となり みかどあざむ たというのである。 罪を數めて日はく、「朝庭を欺誑きまつれり、一つなり。隣の使を溺らし殺せり、 一六↓二年七月条。 ゆるしつかは かな ふた 宅既而は、さるほどに、やがての意。 二つなり。の大きなる罪を以ては、放還すこと合はず」とのたまふ。以て共の罪 天マダスはマキイダ ( 参出 ) ス意。天皇の政府 さだ に向って参上させる意。 mawiidasu ↓ mawida- を斷む。 stl—»matldastl—»mandastl—»madastl. ッカハス ( 九日 ) ひのえさるのひ そがのうまこのおほおみぎびのくに しらゐのみやけたペ ふゆかむなづきっちのえね は、天皇などから派遣する意。遣の字を、書紀 冬十月の戊子の朔内中に、蘇我馬子大臣を吉備國に遣して、白猪屯倉と田部と の古訓では、マダス・ツカハスと意味によって ( 十一日 ) っさづ っちのえいぬのひふねのふびとわうしん なのふみたも しらゐのふびと 訓み別けている。↓補注跖ー二八。 一九送使の船に乗「た二人の高麗の使人が帰。を增益さしむ。印ち田部の名籍を以て、白猪史膽津に授く。戊戌に、船史王辰 て来ない理由を知りたいの意。ャッカレはヤッ コ ( 臣 ) アレ ( 我 ) の約。謙称の第一人称代名詞。 名義抄に「僕」をャッカレ ( 力は清音 ) とよむ。 溺死者衆。朝庭猜二頻迷一」路、不」饗放還。仍勅二吉備海部直難波「送一一高麗使「 0 秋 yatukoare ↓ ) 「 atukare. 通証は臣使を送使の誤 りとしているが、必ずしも誤りとする必要はな 七月乙丑朔、於二越海岸「難波與一一高麗使等一相議、以二送使難波船人大嶋首磐日・狹 = 0 数は責の意。漢書、高帝紀「漢王数一羽」、顔丘首間狹「令レ乘二高麗使船「以一一高麗二人「令」乘二送使船「如此互乘、以備一一辭志「 師古注に「数、責二其罪一也」。罪をかぞえあげ て責めること。履中五年十月条その他にも同様倶時發船、至二數里許「送使難波、乃恐一一長波浪「執二高麗二人「擲ニ人於海「 0 八月 の用例がある。 = 一のちの備前・備中・美作・備後。今の岡山甲午朔丁未、送使難波、還來復命日、海裏鯨魚大有、遮三囓船與一一械櫂「難波等、恐 = 県と広島県東半を含む地域の古称。馬子は四年 魚呑船、不」得二入海「天皇聞之、識二共謾語「駈二使於官「不放二還國「 二月に帰還して復命した。 一三欽明朝に吉備の各地に広く設置した屯倉。 三年夏五月庚申朔甲子、高麗使人、泊二于越海之岸「 0 秋七月己未朔戊寅、高麗使 ↓欽明十六年七月・十七年七月・三十年正月・ 同四月条。 人、入」京奏日、臣等去年相二逐送使「罷二歸於國「臣等先至一宦蕃「臣蕃即准二使人 ニ三屯倉の農民。↓五一頁注一一三。 ニ四欽明三十年正月条に白猪田部の丁籍とある。 之禮「々二饗大嶋首磐日等「高麗國王、別以一一厚禮一々之。既而、送使之船、至今未 ↓欽明三十年正月・四月条。丁籍が課丁 ( 課役 を負担する成年男子 ) のみを記載したのに対し 」到。故更謹遣二使人井磐日等「請一一問臣使不來之意「天皇聞、印數二難波罪一日、欺ニ て、この名籍は胆津が新たに作成したもので、 令制の戸籍・計帳に近いものか。戸籍↓補注誑朝庭「一也。溺二殺隣使「二也。以二大罪「不合二放還「以斷一一其罪「 0 冬十月 = 五船史王辰爾の甥。↓欽明三十年正月・四月戊子朔内申、遣二蘇我馬子大臣於吉備國「增三益白猪屯倉與一一田部「印以二田部名籍「 条。 授ニ于白猪史膽津「〇戊戌、詔二船史王辰↓ 兵↓一〇四頁注一六。 敏達天皇二年五月ー三年十月 ま ニ 0 のたま おほ ひと つかは これをも ころ
日本書紀 五八 0 人二於吉野一避ニ朝猜忌一」と称川。 + て数えているが、天武即位前紀では「天命られたらしいこと、かっその際に各氏上をすべて記載した書類が作られた らしいことが続紀によって知られるが、さらに古語拾遺の天武八姓につい 開別天皇元年、立為二東宮一四年冬十月庚辰、天皇臥病、以痛之甚矣」と六 年をへだてて即位で数えている。このくいちがいは、現在の書紀本文にお て述べた部分には「共二日一一朝臣一以賜一一中臣氏一命以ニ大刀ご二日ニ宿禰一 いてのみならず、書紀編者の手にした原史料にもすでに存在したと思われ 以賜ニ斎部氏一命以ニ小刀ことあるので、天智紀にいわゆる大氏とは後の るが、天智紀に五、六年をへだてて、その月こそ異なれ、同じ事実を伝えた 朝臣、小氏とは宿禰、伴造等とは忌寸に、ほぼ相当する氏を指すのであろ と見られる記事が重出しているのは、おそらくそのためであろう。 うと解されている。なお、氏上は、大宝令に氏上、養老令に氏宗と表記さ まず六年をへだてた記事としては、四年二月是月条と十年正月是月条と れ、平安時代には氏長者とよばれた。続紀、文武二年九月条に見える氏助 に見られる鬼室集斯に対する小錦下の授位があり、五年をへだてたものに は、その補佐。 