日、大倭國貢 = 瑞鷄「東國貢二 条。天涅槃経その他に「諸悪莫 / 作」の句があ 白鷹「近江國貢一一白鵄「〇戊辰、祭一一幤諸社「 0 二月乙亥朔癸未、勅ニ大倭・河内・ り、聖徳太子の山背大兄王らへの遺言にも見え る。↓一三六頁注一。 = 九↓三六六頁注一一四。攝津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狹・伊勢・美濃・尾張等國一日、 三 0 八月礼終って帰国。 = = 新羅の武官の一。 = = 新羅の官位十七階の第九。↓表二。 = = 他に選二所部百姓之能歌男女、及侏儒伎人一而貢上。〇丁亥、十市皇女・阿閉皇女、參二赴 見えず。 = 西新羅の官位十七階の第十一。↓表二。 = = 他に見えず。 = 一新羅の武官の一。大監につ於伊勢神宮「〇己丑、詔日、甲子年諸氏被」給部曲者、自」今以後、皆除之。又親王 ぐ。毛新羅の官位十七階の第十の大奈麻をさ 諸王及諸臣、井諸寺等所」賜、山澤嶋浦、林野陂池、前後並除焉。〇癸巳、詔日、群 すとする説があるが、むしろ第十二等大舎の誤 りか。↓表二。 = 〈他に見えす。新羅朴姓の初臣百寮及天下人民、莫」作 = 諸惡「若有」犯者、隨」事罪之。〇丁酉、天皇幸 = 於高安 見か。三九新羅の官位十七階の第十二。↓表二。 四 0 他に見えず。巴三月筑紫で饗をうけ帰国。城「◎是月、新羅遣一一王子忠元・大監級金比蘇・大監奈末金天沖・第監大麻朴武 金孝福も行をともにしたのであろう。 当他に見えず。 摩・第監大舍金洛水等一進」調。共送使奈末金風那・奈末金孝送二王子忠↓ 四一七 天武天皇下三年八月ー四年二月 3 き 4 まだ
と な そののちつみ ( 靆の ) 贄古連公とある。 伏ふことを生さむ。後に罪を問ふべし」とまうす。又、奏して言さく、「百濟人謀 ニセ ニ 0 要も須も必の意。スペカラクハという語は、 おも そ まことこ ふねみほちあ つくしうけたまは 為べクアルコトハの意。べカラクのクは、コト りて言はく、『船三百有り。筑紫に請らむと欲ふ』といふ。若し共れ實に請はば、 という意味の古い接尾語。イハク ( 日 ) 、オソラ し おも あらた ゆるしたまふまねしたま かならまめのこわらは ク ( 恐 ) のクと同じ。 subekuaraktl ↓ stlbekara ・ 陽賜予へ。然らば百濟、新に國を造らむと欲はば、必ず先づ女人・小子を以て、 ku. ときのそ きっしま 一 = かえって民力を失い減ばすようなことをす ることがあろうか。だから今、国政を議るべき船に載せて至らむ。國家、此の時に望みたまびて、壹伎・對馬に、多く伏兵を置き ま まういた あざむ かへ つねぬみ 人は、朝廷に仕え奉る臣連伴造国造から、下は 百姓に至るまで、ことごとく皆富み栄えて足らて、至らむを候ちて殺したまへ。翻りてな詐かれたまひそ。毎に要害の所に、堅く ない所はないようにせよ。翻はあべこべ、反対 の意。合は当の意。名義抄にペシとある。 = = 臣と連は一般に上流の氏のもっ姓 ( 3 、伴參官・柁師德率次干德・水手等、若干人「日羅等行一一到吉備兒嶋屯倉「朝庭遣二大伴 造はおもに中央の中下流の氏、国造は地方の有 糠手子連「而慰勞焉。復遣一一大夫等於難波館「使」訪二日羅「是時、日羅被」甲乘」馬、 カ豪族。「臣連伴造国造 ( または国造伴造 ) 」の 語で中央・地方の大小の諸豪族を総括すること 到二門底下「乃進一一前「進退跪拜、歎恨而日、於二檜隈宮御寓天皇之世「我君大伴 が、とくに七世紀前半ころに多くみられる。↓ 二〇三頁注二四。 金村大連、奉二爲國家「使一一於海表「火葦北國造刑部靫部阿利斯登之子、臣達率日羅、 ニ三大化元年七月十三日条にも「以レ悦使 / 民之 聞一一天皇召「恐長來朝。