北野本若治国可得也若或本有不可得也〈八字如何〉 午年玖拾巻〈綷郷捌拾陸、駅家戸肆〉」とあって、一地域についても、きわ 伊勢本若善治国可得也 めて密度の高かったことを知ることができる。庚午年籍は、おそらく、日 伊勢本では、本文の右に小字「若或本有不可得也八字如本最初の令法典たる近江令にもとづいて作成された、そして全国的な戸籍 何注歟、可消歟」とある。若は〇符のついた本文の若の のはじめであろう。戸籍は課税の台帳であるが、しかしまた、造籍は、一 字の右から始まっている。 戸一戸について人民の身分を確定する意味をももつものであった。庚午年 内閣文庫本若善治国可得也〈若或本有不可得也〉 籍は後者の意味で、氏姓の台帳とされ、戸令にも、一般の戸籍は五比 ( 三十 本文を見ると「若善治国可得也」には異同がない。それ以下の部分につ 年 ) で捨て去ることはできたが、この「近江大津宮庚午年籍」だけは、水久に いては、伊勢本の傍注が注意される。伊勢本では、本文の「若」の左に〇保存されるべきものとされた。 符があり、傍注が「若」で始まる。この傍注の「若」は本文の「若」の繰一五「打橋の集楽の遊に」の歌 ( 三七四頁注一六 ) 「板を渡した仮橋のたもと 返されたものではあるまいか。そして傍注の中心は「或本有不可得也」に の遊びに出ておいで、娘さん。玉代の家の八重子さん。おいでになっても あるのではあるまいか。これは、本文の「可得也」とある所が「不可得也」後悔なぞはしないでしよう。出ておいでなさい。玉代の家の八重子さん」。 とある本文が存在したことを示すものと解釈される。それならば、或本の催馬楽の竹河に「つめの遊び」という類似の語句があるように、 この歌は 本文は「若善治国不可得也」という四字四字の形式を保つものであったろ本来、歌垣に女をさそう歌であったろう。しかし、漢書や後漢書の五行志 うということになる。それならば「若し善く国を治むとも得べからず」ま では、火災・大水・日蝕等があるとそれに関連する童謡 ( ) の行なわれた たは「若」を西大寺本金光明最勝王経などにタトヒと訓んでいるに倣って、 ことを載せているので、ここに法隆寺の火災・大雨・雷の記事に関連して、 「たとひ善く国を治むとも得べからじ」と訓むものであったのではないか。歌垣の歌を童謡として取り組ませて文章を造作したのであろう。かつまた そう見れば、「この国を千年にわたって治めたい」という高麗王に対して後漢書には宮殿の火災が女性の怨恨などと関係があるという記事 ( 例えば 母夫人が、「たとひ善く国を治めても千年は続くま い。ただし七百年は治同書、和帝永元十三年の北宮盛餓門の火災が、寵愛衰えて憂死した陰后の められよう」と予言した。ところが今、この国が亡んだというが、まさに 怨恨によるとするなど ) があるので、法隆寺の火災の後に、女性を誘う歌を 七百年の末にあたっているということで、説話は首尾一貫する。思うに、 取り上げて、それと相応じさせたものであろう。 底本は北野本・伊勢本のような本文を勘案して「或本有」を削って可得也一六太政大臣 ( 三七五頁注二五 ) 太政大臣の初見。養老令の官位令では、一 の下につけたもの。内閣文庫本は右の傍注を本文に割注で取人れたもの。 品・正一位・従一位の相当官とし、職員令には、「太政大臣一人、右師ニ範 恐らく伊勢本の本文は、最初の本文から、「不」の字一字を削ったものな 一人一儀二形四海一経 / 邦論 / 道、燮一一理陰陽一无二共人一則闕」とある。大宝 のではあるまいか。何故「不」を削ったかといえば、それは「若善治国」 令でも経邦を経国としていたほかはほば同文だったらしい。しかし、この を「もし善く国を治むれば」と訓んだため、その下の「不可得也」が意味時期、通説によれば天智称制七年制定の近江令によるとされるこの太政大 的におかしく感じられ、その「不」を削ったものなのではないだろうか。 