は四年八月条と九年二月条との長門・筑紫における築城がある。また八年 また、図民部については、天武紀にこれを部曲と記してある。そこで古 是歳条と十年十一月十日条とに見える郭務棕の来日は二年をへだてるにす くは大化改新前の諸氏の私有民であった部曲と同視し、その復活としてき ぎないが、 一行の二千人という数まで一致して重出の疑いが濃く、七年七 たが、井上光貞は、本文に「定」 ( 三六〇頁一五行 ) 、上掲文に「給」とある 月条と十年六月是月条との栗前王の筑紫率 ( 帥 ) 任命も、その間三年である 以上、単なる復活とするのは誤りで、実質的には部曲と同じ性質のものと が、両条はほぼ同文であり、再任と見るよりも重出と考えるべきであろう。 しても、法的には国家が給与するものとなったと解した。また北村文治は、 これら二、三年をへだてた記事は、五、六年間隔のときのような説明はっ 大化改新によって、部曲は公民として国家に掌握されたが、その後、特に け難い。しかしこの三年二月九日条の場合も、七年間隔であるにもかかわ 地方豪族のそれは、朝廷によってまだ掌握されていなかった。そこで、こ らず、この条と十年正月六日条との新冠位の施行には、重出の疑いが濃い れらを登録し公認したのが部曲であるとした。これに対し関晃は井上・ すなわち新冠位の施行にさいしては、書紀はすべてその内容を記すのが例村のごとく、「定」「給」にそのような意味を付することを疑い、民部・家 であるのに ( ↓補注ー一七・表一 (l) 、十年正月条のみはその内容にふれ部とは令制で高官に給与し、その駈使にあてた帳内・資入などと同じ意味 ていないこと、また天智紀では称制時代にかぎり天智天皇を「皇太子」と をもった制度と考えられるとした。しかし、帳内・資人は個人に給与され 書くのが通例であるのに、三年二月条のみは「天皇」と記していることな るが、民部・家部は氏に給与されている。 どの例外が認められるのみならず、十年正月以降の記事に見える冠位はそ 3 家部は、その名からいって、氏ではなくて家に所属する隷属者である れ以前と格別変っていないからである。 と考えられるが、 3 天智朝に「定一一共民部・家部ことある本文と、 2 天武 この新冠位の施行時点の間題については、重出記事と認めるか否か、認 朝に「諸氏被 / 給部曲」を廃したとある上掲天武四年紀と、この二つの記 めるとすれば三年二月とすべきか十年正月とすべきかで諸説があり、十年事の関係については、次の二つの考え方がおこなわれている。第一は、④ 正月条を重出記事と認めて事実を否定する場合には近江令の存否の問題に の民部・家部はすなわちの部曲であるとするもので、この説によれば、 も関連してくるのである。 天武四年には、民部・家部ともに廃止されたことになる。第二は、の民 五氏上・民部・家部 ( 三六〇頁注一 ~ ハー一八 ) 天智三年二月九日条の冠位改部だけが、 2 の部曲にあたるとするもので、この説によれば、天武四年に 定の記事が十年正月六日条の重出と疑われているのに対し、同じ日の氏は、天智朝に公定された民部 ( Ⅱ部曲 ) は廃せられたが、天智朝に公定され 上・民部・家部等の記事は、天武四年二月十五日条に「甲子年、諸氏被 / 給た家部の方はそのまま存続したことになる。そして、この家部が、令の五 部曲者、自レ今以後、皆除之」とあり、また続紀、大宝二年九月二十五日条賤の一つの家人の源流であったとみることが可能となってくる。なお、こ に「甲子年、定二氏上一時、所 / 不レ載氏、今被 / 賜 / 姓者、自二伊美吉一以上、 のいずれの説をとるにせよ天武四年部曲が廃せられたことになるがこのこ 並悉令 / 申」とあるので、甲子年すなわち天智三年の事実であることが確とと、天武朝に封戸の問題で大きくとり扱われていることとは、深い関係 かめられる。 があろう。特に、翌天武五年四月には、西国の封戸を東国に移す如き、処 この中で、田まず氏上については、忌寸 ( 伊美吉 ) 相当以上の氏上が定め置をとっているが、それは、封戸制の名のもとに、部曲制が温存すること
ほちくゐよ ならみつきたてまっ の名は糠代比売王とあり、また田村王ともある。 和陀・發鬼、四つの邑の調を進る。 彦人大兄皇子の妃で舒明天皇の母。島皇祖母命 ことしうらべみことのり とも呼ばれた。天智三年没。延喜諸陵式に「押是歳、ト者に命して、海部王の家地と絲井王の家地とを占ふ。ト ~ るに便ぢ 坂墓〈田村皇女。在ニ大和国城上郡舒明天皇陵 つひみやをさた これさぎたまのみや 内無ニ守戸一〉」とある。皇極天皇の母で皇極 襲吉し。遂に宮を譯語田に營る。是を幸玉宮と謂ふ。 二年に死んだ吉備島皇祖母命 ( 吉備姫王 ) とは別 ふゅ かむさ 人。天前年十月条の白猪屯倉の増益のことを 冬十一月に、皇后廣姫薨りましぬ。 さす。一九二月に乙丑はない。通証以下は上に ( 十日 ) やよひっちのとのう っちのえねのひ つかさきさき 三月乙卯朔の五字を補う。