乃解二共甲「奉一一於天皇「乃營一一館於阿斗桑市「使」住一一日羅「 路」三七二頁一五行 ) の語がある。 一一四隣国からの使人。 = = 百済最高の執政官か。欽明四年十一月・十供 = 給隨 , 欲。復遣 = 阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連「而問二國政於日羅「々々 二月条では上・中・下の佐平を三佐平と呼んで寸、 当言天皇所三以治一一天下一政、要須護 = 養黎民「何遽興」兵、翻將失減。故今合下議者 いる。↓表一。 、二造者、澱下及二百姓「悉皆饒富、令去無」所」乏。如此三年、足 = 六任那の復興に協力的でない百済の罪。この仕二奉朝列「臣連二造 ころの百済は、任那の旧地を新羅から奪って自 領を拡大することを目標としていた。 」食足」兵、以レ悅使」民。不レ憚一一水火「同恤一一國難「然後、多造一一船舶「毎レ津列置、使 毛通証は船三百隻の人員が日本に投化したい 」観二客人「令」生二恐懼「爾乃、以二能使一使一一於百濟「召二共國王「若不」來者、召二共 と称して筑紫に居住地を請うの意とする。とに かくこれは百済のわが九州方面への勢力拡張策 太佐平・王子等一來。印自然心生一一欽伏「後應レ問」罪。又奏言、百濟人謀言、有一一船三 であろう。 天陽はうわべをいつわること。ィッハリテワ 百「欲」請二筑紫「若共實請、宜陽賜予。然則百濟、欲二新造國、必先以一一女人小子一 レニタマフペシともよめる。古訓にユルシタマ フマネニシタマへとある。マネニスという訓は 載」船而至。國家、望二於此時「壹伎・對馬、多置一一伏兵「候」至而殺。莫一一翻被詐。 平安中期以後のものらしいので、マネスと訓む。 ニ九ヌミはヌマともいう。↓ 九〇頁注四。 毎於一一要害之所「堅↓ 一四五 敏達天皇十二年是歳 したが の まういた みかど ころ こ 4 ニ九 おほかくしいくさお ところ くだらびとはか
日本書紀 五五四 訓があり、上王の左訓に、アスメスオリコケとある。いずれが正しいか決姓、達率は官位 ( 二品 ) 、怒俐斯致契は名と解されるが、これを一つのもの し難い。なお、この前のところ、高麗細群に、コマコクソリサイクムと傍とすることに問題がある。まず「西部」は、別表七、百済の五部の一種 訓があるのは注意すべきである。 ( 東・西・南・北・中部 ) の中のものではあるが、この当時 ( 欽明朝Ⅱ百済 一 0 クノオリクク ( 中夫人 ) ( 九五頁注二六 ) ・ヨモ ( 子 ) ( 九五頁注二七 ) ・オリコケ 聖王代 ) 実在した五部は、書紀による限り、他の一種 ( 上・下・前・後・中 ( 王 ) ( 九五頁注二八 ) ・コクオリコケ ( 狛王 ) ( 九五頁注一一九 ) ・マカリオリクク部 ) であったことが確かであるから、二〇例中唯一人この使者 カ種の ( 正夫人 ) ( 九五頁注三〇 ) ・マカリョモ ( 世子 ) ( 九五頁注三一 ) ・シソオリクク部名を持っていたことは疑わしい。次にその姓「姫氏」は、百済人の姓と ( 小夫人 ) ( 九五頁注三三 ) 周書、百済伝に「王姓夫余氏、号二於羅瑕「民呼しては書紀にも三国史記にも全く見えぬ。けれどもそれだけで疑うことは 為二腱吉支一夏言竝王也、妻号二於陸一夏言 / 妃也」とある。韃はコンであ できぬ。疑うべきは、書紀を通じて、ここでのみ姓と名とを切りはなして るから、吉支はコンキシであり、王をコニキシと訓むのと一致する。コ 「氏」字を添えたことである。官位「達率」は、他例が多いから、疑うべ ニは大を意味し、キシは君を意味する。従って鞋吉支は大君で、王にあた きものが全くない。名の「怒俐斯致契」は、そのまま信ずるほかないが、 る。コニキシはコンキシと同じ。コキシとあるのも、生〈際にはコンキシで 或は怒俐斯が姓で致契が名かもしれない。要するに、 この仏教を伝えた使 ある。