臣は、懐風藻の大友皇子伝に「総一一百揆こ「親一一万機ことあるように、天 一四庚午年籍 ( 三七四頁注五 ) 本文にはわずかに「盗賊と浮浪とを断む」とあ皇に代って国政を統理するものであったとみられ、皇太子摂政 ( ↓補注 るだけだが、この戸籍は、のちに氏姓の台帳とされ、しばしばその目的の 四 ) の伝統をおうものともみなされている。 ために利用されたので、国史その他に施行のあとを示す記事が少なからず一七御史大夫御史監今之大納言乎〉 ( 三七五頁三〇 ) この分注は書紀編者の私 見出される。井上光貞はこれらの記事を集めて年籍施行の復原を試みたが、案。蓋 : ・乎という書き方は大化二年三月二十二日条三九三頁三行 ) ・天智 それによると、畿内をはじめ、西は播磨・紀伊・讃岐・阿波・伊予、さら 四年是歳条 ( 三六四頁八行 ) などにも見える ( 三六四頁注一四 ) 。「今之大納 に九州諸国に及び、東は、常陸と上野に施行されたことがわかる。また続言」とは書紀編纂当時すなわち大宝令官制での大納言のこと。職員令では 紀、神亀四年七月条によれば、この時、筑紫諸国の庚午年籍七七〇巻に官 「大納言四人、〈掌下参一一議庶事一敷奏、宜旨、侍従、献替上〉」とあり、太政 印・をおしたともも 、、、上野国交替実録帳 ( 平安遺文九ー四六〇 - 九 ) では、「庚官政治の中枢にあって、左右大臣を補佐する。↓四八二頁注四。御史大夫 補注
へとどま なづ いられた。↓補注ー一四。 二つの國、便の地を圖度りて、淹留ること弦晦になりぬ。城を築きて還る。號けて 一四とりこにする。カス ( 捉 ) ヰ ( 率 ) の意。 ふなむら くれむらのさし とぎみちならし とりきむら むしきむら 一五カシ・カセは刑罰の具。足・手・首にはめ 久禮牟羅城と日ふ。還る時に觸路に、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫 る。 ら くちはたぎ さしぬきと 一六鉄製のくさり。和名抄に「、鉄鑞也〈日本 羅・久知波多枳、五つの城を拔る。 紀私記云、カナッガリ〉」とある。 つきのきし けなのおみひとな 一七城による。嬰は寄りかかる意。 冬十月に、調吉士、任那より至りて、奏して言さく、「毛野臣、人と爲り傲り俍 天弦は弓張月、晦は月の終わり。一か月。 たかほ こころまま まつりごとなら つひあまなふことな 一九慶尚北道達城郡西南部琵瑟山の西南麓か。 = 0 路に触れるまにまに、路を行くにつれて。道しくして、治體を閑はず。竟に和解無くして、加羅を擾亂しつ。惆儻に意の任に すがら。 三以下の五城は二十三年三月条 ( 三八頁注一 九 ) に見えている北境の五城と同じか。この中、 者必爛。是以、投」湯爛死者衆。又殺二吉備韓子那多利・斯布利「所」生、爲 = 韓也。 阿夫羅は慶尚北道西南部の玄風西郊の城下洞、 久知波多枳は達城郡求智面城山洞か。 惱一入民「終無二和解「於是、天皇聞二共行状「遣」人徴入。而不」肯」來。顧以一一河内 一三モトルは理に背くこと。広韻に「傲、慢也、 倨也」とある。イスカシは性質がねじけている母樹馬飼首御狩「奉二詣於京一而奏日、臣未」成二勅旨「還ニ入京鄕「勞往虚歸。慙恵 こと。くちばしがまがって交叉している鳥イス 力と同根の語。玉篇に「很、戻也、本作 / 很」と安措。伏願、陛下、待下成二國命「人」朝謝罪奉」使之後、更自謨日、共調吉士、亦 ある。「愎俍 G ) 」 ( 神武即位前紀 ) などの例 是皇華之使。若先」吾取歸、依實奏聞、吾之罪過、必應重矣。乃遣二調吉士「卒」衆 がある。 = 三選叙令義解に「治体者治国之大体」云々と 守一一伊斯枳牟羅城「於是、阿利斯等、知二其細碎爲事、不一」務所レ期、頻勸二歸朝「尚 ある。 