乙卯朔ならば乙丑は 十一日。 = 0 彦人大兄皇子をさすか。一 = 任那の 五年の春三月の己卯の朔戊子に、有司、皇后を立てむことを請す。詔して豐 復興のことを、おこたってはいけよい。 一三他に見えず。或は崇峻四年十一月条に見え る吉士金と同人か。↓一七〇頁注七。吉士↓一一一爾弟牛「賜」姓爲二津史「 0 十一月、新羅遣」使進」調。 八頁注三。ニ三十三年二月条と推古八年二月条 には難波吉士木蓮子、崇峻四年十一月条に吉士四年春正月丙辰朔甲子、立二息長眞手王女廣姫一爲一一皇后「是生一一一男二女「共一日二 木蓮子とある。木蓮子は奈良朝ではイタビと訓 。更名、廠。共二日一一逆登皇女「共三日一一菟道磯津貝皇女「◎是月、 んだが、平安朝ではイタヒと清音 ( 名義抄 ) 。難押坂彦人大兄皇子一呂古皇子 波吉士↓五五頁注三一。 = 四他に見えず。 。更名「藥生一一三男一女「共一日二難波皇子「 = = 継体二十三年四月是月条の一本 ( 四二頁二立ニ一夫人「春日臣仲君女日二老女子夫人一君娘 行 ) に見える多多羅・須那羅・和多・費智の四 村にあたる。新羅は任那併呑後、この地の調を共二日一一春日皇子「共三日二桑田皇女「共四日二大派皇子「次采女伊勢大鹿首小熊女 任那の調として日本におさめる義務を負ってい 0 二月壬辰朔、馬子宿 日 = 菟名子夫人「生三太姫皇女更名纓與一一糠手姫皇女「皇女。 たと考えられる。任那の調↓補注ー一。 実松尾社家系図はこのト者を十握 ( ) 宿禰と 禰大臣、還二于京師「復二命屯倉之事「〇乙丑、百濟遣」使進」調。多益二恆歳「天皇、 するが、どこまで確かな伝えか疑わしい。 毛他に見えず。天他に見えず。一一九左伝、哀 以二新羅未。建二任那「詔三皇子與ニ大臣一日、莫懶二懈於任那之事「 0 夏四月乙酉朔庚 公十年条に「事不 / 再レ令。ト不 / 襲 / 吉」とあり、 杜預の注に「襲は重なり」とある。吉を重ねる 寅、遣二吉士金子「使一一於新羅「吉士木蓮子使一一於任那「吉士譯語彦使一一於百濟「 0 六 の意で、トの結果が重ねて吉とでたの意。 = 0 敏達記に他田宮、天寿国繍帳に乎沙多宮、霊月、新羅遣」使進」調。多益二常例「拜進一一多々羅・須奈羅・和陀・發鬼、四邑之調「 異記・帝王編年記に磐余訳語田宮とある。今の 奈良県桜井市戒重翁 ) の地かという。 ◎是歳、命一一ト者「占三海部王家地與二絲井王家地「ト便襲吉。遂營二宮於譯語田「是 三一↓注四。三ニのちの推古天皇。敏達天皇の異 母妹で母は蘇我稲目の娘の堅塩 ( いた ) 媛。↓欽明 謂二幸玉宮「 0 冬十一月、皇后廣姫薨。 二年三月条。推古即位前紀には立后のとき十八 歳とある。 五年春三月己卯朔戊子、有司請立一一皇后「詔立二豊↓ 敏達天皇三年十月ー五年三月 よ 3 みことのり とよ
ふゆかむなづきみづのえたつついたちのひすめらことしらきみまなあたな いる。伊勢国壱志郡新家霧 ) か。今の三重県一 二年の冬十月の壬辰の朔に、天皇、新羅の任那に寇ふを以て、大伴金村大 ニ九三 0 志郡久居町新家で、物部神社がある。 とき さでひこ そ たす むらじ 一一 0 大夫阿倍大麻呂をさすと思われる。 連に詔して、共の子磐と狹手彦とを遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫 一 = 孝元紀に阿倍臣と共に大彦命を始祖とする ゅ また とどま みつのからくにそな しづ ことが見える。天武十三年十一月に朝臣の姓を に留りて、共の國の政を執りて、三韓に備ふ。狹手彦、往きて任那を鎭め、加百 すく 一三ここで官家を屯倉と同じくミャケと訓ませ 濟を救ふ。 ているが、書き分けたところをみれば、或いは ( 十日 ) きさらぎきのとのとりついたちきのえうまのひ びのくまのいはりののみやかむあが みとし 両者の間に機構・機能の違いがあったのではあ 四年の春二月の乙酉の朔甲午に、天皇、檜隈廬人野宮に崩りましぬ。時に年 る士いカ ↓補注ー一三。 ニ三博多大津の古名。和名抄に筑前国那珂郡中 島郷 ( 今、福岡市博多 ) 。なお同郡三宅郷 ( 今、 福岡市 = 一宅 ) は南隣。斉明七年 = 一月条に娜大津二姓之先也。前庶妃大河内稚子媛生二一男「是日 = 火焔皇子「是椎田君之先也。 0 夏 ( 翳お ) を長津と改めたことが見えている。 五月辛丑朔、詔日、食者天下之本也。黄金萬貫、不可」療」飢。白玉千箱、何能救」冷。 ニ四ちりぢりになる。下二段活用。神代紀上 「散去」の私記に「アカレイヌ」とある。 夫筑紫國者、遐邇之所一一朝屆「去來之所二關門「是以、海表之國、候一一海水一以來賓、 一宝それを必要とした場合には、急にととのえ るわけに行くまい。須は用いる、要は必要とす望二天雲一而奉レ貢。自二胎中之帝「泊二于朕身「收ニ藏穀稼「蓄二積儲粮「遙設二凶年「 る意。 = 一諸所の屯倉の穀をそれぞれ一部割いて、こ厚饗 = 良客「安」國之方、更無」過」此。