中古の片仮名表記では撥音表記は統一されていなかったので、しば者の名には、後世の造作が加えられた可能性が強い。 しば無表記のままになっているものがある。於羅瑕はオラケと訓むべく 一ニ以二仏像一流二棄難波崛江一 ( 一〇二頁注一六 ) 誓紀のこの記事では、疫病の 多少の相違があるが、オリコケと対応するものと見られる。於陸は、オロ おこったその年に仏像を堀江に流したように記してあるが、元興寺縁起で ク、オルクまたはオリクで、オリククとあるのに対応する。これを朝鮮語 は「乙丑年 ( 欽明三十年にあたる。一二八頁注一 l) 稲目大臣薨已後、余臣等 で試みに解釈すれば、訓蒙字会に嫁をör ・娵をとある。このという 共計弖、庚寅年焼一一切堂舎仏像経教一ヲ、流二於難波江一也」とあって、稲目 語は男女交合の意であり、オリク・オロクとあるのは、そういうことをす の死をその機縁としている。 る女の意、つまり夫人・妻の意であろうか。コニオルクはコン、オロクと一三瀝 / 胆抽レ腸 ( 一二〇頁注一五 ) ともに心をつくすこと。瀝はシタタラス意。 同じであるから、王后の意となる。 下二段活用の動詞シタッの連用形シタテ、胆をぬいてしたたらせること。 マカリョモ・マカリオリククにおけるマは、訓蒙字会に、上を metei と 抽腸も、腸をぬき出すこと。誠意をつくすこと。出典は一二〇頁注一参照。 あり、月印釈譜に長を mes, mut とある。そのマではなかろうか。マカリ のカリは、 met-har の h を、当時、ハ行音を P で発音した日本語では、 カリと写したものではなかろうか。してみると、マカリは m ・ゴの音 写であり、「上の」とか「長の」とかの意となる。つまり、マカリオリク ク ( 正夫人 ) ・マカリョモ ( 世子 ) のマカリとは、右のような意味のものと考 えてはどうか。ョモは子の意であろう。 シソオリクク ( 小夫人 ) のシソは欽明二年四月 ( 七〇頁五行 ) に、中佐平を シソサヘイと訓むところがある。小と中と混同があるらし、。、、 カシソのシ は、 sui の意で、小さいとか、妾とかの意ではなかろうか。それで、小夫 人の小にあたるところに使われているのではなかろうか。ただし、これら の語は、高句離語であろうから、朝鮮語によって解決することは、なお大 きい間題があるが、従来これを解することがほとんどなかったので試案と して記すのである。 = 西部姫氏達率怒鯏期致契 ( 一〇〇頁注一七 ) 西部は百済五部の一、姫氏は
四四四 日本書紀卷第二十九 ためちか すなは きさぎみやまひ ひつじのひ 一↓補注四ー一五。 未に、皇后、體不豫したまふ。則ち皇后の爲に誓願ひて、初めて藥師寺を興つ。 一一↓補注四ー一。 ひ つみびと え みやまひい ももたりのほふしいへで = 大化元年八月十師・百済寺寺主とな。た恵仍りて一百僧を度せしむ。是に由りて、安平ゆること得たまへり。是の日に、罪を ( 十六日 ) 妙か。白雉五年二月条に見える学問僧恵妙とは ゑめうほふしやまひと くさかべのみこ ひのとのゐのひ 別人。 赦す。丁亥に、月蝕えたり。草壁皇子を遣して、惠妙僧の病を訊はしめたまふ。 三十四日 ) 四 四未詳。草壁・大津・高市の三皇子か。 しらぎ きのとのひつじのひ みう すなはみはしらみこ くるつひ 五新羅の官位十七階の第八。↓表二。 明日、惠妙僧終せぬ。乃ち三の皇子を遣して弔はしめたまふ。乙未に、新羅、 六十年六月筑紫にて饗禄をうけ、八月帰国。 みつきたてまっすなはことならひひとみたりにやくひっしたが ささんこむにやくひつだいなまこむぐゑんせうまだ 金原升も行をともにしたのであろう。 沙金若弼・大奈末金原升を遣して、調進る。則ち習言者三人、若弼に從ひて至 七新羅の官位十七階の第十。↓表二。 