ニ四習得し慣れる。広韻に「閑、習也」とある。 不聽」還。由」是、悉知二行迹「心生二飜背「乃遣二久禮斯己母「使二于新羅一請」兵。 「未 / 閑毎。 ) 二政事一」 ( 欽明即位前紀 ) の例がある。 ニ五魏志、杜畿伝「惆儻任 / 意而思不 / 防 / 患、終 奴須久利、使 = 于百濟一請」兵。毛野臣聞 = 百濟兵來「迎 = 討背評「能翩己富里銘傷死者半。 致ニ此取こによる。惆讎は他に拘東されないさ ま。タカ ( 高 ) ホ ( 秀 ) の意か。広韻に「惆、惆簒百濟、則捉二奴須久利「柾械枷鉚、而共二新羅一圍」城。責二罵阿利斯等一日、可」出二毛 不覊」とある。新撰字鏡に「惆儻〈非当也、奇 異也、不凡之良〉」とある。自分勝手で、あれこ野臣「毛野臣、嬰」城自固。勢不」可」擒。於是、二國圖二度便地「淹留弦晦。築」城而還。 れ好きなことを考えて、外患を防がない。 號日一一久禮牟羅城「還時觸路、拔二騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久 知波多枳、五城「 0 冬十月、調吉士至自二任那「奏言、毛野臣爲」人傲根、不」閑ニ 治體「竟無二和解「擾二亂加羅「儻任意、↓ 繼體天皇二十四年九月ー十月 ふた ふゆかむなづき くにたよりところはか みまな まう と八 4 さわか 7 四五 かへ もといすか
いささけ をさま いる。タカラノホシミの訓、これに当る。 大きなり少き無く、人を得て必ず治らむ。時に急き緩きこと無し。賢に遇びて自づ 八礼記、中庸に「慎思 / 之、明辯 / 之」。公式令、 ゆるるか あめのしたとこめづら くにあやふ かれいにしへひしりのきみつかさ 訴訟条義解に「告 / 寃日 / 訴、争レ財日 / 訟」とあ からに寬なり。此に因りて國家永久にして、社禝危からず。故、古の聖王、官の る。九私利を得てそれが普通と思っている。ク ためひともと ホサはクフサともいう。利益の古語。 爲に人を求めて、人の爲に官を求めず。八に日はく、群卿百寮、早く朝りて晏く 一 0 礼記、文王世子、鄭注に「謝之言白也」、漢 おほやけのわざいとな びねもすっく およ すむやけ 書、景帝紀、顔師古注に「謝平議」。賄路を受け 退でよ。公事鹽靡し。終日に盡し難し。是を以て、遲く朝るときは急きに逮ばず。 てから、その申立てをきく。 ここのつ ことごと 一一文選、運命論に「共言也如ニ以 / 石投レ水、莫ニ 之逆一也」、翰注に「以」堅投」柔、其勢必入、故早く退づるときは必ず事盡きず。九に日はく、信は是義の本なり。事毎に信有る 不レ逆也」とある。三文選、運命論に「共言也 如一以 / 水投レ石、莫ニ之受一也」、銑注に「石堅水 柔。以」柔投」堅、共不竒」入也。言道不」合亦地載。四時順行、萬氣得」通。地欲」覆」天、則致壞耳。是以、君言臣承。上行下靡。 猶 / 是也」とある。一三左伝、成公十四年の「懲 / 悪而勧 / 善、非一一聖人一誰能脩 / 之」など。 故承」詔必愼。不」謹自敗。四日、群卿百寮、以」禮爲」本。共治」民之本、要在一一乎禮「 一四維摩経義疏、文殊問疾品第五に「一切不善理 非ニ恒在「終必在ニ遣除之義ことある。 上不」禮、而下非」齊。下無」禮、以必有レ罪。是以、群臣有」禮、位次不」亂。百姓有 一五老子に「国之利器不 / 可ニ以示人也」とある。 一六論語、陽貨に「悪下居一卞流一而訓」上者上」とあ」禮、國家自治。五日、絶レ餮棄」欲、明辨二訴訟「共百姓之訟、一日千事。一日尚爾、 る。一七孝経、五刑に「要 / 君者無 / 上、非二聖人一 者無」法、非」孝者無」親。此大乱之道也」とあ況乎累」歳。頃治訟者、得」利爲」常、見」賄聽」嗽。便有」財之訟、如二石投一」水。乏者 る。天尚書、成有一徳に「任 / 官惟賢材」。 一〈荀子、臣道に「迷乱狂生、夫是之謂 = 禍乱之之訴、似二水投一」石。