故、朕遣 = 阿蘇仍君「鼕詳加運 = 河内國茨田郡 れを那津に移し集める意であろう。 屯倉之穀「蘇我大臣稻目宿禰、宜下遣二尾張連「運中尾張國屯倉之穀「物部大連麁鹿 毛↓補注ー一〇。 天↓補注跖ー一三。 火、宜下遣二新家連「運中新家屯倉之穀「阿倍臣、宜下遣二伊賀臣「運中伊賀國屯倉之穀 3 = 九他に見えず。 = 0 欽明二十三年八月条に高麗を破「たと見え修二造官家、那津之ロ「又其筑紫肥豐、三國屯倉、散在二懸隔「運輸遙阻。儻如須要、 ている。三代実録、貞観三年八月十九日条の伴 善男 ( ) の奏状にも、金村の三男で、宜化・欽難二以備率。亦宜下課一一諸郡一分移、聚二建那津之ロ「以備二非常「永爲中民命 3 早下一 明両朝に再度渡海して功を立てたとある。狭手 彦の出発に際し、肥前国松浦郡での佐用姫 ( 邑郡縣「令」知二験心「 0 秋七月、物部麁鹿火大連薨。 0 是年也、太歳内辰。 との別離の伝説が、肥前風土記松浦郡条や万葉 二年冬十月壬辰朔、天皇、以三新羅寇二於任那「詔二大伴金村大連「遣三共子磐與二狹 一ー五に見えている。 手彦「以助二任那「是時、磐留一一筑紫「執一一其國政「以備二三韓「狹手彦往鎭一一任那「 加救一一百濟「 四年春一一月乙酉朔甲午、天皇崩二于檜隈廬入野宮「時年↓ 宜化天皇元年三月ー四年二月 まつりごとと 五九 おほとものかなむらのおは
第二に、百済本記の文 ( 四六頁一三行 ) は、辛亥の年に日本の天皇及び太紫君石井、不 / 従二天皇之命一而、多无レ礼、故、遣二物部荒甲之大連、大伴之 子皇子がともに死んだという奇怪な記事であって、そこに何か不思議な事金村連二人一而、殺二石井一也、」と見え、釈紀所引の筑後風土記の逸文に 件があったように思われる。 「上妻県、々南二里、有二筑紫君磐井之墓墳一高七丈、周六十丈、墓田南北 第三には、有名な仏教公伝の年は、書紀では欽明十三年壬申の年のこと各六十丈、東西各卅丈、石人石盾各六十枚、交陣成 / 行、周一一匝四面一当二東 にしてあるが、帝説では欽明天皇の戊午の年とし、又、元興寺縁起では欽 北角一有ニ一別区一号日二衙頭一〈衙頭政所也〉、共中有ニ一石人一縦容立 / 地、 明天皇七年戊午の年のこととする。書紀紀年では歔明朝に戊午の年はなく、 号日二解部一前有一一一人一躱形伏レ地、号日二偸人一〈生為 / 偸 / 猪、仍擬 / 決 しかも書紀では欽明天皇の治世は三十二年間であるが、帝説では四十一年 / 罪〉、側有一一石猪四頭一号ニ贓物一〈贓物盗物也〉、彼処亦有二石馬三疋、石 間とあって、食違いがある。 殿三間、石蔵二間一古老伝云、当ニ雄大迹天皇之世一筑紫君磐井、豪強暴 大体以上のような諸点で書紀紀年には大きな問題があるので、これらを虐、不 / 偃一一皇風一生平之時、預造ニ此墓一俄而官軍動発、欲 / 襲之間、知一一勢 合理的に説明しようとして、さまざまな試みが行なわれて来た。その中で、 不レ勝、独自遁二于豊前国上膳県「終二于南山峻嶺之曲一於レ是、官軍追尋失 平子鐸嶺の説は仏教公伝の年に関する帝説・元興寺縁起の説を生かし、継 / 蹤、士怒未 / 泄、撃一折石人之手一打二堕石馬之頭一古老伝云、上妻県多有ニ 体紀には七年紀と二十三年紀に同じ事が重出しているから錯簡が多いとし篤疾一蓋由 / 歟」と見えている。福岡県八女市の人形原の岩戸山古墳は、 て書紀紀年を大幅に組替え、継体二十三年に薨じた大臣巨勢男人が、続紀長さ一二五メートルの前方後円墳であるが、風土記に「衙頭」と記された では次の安閑朝にも大臣であったと見えているから、書紀の継体二十三年通りに、東方角に一辺の長さ約四〇メートルの方形の区画があり、しかも、 は実は既に安閑朝に人っていたとし、安閑・宜化の両朝を書紀紀年の継体第二次大戦後、ここから多くの石人・石馬、その他の石製品が発見された。 朝の末尾に繰人れて、辛亥の年は継体の崩御でなく、宜化崩御の年であるニ三咨大連・ : の出典 ( 三六頁注一 ) 次の傍線の部分は出典を芸文類聚にもつ。 とした。これに反し、喜田貞吉は、欽明天皇の治世は帝説の如く四十一年 ( ) 内に部名以下を示し、「」内にその出典原文を掲げる。 と見るべく、そうすればその元年は辛亥となり、継体の崩年と同じ年とな 咨大連、惟磐井弗 / 率、汝徂征 ( 武部、戦伐、尚書「咨禹、惟﨡有苗弗 る。そこで継体天皇の次には実は欽明天皇の即位があったのであるが、こ / 率、汝徂征」 ) 、物部麁鹿火大連再拝言、嗟夫磐井西戎之鼾猾、負二川阻一而 れを認めない一派があって、二年を経た甲寅の年に安閑天皇が即位し、続不 / 庭 ( 武部、戦伐、魏楊脩出征賦「嗟夫呉之小夷、負二川阻一而不 / 廷」 ) 、 いて宜化天皇が即位した、即ち、安閑・宜化朝と欽明朝の初年は並立した 憑一一山峻一 ( 武部、戦伐、晋張載平呉頌「憑 / 山阻 / 水」 ) 而称 / 乱 ( 武部、戦伐、 のであって、宜化天皇崩御の後、両朝は合一したのであろうと考えた。 