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検索対象: 日本古典文學大系68 日本書紀 下
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1. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

吉備国守天武元年六月 一倭河内馬飼部造朱鳥元年九月 ~ 兵庫職朱鳥元年九月 一左右 ~ 呆職持統三年七月 天武 + 四京職 一京職大夫年三月 - 摂津職大夫天武六年 + 月 大宰府天武六年 + 一月 筑紫大宰府天智 + 年 + 一月 天武元筑紫大宰天武五年九月・同六年十一月・ 同 + 一年四月・同年八月・同 + 筑紫大宰駟筑紫大宰率統六年 筑紫巾天緡 + 筑紫大宰年六月 二年正月・同十四年十一月・持統元年四 同八年四月・ 月・同年九月・同三年正月・同年六月 同九月 筑紫総領駟 筑紫大宰帥持統三年閨八月 大弐文武四年十月 筑紫大宰府典持統五年正月 吉備大宰「肭備後国司年三月吉備総領文武四年 + 月 周芳総令所天武十四年十一月 周防総領文武四年 + 月 伊予総領持統三年八月 伊予国司持統五年七月 東宮大傅持統十一年一一月 春宮大夫・亮持統 + 一年一一月 付表・付圖 京職文武三年正月 馬部 右兵庫寮 京職 京職大夫 摂津職大夫 大宰府 大宰帥 伊予守 東宮傅 春宮大夫・亮 大宰大弐 大宰典

2. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第三十 一続紀、文武元年条に「八月甲子朔、受禅即 位」とある。朔日干支が異なるのは、書紀が元 嘉暦によって七月を大の月、続紀が儀鳳暦によ って七月を小の月としたためといわれる。八月 一日践祚は確実であろう。 ニ文武天皇。懐風藻などによると没年は二十 五歳であるから、この時は十五歳。立太子のこ とは、本紀では二月二十八日条の記事から、そ の日以前であろうと推定されるのみであるが、 続紀に「高天原広野姫天皇十一年、立為二皇太 子こ、また釈紀の引く私記に「王子技別記日、 文武天皇少名珂瑠皇子。天武天皇皇太子草壁皇 子尊之子也。持統天皇十一年春一一月丁卯朔壬午 〈十六日也〉、立為ニ皇太子ことある。 五三四 はつぎきのとのうしついたちのひすめらみことみはかりことおほ ) ちさだ くにさ 八月の乙丑の朔に、天皇、策を禁中に定めて、皇太子に禪天皇位りたまふ。 日本書紀卷第三十 ひつぎのみこ

3. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

大蔵省天智十年十一月 大炊省天智十年是歳 日本書紀 - 兵政官大輔天武四年三月 ( 刑官朱鳥元年九月 ~ 刑部大卿小野毛人墓誌 ( 判事持統三年二月 一解部持統四年正月 一大蔵省朱鳥元年正月大蔵朱島元年九月 ~ 宮内官天武十一年三月宮内朱鳥元年九月 ~ 宮内卿天武九年七月 ~ 宮内官大夫天武 + 一年三月 - 膳職朱鳥元年九月 - 外薬寮天武四年正月 ~ 医師朱鳥元年正月 奉膳持統元年正月 膳夫天武十一年三月膳部持統元年正月 糺職大夫天平 + 四年 + 一月 一左右兵衛朱鳥元年九月 - 兵衛持統三年七月 刑部省持統四年正月・同六年正月 判事大宝元年正月 医博士持統五年十二月 呪禁博士特統五年 + 二月 右兵衛率大宝元年正月 兵部大輔 刑部省 刑部卿 少中判事 鍬中解部 大蔵省 宮内省 宮内卿 大膳職 大炊寮 典薬寮 医博士 医師 呪禁博士 内膳司 奉膳 膳部 弾正尹 社兵衛府 右兵衛率 兵衛 馬寮

4. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

太政大臣天智 + 年正月 懐風藻大友皇子伝 左大臣天智十年正月・同十一月・ 天武即位紀・同元年八月 右大臣懿髜【聾← 御史大夫天智ト年正月・ 慶雲一一年七月大納言蹶一 前紀・同元年八月・天平 宝字六年七月・万葉一 0 = 中納言天平勝宝五年三月 少納言天平元年八月 日本書紀 表一ニ近江令・浄御原令官名 一、本表はいわゆる近江令・浄御原令の施行期間に見える官名を、大宝令の官名に対照したものである。 一、地方官の国司・郡司以下は省いた。 一、近江令官制の施行は天智十年正月、浄御原令官制の施行は持統四年七月、大宝令官制の施行は大宝元年三月とした。 一、近江令時代は、後世の文献に「近江朝御史大夫」「飛鳥朝京職」などと、天皇の治世に係けて記すものがあるので、天智朝と天武 朝・持統朝初期とに分かった。 一、官名の下に注記した出典のうちで、書紀・続紀に見えるものは、該当年月を注記するにとどめた。 江 時 代 浄御原令時 天武朝ー持統朝初期 持統五年十一月・同六年九月を - 神官九・同六一肛神祗官神祇官 同八年三月・文武二年十一月 神祇伯盟・神祇官 - 太政朱鳥元年九月・持統三 れ年五月・小野毛人墓誌 太政大臣持統四年七月 左大臣文武四年正月・ 大宝元年三月 右大臣持統四年七月・同五年十二月・ 同十年十月・大宝元年正月 大納一一「〕持統十年十月・大宝元年正月・ 同三月・懐風藻中臣大島伝 中納一言持統六年二月・同三月・大宝元 小納一一「ロ威奈大村慕誌 左大弁大宝元年正月 持統八年七月・文武三年三 巡察使 月・同十月・同四年二月 監物持統七年四月下物職大宝元年二月 天智 近 大弁官笋三月・采女竹良墓誌 納言持統元年正月 少納言 大弁 巡察使 中務省 大中監物 少 大宝令 神祇官 神祇伯 太政官 太政大臣 左大臣 右大臣 大納言 六一一四

5. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第十九 ありひしのから とくことんた たたあまたとせ 一「ナ欺カレソ」という表現は丁寧な禁止。多詔勅を以て、南加羅・喙己呑を立てよと勸めたまふこと、但數十年のみに非 く女性の使う表現。 = 上文に、すでに秋七月と しらきもはらみことのりうけたまは ところ またそすめらみこと あるので、通証はこの秋七月の三字を衍字かと ず。而るを新羅、一に命を聽らざること、亦卿の知れる所なり。且夫れ天皇の するが、集解は三年秋七月とする。紀臣弥麻沙 うけたまは みまな ため あにかくごと おそ らは四年四月に帰国しているから、或は三年を みことのりを信敬りて、任那を立てむが爲に、豈是の若くせむや。恐るらくは卿等 正しいとすべきであろうか。ただし現存諸本に 、つはりことう みまなのくにほろぼ はづかしたてまっ 異文はない。三↓七二頁注九・一〇。なお五年たやすうまこと 一一月条 ( 七八頁一六行 ) ・十一月条 ( 八八頁一三輙く北言を信けて、輕しく謾語を被け、任那國を滅して、天皇を辱め奉らむこと いましそっつし 一あざむ 行 ) によると、このとき弥麻沙・己連のほかに 物部連奈率用奇多も遣わされており、五年三月を。卿共れ戒みて、他にな欺かれそ」といふ。 