是以貧民、則不」知一一所由「臣道亦於焉闕。六日、懲」惡勸」善、 従レ声」とある。 = 0 論語、季子に「子日、生而 古之良典。是以无」匿一入善「見惡必匡。共諂詐者、則爲下覆一一國家一之利器い爲下絶ニ 知 / 之上也、学而知 / 之者次也」とある。古点に はシルコトとある。北野木・による。 人民一之鋒劒亦佞媚者、對レ上則好説一一下過「逢レ下則誹二謗上失「共如此人、皆无 三尚書、多方に「惟聖罔 / 念作 / 狂、惟狂克念作 / 聖」とあり、孔安国伝に「狂人能念二於善「則 」忠二於君「无」仁一一於民「是大亂之本也。七日、人各有レ任。掌宜レ不」濫。共賢哲任 為二聖人ことある。 = = 墨子、尚賢中に「賢者之治」国者也、蚤朝晏」官、頌音則起。辭者有」官、禍亂則繁。世少一生知「剋念作」聖。事無一一大少「得」人 退、聴 / 獄治 / 政。是以国家治、而刑法正」。舒明 八年七月条に「郡卿及百寮朝参已懈、自」今以後、必治。時無ニ急緩「遇」賢自寬。因レ此國家永久、社禝勿」危。故古聖王、爲」官以求 卯始朝之、巳後退之」云表 ( 二三一頁一六行以 下 ) 。なお、この条や第 + 三条などは、役人に対」人、爲」人不」求」官。八日、群卿百寮、早朝晏退。公事靡」鹽。終日難」盡。是以、 する極めて具体的な指示で、憲法が全体として 観念的かっ訓戒的であるのとは異質である。 遲朝不レ逮ニ于急「早退必事不」盡。九日、信是義本。毎レ事有レ信。↓ 推古天皇十二年四月 これよ かならわざっ がた やっ まことこれことわりもと おそ まへつぎみたちつかさつかさはやまゐ おそまゐ さかしびとあ おの おそ
孝德天皇白雉五年十二月ー是歳 都「遷」都之兆也。◎是歳、高麗・百濟・新羅、並遣」使奉」弔。 日本書紀卷第廿五
日本書紀卷第三十 一続紀、文武元年条に「八月甲子朔、受禅即 位」とある。朔日干支が異なるのは、書紀が元 嘉暦によって七月を大の月、続紀が儀鳳暦によ って七月を小の月としたためといわれる。八月 一日践祚は確実であろう。 ニ文武天皇。懐風藻などによると没年は二十 五歳であるから、この時は十五歳。立太子のこ とは、本紀では二月二十八日条の記事から、そ の日以前であろうと推定されるのみであるが、 続紀に「高天原広野姫天皇十一年、立為二皇太 子こ、また釈紀の引く私記に「王子技別記日、 文武天皇少名珂瑠皇子。天武天皇皇太子草壁皇 子尊之子也。持統天皇十一年春一一月丁卯朔壬午 〈十六日也〉、立為ニ皇太子ことある。 五三四 はつぎきのとのうしついたちのひすめらみことみはかりことおほ ) ちさだ くにさ 八月の乙丑の朔に、天皇、策を禁中に定めて、皇太子に禪天皇位りたまふ。 日本書紀卷第三十 ひつぎのみこ
稿に「飢寒」の寒の傍訓コイがあり、仁徳七年 四月条に「飢寒」の寒の古訓コュル ( 前田本 ) が ある。 一五天皇の食事。↓一三頁注一七。 = 〈古列女伝の孳嬖 ( ) 伝夏桀末喜に「収一一倡優 侏儒狎徒一能為ニ奇偉戯一者、聚一一之于旁「造ニ爛 漫之楽一日夜与ニ末喜及宮女一飲酒、無 / 有ニ休 時ことある。また同、殷紂妲己に「靡々之楽」、 同、周幽褒妲に「飲酒沈湎、倡優在レ前、以 / 夜継 / 昼」とある。 六年秋九月乙巳朔、詔日、傳」國之機、立」子爲」貴。朕無二繼嗣「何以傳」名。且依二 一七小人。霊異記下第二十話訓釈に「、ヒキヒ 天皇舊例「置一一小泊瀨舍人「使下爲ニ代號「萬歳難忘者也。 0 冬十月、百濟國遣二廠 ト」、名義抄に「侏儒、ヒキウト」とある。 一へ俳優。倡・俳・優ともに同義で、たわむれ 那君一進」調。天皇以爲、百濟歴」年不脩二貢職「留而不」放。 の行ないをして人を楽しませる人。ワザは芸。 ヲギは招きの意か。神を招いて、神がかりする七年春二月、使 = 人昇 , 樹、以」弓射墜而咲。 0 夏四月、百濟王遣 = 斯我君一進」調。