晋陸士竜南征賦「敢行称 / 乱」 ) 、敗 / 徳反 / 道、侮嫂自賢 ( 武部、戦伐、尚書 この両朝並立の立場を推しすすめて、内外の情勢からこの期間を内乱の時「侮嫂自賢、反 / 道敗 / 徳」 ) 、在昔道臣、爰及一一室屋一助レ帝而罰、拯二民塗炭「 期として説明しようとしたのが林屋辰三郎で、継体天皇は畿外から大伴氏彼此一時、唯天所 / 賛 ( 武部、戦伐、魏文帝於黎陽作詩「在昔周武、爰曁二公 に擁立されて立ち、反対勢力に妨げられて大和に人るまでに二十年を要す 旦一載 / 主而征、救二民塗炭「彼此一時、唯天所 / 讃」 ) 、臣恒所 / 重、能不二恭 る状態であり、半島では朝鮮経営が失敗し、多くの負担を受けて不満を抱伐一詔日、良将之軍也、施 / 恩推 / 恵、恕 / 己治 / 人、攻如二河決一戦如二風発一 いた族長たちの反乱が起った。その一例が筑紫の磐井の乱であり、継体天 ( 武部、将帥、黄石公三略「良将之軍也、恕 / 己治 / 人、推 / 恵施 / 恩、士カ日 皇の崩御に当っては、辛亥の変ともいうべき内乱状態があったとした。そ新、戦如一風発一攻如ニ河決こ ) 、重詔日、大将民之司命、社稷存亡、於 / 是 して継体天皇の次には蘇我氏に擁立された欽明天皇が即位したが、一方、 乎在 ( 武部、将帥、枹朴子「大将民之司命、社稷存亡、於 / 是乎在」 ) 、勗哉、 大伴氏らはこれに対して二年を経て安閑天皇を擁立し、宜化天皇の崩後、 恭二行天罰一 ( 武部、戦伐、尚書「今予発惟恭一一行天之罰一夫子勗哉」 ) 、天皇 両朝は合一して内乱は収拾されたと推測した。以上の諸説は、継体・欽明親操一一斧鉞一授ニ大連一日 ( 武部、将帥、淮南子「主親操 / 鉞、授ニ将軍一日・ : 将 朝の紀年の矛盾を合理的に説明しようとした見解であるが、他にも、原勝軍制之」 ) 、長門以東朕制之、筑紫以西汝制之、専行一一賞罰一 ( 武部、将帥、漢 郎・坂本太郎以下諸種の論がある。 書「闃以内寡人制之、闃以外将軍制之、軍功爵賞、皆決ニ於外こ ) 、勿一一煩頻 一三磐井の乱 ( 三四頁注一五 ) 磐井の乱については、古事記に「此之御世、竺奏一 補注貰ー一六 五四七
編者の文。このような注の書き方は継体二十五擬」獻 = 帝朝→五月廿三日、奉 = 進朝倉之朝「耽羅人朝、始 = 於此時「又、爲 = 智興傔人東漢草直足嶋「 0 六月、伊勢王 所レ讒、使人等不レ蒙一一寵命使人等怨、徹ニ于上天之神 f 震ニ死足嶋 7 時人稱日、大倭天報之近。 年十二月条分注にもある。 一五↓補注 % ー八。 薨。 0 秋七月甲午朔丁巳、天皇崩一一于朝倉宮「 0 八月甲子朔、皇太子奉一一徙天皇喪「 一六特に名を挙げたのはのちに有名になったか らであろうか。持統五年九月条・六年十二月条還至二磐瀨宮「是タ於二朝倉山上「有」鬼、着二大笠「臨ニ視喪儀「衆皆嗟怪。 0 冬十 に、音博士として優遇されたことが見える。な お天智二年二月是月条にも続守言らの上送がみ月癸亥朔己巳、天皇之喪、歸就二于海「於是、皇太子泊一一於一所「哀二慕天皇「乃ロ號 えるが、上送とはこの場合日本に送ることであ るから重出になる。日本世記によるこの記事を日、枳瀰我梅能、姑袞之枳舸羅偉、婆底々威底、舸矩野姑悲武謀、枳瀰我梅弘報梨。 採るべきか。 一七この年。 〇乙酉、天皇之喪、還泊一一難波「 0 十一月壬辰朔戊戌、以二天皇喪「殯二于飛鳥川原「 天↓三四六頁注五。 一九和名抄に、栗太 ( ) 郡に治田 (% 。 ) 郷がある。 自」此發 ~ 、至二于九日「信所獻唐俘一百六ロ、居 = 于近江國墾田→庚申年、既云 = 信、獻 = 唐俘→故、今存注。 今、滋賀県栗太郡栗東町内 ( もと治田村 ) 。しか 其決 し、ここは単に開墾地の意か。 焉。 ニ 0 昨年。↓六年十月条。 日本書紀卷第廿六 齊明天皇七年五月ー十一月
まういた ぎさらぎみづのとのみついたちのひ 天北凉蕓無讖訳の金光明経四巻、または隋の 二月の癸巳の朔に、物部連摩呂、新羅より至る。 四三 宝貴訳の合部金光明経八巻。 たねのしまびとらあすかでらにしつきもとあへ ニ九後秦鳩摩羅什訳の仁王般若波羅蜜経二巻。 是の月に、多禰嶋人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗たまふ。 ↓斉明六年五月条。この両経ともに護国の経典 ( 十九日 ) しもべとをあまりみたりみやこめ やよひみづのとのゐついたちかのとのみのひ として尊ばれた。三 0 ↓三八四頁注一〇。 三月の癸亥の朔辛巳に、新羅の使人淸平及び以下客十三人を京に召す。 三一高句麗の五部の一。↓表一〇。 四五 ( 十一日 ) よ みづのえとらのひ なつうづきみづのえたっ 三ニ高句麗の官名。↓表六。 = = 他に見えず。 = 西高句麗の五部の一。