五 条の百済上表文 ( 八四頁一三行 ) には津守連己麻 あきふみづき くだらきのおみなそちみまさちうほうなそちこれんまだ まうきあるしからくに 奴跪に副えて遣わしたとある。四のち六年五月秋七月に、百濟、紀臣奈卒彌麻沙・中部奈率己連を遣して、來て下韓・任那の にも来朝、奈率共悛とある。↓九二頁注七。 あはせふみたてまっ 五下韓は南加羅と語義は同じであるが、南加 政を奏し、て表上る。 羅はすでに新羅に併合されているから南加羅で なつうづき はない。任那諸国を広くさすとの説もあるがや 四年の夏四月に、百濟の紀臣奈率彌廱沙等罷りぬ。 や疑間。五年十一月条に「豈欲下違二背天皇一遮中 八 九 ながづき せいめいわう んほうなそちしんむくゐもん もののべのせとくまがむら 断貢調之路上」 ( 九〇頁八行 ) とあるから任那の南 秋九月に、百濟の聖明王、前部奈卒眞牟貴文・護德己州己婁と物部施德麻奇牟等 部で、南加羅に進出した新羅の前面に当る地域 たてまっ まうきふなむたからものやっこふたり であろうか。四年十一月条には任那之下韓、五 とを遣して、來て扶南の財物と奴二ロとを獻る。 年十一月条には南韓とある。四年・五年紀によ ( 八日 ) ふゅしもっきひのとのゐついたちきのえうまのひ つもりのむらしつかは のたま みことのり ると、このころ百済は下韓に郡令・城主を配置 冬十一月の丁亥の朔甲午に、津守連を遣して、百濟に詔して日はく、「任那の しているから、弥麻沙らは朝廷に対してそれら に関する何らかの報告をしに来たのであろう。 あるしからくにはべ こほりのつかさきのつかさやまとのみこともちっ あはせみことのりの 六五年一一月条にもこのことが見え、また日本下韓に在る、百濟の郡令・城主、日本府に附くべし」とのたまふ。井て詔 天皇の詔を掲げる。七他に見えず。真牟は百済 まさ ふみも いまししばしばふみたてまっ の複姓。八年四月条 ( 九五頁五行 ) の真慕に同じ。書を持たしめて、宜して日はく、「爾屡表抗りて、當に任那を建つべしと稱ふこ ↓補注ー一一。八百済の官位十六階の第九の なはな またそ いましくにむね 固徳に同じかという。↓ 表一。九安閑元年五月 と、十餘年なり。表奏すこと如此れども、尚し成らず。且夫れ任那は、爾の國の棟 条に上部都徳己州己婁とある。一 0 十五年十二 も や われおも いましすみやか 月条に東方領物部莫奇武連とある。施徳は百済 梁たり。如し棟梁を折りなば、詛か屋宇を成らむ。験念ふことに在り。爾早に の官位十六階の第八。↓表一。麻奇牟の奇はふ 一四 かふちのあたひら いましもすみやか すでかみくたりみ つう哥としているが、北野本等に奇に作る。奇 は上古音でガにあたる文字で、わが推古朝遺文建つべし。汝若し早に任那を建てば、河内直等河内直は已に上の文に見えたり。は、自づ ひ しりぞ みことのりうけたまは にもガにあてた例があり、欽明紀にみえる朝鮮 史料には用例が多い。哥は、奇がキの仮名に使から止退くべし。豈云ふに足らむや」とのたまふ。是の日に、聖明王、宜勅を聞 おほみことのりごとも まつりごとまう う . つはり ととせあまり みことのり かるがる ひと を らまか すす またいましし 四 ことくこっこる ここあ た いましたち おの あら

6. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

四五八 日本書紀卷第二十九 ( 十八日 ) のたま きのとのゐのひみことのり しろかねのぜにもち 一銀銭を貨幣として用いることは禁じたが、 銀錢を用ゐること莫れ」とのたまふ。乙亥に、詔して日はく、「銀用ゐるこ 三十一日 ) 銀を銀塊・銀片などの地金として、その秤量に たった ひろせ かみまっ っちのえとらのひ よって流通に用いることは許したのであろう。 と止むること莫れ」とのたまふ。戊寅に、廣瀨・龍田の訷を祭る。 和銅一一年、銀銭の頒布にともなって銀の使用は ( 三日 ) みなづきひのとのみついたちっちのとのひつじのひおほとものむらしまぐたみ ) すめらみことおほ 停止されたが、翌年には再び銀銭の使用が禁じ 六月の丁巳の朔己未に、大伴連望多薨せぬ。天皇、大きに驚きたまひて、 られた。 = ↓四一八頁注二一。 三↓補注ー一 五 四 なほみづのえさるとしいくさのいたはりおよおやたちときごと すなははっせのおほきみつかは 六。望は mang の音なので、 magu にあてた。 0 系譜未詳。持統九年十一一月ころ浄大肆で没。則ち泊瀨王を遣して弔はしめたまふ。仍、壬申の年の勳績及び先祖等の時毎の つづみうちふえふきおこ いさをしさあ あきらかめぐみたまもの すなはだいしのくらゐおひてたま 五↓元年六月二十四日条 ( 三八七頁六行 ) ・同 二十六日条 ( = 一九一一頁二行 ) 。一大伴氏が代々有功を擧げて、顯に寵賞したまふ。乃ち大紫位を贈ひて、鼓吹を發して葬 ( 六日 ) 九 武をもって朝廷に仕え、勲功を立てて来たこと みづのえいぬのひみつのくらゐたかさかのおほきみみう を讃えたもの。七養老喪葬令では、有品の親王、る。壬戌に、三位高坂王薨せぬ。 ( 四日 ) ( 五日 ) 三位以上の王臣、および大納言以上の者に、葬 あぎふみづきびのえいぬ っちのとのうしのひ かがみのおほぎみいへ かのえ 具として鼓・大角・小角を用いるのを許してい 秋七月の内戌の朔己丑に、天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊ひたまふ。庚 る。八諸王の位。↓四一八頁注二。 とらのひ ほふしあまま みやのうちあんご 九↓三八六頁注一八。 寅に、鏡姫王薨せぬ。是の夏に、始めて僧尼を請せて、宮中に安居せしむ。因り ( 十八日 ) ( 十五日 ) 一 0 藤原鎌足の嫡室。鏡王女・鏡女王とも書く。 みやこ おこなひひとみそたりえら かのえねのひあまごひみづのとのうのひ 系譜未詳。延喜諸陵式に押坂墓 (ä黯か ) があり、 て淨行者三十人を簡びて出家せしむ。庚子に、粤す。癸卯に、天皇、京師に巡行 「鏡女王。在ニ大和国城上郡押坂陵 ( 舒明天皇の 三十日 ) きのとのみのひ 陵 ) 域内東南→無二守戸ことあることから、舒 します。乙巳に、廣瀨・龍田の紳を祭る。 明天皇の皇女か皇妹とする説があり、また鏡王 あめえ くだら だうざうあまごひ はっき ( 四一〇頁注二六 ) の女で額田王の姉とする説も 是の月より始めて八月に至るまでに、旱す。百濟の僧道藏、雰して雨を得たり。 ある ( 押坂陵↓二四八頁注七 ) 。興福寺縁起によ ( 五日 ) ると鎌足の嫡室で、鎌足の病気平癒を祈って山 みづのえさる かのえさるのひあめのしたおほぎにつみゆるおほとものむらじをふけびみまか 階寺 ( 興福寺の前身 ) を建立したという 。万葉九一一 八月の丙辰の朔庚申に、天下に大赦す。大伴連男吹負卒りぬ。壬申の年の に天智天皇との贈答歌、九三に藤原鎌足との贈答 だいぎむちうのくらゐおひてたま いたはり、も 歌があり、哭九・一四一九・一六 0 七および歌経標式に功を以て、大錦中位を贈ふ。 三十三日 ) 一セ 三日 ) も作歌がある。 = 七月条の中間にあるのは、 ながづききのとのとり ひのえいぬのひ ひのとのひつじのひやまとのあたひくるくまのおびともひとりのみやっこ 安居の終了に際しての浄行者の出家が七月中旬九月の乙酉の朔丙戌に、大風ふく。丁未に、倭直・栗隈首・水取造。 に行なわれたことによるのであろう。 やたべのみやっこふちはらべのみやっこをさかべのみやっこさきくさべのみやっこおほしかふちのあたひかふちのあやのあたひもののべのおびと 一ニ梵語 varsa の訳。夏講ともいう。インドで 矢田部造・藤原部造・刑部造・輻草部造。几河内直・川内漢直・物部首・ 夏の雨期の間遊行をさけて籠居したことに由来 ニ七 くめのとねりの やましろのあたひかづらきのあたひとのはとりのみやっこかどべのあたひにしこりのみやっこかづらのみやっこととりのみやっこ するもので、延喜玄蕃式では毎年四月十五日か 山背直・葛城直・殿服部造・門部直・錦織造・縵造・鳥取造・來目舍人 ら七月十五日までの間、講説を行なうこととな 三七 っている。一三飛・鳥 ( ム「、六小 , 艮県 ~ 咼 ~ 印郡 - 明 . 日 ) 査みやっこひのくまのとねりのみやっこおほこまのみやっこはたのみやっこかはせのとねりのみやっこやまとのうまかひのみやっこかふちのうまかびの 造・檜隈舍入造・大狛造。秦造・川瀨舍入造・倭馬飼造・川内馬飼 村 ) 付近の一定の地域。一四持統二年七月にも請 一九 とど つき ひのえたっ なか とぶら へで なっ おほかぜ ひでり いでま やまひと おどろ しろかね よ はふ

7. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

に軽いものであったことは、近江朝延を支持す謂ふ。 ( 二十四日 ) る者が少なかったこと、びいては天智朝末期の かのとのゐのび しらきまらうとこむあふじちらっくしあへ そのひ ふゅしもつぎっちのえね 専制的な政治体制に対する一般豪族層の反感が 冬十一月の戊子の朔辛亥に、新羅の客金押實等に筑紫に饗たまふ。印日に、 強かったことを示すものであろう。 ものたま 0 一三↓三九三頁注一七。 祿賜ふこと各差有り = 三伴信友は、鈕鉤は本来近江方で偽って大海 ( 四日 ) ひとえら しはすっちのえうま かのとのとりのひ さを 人皇子方に帰順し、隙をみて皇子を捕えようと 謀「たが、皇子がそれを察知してその軍兵を諸十二月の戊午の朔辛酉に、諸の有功勳しき者を選びて、冠位を增し加へたま ( 十五日 ) まらうと みづのえさるのひ ふねひとっ 方に分遣したために機を失し、近江方の敗北を みて自殺したものと推測している。また、鉤ふ。仍、小山位より以上を賜ふこと、各差有り。壬申に、船一隻、新羅の客に賜 のひきいた二万の軍兵は元来近江方が山陵造営 を名として集めていた兵で、鈕鉤は四囲の情勢 に迫られて心ならずも大海人皇子方につき、近〇辛亥、將軍吹負、既定二倭地「便越二大坂「往二難波「以餘別將等、各自二三道一進、 江方を裏切ったことを苦にして自殺したと解す 至一一于山前「屯一一河南「印將軍吹負、留二難波小郡「而仰一一以西諸國司等「令」進二官 る説もある。 ニ四壬申の乱の功臣に対しては、この後も、そ 鑰・驛鈴・傳印「〇癸丑、諸將軍等、悉會一一於筱い云 = 浪「而探 = 捕左右大臣、及 の死没にあたって贈位・賜物などのことが行な われている。そのほか、大宝元年七月には壬申諸罪人等「〇乙卯、將軍等向一一於不破宮「因以捧ニ大友皇子頭「而獻二于營前「 0 八 の年の功臣に食封を賜い、またすでに賜わった 者に対してはその相続の方法を規定し、霊亀一一月庚申朔甲申、命ニ高市皇子「宜二近江群臣犯从「則重罪八人坐二極刑「仍斬二右大臣 年四月には、村国男依ら十人の功臣の子息に田 を賜い、天平宝字元年 + 一一月には、功臣に賜わ中臣連金於淺井田根「是日、左大臣蘇我臣赤兄・大納言巨勢臣比等、及子孫、拜中 った功田の相続方法を規定するなど、終始国家 臣連金之子、蘇我臣果安之子、悉配流。以餘悉赦之。先是、尾張國司守少子部連鈕 から優遇が加えられた。 = 五行幸の際の君主に対する尊称。↓二三三頁鉤、匿」山自死之。天皇日、鈕鉤有功者也。無」罪何自死。共有二隱謀一歟。〇内戌、 注一四。実↓三九〇頁注一一六。 毛↓三八八 頁注三七。天伊賀国阿拝郡。郡家は三重県上恩二勅諸有功勳者「而顯寵賞。 0 九月己丑朔内申、車駕還宿二伊勢桑名「〇丁酉、宿ニ 野市印代の地か。ニ九↓三八八頁注一〇。郡家 は名張市の地か。 = 0 ↓補注四。 = 一舒明・鈴鹿「〇戊戌、宿二阿閉「〇己亥、宿一一名張「〇庚子、詣二于倭京「而御二嶋宮「〇癸 斉明両天皇の皇居。↓一三八頁注一八。 、自一一嶋宮一移二岡本宮「◎是歳、營二宮室於岡本宮南「印冬、遷以居焉。是謂一一飛鳥 三ニ宮号を正式に定めたのは朱鳥元年七月。持リ 統八年藤原宮に遷るまでの皇居。大極殿・大安淨御原宮「 0 冬十一月戊子朔辛亥、饗 = 新羅客金押實等於筑紫「印日、賜」祿各有」差。 殿・内安殿・外安殿・向小殿などの殿舎があっ たことが下文によりわかる。所在地は奈良県高 0 十二月戊午朔辛酉、選二諸有功勳者「担一加冠位「仍賜二小山位以上「各有」差。〇 市郡明日香村飛鳥の北方か。 壬申、船一隻賜二新羅客「 三三十二月帰国。三四↓天智三年二月条。 四〇七 天武天皇上元年七月ー十二月 なほせうせんのくらゐ おのおのしな かみつかた しな か 5 ′ ~ り・ ま

8. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

( 八日 ) 一四 ( 十一日 ) 一五 はるむつききのとのみ みづのえねのひすめらみことゆ きのとのうのひにひなへきこしめ 新嘗↓補注五。ここは前年行なうべきとこ十一年の春正月の乙巳の朔壬子に、車駕、温湯より還ります。乙卯に、新嘗 ろ、おくれたので特に記されたもの。 ( 十二日 ) けだありまおはしま にひなへもら ひのえたつのひ いかづち = 〈新嘗を行われなかった。闕は恒例の欠ける す。蓋し有間に幸せるに因りて、新嘗を闕せるか。丙辰に、雲無くして雷なる。 意。 三十二日 ) ( 二十五日 ) ひのえとらのひ あめ っちのとのみのひ ながほしいぬゐのすみみ みんし 宅後漢書、五行志に「無 / 雲而雷」とある。 丙寅に、大きに風ふきて雨ふる。己巳に、長き星西北に見ゅ。時に旻師が日 天十二年十月に田中宮より遷った百済宮をさ ははきぼし す。大和志に「十市郡百済宮。古蹟。飯高村。 はく、「彗星なり。見ゆれば飢す」といふ。 : 故址今半人ニ広瀬郡ことある。今、橿原市飯 みことのり 高 ( 2 だ ) 町。敏達天皇の百済大井宮の故蹟かとし、 ことしおほみやおよおほでらっく すなは 都が一度飛鳥の地を離れたのは、この地は古く 秋七月に、詔して日はく、「今年、大宮及び大寺を造作らしむ」とのたまふ。則 から百済人と関係が深く、また仏教上の意味が 加わっていたためとする説もある。 一九百済大寺。後の大安寺の起源。寺の起源沿 革は天平十九年の大安寺縁起に詳しいが、三代似」雷耳。 0 三月乙酉朔内戌、日蝕之。◎是歳、蝦夷叛以不」朝。印拜二大仁上毛野 実録、元慶四年十月廿日条にはそれを要約して 「昔日、聖徳太子創 = 建平群郡熊凝道場→飛鳥岡君形名「爲二將軍一令」討。還爲二蝦夷一見」敗、而走人」壘。遂為」賊所」圍。軍衆悉漏 本天皇遷二建十市郡百済川辺一施ニ入封三百戸→ 号日 = 百済大寺→子部大神在 = 寺近側→含」怨屡城室之。將軍迷不」知ニ所如「時日暮。踰」垣欲」逃。爰方名君妻歎日、慷哉、爲ニ蝦 焼ニ堂塔→天武天皇遷ニ立高市郡夜部村号日二 高市大官寺→施 = 人封七百戸→和銅元年遷 = 都平夷一將」見」殺。則謂」夫日、汝祖等、渡二蒼海「跨二萬里「平二水表政「以ニ威武一傳二於 城一聖武天皇降 / 詔。預ニ律師道慈一令 / 遷二造平 城一号 = 大安寺こと見える。この時の所在地は後葉「今汝頓屈二先祖之名「必爲一一後世一見」嗤。乃酌」酒、強之令」飮」夫。而親佩ニ夫 奈良県北葛城郡広陵町百済。↓天武一一年十一一月 十七日条。「大寺」は、弁正論巻三に「国家大寺之劒「張ニ十弓「令ニ女人數十一俾」鳴」弦。既而夫更起之、取」仗而進之。蝦夷以爲、 四十七所、共王公貴室五等諸侯寺八百三十九所、 百姓造寺三万余所」とある。私寺に対し官寺を軍衆猶多、而稍引退之。於是、散卒更聚、亦振旅焉。撃二蝦夷一大敗、以悉虜。 いうのが原義であるが、ここでは固有名詞とし て用いられている。 十年秋七月丁未朔乙丑、大風之、折」木發」屋。 0 九月、霖雨、桃李花。 0 冬十月、 幸ニ有間温湯宮「◎是歳、百濟新羅任那、並朝貢。 十一年春正月乙巳朔壬子、車駕還」自二温湯「〇乙卯、新嘗。蓋因幸一一有間「以闕ニ 新嘗一歟。〇丙辰、無」雲而雷。〇内寅、大風而雨。〇己巳、長星見二西北「時旻師日、 彗星也。見則飢之。〇秋七月、詔日、今年、造一一作大宮及大寺「則↓ 舒明天皇九年二月ー十一年七月 のたま いひうゑ かへ

9. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第十九 まう ひなげい かしをは 一神社に隷属する賤民。神賤ともいう。 投るるなり」といふ。呪り訖りて火に投れむとす。守石が母、所み請して日さく、 ニイロハ↓補注跖ー三。 はふりべ かむやっこな あめのわざはひはた ひのうちなげい = これに従えば任那の滅亡は本使の発遣以後「兒を火裏に投れなば、天災果して臻らむ。請ふ、祝人に付けて、訷奴に作らし ということになる。↓正月条。 よ からめをゆる かむやっこ すなはいろはこひ 四更荒郡は和名抄に「讃良〈佐良良〉」とあり、 めたまへ」とまうす。乃ち母の請に依りて、許して神奴とす。 持統天皇の名を持統前紀に鶸野讃良皇女、天智 そっかひ三 みつきものたてまっ しらきっかひまだ あきふみづきっちのとのみついたちのひ 七年二月条分注の或本に娑羅々皇女と書く。今 秋七月の己巳の朔に、新羅、使を遣して調賦を獻る。共の使人、新羅、任那 の大阪府北河内郡四条畷町・大東市西半・寝屋 は し みかどのめぐみそむ 川市西半にわたる地域。霊異記中第四十一に更 荒郡馬寸里があり、天武十一一年十月条に娑羅々を滅しっと知りたれば、國恩に背けることを恥ちて、敢 ~ て罷らむと請さず。遂に うののさとしらきの いまかふちのくにさららのこほり あとみかどおほみたからおな もとのくにかへ 馬飼造・菟野馬飼造の名がみえる。鷓覊野邑は 位置未詳。姓氏録、未定雑姓 ( 河内 ) に「宇努連。留りて本土に歸らず。例、國家の百姓に同じ。今河内國の更荒郡の鶸覊野邑の新羅 新羅皇子金庭興之後也」とある。 五のち用明二年七月物部氏討減軍に参加 ( 崇峻人の先なり。 五 即位前紀 ) 、崇峻四年十一月大将軍として筑紫 そひのいくさのきみかは いくさゐ つき おほきいくさのきみきのをまろのすくねつかは に出陣し、推古三年七月に帰還した。宿禰は敬是の月に、大將軍紀男麻呂宿禰を遣して、兵を將て移蜊より出づ。副將河 称。紀臣は蘇我氏と同系と称する有力豪族で、 かたちと こそむれ へのおみにヘ のち天武十三年十一月に朝臣に改姓した。 邊臣瓊缶、居曾山より出づ。而して新羅の、任那を攻むる状を問はむとす。遂に任 六↓一一六頁注一一。男麻呂は忠清北道南部よ とみ いくさたばかりちぎりむす くだら こもつめべのおびととみ り秋風嶺を越えて進んだものかという。 河辺臣は蘇我氏の同族。のち天武十三年十那に野りて、薦集部首登弭を以て、百濟に遣して、軍の計を約東ばしむ。登弭、 にはかおほ つぶさ いくさたばかり しるしのふみゆみやみちおと 一月に朝臣に改姓。姓氏録、右京皇別上に「川 辺朝臣。武内宿禰四世孫宗我宿禰之後也」とあ仍りて妻の家に宿る。印書・弓箭を路に落す。新羅、具に軍の計を知る。卒に大 やふれつ いくさおこ へ位置未詳。全羅北道南原の東北の居斯勿県きなる兵を起して、敗亡を尋ぎ屬ぎぬ。降歸附はむと乞す。紀男麻呂宿禰、取勝ち ( 居寧 ) かとの説がある。瓊缶は同道東南部の長 そ ゃぶ いくさのうちのりごと いくさめぐら 水または雲峰方面から任那の旧地に進人したもて師を旋して、百濟の營に入る。軍中に令して日はく、「夫れ勝ちても敗れむこと の力し」、つ。 を いにしへよ かならあやふ わす 九三国史記にはこの月に当る新羅真興王一一十を忘れず、安けれども必ず危きことを慮るは、古の善き教なり。今處るところの 三年七月条に「百済侵ニ掠辺戸王出 / 師拒之、 いはむまた のちのわざはひおも しか かるがる わす さかひあたあひまじは 殺二獲一千余人ことある。問は問責の意。 疆畔、犲狼交接れり。而るを輕しく忽れて、變難を思はざるべけむや。況や復、 一 0 他に見えず。 ふか や けださかしきひとたけきそなへ やすよ = 封印をした機密の書信。 平安き世にも、刀劒、身を離たず。蓋し君子の武備は、以て已むべからず。深く 一ニついで敗亡した。 いくさのひとどもみなこころせ このりごとっとたふと 一三以下は呉志、孫権伝、建安二十五年八月条に みえる孫権の軍令「夫存不」忘」亡、安必慮」危、警み戒めて、斯の令を務め崇ぶべし」といふ。士卒、皆心を委めて服き事ふ。河 0 なげい とどま ひとおや つつしいまし ほろ・は こ いへやど たちつるぎみ いほり はな しかう おもひはか まうしたが あ のり まカ っ っ みまな つひ

10. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第二十四 二四 0 しにひとあ かぞいろはあにおととをふとめい , つねいろどいふと ひたすみづかみ これ、も 一ウックシは非常に親密な、肉親的な感情。死亡者有るときは、父母兄弟夫婦姉妹と雖も、永ら自ら看ず。此を以て観れば、 三十三日 ) 三十四日 ) その動詞がウックシプ。仁・慈・恵・恩・寵・ うつくしびな あにけだもの ひのとのうしのひあからめるいねはし っちのえ 憐などがウックシビにあたる。 = 五月の熟稲で 慈無きが甚しきこと、豈禽獸に別ならむや。丁丑に、熟稻始めて見ゅ。戊 あるから祥瑞の意味であろう。三敏達元年四月 四 とらのひ そ げうき くだらおほゐ すなはひと 条に「宮ニ于百済大井ことあり、その所在地に 寅に、翹岐、共の妻子を將て、百濟の大井の家に移る。乃ち人を遣りて兒を石川 ついては二説あるが ( 一三二頁注九 ) 、ここでは はぶ 大阪府河内長野市太井 ( ) の地を指すのであろ に葬らしむ。 う。四↓一四六頁注一一。五客星は常に見えな ( 十六日 ) みなづぎぎのとのとりついたちかのえねのひ つき おほ い星。怪星ともいう。↓二三四頁注九。六↓二 六月の乙酉の朔庚子に、微雨ふる。是の月に、大きに旱る。 三七頁注二八。七達率は百済の官位十六階の第 ( 九日 ) 五 三十二日 ) 二。↓表一。「名を闕せり」は児達率について あきふみづききのえとら みづのえいぬのひまらうとほし きのとのゐのひ つかびだいさへいち の注。八百済の官位十六階の第三。↓表一。 秋七月の甲寅の朔壬戌に、客星月に人れり。乙亥に、百濟の使人大佐平智 九 九未詳。 しやくらみかどあへ あるふみ およ七だちそちなもら おんそちくんん 一 0 後世の健児は制度上のもので軍人。ここは 積等に朝に饗たまふ。或本に云はく、百濟の使人大佐平智積及び兒達卒名を闕せり・恩卒軍善と 訓のように膂カ ( り ) のすぐれた人という意か。 ちからひとことおほ まへすまひと とよのあかりをは = スマヒの語源は相手の攻撃を拒ぐ ( これを古 いふ。乃ち健兒に命せて、翹岐が前に相撲らしむ。智積等、宴畢りて退でて、翹 語にスマフという ) 意か。垂仁七年七月条に野 三十三日 ) 一四 一五 かどをがみひのえねのひ そがのおみいるか え しとべしろすずみこ ひ おな 見宿禰・当麻蹴速のスマヒの話があるが、抦カ 岐が門を拜す。丙子に、蘇我臣入鹿が豎者、白雀の子を獲たり。是の日の同じ時に、 とある。相撲の文字はここが初見。後世相撲の 三十五日 ) あ そがのおほおみおく っちのえとらのひまへつきみたちあひかた 節は七月七日、天長三年からは七月十六日に行 人有りて、白雀を以て籠に納れて、蘇我大臣に送る。戊寅に、群臣相語りて日 われた。そこで通証はこれを七月相撲節の初め 一七 ある うしうま むらむらはふりべをしへまま もろもろやしろかみ と見た。なお天武十一年七月条・持統九年五月 条にも相撲のことが見える。一 = ↓補注ャ八。はく、「村村の祝部の所教の隨に、或いは牛馬を殺して、諸の社の訷を祭る。或いは 一三↓二三六頁注九。一四少年の従者。豎は孺 しきりいち かはのかみいの すでしるし に同じ。「未冠」 ( 説文 ) の者、転じて、子供のし頻に市を移す。或いは河伯を疇る。既に所效無し」といふ。蘇我大臣報へて日はく、 もべの意。「償従者」 ( 一一六〇頁六行 ) には古訓シ てらでら だいじようぎゃうでん ところごと トべがある。後取部 ( と ) の約か。 siritoribe ↓ 「寺寺にして大乘經典を轉讀みまつるべし。悔過すること、佛の説きたまふ所の如 三十七日 ) sirtorbe- ↓ sittonbe. これをシトへと圭凵いたもの。 ゐや かのえたつのひ おほでらみなみおほば にとけぼさちみかた 安閑元年閏十二月条には県主飯粒がその子の鳥 くして、敬びて雨を祈はむ」といふ。庚辰に、大寺の南の庭にして、佛菩薩の像と 樹を大連に送って価豎 ( しとしたとある。 してんわう もろもろほふしゐや だいうんきゃうら 一五白雀は祥瑞。延喜式では中瑞とする。 四天王の像とを嚴ひて、衆の僧を屈び請せて、大雲經等を讀ましむ。時に、蘇我大 一六村々にいて人々の信仰を指導していた者で 三十八日 ) 三十九日 ) こり て かうろ ちかひおこ かのとのみのひ みづのえうまのひ あろう。一七中国の習俗。わが国でも行われ、 臣、手に香鑪を執りて、香を燒きて願を發す。辛巳に、雨ふる。壬午に、雨 延暦十年の禁制 ( 類聚三代格十九 ) に「諸国百姓 殺 / 牛用 / 祭」という。天原文、祭。岩崎本に 古いイの仮名、ルの点があるによ「てイノルとを所ふこと能はず。故、經を讀むことを停む。 ニ七 はなはだ あめ そ八 と かれきゃう こ よ さ こと ま や こ くゑくわ ころ こさめ ひで ほとけと や まカりし み とき