別 者の意か。 一九人の心を乱すような淫靡な音楽を奏して。 表日、前進」調使麻那者、非二百濟國主之骨族一也。故謹遣二斯我「奉」事一一於朝「遂有 ニ 0 奇怪なあそびごと。広韻「偉、大也」とある。 ウタテは物事が目前でどんどん進行して自分で」子、日二法師君「是倭君之先也。 はどうにも制御し得ない意。転じてひどい状態。 八年春三月、使下女躱形、坐二平板上「牽」馬就」前遊牝觀一一女不淨「沾濕者殺。不 一 = ふしだらな、みだらな音楽。新撰字鏡に「、 楽虚也、婬也、耽也、タハシ」とある。「靡々 」濕者沒爲二官婢一以」此爲」樂。及二此時「穿」池起」苑、以盛二禽獸「而好一一田獵「走 之声」は、本来声などの細くて美しいさまの意 だが、ここでは「靡々之楽」 ( 亡国の音楽の名。」狗試」馬。出入不」時。不避二大風甚雨「衣温而忘二百姓之寒「食美而忘二天下之飢「 紂が師延に作らせたもの。↓注一六 ) の意。 = = 酒によいだらしがなくなる。新撰字鏡に大進二侏儒倡優「爲二爛漫之樂「設二奇偉之戯「縱二靡々之聲「日夜常與二宮人一沈二湎 「酩酊、ヱヒサマタル」、名義抄に「慢、サマタ レタリ、 于酒「以二錦繍一爲」席。衣二以綾統一者衆。 0 冬十二月壬辰朔己亥、天皇崩一一于列城 ミタリカハシ」とある。サマタルは、 様垂ルの意。 一三芸文類聚、綾に「太公六韜日、夏殷桀紂之時、 婦人錦繍文綺之坐席、衣以一一綾一常三百人」と 日本書紀卷第十六 ある。絏は、よく練った白い絹。上等の絹。 一一四天皇の年齢は扶桑略記・水鏡などに十八歳、 帝王編年記・皇代記などに五十七歳、天書に六 十一歳などと諸説がある。山陵は傍丘磐杯丘陵 かたをかのいはっき 0 のをかのみさざき ) ↓継体一一年十月条。 武烈天皇亠ハ年九月ー八年十二月 ( 八日 ) しはすみづのえたつついたちっちのとのゐのひ なみきのみやかむあが 冬十二月の壬辰の朔己亥に、天皇、列城宮に崩りましぬ。 日本書紀卷第十六
しま みやこまうの 一三集解は像の字を後世の擡人としている。 嶋にりて、斯廠王を生む。嶋より遺し送りて、京に至らずして、嶋に産る。故因りて名く。今各羅の海 ニ三用明二年四月条に水派宮という名が見える。 これかふろわう 三七かむか ↓一五九頁注二五。 = 四和名抄の大和国広瀬郡に主嶋有り。王の産れし嶋なり。故、百濟人、號けて主嶋とすといふ。今案ふるに、嶋王は是蓋鹵王の 城戸の ) 郷に当るか。万葉にも木甅・木上など いまつはひらか と見える。今の奈良県北葛城郡広陵町という。 子なり。末多王は、是れ現支王の子なり。此を異母兄と日ふは、未た詳ならず。 = 五他に見えず。日本に来ていた百済の王族か 四 0 みつは ふ みなづぎ いけひ と思われるが不詳。兵大和志に意多郎の墓は 五年の夏六月に、人をして塘の槭に伏せ人らしむ。外に流れ出づるを、三刃の矛 大和国葛下郡岡崎村 ( 今、大和高田市岡崎 ) にあ ると見えている。毛末。集韻に「巓、山頂也」 とある。物の尖端をスヱという。よ。て山頂もを持ちて、刺し殺すことを快とす。 ヤマノスヱという。天↓補注跖ー二五。 = 九道に背いて何ともなし難いさま。名義抄に 「無情、アヂキナシ」とある。三 0 ↓補注ー七。 = = 三国史記では名は斯摩英略雄斷、以盛二天威天祿「日本必有」主。々一一日本一者、非二陛下一而誰。伏願、陛下 三一↓補注跖ー一一六。 ( しで、末多王の第二子とあり、以下の百済新撰 の伝と異なるが、津田左右吉は百済新撰の伝の仰答二靈祇「弘二宜景命「光二宅日本「誕受一一銀鄕「於是、太子命二有司「設二壇場於泊 方を採りたいとしている。武寧王の死は継体十 七年五月条に見える。ムネイワウの訓み、釈紀瀬列城「陟天皇位。遂定」都焉。是日、以二大伴金村連一爲二大連「 に従う。三三田解説参照。