三十六日 ) しばらく ももたりのはふしいへで ひのとのとりのひすめらみことみやまひ へ他に見えず。 。丁酉に、天皇、病したまふ。因りて一百僧を度せしむ。俄ありて愈えぬ。 九日本語を学習する者の意であろう。 ( 三十日 ) いぬゐのかたわた 一 0 ↓四三二頁注五。 かのとのうしのひ = アカツはワカツ。マダスは参出す意。参向辛丑に、臘子鳥、天を蔽して、東南より飛びて、西北に度れり ( 三日 ) ( 二日 ) する意。 いはひのみてぐらもろもろあまっかみくにつかみあかちまだみづのとの はるむつきかのとのひつじついたちみづのえさるのひ 。↓二八〇頁注二。 一ニ賀正の礼 十年の春正月の辛未の朔壬中に、幤帛を諸の神祇に頒す。癸 一四 ( 七日 ) 一三↓四三九頁注二八。 むかひのこあんどのおはしまとよのあかり ひのとのうしのひ とりのひっかさつかさひとびとみかどをがみ 一四正月七日の節会。↓補注ー八。 酉に、百寮の諸人、拜朝庭す。丁丑に、天皇、向小殿に御して宴したまふ。 一五・ = 〈未詳。いずれも内裏の殿舎か。↓補注 ともおほみきをめ まへつぎみたちみなとのあんどの みこたちおほきみたちうちのあんどのめし 是の日に、親王・諸王を内安殿に引人る。諸臣、皆外安殿に侍り。共に置酒して 一七三月帝紀および上古諸事の記定に参加。雄 かばねたま せうきむげのくらゐさづ だいせんじゃうくさかべのきしおほかた 略十四年四月条に、難波吉士日香香の子孫に大 草香部吉士の姓を賜わ「たとある。難波吉士樂を賜ふ。則ち大山上草香部吉士大形に、小錦下位を授けたまふ。仍りて姓を賜 ( 十一日 ) 一八 よさ むそへ かのとのみのひさかひべのむらじいはつみみことのり ( 五五頁注三一 ) の一枝氏で、難波にあって日下 ひて難波連と日ふ。辛巳に、境部連石積に勅して、六十戸を封したまふ。因り 部を管掌し、海上交通にも従事した氏であろう。 ( 十七日 ) ひのとのるのひ 草香部吉士は十一一年十月連姓を賜わり、難波連 ふとぎぬみそむらわたももあまりいそはかりぬのももあまりいそむらくはももわたま 氏は十四年六月忌寸姓を賜わ。た。姓氏録ではて絶三十匹・綿百五十斤・布百五十端・钁一百口を給ふ。丁亥に、親王より ( 十九日 ) あまつやしろくにつ 河内皇別に難波忌寸を載せ、大彦命の後とする。 うちつくにおよくにぐにみことのり っちのとのうしのひ かみつかたみかど しもっかたせうこん 一〈↓三一八頁注四八。十一年三月条の「新字」以下、小建より以上、朝庭に射ふ。己丑に、畿内及び諸國に詔して、天社地 編纂に関しての賜封か。 やしろかみみやをさめつく 一九↓二八一一頁注六。 社の神の宮を修理らしむ。 ニ 0 大射。↓三〇〇頁注二四。 ( 二十五日 ) きさきもろともおほあんどのおは きのえねのひ きさらぎかのえね 一 = 諸国の神社の社殿。 二月の庚子の朔甲子に、天皇・皇后、共に大極殿に居しまして、親王・諸王及 一三政務を行なう朝堂の正殿。その存在が確認 のりあらた またのりのふみさだ まへつきみたちめ されるのはこの飛鳥浄御原宮が最初。↓二六一一 び諸臣を喚して、詔して日はく、「欣、今より更律令を定め、法式を改めむと欲ふ。 頁注一一。 ゆる うたまひたま なにはのむらしい あとりあめかく つきは のたま これよ たつみのかた われ よ つかは と とぶら 0 やくしじ みこたちおほぎみたち よ た まうけ