↓表一夏四月の壬辰の朔壬寅に、枚田史名倉、乘輿を指斥りまつれりといふに坐り ( 十四日 ) まかりかへ あへ すなは きのとのみのひおくるつかひちんなら づのしまなが 〇。三五高句麗の官位。↓表六。 て、伊豆嶋に流す。乙巳に、送使珍那等に、筑紫に饗たまふ。印ち筑紫より歸る。 三六他に見えず。一宅新羅の官位十七階の第十。 ↓表二。三八持統七年二月条の金陽元と同一人 であろう。金楊原と金陽元とは全く同音。 = 丹波國訶 . 云 = 第既一則尾張國山田郡、次須伎一也。 = 〈奈良県大和郡山市新木 (%) 。十一年 = 一月、造神官奏日、爲 = 新嘗一ト = 國郡一也。齋齋隊、此 都の準備として地形を視察させ、行幸があった。 沙郡、並食」ト。◎是月、坂田公雷卒。以ニ壬中年功「贈一一大紫位「 0 冬十月乙未朔、 続紀、宝亀五年八月条に光仁天皇の新城宮行幸 のことが見えるから、この後も離宮が置かれて置酒宴二群臣「〇丁酉、祭二幤帛於相新嘗諸神祇「〇甲辰、以一一大乙上物部連摩呂一 いたものか。なお続紀、神護景雲三年十月条の 詔では、平城宮をさして「新城の大宮」といっ 爲一一大使「大乙中山背直百足爲二小使「遣ニ於新羅「 0 十一月乙丑朔、以二新嘗事「不二 ている。持統三年九月条の「新城」は筑紫の新 告朔「〇丁卯、新羅遣一一沙金淸平一請」政。井遣一一汲金好儒・弟監大舍金欽吉等一 城のこと。 四 0 諸本この下に「或本無二是年以下都以上之 進」調。共送使奈末被珍那・副使奈末好輻、送一一淸平等於筑紫「 0 是月、肅愼七人、 字一注ニ十一月上この十七字の分注があるが、 後人の傍書の携人であろう。 從二淸平等一至之。〇癸未、詔二近」京諸國「而放生。〇甲申、遣二使於四方國「説二金 四一大射。↓四一三頁注一。 四 = 来朝時日未詳。多禰島は現在の鹿児島県の光明經・仁王經「〇丁亥、高麗遣一一大使後部主簿阿于・副使前部大兄德富一朝貢。仍 種子島。八年十一月倭馬飼部造連らが派遣され、 十年八月多禰島の図がたてまつられた。同月条新羅遣一一大奈末金楊原「送二高麗使人於筑紫「◎是年、將レ都二新城「而限内田園者、 に多禰島の位置・風俗・産物についての記述が 不レ問二公私「皆不」耕悉荒。然遂不」都矣。 ある。四三↓補注ー三。 四四他に見えず。天平五年の右京計帳に「咋田 六年春正月甲子朔庚辰、射二于南門「 0 二月癸巳朔、物部連摩呂、至」自一一新羅「◎是 史真利女」が見える。 四五天皇を非難する。養老職制律に「凡指二斥乗 月、饗一一多禰嶋人等於飛鳥寺西槻下「 0 三月癸亥朔辛巳、召二新羅使人淸平及以下客 輿一情理切害者斬。非ニ切害一者徒二年」の規定 があり、八虐の六、大不敬に当る罪とされる。十三人於京「〇夏四月壬辰朔壬寅、桟田史名倉、坐」指一一斥乘輿「以流二于伊豆嶋「 乗輿↓一二八頁注一四。 〇乙巳、送使珍那等、饗二于筑紫「印從二筑紫一歸之。 契伊豆の大島か。↓四一九頁注三四。 四二七 天武天皇下五年九月ー六年四月 四四 くひたのふびとなくら
こきしいつつのたなつものたねたま 昭二年 ( 前一宅 ) とする。しかし高句麗はもと漢の耽羅の王に五穀の種を賜ふ。是の日に、王子久麻伎等罷り歸りぬ。 ( 五日 ) ニ九 玄菟郡の県名で、独立は王莽の頃らしく、三国 やましなのの なっさっきっちのえとら みづのえうまのひ 志、東夷伝に、後漢の建武八年 ( 後三一 l) 朝貢し、初 夏五月の戊寅の朔壬午に、天皇、山科野に縱獵したまふ。大皇弟・藤原内 めて王と称したとある。 一へ新唐書、高麗伝の李勣の言にも「高麗秘記日、ま、つきみおよま、つぎみたちみなことごとくみとも 大臣及び群臣、皆悉に從につかへまつる。 及 / 不二九百年一当下有二八十大将一滅物之。高氏自 ( 三日 ) あきはっきひのとのひっし っちのとのとりのひ たかやすのたけのぼ きをさ レ漢有レ国、今九百年、勣年八十矣」とある。いず 秋八月の丁未の朔己酉に、天皇、高安嶺に登りまして、りて城を修めむ れも減亡が予想されてから作られた話であろう。 や 一九三国史記、高句麗紀に「河伯之女。名、柳花」。 とす。仍、民の疲れたるを恤みたまひて、止めて作りたまはず。時の人感でて歎 オリクク↓補注眄ー一〇。 = 0 ↓補注ー一三。 三播磨風土記に、近江天皇の世の国宰、道守臣 という人が見える。道守臣は、開化記に建豊波 豆羅和気王をその祖とするとあるが、姓氏録で又饗 = 蝦夷「又命二舍人等「爲二宴於所々「時人日、天皇、天命將及乎。 0 秋九月壬午 は波多矢代宿禰の後とするものがある。天武十 朔癸巳、新羅遣二沙喙級金東嚴等一進」調。〇丁未、中臣内臣、使二沙門法辨・秦筆「 三年十一月に朝臣と改姓。 一三他に見えない。吉士↓三八頁注三。 賜一一新羅上臣大角干庚信船一隻「付二東嚴等「〇庚戌、使ニ布勢臣耳廠呂「賜下新羅王 ニ三以下は古語拾遺に「外賊偸盗、不 / 能レ出 / 境」 と要約、熱田太神宮縁起に大幅に増補、扶桑略輸一一御調一船一隻ハ付二東嚴等「 0 冬十月、大唐大將軍英公、打二滅高麗「々々仲牟王、 記に本文と略同文があり、みな道行を新羅僧と 初建國時、欲」治二千歳一也。