三四現支の来朝のこ と及び武寧王が実は現支の兄の蓋鹵王 ( 鰺 ) の元年春三月丁丑朔戊寅、立 = 春日娘子一爲 = 皇后「靺麹◎是年也、太歳己卯。 子であることが、雄略五年四月・六月条に見え る。セシム↓二八頁注一三。 三五↓補注跖ー二七。二年秋九月、刳二孕婦之腹「而観二其胎「 三六ニリムは古代朝鮮語。国主。なお、現代朝 鮮語で敬慕する人に対する呼称、また接尾語と三年冬十月、解一入指甲「使」掘二暑預「 0 十一月、詔二大作室屋大連「發二信濃國男 して他人の称呼に添えて敬称とする nim ( 略し て一 m ) がある。 ni 「 im ↓ nim ・王 ( 」について丁「作一一城像於水派邑「仍日二城上一也。◎是月、百濟意多郎卒。葬二於高田丘上「 ↓三四頁注七。毛集解は以下「未詳也」まで を私記の提人として削。ているが、その必要は四年夏四月、拔一一人頭髪「使」昇二樹巓「新二倒樹本「落ニ死昇者一爲」快。◎是歳、百 ない。又、武寧王 ( 即ち島王 ) は実は蓋鹵王の子 。百濟新撰云、末多王無 かも知れないが、現支の子として扱われたとす濟末多王無道、暴二虐百姓「國人遂除、而立二嶋王「是爲二武寧王一道、暴 = 虐百姓→國人共 れば、末多王の異母兄と称することも認められ 除。武寧王立。諱斯廠王。是現支王子之子。則末多王異兄也。現支向レ倭。時至ニ筑紫嶋「生 = 斯廠王「自レ嶋還送、不レ至ニ よう。三八↓田雄略一一年七月・五年四月条。 於京「産 = 於嶋→故因名焉。今各羅海中有 = 主嶋「王所レ産嶋。故百濟人號爲 = 主嶋→今案、嶋王是蓋鹵王之子也。末多王、是 三九池の水を流すために堤に通した樋。塘は堤 現支王之子也。此日ニ のある溜池。槭は樋。和名抄に「淮南子云、決異母兄「未」詳也。 レ塘発 / 械、ヒ、許慎日、槭所三以通ニ陂竇一也」と 五年夏六月、使三人伏一入塘槭「流二出於外「持二三刃矛「刺殺爲」快。 ある。四 0 先が三叉の矛か。 武烈天皇印位前紀ー五年六月 しま ころ たのしび かへおく これはらことのあに かれよ な・つ
ことわ うたへおよなかとみのとこをのこやっこ み・つかうと 犬養連五十君がある。↓四〇〇頁注一九。大養詔に違ひて、自ら菟礪の人の所訴、及び中臣德が奴の事を判れり。中臣德、亦是 三セ は、姓氏録、摂津神別に神魂命十九世孫、田根 つつし つかさたち やまとのくにはべ きしたのおみ おなつみ 連の後とある。 = = 他に見えず。伊岐史↓一一三同じ罪なり。涯田臣名を闕せり。が過は、倭國に在りて、官の刀を偸まる。是謹ま 四 0 〇頁注五。一西他に見えず。丹比↓注一八。 いむべのこのみなか をかすことな ったな をみどりのおみたにはのおみ ニ五阿曇連以下第一六行まで第四のグループ。 ざるなり。小綠臣・丹波臣、是拙けれども犯無し。並に名を闕せり。忌部木菓・中 この人はその長官。阿曇連↓一一三六頁注一五。 四四 へぐりのおみ はたのおみ 兵続紀、神亀二年六月条に和徳史竜麻呂らに大とみのむらしむつき 県史を賜うとある。姓氏録、右京諸蕃に大県史臣連正月、二人亦過有り。羽田臣・田口臣、二人並に過無し。名を闕せり。平群臣名 と これも うたへ みくに は百済人和徳の後という。毛やまい。天↓補 を闕せり 。が犯せる所は、三國の人の所訴、有れども未だ問はず、とまうす。此を以て 注ー二〇。ニ九第四グループの次官。この人他 に見えず。膳部臣↓補注ー一。 三一この二人他に見えず。 三 0 ↓補注ー一一一。 云々。几以下官人、成有」過也。共巨勢德禰臣所」犯者、於百姓中、毎」戸求索。仍悔 河辺臣↓一一三頁注七。三ニ大市連以下二八九 二人者、不レ正ニ共上 頁四行まで第五のグループ。大市連はその長官。還」物。而不 = 盡與「復取ニ田部之馬「共介朴井連・押坂連、並 大市連は不詳。大市造↓一五九頁注三〇。 = = 元年八月五日の東国の詔。 = 西同詔に「国司所。失。而飜共求二己利「復取ニ國造之馬「臺直須彌、初雖」諫」上、而遂倶濁。几以下 等在 / 国不レ得 / 判 / 罪」とあるをさす。 官人、咸有」過也。共紀麻利耆柁臣所」犯者、使一入於朝倉君・井上君、二人之所「而爲 三五駿河国有度郡 ( 今、静岡市・清水市 ) か。 三六国司ではなく、在地の人。他に見えず。 牽一一來其馬一視之。復使一一朝倉君作刀。復得一一朝倉君之弓布「復以二國造所」送兵代之 毛他に見えず。涯田は岸田か。姓氏録、右京皇 別に岸田朝臣あり、蘇我稲目の男、小祚臣の孫、物「不二明還 , 主、妄傳二國造「復於一一所任之國「被ニ他偸刀。復於一一倭國「被ニ他偸。刀。 岸田村にありて岸田臣を称すと。三八不詳。 是共紀臣・共介三輪君大口・河邊臣百依等過也。共以下官人河邊臣磯泊・丹比深目・ 三九丹波臣は不詳。丹波直なら丹波の国造の家。 四 0 他に見えず。忌部↓二七一一頁注一六。 百舌鳥長兄・葛城輻草・難波癬龜Ⅷ大養五十君・伊岐史麻呂・丹比大眼、几、是 四一他に見えず。中臣連↓一〇二頁注八。 当亠 0 第六・七・八グループの長官。↓補注八人等、成有」過也。共阿曇連壑。所」犯者、和德史有 = 所患一時、言二於國造「使」送ニ ー二二。四五越前三国という説があるが、三国 官物「復取一一湯部之馬「共介膳部臣百依所」犯者、草代之物、收一一置於家「復取一一國造 ここまでが は「越」で「東国」には入らない。 二八七頁三行の「陳さく」をうける。哭以下、之馬「而換 = 他馬一來。河邊臣磐管・湯麻呂、兄弟二人、亦有」過也。大市連。所」犯 次の意味。以上の陳状によれば、 ( 先には八長官 中の六人は法を奉り、二人は令に違「たとした者、違一一於前語「々々日、國司等、莫下於ニ任所「自斷中民之所訴 3 輙違二斯詔「自判二菟 が、 ) 六人中の第三の紀麻利耆柁臣 ( 注七 ) 、第二 礪人之所訴、及中臣德之奴事「中臣德亦是同罪也。涯田臣。之過者、在一一於倭國「 の巨勢徳禰臣 ( 注一 l) 、第一の穂積咋臣三八七 頁注二四 ) の三人も令に違。ていた、 ( 従「て法被」偸 = 官刀「是不」謹也。小綠臣・丹波臣、是拙而無」犯。並忌部木菓・中臣連正月、 を奉ったのは、他の三人、第六の羽田臣、第七 二人亦有」過也。羽田臣・田口臣、二人並無」過也。。平群臣。所」犯者、三國人 の田口臣、第八の平群臣だけであった、 ) の意。 二八九 孝德天皇大化二年三月 三五 四五 とが たぐちのおみ ならび これ
日本書紀卷第二十二 やふ 即ち一切の生類。 地は載す。四時順ひ行ひて、萬莱通ふこと得。地、天を覆はむとするときは、壞る = 0 欽明十三年十月条に「是法於二諸法中「最為ニ やっこらまうけたまは しもなび 殊勝こ ( 一〇〇頁一四行 ) とある。 = 一維摩経義ることを致さむ。是を以て、君言たまふことをば臣承る。上行ふときは下靡く 疏、菩薩品第四に「夫天下事品雖 / 羅、要在二離 かならつつし おの かれみことのり / 悪取レ善。離 / 悪取 / 善、必以二三宝一為 / 本」とあ 故、詔を承りては必ず愼め。謹まずは自づからに敗れなむ。四に日はく、群卿 る。一三管子、九変に「欲撓レ曲直 / 枉也」とある。 そおほみたからをさ もとかならゐやびあ つかさつかさゐやび 四るやび ニ三管子、明法解に「君臣相与、高下之処也、如ニ 百寮、禮を以て本とせよ。共れ民を治むるが本、要ず禮に在り。上禮なきときは、 天之与レ地也。 : ・故君臣之間明別、則主尊臣卑。 ゐやびな まへつきみたちゐやびあ くらゐ 如 / 此則下之従 / 上也、如一響之応レ声。臣之法 」主也、如 = 影之随形。故上令而下応、主行而臣下齊らず。下禮無きときは、必ず罪有り。是を以て、群臣禮有るときは、位の 五 をさま おほみたからゐやび あめのしたおの 従」。