みつきたてまっ きしせしむあさ ひのとのうしついたぢ 0 び 書紀の古訓では沈水でヂムとい 0 た ( 岩崎本以 五年の夏四月の丁丑の朔に、百濟の王、王子阿佐を遣して朝貢る。 ニ三 ( 二十二日 ) ニ四 下すべてヂムとある ) 。 きしいはかねしらきっかは みづのとのとりついたちきのえうまのひ 一四養老廐牧令に「周三尺為 / 囲」とある。 冬十一月の癸酉の朔甲午に、吉士磐金を新羅に遣す。 一五三国仏法伝通縁起に三論・成実の学僧で太 なにはのもり かささぎふたったてまっ なにはのきしいはかね 子の師という。元亨釈書に崇峻元年三月来朝と 六年の夏四月に、難波吉士磐金、新羅より至りて、鵲二隻を獻る。乃ち難波社 するのは恵総 ( 一六八頁注一 ) と混同したのであ ぎのえたすく ろう。 一一弘は弓を肱 0 一杯に張る意。演は引に同じ。に養はしむ。因りて枝に集ひて産めり。 しらき くさくひとったてまっ あきはつぎっちのとのゐついたちのひ 長く流れる意。よって、教えをひろめる意。 宅棟は屋根をうける骨組をなす横木。梁は家秋八月の己亥の朔に、新羅、孔雀一隻を貢れり。 屋の大梁。棟梁は骨組み。 天崇峻四年十一月差遣の紀男麻呂以下をさす。 且習一一内教於高麗僧慧慈「學ニ外典於博士覺哿「並悉達矣。父天皇愛之、令」居一一宮南 四年以来、筑紫に陣し、この年引き上げたもの。 一九大臣は蘇我馬子。元興寺縁起所引丈六光銘上殿「故稱一一共名「謂一一上宮廐戸豐聰耳太子「〇秋九月、改一一葬橘豊日天皇於河内磯長 に「巷哥有 ( 「明」脱か ) 大臣長子名善徳為 / 領、 陵「◎是歳、始造一一四天王寺於難波荒陵「◎是年也、太歳癸丑。 以建ニ元興寺ことある。 ニ 0 寺司の語は大化元年八月八日条にも見える。 二年春二月丙寅朔、詔二皇太子及大臣「令」興一一隆三寶「是時、諸臣連等、各爲一一君親 一 = 威徳王か。威徳王↓一〇六頁注五。 = = 未詳。御物の太子画像はその筆と伝えられ之恩「競造一一佛舍「印是謂」寺焉。 るが、実は七世紀後半以後の作品。 = = 諸本みな甲子とあるが、癸酉朔とすると甲三年夏四月、沈水漂 = 着於淡路嶋「共大一圍。嶋人不」知 = 沈水「以交」薪燒 = 於竈「共 子は五十二日にあたるので、甲午の誤であろう 烟氣遠薫。則異以獻之。 0 五月戊午朔丁卯、高麗信慧慈歸化。則皇太子師之。◎是 とい、つ。 = 0 難波吉士磐金にも作る。この後、推古三十歳、百濟僧慧聰來之。此兩僧、弘一一演佛教「並爲一一三寶之棟梁「〇秋七月、將軍等至 一年にも新羅に使した。皇極元年二月に百済弔 」自一一筑紫「 使を迎えた草壁吉士磐金と同一人か否か未詳。 ニ五前行の磐金のこと。難波吉士↓五五頁注三 四年冬十一月、法興寺造竟。則以一一大臣男善德臣一拜一一寺司「是日慧慈・慧聰、二信、 = 六和名抄に「本草云、鵲、且略反、加佐々岐」始住一一於法興寺「 とある。 毛通証・集解は摂津志により東生郡森村の森五年夏四月丁丑朔、百濟王遣 = 王子阿佐一朝貢。 0 冬十一月癸酉朔甲午、遣 = 吉士磐 神祠 ( 今、大阪市城東区森町 ) とし、通釈は同郡 金於新羅「 生国魂神社 ( 今、天王寺区生玉町所在 ) とする。 天和名抄に「孔雀〈俗云音宮尺〉」。↓大化三年六年夏四月、難波吉士磐金、至自一一新羅「而獻 = 鵲二隻「乃俾」養一一於難波社「因以 是歳条。 集」枝而産之。 0 秋八月己亥朔、新羅貢一一孔雀一隻「 一七五 推古天皇元年四月ー六年八月 こう すなは
日本書紀卷第二十九 四七二 ( 十九日 ) おほのあそみほむち うねめのあそみつくらふちはらのあそみおほしますべ とたり おほみそおほみはかまたま みづのえいぬのひ 一↓補注 % ー九。ニ↓四四七頁注三八。 多朝臣品治・采女朝臣竹羅・藤原朝臣大嶋、几て十人に、御衣袴を賜ふ。壬戌 四 三中臣連大島 ( ↓補注ー一六 ) 。藤原朝臣とし 五 ひつぎのみこ しもっかたおよおほきみたちまへつきみたちあはせよそあまりやたり かましし ての初見。四草壁皇子。↓補注ー一。 に、皇太子より以下及び諸王卿、井て四十八人に、羆の皮・山羊の皮を賜ふ。 五↓三三六頁注六。 