母夫人云、若善治」國不レ可」得也。但當有一一七百年之治一 するが、未詳。 一一四剣がこの当時を含めて朱島元年まで朝廷に 也。今此國亡者、當在二七百年之末一也。 0 十一月辛巳朔、賜二新羅王、絹五十匹・綿 あったとする説と、古くから熱田社にあったと する説がある。↓朱鳥元年六月条。草薙剣↓田 五百斤・韋一百枚「付一一金東嚴等「賜ニ東嚴等物「各有」差。〇乙酉、遣一一小山下道守 神代紀上、宝剣出現章。ニ五↓三三四頁注四。 ニ六↓補注ー一一九。毛↓三四九頁注一三。 臣麻呂・吉士小鮪於新羅「是日、金東嚴等罷歸。◎是歳、沙門道行、盜二草薙劒「 天天武二年閏六月・同四年八月にも来日。 = 九京都市東山区山科付近の野。鎌足の陶原家逃二向新羅「而中路風雨、荒迷而歸。 がある。三 0 薬猟。↓一九五頁注三九。前年五 八年春正月庚辰朔戊子、以ニ蘇我赤兄臣「拜二筑紫率「 0 三月己卯朔己丑、耽羅遣ニ 月五日にも行な、つ。 三一大海人皇子。↓三六〇頁注一四。 王子久麻伎等一貢獻。〇丙申、賜二耽羅王五穀種「是日、王子久麻伎等罷歸。 0 夏五 = 三八年十月条に、鎌足に藤原の氏を賜わって いるので、ここではまだ中臣内臣と記すべきと 月戊寅朔壬午、天皇縱一一獵於山科野「大皇弟・藤原内大臣及群臣、皆悉從焉。 0 秋 ころ。三三高安山。↓三六六頁注二四。 三四下文是冬条・九年一一月条と矛盾。↓補注 八月丁未朔己酉、天皇登二高安嶺「議欲」修」城。仍恤二民疲「止而不」作。時人感而 四。しかし農繁期の修築を中止したのみである から矛盾にはならないともいう。 天智天皇七年七月ー八年八月 なはおほみたからっか めぐ ひつぎのみこふちはらのうちっ め
しま みやこまうの 一三集解は像の字を後世の擡人としている。 嶋にりて、斯廠王を生む。嶋より遺し送りて、京に至らずして、嶋に産る。故因りて名く。今各羅の海 ニ三用明二年四月条に水派宮という名が見える。 これかふろわう 三七かむか ↓一五九頁注二五。 = 四和名抄の大和国広瀬郡に主嶋有り。王の産れし嶋なり。故、百濟人、號けて主嶋とすといふ。今案ふるに、嶋王は是蓋鹵王の 城戸の ) 郷に当るか。万葉にも木甅・木上など いまつはひらか と見える。今の奈良県北葛城郡広陵町という。 子なり。末多王は、是れ現支王の子なり。此を異母兄と日ふは、未た詳ならず。 = 五他に見えず。日本に来ていた百済の王族か 四 0 みつは ふ みなづぎ いけひ と思われるが不詳。兵大和志に意多郎の墓は 五年の夏六月に、人をして塘の槭に伏せ人らしむ。外に流れ出づるを、三刃の矛 大和国葛下郡岡崎村 ( 今、大和高田市岡崎 ) にあ ると見えている。毛末。集韻に「巓、山頂也」 とある。物の尖端をスヱという。よ。て山頂もを持ちて、刺し殺すことを快とす。 ヤマノスヱという。天↓補注跖ー二五。 = 九道に背いて何ともなし難いさま。名義抄に 「無情、アヂキナシ」とある。三 0 ↓補注ー七。 = = 三国史記では名は斯摩英略雄斷、以盛二天威天祿「日本必有」主。々一一日本一者、非二陛下一而誰。伏願、陛下 三一↓補注跖ー一一六。 ( しで、末多王の第二子とあり、以下の百済新撰 の伝と異なるが、津田左右吉は百済新撰の伝の仰答二靈祇「弘二宜景命「光二宅日本「誕受一一銀鄕「於是、太子命二有司「設二壇場於泊 方を採りたいとしている。武寧王の死は継体十 七年五月条に見える。ムネイワウの訓み、釈紀瀬列城「陟天皇位。遂定」都焉。是日、以二大伴金村連一爲二大連「 に従う。三三田解説参照。三四現支の来朝のこ と及び武寧王が実は現支の兄の蓋鹵王 ( 鰺 ) の元年春三月丁丑朔戊寅、立 = 春日娘子一爲 = 皇后「靺麹◎是年也、太歳己卯。 子であることが、雄略五年四月・六月条に見え る。セシム↓二八頁注一三。 三五↓補注跖ー二七。二年秋九月、刳二孕婦之腹「而観二其胎「 三六ニリムは古代朝鮮語。国主。なお、現代朝 鮮語で敬慕する人に対する呼称、また接尾語と三年冬十月、解一入指甲「使」掘二暑預「 0 十一月、詔二大作室屋大連「發二信濃國男 して他人の称呼に添えて敬称とする nim ( 略し て一 m ) がある。 ni 「 im ↓ nim ・王 ( 」について丁「作一一城像於水派邑「仍日二城上一也。◎是月、百濟意多郎卒。葬二於高田丘上「 ↓三四頁注七。毛集解は以下「未詳也」まで を私記の提人として削。ているが、その必要は四年夏四月、拔一一人頭髪「使」昇二樹巓「新二倒樹本「落ニ死昇者一爲」快。◎是歳、百 ない。又、武寧王 ( 即ち島王 ) は実は蓋鹵王の子 。百濟新撰云、末多王無 かも知れないが、現支の子として扱われたとす濟末多王無道、暴二虐百姓「國人遂除、而立二嶋王「是爲二武寧王一道、暴 = 虐百姓→國人共 れば、末多王の異母兄と称することも認められ 除。武寧王立。諱斯廠王。是現支王子之子。則末多王異兄也。現支向レ倭。時至ニ筑紫嶋「生 = 斯廠王「自レ嶋還送、不レ至ニ よう。三八↓田雄略一一年七月・五年四月条。 於京「産 = 於嶋→故因名焉。今各羅海中有 = 主嶋「王所レ産嶋。故百濟人號爲 = 主嶋→今案、嶋王是蓋鹵王之子也。末多王、是 三九池の水を流すために堤に通した樋。塘は堤 現支王之子也。此日ニ のある溜池。槭は樋。和名抄に「淮南子云、決異母兄「未」詳也。 レ塘発 / 械、ヒ、許慎日、槭所三以通ニ陂竇一也」と 五年夏六月、使三人伏一入塘槭「流二出於外「持二三刃矛「刺殺爲」快。 ある。四 0 先が三叉の矛か。 武烈天皇印位前紀ー五年六月 しま ころ たのしび かへおく これはらことのあに かれよ な・つ