一一四礼記、中庸に「舟車所 / 至、人力所 / 通、ついでみだ あちはひのむさぼりた 天之所」覆、地之所」載、日月所」照、霜露所」墜」次亂れず。百姓禮有るときは、國家自づからに治る。五に日はく、餮を絶 とある。孝徳即位前紀六月十九日条の分注に たからのほしみ す あきらかうたへさだ おほみたからうたへひとひ ちわざ 「天覆地載、帝道唯一」三七〇頁一三行 ) とある。ち欲することを棄てて、明に訴訟を辨めよ。共れ百姓の訟、一日に千事あり。 九 なほしか いはむとしかさ このごろうたへをさ ひとどもくほさえ 一春夏秋冬。論語、陽貨に「四時行焉、百物生一日すらも尚爾るを、況や歳を累ねてをや。頃訟を治むる者、利を得て常とし、 焉」とある。ニ論語、顔淵に「君子之徳風也、 ごと ことわりまう うたへ みづな 小人之徳草也、草尚一一之風一必偃」、説苑、君道に 賄を見ては囂すを聽く。便ち財有るものが訟は、石をもて水に投ぐるが如し。乏 「上之化 / 下、猶一一風靡レ草」とある。三孝経、広 に おほみたから せむすべ 要道に「安 / 上治 / 民、莫 / 善ニ乎礼ことある。 しき者の訴は、水をもて石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき民は、所由を知ら 四韓詩外伝に「詩日、俾ニ民不フ迷、上無 / 礼則 むつ あしきことこらほまれすす 不レ免二乎患下無 / 礼則不 / 免一一乎刑一」とある。 = 天武八年十月条の詔に「上責一卞過「下諫 = ず。臣の道亦焉に闕けぬ。六に日はく、惡を懲し善を勸むるは、古の良き典なり。 一四 あしきこと たた へつらあざむもの あめのした 上暴一乃国家治焉」 ( 四三八頁一行 ) とある。「国 ほまれかく 家」は、君主あるいは朝廷の意味でミカドと訓 是を以て人の善を匿すこと无く、惡を見ては必ず匡せ。共れ諂ひ詐く者は、國家を む場合と、アメノシタと訓む場合がある。憲法 おほみたからた むか つるぎ くつがへとうつはもの では専ら後者の意味。 覆す利き器なり、人民を絶っ鋒き劒なり。亦佞み媚ぶる者、上に對ひては好みて 六左伝、文公十八年に「縉雲氏有二不才子一貪二 みな これら いさをしさ 于飲食一冒 = 於貨賄→侵 = 欲崇侈一不」可 = 盈厭一下の過を説き、下に逢ひては上の失を誹謗る。共れ如此の人、皆君に忠无く、 聚ニ斂積実一不 / 知二紀極一不 / 分ニ孤寡一不 / 恤ニ窮 おのおのよさし つかさど ななっ おほみたからめぐみ 匱一天下之民以二此三凶一謂二之饕餮 ( ) こ、杜 民に仁无し。是大きなる亂の本なり。七に日はく、人各任有り。掌ること 預の注に「貪 / 財為 / 饕、食レ食為 / 餮」。餮に従 一八 ひとっかさたも こゑすなはおこ さかしひとっかさよさ って食をむさぼることで、アヂハヒノムサポリ 濫れざるべし。共れ賢哲官に任すときは、頌むる音則ち起る。辭しき者官を有っと の古訓、これに当る。七夕カラをホシク思、つこ よ おも ひじりな しげ すくな わさはひみだれ と。礼記、曲礼の疏に「心所二貪愛一為 / 欲」とあ ↓示興ち繁し。世に生れながら知るひと少し。剋く念ひて聖と作る。事に り、孟子、尽心の趙注に寡欲の欲を利欲としてきよ、咼」 まひなひみ みだ ととのほ やっこらまみちまたここ あやまりと ひと の 一五 うたへ よっのとぎしたがおこな よ すなはたから よろづのしるしかよ ぎみの みだれ と あやまちそし し っちあめおは まづ かみおこな よっ かだま いにしへよ つね まへつきみたち この のり し と、も 0
皇極天皇四年六月 孺母一也、此印人鹿臣、忽於宮中、爲二佐伯連子廠呂・稚大養連網田「所訣之兆也。」 〇庚戌、讓一一位於輕皇子「立ニ中大兄「爲二皇太子「 日本書紀卷第廿四