三十日 ) 三十四日 ) おのおのしなあ みづのとのゐのひ つかは みつかひらかへ ひのとのうのひすめらみことみやまひ 六↓二四九頁注二七。以上の賜物は十八日の 各差有り。癸亥に、高麗國に遣せる使人等還れり。丁卯に、天皇の體不豫し 博戯の結果によるものか。七十三年五月発遣さ 九 ため きゃうだいくわんだいじ よ かはらでらあすかでら いねも れた大使三輪引田難波麻呂らの一行。 たまふが爲に、三日、經を大官大寺・川原寺・飛鳥寺に誦ましむ。因りて稻を以て 八↓二年十二月条。九↓補注ー三一。 三十七日 ) みってらをさ 一 0 ↓補注幻ー八。 = 他に見えず。三食封 ( ↓ かのえうまのひおのづからにまう こまびとら 補注叩一一 ) を三十戸賜わること。一 = 十一月三の寺に納めたまふ。各差有り。庚午に、化來ける高麗人等に、祿賜ふこと各 益田金鍾とともに白朮の煎を献じる。持統六年 二月陰陽博士として銀二十両を賜わった。 差有り ( 四日 ) 一四俗人の男性で仏教を信奉し、五戒を守る者。 ふゆかむなづきみづのとのとりついたちひのえねのひ くだらほふしじゃうくゐみそへ 一五東大寺の前身となった金鐘寺と関係ある者 冬十月の癸酉の朔丙子に、百濟の僧常輝に三十戸を封したまふ。是の僧、 ( 八日 ) か。また霊異記中第二十一話の説話に見える金 いのちももとせかのえたつのひ ほふしほふざう うばそくますたのあたびこむしようみの つかは をけら 熟行者はこの人物の伝説化したものとも考えら 壽百歳。庚辰に、百濟の僧法藏・優婆塞益田直金鍾を美濃に遣して、白朮を煎し れる。一六キク科の多年生草本。蒼朮・白朮の ( 十日 ) ふとぎぬわたぬの みづのえうまのひ かるべのあそみたるせたかたのおびとにびのみあらたをのむらじま 二種があり、煎じて薬用にする。胃の薬。 む。因りて絶・綿・布を賜ふ。壬午に、輕部朝臣足瀨・高田首新家・荒田尾連麻 一七他に見えず。一八↓補注ー一九。 ( 十二日 ) しなの つかは かりみやっく けだ つかまのゆ おも きのえさるのひ 一九他に見えず。元年七月三日条に荒田尾直赤ろ 呂を信濃に遣して、行宮を造らしむ。蓋し、東間温湯に幸さむと擬ほすか。甲中 麻呂が見える。 じゃうだいしはっせのおほぎみちきくわうしこせのあそみうまかひまつりごとひと 一一 0 東間は信濃国筑摩郡。長野県松本市の浅間 しもっかたあはせはたたり 温泉かという。一 = ↓四五八頁注四。 に、淨大肆泊瀨王・直廣肆巨勢朝臣馬飼・判官より以下、井て二十入を以て、 ( 十七日 ) 一三他に見えず。ニ三都城の地を選ぶ事業か。↓ うちつくにえだちよさ っちのとのうしのひ せのおほきみら 十二年十二月条・十三年二月条。 畿内の役に任す。己丑に、伊勢王等、亦東國に向る。因りて衣袴を賜ふ。是 一西↓四六〇頁注一〇・一七。 つぎ こむがうはんにやきゃうみやのうちと = 五↓補注ー七。十二年十二月に開始された諸の月に、金剛般若經を宮中に説かしむ。 ( 二日 ) 国国界画定事業の継続であろう。↓十二年十一一 しもっきみづのとのう きのえたつのひ まうけくろかねよろづはかり すはのすぶるをさもとっかは 月条・十三年十月条。 十一月の癸卯の朔甲辰に、儲用の鐵一萬斤を、周芳總令の所に送す。是の日 実後秦の鳩摩羅什訳の金剛般若波羅蜜経一巻。 ニ九 つくしのおほみこともちまうけものふとぎぬももむら みももむらちからぬのよほきだ くろがね 毛官庁で必要とする物品。天続紀、文武四年 に、筑紫大宰、儲用の物、絶一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鐓 十月条に周防総領が見える。↓四三四頁注一二。 ( 四日 ) よ ) つづはかりやのしのふたちむらまう ひのえうまのひ つくしつかはくだ くにみことのり ニ九↓補注ー一一九。 = 0 ↓二八一一頁注一九。常は庸布の長さの単位一萬斤・箭竹二千連を請す。筑紫に送し下す。内午に、四方の國に詔して日はく、 おほゆみいしはじきたぐひわたくしやけお で大宝令では一丈三尺。↓四二四頁注一三。 三一矢に用いる竹。 「大角・小角・鼓・吹・幡旗、及び弩・抛の類は、私の家に存くべからず。咸 0 つづみふえ こまのくに ニ七 またあづまのくにまか いでま よさ ころもはかま こ のたま ことごとく ほふし こ