あらたたかどの くににりむしりへた 一三面目を失って、王女を召還しようとした。 を聽かしむ。是に、安羅、新に高堂を起てて、勅使を引て昇る。國の主、後に隨ち 一六便は普通スナハチの意であるが、前句に「前 との くはは ものひとりふたりくだらっかひいくさのきみら とのした くにうちたかきひと (% き ) 」とあるために、ここでは古訓のスデニに てを昇る。國内の大入の、預りて堂に昇る者、一二。百濟の使將軍君等、堂の下 近い意となる。宅夫婦としてめあわせておい には、の ーカ すべあまたっきふたたびみたびとのうへ て、いまさらど、つして仲をさくことができよ、つ に在り。几て數月再三、堂の上に謨謀る。將軍君等、庭に在ることを恨む。 か。天別にこの頃のこととして三国史記、法興 ( 七日 ) こぎしこのまたかんき まうけ このまた なつうづぎみづのえうまついたちっちのえねのひ 王十一年条に「 ( 新羅 ) 王、巡ニ南境拓地一加耶国 夏四月の壬午の朔戊子に、任那の王己能末多干岐、來朝り。己能末多と「〕ふは、 王来会」とある。 おほとものおほむらじかなむらま ) そわたのほかとなりのくにほむたのみかど けだありしと 一九これらの諸城攻略は二十四年九月条の百済・ 新羅が五城を落したことを指すのであろう。こ蓋し阿利斯等なり。大伴大連金村に啓して日さく、「夫れ海表の諸蕃、胎中天皇の、 の三月条は加羅・新羅の通婚及びその後の紛争 を述べるのが主眼で、ついでに事の結末まで付 ◎是月、遣二物部伊勢連父根・吉士老等「以」津賜二百濟王「於是、加羅王謂二勅使一云、 け加えたものと思われ、用いた史料はやはり加 羅側のものと考えられる。↓二十四年九月条。 此津、從」置二官家一以來、爲一宦朝貢津渉「安得三輙改賜二隣國「違二元所封限地「勅 ニ 0 二十三年条の第四段。二十一ー二十二年の 磐井の叛の平定により、近江毛野臣は無事渡海使父根等、因」斯、難二以面賜「却二還大嶋「別遣二録史「果賜一一扶余「由」是、加羅結二 し、以下の経営が行なわれる。一 = ↓三〇頁注 三。欽明二年七月条に安羅日本府と見えている。儻新羅「生二怨日本「加羅王娶一一新羅王女「遂有二兒息「新羅初送」女時、拜遣二百人「 一三以下の三人は欽明二年四月条・四年十二月 爲一一女從「受而散二置諸縣「令」着二新羅衣冠「阿利斯等、嗔二共變服、遣」使徴還。 条にも見えている。麻那は武烈六年十月条にも 百済の使として来朝している。麻那甲背の甲背 は姓の類か ( 八〇頁注八 ) 。欽明一一年四月条 ( 七新羅大羞、飜欲」還」女日、前承 = 汝聘「吾便許婚。今既若」斯、請、還 = 王女「加羅己 〇頁注一〇・一一 ) の城方甲背味奴も同一人か。 富利知伽い。報云、配 = 合夫婦「安得 = 更離「亦有二息兄「棄之何往。遂於」所」經、 ニ三「式」は接続を示す助字。「以」に同じ。文 選、東京賦、李善注に「式、用也」とある。この拔二刀伽・古跛・布那牟羅、三城「亦拔ニ北境五城「◎是月、遣二近江毛野臣「使一一 巻のほか、清寧・安閑・欽明紀だけに用いられ ている。 = 四奈麻礼は奈麻・奈末に同じ。新羅于安羅「勅勸二新羅「更建二南加羅・喙己呑「百濟遣一一將軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵 の官位十七階の第十一。↓表二。 等「往二赴安羅「式聽二詔勅「新羅、恐」破二蕃國官家「不」遣一一大人「而遣二夫智奈麻 ニ五↓一五頁注三六。 ニ六任那のどの国の王かは不明。干岐は小国の 禮・奚奈麻禮等「往一一赴安羅「式聽二詔勅「於是、安羅新起二高堂「引ニ昇勅使「國主 王号であるが、百済本記では旱岐の字を用いる 例であるから、この四月条には加羅関係の記録隨」後昇」階。國内大人、預昇」堂者一二。百濟使將軍君等、在二於堂下「几數月再三、 が使われているらしい。又、日本側の伝承記録 も参照せられたであろう。 謨二謀乎堂上「將軍君等、恨」在」庭焉。 0 夏四月壬午朔戊子、任那王己能末多干岐 毛来朝した。参 (ä ) 来 ( け ) りの転。 。言 = 己能末多藷、啓ニ大伴大連金村一日、夫海表諸蕃、自三胎中天皇、 天応神天皇。 繼體天皇二十三年三月ー四月 みかどっかひゐの・は