大連 - みる会図書館


検索対象: 日本古典文學大系68 日本書紀 下
249件見つかりました。

1. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第十七 おほおみおほむらしまへつきみもろも , つのおみ をほどのすめらみことのたま 一「男大迹天皇 : ・乃受 = 璽符こは、呉志、孫亮伝乞はくは垂聽納へ」とまうす。男大迹天皇日はく、「大臣・大連・將相・諸臣、 「休日、将相諸侯成推ニ寡入一寡人敢不 / 承ニ受璽 ことごとくおのれお 符この字句を用いている。 成に寡人を推す。寡人敢へて乖はじ」とのたまびて、乃ち璽符を受く。是の日 ニ↓補注跖ー一一〇。 あまつひつぎしろしめ おほとものかなむらのおほむらじも 三大臣・大連がほぼ引続いて書紀に現われる に、印天皇位す。大伴金村大連を以て大連とし、許勢男人大臣をもて大臣とし、 のは雄略紀からであるが、天皇の代替りには、 ならびもとごと もののべのあらかひのおほむらじ 大てい前代の大臣・大連が引続き改めて任命さ れる形を採「ている。↓田雄略紀補注「大臣・物部麁鹿火大連をもて大連とすること、並に故の如し。是を以て、大臣・大連等、 ( 十日 ) さきみかどよ ま ) やっこぎ おのおのつかさくらゐまま かのえねのひ おほとものおほむらじまう 大連」。 四臣は聞いております。さきざきの王が世を各職位の依にす。庚子に、大伴大連奏請して日さく、「臣聞く、前の王の世を 五 うちつみやむつびあら 治めたまうに、たしかな皇太子がないと天下を をさ まうけのきみかためあら そあめっちしづ よくお治めになれず、むつましい皇妃がないと、 宰めたまふこと、維城の固非ずは、以て共の乾坤を鎭むること無し。掖庭の親非 よい子孫を得ることができませんと。その通り みあなすゑっ しらかのすめらみことみつぎ で、清寧天皇は、後嗣がなか。たときに、臣のずは、以て共の趺蕚を繼ぐこと無しと。是の故に、白髪天皇、嗣無かりしかば、 九 祖父の大伴室屋に命じて、国ごとに三種の白髪 やっこおほちおほとものおほむらじむろや くにごとみやからしらかべ 部を置かせ、自分の名を後世に残そうとなさい臣が祖父大伴大連室屋をして、ー 廾毎に三種の白髪部を安置きて、三種と昏ふは、一つ ました。これは何といたましいことではござい とど のちのよ しらかべのゆけひ しらかべのとねりふた しらかべのかしはでみ ませんか。どうか、手白香皇女を皇后に立てて、 には白髮部舍人・二つには白髪部供膳、三つには白髪部靫負なり。後世の名を留めむとしたまひ ・ : 天皇の皇子を得て、人民の望みに答えていた きさき うけたまは たしらかのびめみこ だきたいと存じます。 き。嗟夫、愴まざるべけむや。請らくは、手白香皇女を立てて、納して皇后とし、 五維城は、儲君 ( 新じすなわち皇太子のこと。 一四 まう まことおほみたからのそみ あまつやしろくにつやしろ 隋書、芸術、庚季才伝に「子孫藩屏、終保ニ維城之かむつかさのかみらっかは 神祇伯等を遣して、神祇を敬祭きて、天皇の息を求して、允に民の望 固ことある ( 集解 ) 。 六掖庭は王宮の傍の殿舎。宮女のいる所。後 こた のたま ゆるす 宮。 に答へむ」とまうす。天皇日はく、「可」とのたまふ。 セよっぎ。子孫。趺萼は跚萼に同じ。花のう きみとも のたま あまつやしらくにつやしろ やよびかのえさるついたちのひみことのり てな。助け合って花を保護するもの。転じて兄 三月の庚中の朔に、詔して日はく、「神祇には主乏しかるべからず。 弟互いに栄える意。ミアナスヱは御足末の意、 たすやしな あめおほみたからな あめのした 子孫の意。欽明二十三年六月条にも「況乎太子、宇宙には君無かるべからず。天、黎庶を生して、樹つるに元首を以てして、助け養 大臣処ニ趺萼 ( な ) 之親この例がある。 まことのこころ つかさど 八清寧天皇。 ふことを司らしめて、性命を全からしむ。大連、朕が息無きことを憂へて、誠款 九↓一四頁注一九。 ことわり あにただわ まめ くに ひら 一 0 ↓田清寧一一年二月条。 を披きて、國家を以て、世世に忠なることを盡す。豈唯験が日のみならむや。禮の = 舎人は雑役を、供膳は食膳を、靫負は警衛を ( 五日 ) きのえねのひ よそひそな むかまっ 儀を備へて、手白香皇女を迎へ奉れ」とのたまふ。甲子に、皇后手白香皇女を立 = 一天皇の名を後世に残そうとしたというのは、 担当する。 ねが ゆるしいれたま きみ 一七 のちまた おほむらじわ ゅゑ すめらみことみこ こせのをひとのおほおみ ここ お すなはみしるし め おほおみおほむらじら みやから ひと

2. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

さゐたむところ とこしへあと 一へ当時は郡司は かの臣下の一人にすぎない。 永に鑒戒とす」とまうす。別に狹井田六町を以て、大伴大連に賂ふ。蓋し三嶋竹 ないから、当時で言えば国造の地位を奪うとい はじめ かふちのあがたうちゃっこ ふのみやけ うことになる。一九良田を献ったことが勅旨に 村屯倉には、河内縣の部曲を以て田部とすることの元、是に起れり かなったことを喜び、詔をたまわったので恐懼 ニ七 かすがの つき いほきべのむらじきこゅむすめはたひめもののべのおほむらじをこしくびたまぬすと の気持が心の中で交錯した。ミツの訓は意訳。 是の月に、廬城部連枳菖喩が女幡媛、物部大連尾輿が瓔珞を偸み取りて、春日 = 0 少年の従者。シリ ( 後 ) トリ ( 取 ) べ ( 部 ) の意。 これかすが - への うねめのよほろ きこゅむすめ ことあらは 史記、貨殖伝の注に「集解日、僮、奴婢也」とあきさきたてまっ る。竪 ( 豎」通用 ) は、孺に通じる。こども、わ皇后に獻る。事發覺るるに至りて、枳 ~ 呂喩、女幡媛を以て、采女丁に獻り、是春日部 もののべのおはむらしをこし むすめつみあか いほきべのみやけ あはせあぎのくにあまるべ らわの意。一 = 心を痛めて冷汗が流れる。 飃気なり。井て安藝國の過戸の廬城部屯倉を獻りて、女の罪を贖ふ。物部大連尾輿、 一三子々孫々に至るまでたやすまい。イヤはい よいよ。ッヅキは続く意 ( 奈良時代にはツッキ と清音 ) 。ニ三のちのちのいましめ。アトは先例 以三難波屯倉與二毎」郡钁丁「給二賤宅媛「以示一一於後「式觀一一乎昔「詔日、依」奏施行。 の意。ニ四河内の中であろうが場所は不詳。 = 五豪族の私有民。↓田垂仁紀補注「部」。 0 閏十二月己卯朔壬午、行二幸於三嶋「大伴大連金村從焉。天皇使二大伴大連「間二良 実廬城部は五百木部・伊福部とも記し、廬城 部連は天武十三年十二月、宿禰の姓を賜わる。 田於縣主飯粒「縣主飯粒、慶悅無」限。謹敬盡」誠。仍奉二獻上御野・下御野・上桑 姓氏録に「尾張連同祖、火明命 ( り ) 之後也」 とある。枳菖喩の名は雄略三年四月条に栲幡原・下桑原、井竹村之地、几合肆拾町「大伴大連、奉」勅宣日、率土之下、莫」匪一一 ( ) 皇女に通じたと讒言されて殺された廬城部 連武彦の父として見えているが、同一人であろ王封「普天之上、莫」匪二王域「故先天皇、建 = 顯號一垂 = 鴻名「廣大配 = 乎乾坤「光華 うか。毛尾輿はここが初見。旧事紀に荒山大 象二乎日月「長駕遠撫、横逸二乎都外「瑩二鏡區域「充二塞乎無。垠。上冠二九垓「旁濟二 連の子とある。守屋の父。大連となった時は不 明。宜化紀には見えていないが、欽明朝にも大八表「制」禮以告」成」功、作」樂以彰 = 治定「輻應允致、詳慶符 = 合於往歳一矣。今汝 連であり、仏教伝来に際して排仏を唱えた。 天珠を連ねて作「た首飾。集韻に「珞、瓔珞、味張、率土幽微百姓。忽爾奉」惜二王地「輕二背使乎宜旨「味張自」今以後、勿 = 預郡 頸飾」また「瓔、石似 / 玉」とある。 司「於是、縣主飯粒、喜懼交」懷。廼以二共子鳥樹一獻一一大連「爲二価竪一焉。於是、大 = 九采女は地方豪族から貢せられて後宮につか 召使う女。大化一一年正月詔に「采女者貢 = 郡少河内直味張、恐長求悔、伏地汗流。啓 = 大連一日、愚蒙百姓、罪賞一萬死「伏願、毎 領以上姉妹及子女形容端正者一〈従丁一人、従女 郡、以 = 钁丁春時五百丁、秋時五百ア「奉 = 獻天皇「子孫不」絶。藉」此所」生、永爲 = 二人〉」とある。三 0 地名辞書は過戸は広島県安 芸郡府中町の多家 ( ) 神社の地であろうとし、 鑒戒「別以二狹井田六町「賂一一大伴大連「蓋三嶋竹村屯倉者、以二河内縣部曲一爲二田 過戸と廬城は別の地としている。過戸は余戸で、 里の編成後の名であろうから、安閑朝に此の名部一之元、於是乎起。◎是月、廬城部連枳菖喩女幡媛、偸二取物部大連尾輿瓔珞「獻二 三一和名抄に安芸 があったとは考えられない。 、是春日井獻二安藝國過戸廬 春日皇后「事至二發覺「枳菖喩、以一一女幡媛「獻一寀女丁一采女也 国佐伯郡伊福郷。今の広島県安佐郡安佐町か。 安閑天皇元年十月ー閏十二月 こと 4 まひな 0 けだみしまのたか

3. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

おのれみつなく おもひめぐら 一 = 陪臣は諸保の臣の意で、ここは即位前ながとは、重き事なり。寡人不才して、稱ぐるに足らず。願請ふ、慮を廻して賢しき者 ら男大迹王に帝王の風格があることを強調する あ あた おほとものおほむらじっち 表現意図があるといえよう。 を擇べ。寡人は敢へて當らじ」とのたまふ。大伴大連、地に伏して固く請ひまつる。 一三履中五年九月条に河内銅部が見えているが、 ゅづ にしむか みたびみなみ ふたたび 河内馬飼首はその主長であろう。荒籠はここに 男大迹天皇、西に向ひて讓りたまふこと三。南に向ひて讓りたまふこと再。大伴大 見えるのみであるが、継体・欽明紀には他に御 みなまう やっこ はかりみ おほきみおほみたから 狩・押勝などの名もある。天武十二年九月条で 連等皆日さく、「臣伏して計れば、大王、民を子とし國を治めたまふ、最も稱ふ は川内馬飼造が連の姓を授けられている。 一四遣わす。タテは使をたてる意。↓補注跖ー二 ーかりみ いるかせ さいはひもろもろねがひょ 八。ここの主語は荒籠。 べし。臣等、宗廟社稷の爲に、計ること敢へて忽にせず。幸に衆の願に藉りて、 一五危うく天下の笑われものとなったろう。原 文「取蚩」の取は受身の助動司 1 三ロ 一六文選、李少卿答 = 蘇武一書に「人之相知、貴元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議日、男大迹王、性慈仁孝順。可」承二 レ相二知心ことある。 一七和名抄に河内国交野郡葛葉 ) 郷。今の大天緖「冀慇懃勸進、紹二隆帝業「物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉日、妙二簡枝 阪府枚方市楠葉。崇神紀十年九月条にこの地名 の起原説話がある。五年十月条には更に山背の孫「賢者唯男大迹王也。〇丙寅、遣ニ臣連等「持レ節以備二法駕「奉」迎二三國「夾二衞 筒城に遷都したと見えている。一へ「乃跪」から 一三頁三行の「是日、即天皇位」まではすべて兵仗「肅一一整容儀「警二蹕前駈「奄然而至。於是、男大迹天皇、晏然自若、蹕一坐胡 漢書、文帝紀の文を多少潤色してそっくり用い ている。↓補注早三。一九文帝紀には天子璽と床「齊一一列陪臣「既如二帝坐「持」節使等、由」是敬憚、傾」心委」命、冀」盡一一忠誠「然 あり、鏡剣の字はない。璽符は曲玉を指すとの 説もあるが、天子としてもつべきシルシのもの天皇、意裏尚疑、久而不就。適知一一河内馬飼首荒籠「密奉二遣使「具述下大臣大連等 の総称で、鏡剣が即ち璽符。↓田神代紀下補注 所二以奉。迎本意留二日三夜、遂發。乃喟然而歎日、懿哉、馬飼首。汝若無二遣」使 「三種神宝」。ニ 0 寡人は、書紀では即位直前の 皇子の謙譲の一人称。即位後は朕という文字を 來告「殆取二蚩於天下「世云、勿論二貴賤「但重ニ共心「蓋荒籠之謂乎。及二至踐祚「 使う。また一般に王侯の自称としても用いる。 一 = 天子としての才幹がない。 ミッ ( 才 ) ナシ 厚加一一荒籠寵待「〇甲申、天皇行二至樟葉宮「 0 二月辛卯朔甲午、大伴金村大連、乃 ( 無 ) の意。名義抄に、光・明の字をミッとよむ。 光は威徳、明は才智の意。語源は御稜威翁い ) 。 跪上二天子鏡劒璽符一再拜。男大迹天皇謝日、子」民治」國重事也。寡人不才、不」足二 神としての威力。 m 一一 ttl ー》 m 一 tu. ミッミッシもこ のミツの畳語形容詞化したものであろう。 以稱「願請、廻」慮擇二賢者「寡人不二敢當「大伴大連、伏」地固請。男大迹天皇、西 一三軽々しくしない。名義抄に「忽、イルカセ、 オ「タル、カロシ」とある。イルカセは = ルカ向讓者三。南向譲者再。大伴大連等皆日、臣伏計之、大王子」民治」國、最宜」稱。臣 セに同じ。ゆるいかせにかけること。しまりを 失う意。力は清音。 等、爲二宗廟社稷「計不一一敢忽「幸藉二衆願「 繼體天皇元年正月ー二月 えら おもトざ やっこら 3 へ ため あ さか ひと

4. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第十七 あきはっきかのとのうついたちのひみことのり あおほむらしこれこ いはるしたが いましゅ 一以下の詔と麁鹿火の言とは全文が芸文類聚、 秋八月の辛卯の朔に、詔して日はく、「咨、大連、惟﨡の磐井卒はず。汝徂き 武部の戦伐・将帥条の諸書をつなぎ合せて成立 あ もののべのあらかひのおはむらしをが そ にしひな っており、句の順序を変えたり、人名・地名を て征て」とのたまふ。物部麁鹿火大連、再拜みて言さく、「嗟、夫れ磐井は西の戎 入れ換えたりしたもの。漢文的修飾の典型的な 四 よ かだましきやっこ かはさが やまたか みたれあ いきほひ 例。↓補注ー一一三。 の辭猾なり。川の阻しきことを負みて庭らず。山の峻きに憑りて亂を稱ぐ。德 = 心がねじけているさま。名義抄に「辭、ヲ みちそむ あなづおご むかしみちのおみ カス、カダマシ」とある。猾は悪賢いこと。日 葡辞書に「カダ「シイヒト」を、ずるい、自分を敗りて道に反く。侮り嫂りて自ら賢しとおもへり。在昔道臣より、爰に室屋に及 きみまも かれこれもろとも おほみたからくるしぎすく ただあめたす をいつわり、表裏のある人の意とする。 = 阻は、はばむ意。サガシキ「トは古訓のまるまでに、帝を助りて罰つ。民を塗炭に掀ふこと、彼も此も一時なり。唯天の贊 ところ よっつしう ま。庭は朝廷、または朝廷に仕える意。 くる所は、臣が恆に重みする所なり。能く一 恭み伐たざらむや」とまうす。詔して日 四乱を起こす。称は挙げる意。 五道臣は出典の「周武」を、室屋は「公日一」を をさ めぐみほどこうつくしびお おのれおもびはか すぐれたるいくさのきみいくさだち 日本の人名と入れ換えたもの。道臣は神武天皇はく、「良將の軍すること、恩を施して惠を推し、己を恕りて人を治む。 に仕えた道臣命で大伴氏の祖。室屋は大連大伴 、よ ごと さ 金村の祖父の大連。共に大伴氏の功業を讃えて攻むること河の決くるが如し。戦ふこと風の發つが如し」とのたまふ。重詔して日 いて、物部麁鹿火の言としてふさわしくない。 くにいへほろびはろびざらむことここ おほぎいくさのきみおほみたからいのち 六泥水と炭火。水火の苦しみ。非常な難儀を はく、「大將は民の司命なり。社稷の存亡、是に在り。勗めよ。恭み 0 と あまつつみおこな すめらみことみづかまさかり 七昔も今も同じことであるの意。 て天罰を行へ」とのたまふ。天皇、親ら斧鉞を操りて、大連に授けて日はく、「長門 へオノ ( 斧 ) とマサカリ ( 鉞 ) 。刑罰の具。天子 しきりまう な いましかと たくめたまひものつみおこな われかと つくし ひむがし が征伐の大将に賜わる中国のならわしを利用し より東をば験制らむ。筑紫より西をば汝制れ。専賞罰を行へ。頻に奏すことに勿 た修飾。 九長門以東や筑紫以西は、出典の闃以内・闃わづら 以外を言い変えたもの。闃は音ゲッ、しきみの煩ひそ」とのたまふ。 ( 十一日 ) 意。闖内・閥外と同じ。 ふゅしもっき きのえとらついたちきのえねのびおほきいくさのぎみもののべのおほむらしあらかひ 一 0 国や部族を統御する。カ ( 処 ) トル ( 取 ) の意。 二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、大將軍物部大連麁鹿火、親ら賊 履中五年十月条に「検校」にも古訓カトレリ ちりあひっ はたつづみあひのそ みるのこほりあひたたか ある。 の帥磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ。旗鼓相望み、埃塵相接げり。機を兩つの 一七 = ↓八頁注二〇。 さかひさだ みをす いくさあひださだ 一ニ継体記では物部荒甲・大伴金村二人が派遣 陣の間に決めて、萬死つる地を避らず。遂に磐井を斬りて、果して疆場を定む。 されたとある。↓補注跖ー一〇。 かすやのみやけ かぞ しはす つくしのぎみくすこ 一三首魁。神武即位前紀に「魁帥、此云ニ比登誤 十二月に、筑紫君葛子、父のつみに坐りて誅せられむことを恐りて、糟屋屯倉を 廼伽瀰一 ( し」の訓注がある。 しぬるつみあが 一四筑後国御井郡。今の福岡県三井郡。 一 = 両軍の軍旗と軍鼓とが向き合い、軍兵のあ獻りて、死罪贖はむことを求す。 たてまっ ひとごのかみ ゃぶ やっこつねおも 一四 ところさ みづかさか たの のたま つかへまっ つひ つみ さづ あ お ここむろや はかりことふた ひと みづかあた 九 ながと のたま

5. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

うちまつりごと つひひとりひこみこう いわゆる名代 ) の民の起源を説明したものでてて、内に修教せしむ。遂に一の男を生ましめたり。是を天國排開廣庭奪と あるが、名代設置の第一目的が、名を伝えるこ とにあ「たとは考えられな↓田仁徳紀補注す。開、此をば波羅企とふ。是嫡子にして幼年し。二の兄治して後に、天 ( 九日 ) びろくにおしたけかなひのみことたけをひろくにおしたてのみこと しもくだりみ っちのえたつのひ 一三継体記では手白髪命。仁賢天皇皇女で、母 下有す。二の兄は、廣國排武金日尊と武小廣國押盾尊となり。下の文に見ゅ。戊辰に、詔して は雄略天皇皇女の春日大娘皇女。継体天皇の出 ニ三ニ四 われぎ をとことしあた たっく あ あめのした うゑ 自を疑う論では、天皇がこの皇女を皇后とする 事によ。て、仁徳天皇の系統に結び付こうとし日はく、「朕聞く、士年に當りて耕らざること有るときには、天下共の飢を受くる あ たと推測している。↓補注ー二。 をう 一四神祇伯は令制での神祇官の長官であるが、 こと或り。女年に嘗りて績まざること有るときには、天下共の寒を受くること或り。 もとより継体天皇の当時にそのような官名があ ったとは認められない。 一 = 天の神、地の神を祭るには神主がなくては乞垂聽納。男大迹天皇日、大臣大連、將相諸臣、成推 = 寡人「々々敢不」乖、乃受 = ならず、天下を治めるには君主がなくてはなら ぬ。芸文類聚、帝王部「晋劉現勧進元帝表日 : ・璽符「是日、印天皇位。以一一大伴金村大連一爲一一大連「許勢男人大臣爲二大臣「物部麁 天地不 / 可ニ以無レ饗・ : 黎元不レ可ニ以無レ主」によ 鹿火大連爲ニ大連「並如故。是以、大臣大連等、各依二職位一焉。〇庚子、大伴大連 一六芸文類聚、治政部「晋潘岳九品議日、天生ニ蒸 民「而樹 / 之君、使ニ司牧之、勿レ失ニ共性こによ 奏請日、臣聞、前王之宰世也、非ニ維城之固「無三以鎭一一共乾坤「非一一掖庭之親「無三 る。オホミタカラ↓補注跖ー七。性命は人民の 本性と天命。 以繼一一共趺萼「是故、白髪天皇無」嗣、遣一宦祖父大伴大連室屋「毎」州安二置三種白 一七国家に対して代々忠誠を尽している。どう して朕の世だけということがあろうか。 髪部「白部供膳、三白髮部靫負也。以留二後世之名「嗟夫、可」不」愴歟。請、立二手白香皇 一へ後宮に関することを修めさせた。 女「納爲二皇后「遣二神祇伯等「敬二祭訷祇「求ニ天皇息「允答二民望「天皇日、可矣。 一九欽明天皇。 ニ 0 嫡妻の子。太子の意ではない。 0 三月庚申朔、詔日、紳祇不」可」乏」主。宇宙不」可」無君。天生二黎庶「樹以二元首「 一 = 安閑天皇。 一三宜化天皇。 使司一一助養「令全一一性命「大連憂二朕無。息、披一一誠款「以二國家「世々盡」忠。豈唯 ニ三「士有当年・ : 勉桑序」の三行は、芸文類聚、帝 王部引用の呂氏春秋「士有 = 当年不者、則天験日歟。宜備 = 禮儀「奉」迎 = 手白香皇女「〇甲子、立 = 皇后手白香皇女「修 = 教于内「 下或 / 受ニ共飢一矣、女有ニ当年不レ績者、則天下 或 / 受一一共寒一矣、故夫親耕、妻親績」による。 遂生 = 一男「是爲 = 天國排開廣庭尊「羅企第是嫡子而幼年。於 = 二兄治後「有 = 共天 = 四その年に。 ニ五コイは寒の古訓。↓一六頁注一四。 。一現者、廣國排武金日尊、與 = 〇戊辰、詔日、験聞、士有一膏」年而不耕者、則天下或 レ受一一共飢一矣。女有一一當」年而不。績者、天下或」受二共寒一矣。 繼體天皇元年二月ー三月 したしろしめ めのこ

6. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第十八 一安閑天皇。押は光がオシ ( 圧 ) 照らすの意。 武金日は美称。 = 宜化天皇。武は雄々しい意の美称。小広国 日本書紀卷第十八 は若い広国の意。兄 ( 先帝安閑天皇 ) の広国に対 する。押盾は立派な盾の意か。本名は檜隈高田 皇子。 あんかんてんわう 三勾大兄は安閑天皇の名。勾は地名。↓二四 廣國押武金日天皇安閑天皇 頁注七。 四継体天皇。 せんくわてんわ ) 五工はオト ( 弟 ) に対する語。年長をいう。 武小廣國押盾天皇宜化天皇 六尾張連草香の女。↓継体元年三月十四日条。 七器量が幼にしてすぐれ。墻宇は器宇に同じ。 器量の意。文選、三国名臣序賛「天骨踈朗、牆 廣國押武金日天皇安閑天皇 宇高嶷」の六臣注に「翰日、明朗若一一墻宇高、 不レ可レ窺一一見其内一也」とあり、詩経、大雅、生民三 五 まがりのおほえひろくにおしたけかなひのすめらみこと をほどのすめらみことえみこ に「誕実匍匐、克岐克礙」とある。岐・礙はとも 勾大兄廣國押武金日天皇は、男大迹天皇の長子なり。母ば目子媛と日す。是 に、知恵づくさま。岐凝で幼にして秀でぬきん うつはものいつく たけくゆたかにおほき でるさま。後漢書、馬援伝に「客卿幼而岐凝、年 の天皇の人と爲り、墻宇礙岐しくして、窺ふこと得べからず。桓桓寬大にして、 六歳能応ニ接諸侯ことある。これによれば、原 ( 七日 ) はるきさらぎかのとのうしついたちひのとのひつじのひ 文諸本の凝は礙の誤りとしてよかろう。天武紀すめらみことはかりことま 上、三八一一頁には岐礙とある。ィックシは、生入君の量有します。二十五年の春二月の辛丑の朔丁未に、男大迹天皇、 おほえ そのひ かむあが れつき神の威力によってすぐれている意。ィッ 大兄を立てて天皇としたまふ。印日に、男大迹天皇崩りましぬ。 はミイツ ( 稜威 ) のイツ。クシは奇シの意。 八武々しくて寛大で。毛詩、魯頌、津水に「桓 おほとものおほむらじもおほむらじ つき もののべのあらかひのおほむらし 桓于征、狄 = 彼東南ことあり、毛伝に「桓桓、 是の月に、大伴大連を以て大連とし、物部麁鹿火大連をもて大連とすること、並 威武貌」とある。桓は名義抄にタケシとある。 もとごと 九器量。事を担当する能力。 に故の如し。 一 0 勾大兄皇子。ここの書き方からすれば譲位 はじめのとし むつき みやこやまとのくにまがりのかなはしうつ みやのな の最初の例となる。また、書紀紀年では継体・ 元年の春正月に、都を大倭國の勾金橋に遷す。因りて宮號とす。 安閑の間に二年の空位期間があって矛盾する。 ( 六日 ) やよひみづのとのひつじ っちのえねのひ つかさ みため おけのすめらみことひめみこかすがのやまだのひめみこ ↓補注貰ー一一一。 三月の癸未の朔戊子に、有司、天皇の爲に、億計天皇の女春日山田皇女 = 大伴大連金村。金村・麁鹿火は共に継体朝 一五 きさき あと またみなやまだのあかみのひめみこ ことみたりみめ こせのをひとのおほおみむすめ の大連。↓継体元年一一月条。 を納采へて皇后とす。更の名は山田赤見皇女。別に三の妃を立つ。許勢男人大臣の女 = 一記に勾之金箸宮。今の奈良県橿原市曲川町 一八 一九 さてひめ いろどかかりひめもののべのいたび ( もと金橋村曲川 ) 。 やかひめ 一三仁賢天皇。 紗手媛、紗手媛が弟香香有媛、物部木蓮子木蓮子、をば伊陀寐といふ。大連の女宅媛 な すめらみことひと たけをひろくにおしたてのすめらみこと ひろくにおしたけかなびのすめらみこと よ 、ろよ 四八 めのこひめまう のおほむらじ ならび

7. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

ここも みづかたか この点を重視して当時の政情の不穏を察し、天けず。驕りて自ら矜ぶ。是を以て、毛野臣、乃ち防遏 ~ られて、中途にして淹滯り 皇の出自を疑う論もある。↓補注ー一一・ すめらみことおほとものおほむらじかなむらもののべのおほむらじあらかひ こせのおほおみをひとらみことのり のたま = これを手がかりにして紀年を論ずる説もあ てあり。天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔して日 る。↓補注ー二一。一ニ孝元記に建内宿禰の子、 つくし にしびなくにたも いまたれいくさのきみ 波多八代 (t 翳 ) 宿禰は波多臣・淡海臣などの祖 はく、「筑紫の磐井反き掩ひて、西の戎の地を有つ。今誰か將たるべき者」との とある。毛野は二十四年に任那から召還され、 おほとものおほむらじらみなまう たひらただ めぐ つはもののことこころしら 帰る途中病死した。毛野をケナと訓むのは、二 十四年是歳条に毛野臣の妻が、ケナノワクゴと たまふ。大伴大連等日さく、「正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁 歌っているのによる。一三金官国とその周辺。 ゆるす 金官国は慶尚南道金海で、南加羅は洛東江口、鹿火が右に出づるひと無し」とまうす。天皇日はく、「可」とのたまふ。 釜山・金海地方。アリヒは古代朝鮮語で南の意。 シは助詞。↓二六頁注一一。 一 0 喙己呑は慶尚北道達城郡慶山かとの説があ別貢二五經博士漢高安茂「請」代 = 博士段楊爾「依」請代之。〇戊寅、百濟遣 = 灼莫古 る。新羅が南加羅を奪。たのは毛野の渡海以後將軍・日本斯那奴阿比多「副 = 高麗使安定等「來朝結」好。 のことで、ここの記述には誤があり、不正確な 国内史料を修飾したによるのであろう。 十二年春三月丙辰朔甲子、遷都一一弟國「 一五筑紫国造は孝元皇子大彦命の後という。以 十七年夏五月、百濟王武寧薨。 下三六頁最終行まで、いわゆる磐井の叛乱。 補注ー一三。 = ( ウラオモヒの約。心で思い、十八年春正月、百濟太子明印」位。 ぐずぐずして実行しないこと。一七防ぎ止める。 遏は止・遮などの意。次行の邀は待ちうける意。廿年秋九月丁酉朔己酉、遷都 = 磐余玉穗「一〕」一 もちこたえるわけで「耐ふ」に通じる。 廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率一一衆六萬「欲下住二任那「爲二復興建新羅所 天火は肥前・肥後の肥。豊は豊前・豊後の豊。 一九勢力を張って、職務を行なわない。 」破南加羅・喙己呑「而合中任那於是、筑紫國造磐井、陰謨二叛逆「猶預經レ年。 = 0 からくり、あやつりの意から欺く意となる。 名義抄に「機、ワカツル」とある。 恐二事難。成、恆伺二間隙「新羅知」是、密行二貨賂于磐井所「而勸防二遏毛野臣軍「於 一 = サイギルは先切る意。後世サへギルと書か 是、磐井掩二據火豐二國「勿一一使修職「外邀二海路「誘二致高麗・百濟・新羅・任那等 れるようになった。 一三無礼なみだりがわしい言葉をいって。 國年貢」職船「内遮下遣二任那一毛野臣軍「亂語揚言日、今爲二使者「昔爲二吾伴「摩レ肩 = 三毛野臣は、今でこそ使者となっているが、 俺とは、昔は仲間として、肩や肘をすり合わせ、觸」肘、共器同食。安得四卒爾爲」使、俾三余自二伏前「遂戦而不」受。驕而自矜。是 同じカマ飯を食った仲だ。急に使者となった 以、毛野臣、乃見一一防遏「中途淹滯。天皇詔二大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢 からとて、いまさらお前に、俺を従わせること はできないよ。イは相手をさげすんで呼ぶ語。 大臣男人等一日、筑紫磐井反掩、有二西戎之地「今誰可」將者。大作大連等〈以日、正直 ニ四↓二〇頁注四。ニ五心得がある。シラフは知 ルに接尾語フのついた形。 仁勇通二於兵事「今無」出一一於麁鹿火右「天皇日、可。 繼體天皇十年九月ー二十一年六月 かひみぎ いはゐそむおそ 4 すなは のたま なかみみ もの あら

8. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

つぎましましみつぎましまさぬ かならもの うけたまは 送る意。下二段活用。名義抄に「漑、水ソ、グ、 ましますは、嗣有、嗣無ことを論はず、要須す物に因りて名を爲す。請らく 水マカス、ヒク」とある。 きさぎつぎのみめみため みやけところた のちのよ さきあとあらは 一五少しはかり溢れ出る水。イサラミヅは書紀 は皇后・次妃の爲に、屯倉の地を建立てて、後代に留めしめて、前の迹を顯さし の訓読に目立っ語。 お ゆるすすみやか 一六水びたしになりやすい。多く田についてい めむ」とまうす。詔して日はく、「可。早に安置け」とのたまふ。大作大連金村、 う。仁徳十一年十月条にも「汾、コミ」とあり、 をはりだのみやけくにごと さてひめたま さくらゐのみやけ 新撰字鏡に「汾、水多、オホミヅ」とある。 一七通釈は、話の続き方から見てこの次に閏十奏して稱さく、「小墾田屯倉と國毎の田部とを以て、紗手媛に給はむ。櫻井屯倉 二月四日条の「大伴大連奉勅宜日」以下の文が ちぬのやまのみやけくはたま かかりひめたま 来なくてはならず、必ず錯簡があろうというが 一本に云はく、茅渟山屯倉を加 ~ 呪ふといふ。と國毎の田部とを以て、香香有媛に給賜はむ。 このままでも差支えない。 一へ金村を親しんで呼んだ語。 一九ャ ( 家 ) ッ ( 助詞 ) コ ( 子 ) アレ ( 吾 ) の約。 ) 「 atu ・ koare—»yattlkare. 驚駭而顛。慚愧無」已。稚子直等、兼坐二闌人罪一當一一科重「謹專爲二皇后「獻二伊甚屯 ニ 0 必須、須要に同じ。 三何か記念する物を残して、それ ( 」よ「て自倉「請レ贖二闌人之罪「因定一一伊甚屯倉「今分爲レ郡、屬二上總國「 0 五月、百濟遣二下 分の名を後代に残す。いわゆる名代・子代の説 明であろうが、この記事では妃の為に屯倉を立部脩德嫡德孫・上部都德己州己婁等「來貢一一常調「別上レ表。 0 秋七月辛巳朔、詔日、 てることが何故天皇の名を伝えることになるの か、また次の三つの屯倉が、天皇や妃の名とど 皇后雖三體同二天子「而内外之名殊隔。亦可下以充一一屯倉之地「式樹一一椒庭「後代遺迹。 、つ、つ 関係があるのか説明が付かない。要は妃 の経済的基礎として以下の屯倉が定められたこ廼差 = 勅使「簡 = 擇良田「勅使奉」勅、宜 = 於大河内直味張一梭。日、今汝宜奉二進 とであって、勅文や金村の奏は、説明の為の造 作であろう。なお皇后春日山田皇女の為には、 膏腴雌雉田「味張忽然悋惜、欺二誑勅使一日、此田者、天旱難」漑、水潦易」浸。費」功 さきに継体八年正月条に匝布 ( %) 屯倉を賜うこ とが見えている。 極多、收穫甚少。勅使依レ言、服命無隱。 0 冬十月庚戌朔甲子、天皇勅二大作大連金 一三小治田とも書く。飛鳥の辺をいう。大和国 高市郡。 村一日、朕納二四妻「至」今無」嗣。萬歳之後、朕名絶矣。大伴伯父、今作一一何計「毎 ニ三田部は屯倉の田を耕作する農民。諸所の田 部を割き集めてこの屯倉に付けたのであろう。 念二於「憂慮何已。大伴大連金村奏日、亦臣所」憂也。夫我國家之王一一天下一者、不 = 四賜わる。爾雅、釈詁「、賜也」。 = = 和名抄に河内国河内郡桜井郷。今の大阪府」論一一有」嗣無嗣、要須因物爲」名。請爲二皇后次妃「建二立屯倉之地「使」留二後代「 枚岡市池島の辺か。実茅渟は元来は和泉国一 帯の地域の名。茅渟県・茅渟海・茅渟宮などが 令レ顯一箭迹「詔日、可矣。宜早安置。大伴大連金村奏稱、宜以「一小墾田屯倉與ニ毎」國 ある。奈良時代に茅渟宮があったのは大阪府泉 佐野市上之郷の地。 田部「給二既紗手媛「以三櫻井屯倉 茅渟山屯倉一也。與ニ毎」國田部「給二賜香々有媛「 安閑天皇元年四月ー十月 あるふみ まう まう のたま とど よ

9. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

石母は和珥臣日爪 ( 認 ) の女、糠君娘 ( 鷲。 ) 。を立つ。 ↓田仁賢元年一一月条。 なつうづきみづのとのうしついたちのひかしはでのつかさのきみかしはでのおみおはまろみことのりうけたまは 一五婚姻のしるしを贈り、皇后として迎えた。 夏四月の癸丑の朔に、内膳卿膳臣大麻呂、勅を奉りて、使を遣し 勾大兄皇子と春日皇女との結婚は既に継体七年 ニ四ニ五 たま とき いじみのくにのみやっこらみやこまう 九月条に見えている。アトフはあつらえる意。 て珠を伊甚に求めしむ。伊甚國造等、京に詣づること遲晩くして、時を踰ゆる 中国周代では、媒介する者を通じて婚姻の意志 たてまっ くにのみやっこら とらしば ことのよし を相手に伝えさせて後、礼物を送る。 賻りて、所由を推間ふ。 までに進らず。膳臣大麻呂、大きに怒りて、國造等を收へ . 矛 一六↓二〇頁注四。 し かしこま くにのみやっこわくごのあたひら きさきのみやおほとの かすがのきさきただ 宅紗手媛・香香有媛は共に十月条に屯倉を授 國造稚子直等、恐懼りて、後宮の内寢に逃げ匿る。春日皇后、直に入れるを知 けられたことが見えている。 入イロド↓補注跖ー三。 一九旧事紀、天孫本紀に布都久留 ( ) 大連の子で 仁賢朝の大連とあるが、紀記には他に見えない。日本書紀卷第十八 イタビは植一物々「、イタビカヅラ。 廣國押武金日天皇安閑天皇 ニ 0 伊陀寐の陀は、古事記・万葉などでは呉音 系の字音でダの仮名であるが、書紀の訓註や、 武小廣國押盾天皇宜化天皇 歌謡では漢音系の字音により、タと訓む。 一 = 十月条に屯倉を授けられたことが見える。 廣國押武金日天皇安閑天皇 一三令制では天皇の御膳を掌る内膳司 ( 轗があ り、長官は奉膳 ) であるが、安閑朝に内膳卿勾大兄廣國押武金日天皇、男大迹天皇長子也。母日二目子媛「是天皇爲」人、墻宇礙 のような官職名があったとは思われない。 = = 他に見えず。膳臣は膳部 ( ) の長。↓補注岐、不」可」得窺。桓々寬大、有ニ人君之量「廿五年春二月辛丑朔丁未、男大迹天皇、 立一一大兄一爲二天皇「印日、男大迹天皇崩。◎是月、以二大伴大連一爲一一大連「物部麁鹿 一西真珠。 = = 和名抄に上総国夷 ( ~ じ ) 郡。今の千葉県夷火大連爲一一大連「並如」故。 隅郡・勝浦市。甚は字音 m ・よってこれをジ ミにあてた。 元年春正月、遷二都于大倭國勾金橋「因爲二宮號「 0 三月癸未朔戊子、有司爲二天皇一 一宍↓補注ー一一。 納一寀億計天皇女春日山田皇女一爲 = 皇后「衄畑。別立 = 三妃「立 = 許勢男人大臣女紗 毛国造の伊甚直稚子の意。男の名としての稚 子の称は、他にも天智二年三月条に前将軍上毛 手媛、紗手媛弟香々有媛、物部木蓮子 1 大連女宅媛「 0 夏四月癸丑朔、内膳 野君稚子などの例がある。 4 天宮中の寝殿。 卿膳臣大廠呂奉」勅、遣」使求一一珠伊甚「々々國造等、詣」京遲晩、踰レ時不」進。膳臣 大麻呂大怒、收二縛國造等「推二問所由「國造稚子直等恐懼、逃二匿後宮内寢「春日 皇后、不レ知二直入「 四九 安閑天皇印位前紀ー元年四月 じみもと に まゐ つかひっかは と

10. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

くだらしらきみまな みつきたてまっ はっき 一三今の奈良県桜井市金屋付近という。霊異記 八月に、高麗・百濟・新羅・任那、並に使を遣して獻り、並に貢職脩る。秦 ニ七 下第三十九話に山辺郡磯城島村とある。一一三欽 つど へのふみた ひとあやひとらとなりのくにおのづからまう 明記に師木島宮、帝説に斯貴島宮、天寿国繍帳人・漢人等、諸蕃の投化ける者を召し集へて、國郡に安置めて、戸籍に編貫く に斯帰斯麻宮とある。右の金屋東南の初瀬川の はたのとものみやっこ ななちへあまりいそあまりみへおほくらのふびとも かすす ほとりか。一一四この四国の朝貢も修飾的記事か。 秦人の戸の數、總べて七千五十三戸。大藏掾を以て、秦伴造としたまふ。 ことに高麗の朝貢はこのころの事実として甚だ 三四 ( 五日 ) おほとものおほむらじかなむら こせのおみいなもち なにはのはふりつのみやいでま っちのとのうのひ ながづききのとのゐ = 五雄略・継体・欽明・孝徳・天智 疑わしい。 九月の乙亥の朔己卯に、難波祝津宮に幸す。大伴大連金村・許勢臣稻持・ 紀は、三国志の呉志・魏志をかなり利用してい まへつきみたちと もののべのおほむらじをこしらおほみともっか るが、「脩貢職」も呉志、孫権伝にある語。 = 六秦氏の配下にあ。た帰化人。↓補注ー三。物部大連尾輿等、從へまつる。天皇、諸臣に問ひて日はく、「幾許の軍卒を 毛漢氏の配下にあった帰化人。↓補注四ー三。 天召集安置の事実は疑わしく、屯倉の民以外 の戸籍編成も時期尚早の感があるが、何らかの山海詛同。萬機之難、婦女安預。今皇子者、敬」老慈」少、禮二下賢者「日中不」食以 調査が行われたものか。蕃は、もと、草の広が る意。中国で異民族の国を、草の広々と生えた待士。加以幼而穎脱、早擅一一嘉聲「性是寬和、務存二矜宥「請諸臣等、早令「一登」位 未開の地と見下げて呼ぶ称。しかし、書紀では 隣国という程度の意味でも使うので、トナリノ 光二臨天下「 0 冬十一一月庚辰朔甲申、天國排開廣庭皇子、印天皇位。時年若干。尊ニ クニという古訓がある。ニ九↓補注ー四。 = 0 数詞をこのように訓読することは平安初期皇后一日二皇太后「大伴金村大連・物部尾輿大連爲ニ大連「及蘇我稻目宿禰大臣爲二大 以来の書紀訓読法の伝統。承平の日本紀私記に、 臣「並如レ故。 詳しくその旨が書かれている。 三一即位前紀の秦大津父をさすか。ただし秦氏 の中心は山城の葛野にあり、大津父のいた紀伊元年春正月庚戌朔甲子、有司請」立 = 皇后「詔日、立 = 正妃武小廣國押盾天皇女石姫一 また当時大蔵掾のごとき律 郡深草里ではない。 爲二皇后「是生二二男一女「長日一一箭田珠勝大兄皇子「仲日二譯語田渟中倉太珠敷尊「 令制的な官名があったとは考えられない。 = 三秦部を管掌する職。伴造↓田雄略紀補注。 。更名狹細 0 二月、百濟人己知部投化。置一一倭國添上郡山村「今山村己 少日二笠縫皇女一毛皇女 三三摂津志は河辺郡難波村 ( 今、尼崎市難波本 町 ) 、地名辞書は西成郡難波村 ( 今、大阪市浪速知部之先也。 0 三月、蝦夷・隼人、並率」衆歸附。 0 秋七月内子朔己丑、遷二都倭國 天書には「元 区 ) とするが未詳。釈紀十三に引く 年九月己卯、行 = 幸難破→庚辰、進 = 幸祝津宮→遣磯城郡磯城嶋「仍號爲二磯城嶋金刺宮「 0 八月、高麗・百濟・新羅・任那、並遣」使 / 使祠ニ住江神一賜一一民爵及帛一各有 / 差。初将 / 征ニ 新羅ことある。 = 0 通証に巨勢男人大臣の子か獻、並脩一一貢職「召二集秦人・漢人等、諸蕃投化者「安二置國郡「編二貫戸籍「秦人戸數、 というが未詳。姓氏録、右京皇別に巨勢槭田色 朝臣と巨勢斐太臣は巨勢雄柄宿禰四世の孫稲茂總七千五十三戸。以二大藏掾「爲二秦伴造「 0 九月乙亥朔己卯、幸一一難波祝津宮「大 臣の後なりとある。なお持統三年五月条の巨勢 伴大連金村・許勢臣稻持・物部大連尾輿等從焉。天皇間二諸臣一日、幾許軍卒、↓ 稲持は別人。許勢臣↓二〇頁注四。 欽明天皇印位前紀ー元年九月 ひと 三三 つかひまだ くにこほりはべらし ものたてまっ のたま 六五 はニ 0