なすでさぎのすめらみことぎこえま ) すなはまへつきみたち 五月に死んだ。島大臣ともいう。↓推古三十四 かな、此の使人等、名既に先考天皇に奏聞せり」とのたまふ。乃ち群臣を相樂の ( 十五日 ) 年五月条。 ひのえたつのひ つかは みやこおく 一三彦人大兄皇子をさすか。彦人大兄皇子↓一 館に遣して、獻る所の調物を檢へ録して、京師に送らしめたまふ。内辰に、天皇、 三八頁注五。 よ もろもろふびとめ ふみ 一四前年に越 ('-D の海岸に漂着した高句麗の国使。 高麗の表疏を執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸の史を召し聚へて、讀み解かし ↓欽明三十一年四月ー三十二年三月条。 とき あた ここふねのふびとおやわうしんに 一五↓欽明三十一年四月条。ムロッミ↓二六頁 む。是の時に、諸の史、三日の内に、皆讀むこと能はず。爰に船史の祖王辰爾有り 注一七。 一六以下「此使人等」までは、金光明最勝王経捨 く讀み釋き奉る。是に由りて、天皇と大臣と倶に爲讚美めたまひて日はく、 身品に類似の文がみえる。ニへサ↓七八頁注一て、育一 = 五。 宅愀は愁に同じ。悲しみに心を動かされて。 アョクは揺れ動く意。出雲国風土記、大原郡阿 用郷の条に「竹葉動之 ( ) 」とある。 日本書紀卷第廿 天先考は亡父。欽明天皇をさす。 一九国書。 渟中倉太珠敷天皇敏達天皇 = 0 フビトはフミヒトの約。 FumiFito—>Ft1tnbi ・ to—Fubito ・ここの史は姓 ( ) ではなく、文筆渟中倉太珠敷天皇、天國排開廣庭天皇第二子也。母日 = 石姫皇后「 2 斌礦天皇 による業務を専鬥職とする氏の人々の意。その ほとんどは帰化人の子孫で、ふつう史 ( 鬱の姓不信二佛法「而愛二文史「廿九年、立爲二皇太子「 0 卅二年四月、天國排開廣庭天皇 を有した。多く大和と河内に居住していたので 東西 ( しの諸史とも呼ばれ、大和では東漢 ( 崩。 0 氏の一族である文直 ( じが、河内では王仁 の子孫と称する文首 ( ) がそれぞれ中心的地元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子印天皇位。奪一一皇后一日二皇太后「◎是月、宮二于百濟 位を占めていた。 = 一欽明十四年七月条に王辰爾が船史の氏姓を大井「以二物部弓削守屋大連一爲二大連一如」故。以二蘇我馬子宿禰一爲二大臣「 0 五月壬 一〇四頁注一八。 与えられた記事がある。↓ 一三百済系の帰化人。↓一〇四頁注一六。 寅朔、天皇問三皇子與一一大臣一日、高麗使人、今何在。大臣奉對日、在二於相樂館「天 皇聞之、傷惻極甚。愀然而歎日、悲哉、此使人等、名既奏二聞於先考天皇一矣。乃遣一一 群臣相樂館「檢一一録所」獻調物「令」送二京師「〇丙辰、天皇、執一一高麗表「授ニ於大 臣「召二聚諸史「全一讀解一之。是時、諸史、於一一三日内「皆不」能」讀。爰有一一船史祖王 辰爾「能奉一一讀釋「由」是、天皇與ニ大臣一倶爲讚美日、 敏達天皇印位前紀ー元年五月 よ つかびら たてまっところみつぎものかむがしる と とっかへまっ これよ うち さづ みな とも つど のたま と
三 0 せしむほうしゃうさづ おはしまおりもののかうぶりも ながづぎ = 0 天武六年十月に民部卿。大化二年三月十九九月に、皇太子、長津宮に御す。織冠を以て、百濟の王子豐璋に授けたまふ。 日条の河辺臣百依 ( 二八八頁一〇行 ) の依はア行、 すなは またおはのおみこもしきいろどめにあは この百枝の枝はヤ行で別音。河辺臣↓一一三頁復多臣蒋敷の妹を妻す。乃ち大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津を遣して、軍 注七。一 = ↓注一八。 ふくしんむか もとっくにまもおく いっちちあまりゐ 一三↓三三六頁注四。比羅夫までの三人は花位、 五千餘を卒て、本鄕に衞り送らしむ。是に、豊璋が國に人る時に、疆信迎へ來、稽首 すなわち後の五位以上にあたるので、名を先に みなことごとくゆた くにまつりごとあげ し姓を後にする尊称法で記している。 みて國朝の政を奉て、皆悉に委ねたてまつる。 ニ三他に見えない。物部連↓補注跖ー一〇。 こまのくに さむ しはす = 四↓三三四頁注一五。 十二月に、高麗の言さく、「惟の十二月に、高麗國にして、寒きこと極りて凍 = 五阿倍比羅夫の発遣は二年三月条にも見える。 しかし、これは重複でなく、この時の本軍は発 遣されず、後に再編成されたのであろう。 実救援軍の必要とする武器・食糧。元年正月 日本書紀卷第廿七 条・三月条にみえるものとは別か。 毛元年十二月条の狭井連も同じ人。狭井連は 物部連の同族。天武十三年十二月に宿禰と改姓。天命開別天皇天智天皇 姓氏録の左京・山城・大和の神別に、饒速日命 天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也。母日一一天豊財重日足姫天皇「天豊財重日 の六世の孫、伊香色乎命の後とする。 天↓二七七頁注四九。 = 〈百済王豊璋のこと。二年八月十三日条でも足姫天皇四年、讓一一位於天萬豐日天皇「立 = 天皇「爲 = 皇太子「天萬豐日天皇、後五年 百済王を略して百済とだけ書く。 = 0 大化五年一一月制定の織冠か。百済を日本の十月崩。明年、皇祖母奪印天皇位。 0 七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。◎是月、 属国とみなしている。 = = ↓二二八頁注一三。 = = 和州五郡神社神名帳大略注解に引く久安五蘇將軍與一一突厥王子契芯加力等「水陸二路、至一一于高麗城下「皇太子遷 = 居于長津宮「 年多神社注進状には、太安麻呂の祖父とする。 多臣は天武 + 三年 + 一月に朝臣と改姓、綏靖即稍聽 = 水表之軍政「 0 八月、遣 = 前將軍大花下阿曇比邏夫連。小花下河邊百枝臣等、 位前紀・姓氏録、左京神別に、神武皇子神八井 後將軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等「救一一於百濟「 耳命の後とし、これを多神社に祭る。 三 = 一↓補注炻ー三。 。或本、績 = 此末芸、別使 = 大山下狹井連 0 九月、皇太子御ニ長津宮「以二織冠「 三四鬼室福信。↓三四五頁注三六。 仍込二止 ( 仗・五双一檳榔・小山下秦造田來津「守 = 護百濟→ 三五以下十二月条の原史料は道顕の日本世記か。 = = ( 沮は川の名。史記、朝鮮伝では鴨緑江、新旧授 = 於百濟王子豐璋「復以一一多臣蒋敷之妹一妻之焉。乃遣 = 大山下狹井連檳榔。小山下 唐書、高麗伝では大同江をいう。いずれにせよ 代表的な大河であるから、古訓では、これを = 秦造田來津「卒二軍五千餘「衞 = 送於本鄕「於是、豐璋入」國之時、信迎來、稽首 と訓んでいる。海外史料によると、この冬はと 奉一一國朝政「皆悉委焉。 0 十一一月、高麗言、惟十一一月、於一一高麗國「寒極汨凍。 に寒く、鵯緑江・大同江共に凍結した。 天智天皇印位前紀 とき えこは