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検索対象: 日本古典文學大系68 日本書紀 下
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1. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

あづまいくさ いくさ 0 ぎみまたもとのいほりかへ 一七↓四 0 一頁注三二。 も中らずして、遂に走りて免るること得たり。將軍、更本營に還る。時に東の師、 一八和名抄に大和国葛下郡当麻郷がある。今、 あ おのおのかみなかしも すなは 奈良県北葛城郡当麻村。 頻に多にる。則ち軍を分りて、各上中下の道に當てて屯む。唯し將軍吹負のみ、 一九所在未詳。 むらやとどま いくさのきみいぬかひのむらし みづかなかのみちあた ニ 0 他に見えず。 親ら中道に當れり。是に、近江の將大養連五十君、中道より至りて、村屋に留 一 = 踵はカカト。あとからあとから続く意。 ニ七 と . き いくさのきみいほりつ ふたももたりときいくさゐ すけのいくさのきみいほゐのみやっこくちら 一三飛鳥の古京。↓七月三日条。 りて、別將廬井造鯨を遣して、二百の精兵を率て、將軍の營を衝く。當時に ニ三伊勢から進攻してきた紀阿閉麻呂らの本隊 とこまろらいったり おほゐでらやっこな しるしのはたのもと いくさすくな ふせ が到着したのであろう。 = 0 奈良盆地を南北に貫く一一一本の道路。上っ道麾下の軍少くして、距くこと能はず。爰に大井寺の奴、名は德麻呂等五人有 は桜井市から盆地東端の山沿いを北上、天理市 をへて奈良市東部に至る。中っ道は高市郡明日 香村から天香久山・耳成山の間を北上、奈良市仍宿 = 城中「會明、臨 = 見西方「自 = 大津・丹比、兩道「軍衆多至。顯見 = 旗旅「有」人 大安寺付近に至る。下っ道は橿原市八木から盆日、近江將壹伎史韓國之師也。財等自二高安城一降以渡一一衞我河「與二韓國一戦一一于河西「 地中央部を北上、磯城郡田原本町、大和郡山市 東部を〈て奈良市法華寺町に至り、更に歌姫越財等衆少不」能」距。先」是、遣一一紀臣大音「令」守ニ懼坂道「於是、財等退ニ懼坂「而 をへて山城方面に通じる。のちの平城京朱雀大 路は下っ道の延長上に置かれ、大和国の条里も居 = 大音之營「是時、河内國司守來目臣鹽籠、有下歸 = 於不破宮一之情 ( 以集 = 軍衆「 この道を基準として東西に分たれた。 爰韓國到之、密聞二共謀「而將」殺二鹽籠「々々知一一事漏「乃自死焉。經二一日「近江 ニ五↓四〇〇頁注一九。 三〈磯城郡田原本町蔵戸。 軍、賞一諸道一而多至。印並不」能二相戦「以解退。是日、將軍吹負、爲二近江一所」取、 毛他に見えず。廬井造も未詳。大宝二年美濃 国戸籍の国司の署名に五百井造豊国がある。同以特率 = 一二騎一走之。逮 = 于墨坂「遇逢 = 菟軍至「更還屯 = 金綱井「而招 = 聚散卒「於 族か 是、聞二近江軍至。自一一大坂道「而將軍引」軍如」西。到ニ當麻衢「與ニ壹伎史韓國軍「 天麾は指図をする旗。大将が使った。従って 麾下は、大将の陣のもと。 戦二葦池側「時有一一勇士來目者「拔」刀急馳、直人二軍中「騎士繼踵而進之。則近江軍 = 九村屋付近にあった寺院。↓補注ー三一。 悉走之。追斬甚多。爰將軍令一一軍中一日、共發」兵之元意、非」殺二百姓「是爲二元凶「 三 0 他に見えず。 故莫ニ妄殺「於是、韓國離」軍獨逃也。將軍遙見之、全一來目一以俾」射。然不」中、而 遂走得」免焉。將軍更還ニ本營「時東師頻多臻。則分」軍、各賞一上中下道一而屯之。 唯將軍吹負、親賞一中道「於是、近江將大養連五十君、自ニ中道一至之、留二村屋「而 遣一一別將廬井造鯨「率二二百精兵「衝一一將軍營「當時麾下軍少、以不」能」距。爰有ニ大 井寺奴名德麻呂等五人一↓ 天武天皇上元年七月 しきりさは 3 あた つひにし の きみなかのみち 四〇三 たいくさのきみ

2. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

( 七日 ) やふ ひのえさるのひ をよりら 一九梅は枚に同じ。箸状のものを口に含ませ、 内中に、男依等、近江の軍と、息長の横河に戦ひて破りつ。共の將境部連 ( 九日 ) 進軍中の談話や馬の嘶きを防ぐ。 くすりき いくさのきみはだのともたりとこのやま っちのえいぬのひ = 0 田中臣足麻呂。大海人皇子方の将として倉藥を斬りつ。戊戌に、男依等、近江の將秦友足を鳥籠山に討ちて斬りつ。 歴道を守備していた ( 三九六頁一七行 ) 。 三 0 ひ うみつみちのいくさのきみきのおみあへまろらやまとのみやこいくさのきみおほとものむらしふけひ ニ一七月二日条 ( 三九六頁一五行 ) に、大海人皇子 是の日に、東道將軍紀臣阿閉廱呂等、倭京の將軍大伴連吹負近江の爲に 方では、近江方と区別するために赤色を衣に着 ちあまりのうまいくさゐ き おきそめのむらじうさぎ けたとある。一三合言葉として「金」と言わせる。 = = ↓三八八頁注一八。一西↓補注、九。薊萩敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千餘騎を卒て、急 やまとのみやこは 野に駐屯していたことは七月二日条にみえる。 = 五村国連男依。七月二日条 ( 三九六頁一四行 ) に倭京に馳せしむ。 に、その日、諸将と数万の兵を率いて不破から 近江に入らせたとある。三〈続紀、天平十一一年 十二月条に横川頓宮、延喜兵部式に横川駅がみ忽衝二玉倉部邑「則遣一一出雲臣狛「撃追之。〇壬辰、將軍吹負、屯一一于乃樂山上「時荒 える。滋賀県坂田郡米原町醒井付近の地か。 田尾直赤麻呂、啓一一將軍一日、古京是本營處也。宜二固守「將軍從之。則遣二赤廠呂・ 毛↓三三四頁注一六。「共の」は近江方の意。 天他に見えず。 忌部首子人「令」戍二古京「於是、赤麻呂等詣二古京「而解二取道路橋板「作」楯、竪二 一一九万葉哭七に「淡海路の鳥籠の山なる不知哉川 3 」、毛一 0 に「狗上の鳥籠の山なる不知也河」於京邊衢一以守之。〇癸巳、將軍吹負、與二近江將大野君果安「戦二于乃樂山「爲二果 とあり、延喜兵部式には鳥籠駅が見える。滋賀 安一所」敗、軍卒悉走。將軍吹負、僅得」脱」身。於是、果安追至一一八ロ「奩而視」京、 県坂田郡・大上郡堺付近の丘陵地帯か。 三 0 大伴吹負が乃楽坂で大野果安の近江軍に破 毎」街竪」楯。疑」有一一伏兵「乃稍引還之。〇甲午、近江別將田邊小隅、越一一鹿深山「而 られたのは癸巳 ( 四日 ) のことであり、下文によ ると吹負は敗走の途中墨坂 ( 奈良県宇陀郡 ) で置 卷」幟抱」皷、詣二于倉歴「以二夜半一之、銜」梅穿」城、劇人二營中「則長下己卒與二足摩 従って置始菟 始菟の救援軍に出会ったという。 の発遣はより以前であり、戊戌 ( 九日 ) に係けた侶衆一難別、以毎」人令」言」金。仍拔」刀而毆之、非」言」金乃斬耳。於是、足摩侶衆 のは誤りであろう。 = 一東道将軍は、伊勢から鈴鹿を越えて大和 ~ 、悉亂之。事忽起不」知二所爲「唯足摩呂聰知之、獨言」金以僅得」免。〇乙未、小隅亦 当時の東海道を進軍する将の意。七月二日条 ( 三九六頁一二行 ) に、紀阿閉麻呂に諸将と数万進、欲」襲 = 薊萩野營一而急到。爰將軍多臣品治遮之、以二精兵一追撃之。小隅獨免走焉。 の兵を率いて伊勢の大山から倭に向わせたとあ 以後、遂復不」來也。〇内申、男依等、與一一近江軍「戦ニ息長横河一破之。斬ニ共將境部 = = 六月二十九日条 ( 三九六頁八行 ) に、吹負を連藥「〇戊戌、男依等討二近江將秦友足於鳥籠山一斬之。是日、東道將軍紀臣阿閉麻 将軍に拝すとある。三三七月四日条 ( 三九八頁 、この日吹負、近江の将に敗るとある。呂等、聞下倭京將軍大伴連吹負爲二近江一所去敗、則分」軍、以遣二置始連菟「率二千餘 三四七月二日条 ( 三九六頁一二行 ) に、紀阿閉麻 呂とともに倭に向わせたとある将。 騎「而急馳ニ倭京「 天武天皇上元年七月 三三 いくさ おきなが 三九九 そいくさのきみさかひべのむらし すみやか

3. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

いよいよたたか む小ところぬきと またしらはたあ 古之善教。昔雋不疑漢之名臣。於 = 安平之世一面邊臣瓊缶、獨り進みて轉鬪ふ。向ふ所皆拔りつ。新羅、更白旗を擧げて、を投て 刀剣不 / 離一一於身→蓋君子之於ニ武備一不 / 可一一以 もと したが つはもののみちし 況今処 / 身疆畔、豺狼交接。而可一一軽忽不レ て降首ふ。河邊臣瓊缶、元より兵を曉らずして、對ひて白旗を擧げて、空爾に 思二変難一哉。 ( 中略 ) 宜下深警戒、務崇一一共大一 副中孤意上焉」による。 獨り進む。新羅の鬪將の日はく、「將軍河邊臣、今降ひなむ」といふ。乃ち軍を 一四山犬と狼。猛悪な者のたとえ。 むかたたか ときさぎつく さきやぶ はなはおほ 一五軽忽は軽卒に行動すること。 一一呉志、孫権伝、建安五年条の「張昭・周瑜等進めて逆へ戦ふ。鋧を盡してく攻めて破りつ。前鋒の破るる所、甚だ衆し。倭 くにのみやっこてひこみづかすく 謂、権可三与共成ニ大業故委心而服事焉」に いくさす のが いくさのぎみて よる。セムは対象に近づけて行く意。心を相手國造手彦、自ら救ひ難きことを知りて、軍を棄てて遁れ逃ぐ。新羅の鬪將、手に に近づけ、その意のままになること。 一七降伏のしるし。神功摂政前紀十月条に「即 素旆而自服」とある。 投。呪訖欲」投レ火。守石之母、祈請日、投二兄火裏「天災果臻。請付二祝人「使」作一一 天武器。 一九軍事・戦法の意。 神奴「乃依二母請「許沒一一神奴「 0 秋七月己巳朔、新羅遣」使獻二調賦「共使人知三新羅 ニ 0 は、玉篇に「疾也、速也」とある。音セ ン。河辺臣を破ったのである。 減二任那「恥レ背二國恩「不二敢請罷。遂留不」歸二本土「例同二國家百姓「今河内國更 三手彦は他にみえず。倭国造は大和国城下郡 大和臨や ) 郷 ( 奈良県天理市の南部 ) の豪族で姓荒郡鷓鷸野邑新羅人之先也。◎是月、遣ニ大將軍紀男麻呂宿禰「將」兵出一彦喇「副將 ( ) は直。天武十二年九月に連、同十四年六月 河邊臣瓊缶、出二居曾山「而欲」問下新羅攻二任那一之状遂到二任那「以二薦集部首登 に忌寸に改姓した。↓田神武二年二月条。 弭「遣二於百濟「約二束軍計「登弭仍宿一一妻家「落二印書弓箭於路「新羅具知二軍計「卒 起ニ大兵「尋二屬敗亡「乞一一降歸附「紀男麻呂宿禰、取勝旋」師、人二百濟營「令二軍中一 日、夫勝不レ忘」敗、安必慮」危、古之善教也。今處疆畔、犲狼交接。而可二輕忽、不 思二變難一哉。況復平安之世、刀劒不レ離二於身「蓋君子之武備、不」可二以已「宜三深警 戒、務二崇斯令「士卒皆委レ心而服事焉。河邊臣瓊缶、獨進轉鬪。所レ向皆拔。新羅更 擧二白旗「投レ兵降首。河邊臣瓊缶、元不曉」兵、對擧二白旗「空爾獨進。新羅鬪將 日、將軍河邊臣、今欲」降矣。乃進」軍逆戦。盡」鋧攻破之。前鋒所」破甚衆。倭國 造手彦、自知」難レ救、棄軍遁逃。新羅鬪將、手↓ 欽明天皇二十三年六月ー七月 びとすす いくさのきみ カオ いくさのきみかはヘのおみ ゃぶ むか は八 やまとの いくさ

4. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

膝から下の部分。 一七 ならび つまおほばこ いたをし ひともろもらいくさのきみため 一 = すその短いズボン様のはきもの。和名抄に此の如し。此に由りて、特り諸の將帥の爲に痛み惜まる。共の妻大葉子、亦並に 「方言注云、袴而無レ謂二之褌ことある。蒟は 禽せらる。愴然みて歌ひて日はく、 一三この分注はあるいは後人の提人か。 ひれふ やまとむ た からくに 一四言わせたことには。 韓國の城の上に立ちて大葉子は領巾振らすも日本へ向きて 一五膿・雎はともに尻・臀に同じ。 あるひとこた 一六伊企儺の子の名。 宅次の二つの歌謡は内容的に必ずしもこの時或有和 ~ て日はく、 む た おほばこ からくに のものとする必要はなく、有名な歌謡をここに 韓國の城の上に立たし大葉子は領巾振らす見ゅ難波へ向きて 附会したともみうるが、その場合にはこの妻の 名は歌中の名をあてたに過ぎないことになる。 天〔歌謡一 00 〕韓国の城の上に立って大葉子は 領巾をお振りになる、日本 ~ 向いて。ヒレ ( 領持二鉤戟「追至二城洫「運」戟撃之。手彦因騎二駿馬「超二渡城洫「僅以」身免。鬪將臨ニ 巾・肩巾 ) は古く婦人が肩に掛けた白布。和名 」。此新羅語、於是、河邊臣、遂引兵退、急營一一於野「於是、 抄に「婦人項上飾也」とある。ことに采女は必城恤一而歎日、久須尼自利未」詳也 ずこれを掛けて奉仕した。天武十一年三月二十 士卒盡相欺蔑、莫」有一一遵承「鬪將自就二營中「悉生二虜河邊臣瓊缶等、及共隨婦「于 八日条に采女の肩巾の廃止令がみえ、そこに 「肩巾、此云二比例ことある。ヒレを振るのは 時、父子夫婦、不」能一一相恤「鬪將問二河邊臣一日、汝命與」婦、孰與尤愛。答日、何 惜別の行為。万葉公八ー五に松浦佐用比売が、 肥前国風土記、松浦郡褶振峰の条に弟日姫子が、 愛二一女「以取」禍乎。如何不」過」命也。遂許爲」妾。鬪將遂於一一露地「辭二共婦女「 ともに大伴狭手彦の船を見送ってヒレを振った て = の歌は、大葉子以外の者が詠んだものとみ々々後還。河邊臣欲 = 就談一之。婦人甚以慙恨、而不」隨日、昔君輕賣 = 妾身「今何面 るほうが自然であろう。 目以相遇。遂不二肯言「是婦人者、坂本臣女、日二甘美媛「同時所」虜、調吉士伊企儺、 一九〔歌謡一 0 一〕ある人がこの歌に唱和して歌っ た歌。韓国の城の方に立たれて、大葉子は、難 爲」人勇烈、終不一一降服「新羅鬪將、拔」刀欲」斬。逼而脱」褌、追令下以一一尻臀一向中日 波へ向って領巾をお振りになる。それが見える の意。タタスはタッの敬語。 叫眺日、日本將、ニ我膣雎「印號叫日、新羅王、崢一我雎「雖」被ニ苦 本「大號日也 逼「尚如前叫。由」是見殺。共子舅子、亦抱一一共父一而死。伊企儺、辭旨難」奪、皆 如」此。由」此、特爲一一諸將帥一所二痛惜「共妻大葉子、亦並見」禽。愴然而歌日、柯羅 供爾能、基能陪偉陀致底、於譜磨故幡、比例甫囃須母、耶匱等陛武岐底。或有和日、 柯羅倶爾能、基能陪倆陀々志、於譜磨故幡、比禮甫羅須彌喩、那儒婆陛武岐底。 欽明天皇二十三年七月 とりこに うた おほばこ ひれふ 4 み なには

5. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

みいきほひか たれよ くさま ) なお考うべきところである。 皇の威を假らずは、誰か能く建てむ。故、我、天皇のみもとに就でて、將士を請し 一三ャルは、行かせた結果がどうなろうと構わ そこば′、 ずに行かせてしまう意。従ってャラフは放逐す ること。 て、任那の國を助けむと思欲ふ。將士の粮は、我當に運ばむ。將士の數、未た若干 ところどころまたみづかさだ ひとっところはべ ともせむせじあげつら 一四ここの「職汝之由」の四字は下文の携入で と限らじ。粮運ぶ處、亦自ら決め難し。願はくは一處に居りて、倶に可不を論ひ あろう。職は主として、もつばらの意。 うるはしきしたが 一五ひろがる意。ホドコスの自動詞形。 一六海西は日本から見た表現で、朝鮮をさす。 て、擇びて其の善に從ひて、天皇に奏さむとす。故、頻に召びに遣せども、汝猶 宅日本国内の屯倉や ) になぞらえた呼びかた で、新羅をも官家と呼んでいる例があるが、こし來ざれば、議ること得ず」といふ。 こでは百済と任那諸国をさす。これら南鮮諸国 の内部に屯倉の如き朝廷直轄領が設けられてい たわけではない。屯倉 ( 官家 ) ↓補注ー一三。 天アゲッラフは相手の言葉をとりあげ、互い不一一來到「由」是、不」得下共論一一圖計任那之政「奉奏ニ天皇一矣。今欲下請ニ留津守連「 に釣り合う意。論議をかわす。 別以一一疾使「具申一一情状「遣奏一一天皇「當以ニ三月十日「發ニ遣使於日本「此使便到、 天皇必須問汝。々日本府卿・任那旱岐等、各宜下發」使、共ニ我使人「往聽中天皇所 ・自レ昔迄」今、唯聞一一汝惡「汝先祖等、 宜之詔別諞二河内直「麻都。而語訛未」詳 = 共正一也。 3 亦一 = = 那陀甲背・鷹彌「語訛未」詳。倶懷一一辭僞一誘説。爲哥可君、冰翫転「專信 = 共 言「不」憂ニ國難「乖二背吾心「縱肆暴虐。由」是見逐。職汝之由。汝等來住二任那「 恆行一一不善「任那日損、職汝之由。汝是雖」徴、譬猶下小火燒二焚山野「連中延村邑 3 由二汝行惡「當」敗一一任那「遂使二海西諸國官家、不得三長奉一一天皇之闕「今遣」奏ニ天 皇「乞下移一一汝等「還中其本處汝亦往聞。又謂ニ日本府卿・任那旱岐等一日、夫建一一任 那之國「不」假二天皇之威「誰能建也。故我思下欲就一一天皇「請ニ將士「而助中任那之國 將士之粮、我當須運。將士之數、未」限一一若干「運」粮之處、亦難一一自決「願居二一處「 倶論一一可不「擇從一一共善「將」奏二天皇「故頻遣」召、汝猶不來、不」得」議也。 欽明天皇五年二月 まうこ かぎ えら かて たす がた まう かれわれ かて ねが かれしきりよ つかは かす なほ

6. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

まういた すなは 四城の総称、或は四城の中の素奈羅の異称とみ新羅より至る。印ち新羅、亦任那を侵す。 られ、阿羅羅は南迦羅と肩を並べる西隣の一国 ひつぎのみこ である阿羅 ( 安羅 ) である。↓補注ー一。 九年の春二月に、皇太子、初めて宮室を斑鳩に興てたまふ。 ニ 0 吉師は吉士に同じ。神は他に見えず。難波 ( 五日 ) やよひぎのえさるついたちっちのえねのひおほとものむらしくひこま 吉士↓五五頁注三一。 三月の甲申の朔戊子に、大伴連囓を高麗に遣し、坂本臣糠手を百濟に遣して、 三敏達四年四月条には吉士木蓮子とある。↓ みことのり すみやか 一三九頁注二三。 詔して日はく、「急に任那を救へ」とのたまふ。 一三用明元年正月条に、聖徳太子「初居一一上宮一 後移二斑鳩ことあり、推古二十九年条に太子こ なっさっきすめらみことみみなしかりみやま ときひさめ かはみづただよ こに薨ずとある。子の山背大兄王も皇極一一年十夏五月に、天皇、耳梨の行宮に居します。是の時に大雨ふる。河の水漂蕩ひて、 一月条によると、ここにあり、斑鳩寺 ( 法隆寺 ) に人って自殺した。↓一五五頁注二七・補注 0 冬十月戊戌朔丁未、越國獻一一白鹿一頭「 一三↓一六二頁注一六。 七年夏四月乙未朔辛酉、地動舍屋悉破。則令一一四方「俾」祭一一地震訷「 0 秋九月癸亥 = 四↓一六二頁注一九。 = = 大和志に「 + 市郡古蹟耳無行宮在 = 木原村こ朔、百濟貢二駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻「 とある。今、奈良県橿原市木原町。 実ヒサメ↓一六頁注一三。 八年春二月、新羅與一一任那一相攻。天皇欲」救二任那「 0 是歳、命二境部臣一爲一一大將車「 以 = 穗積臣一爲一一副將軍「」則將 = 萬餘衆「爲一一任那一撃 = 新羅「於是、直指 = 新羅「以 泛海往之。乃到一一于新羅「攻一一五城一而拔。於是、新羅王、惶之擧一一白旗「到一一于將軍之 麾下一而立。割二多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々六城「以請」服。 時將軍共議日、新羅知」罪服之。強撃不」可。則奏上。爰天皇更遣二難波吉師訷於新 羅「復遣一一難波吉士木蓮子於任那「並檢一一校事状「爰新羅・任那、二國遣」使貢」調。 仍奏レ表之日、天上有レ神。地有二天皇「除一一是二神「何亦有レ長乎。自レ今以後、不 4 」有一一相攻「且不レ乾一一船柁「毎レ歳必朝。則遣レ使以召ニ還將軍「將軍等至レ自一一新羅「 印新羅亦侵一一任那「 九年春二月、皇太子初興二宮室于斑鳩「 0 三月甲申朔戊子、遣一一大伴連囓于高麗「遣ニ 坂本臣糠手于百濟「以詔之日、急救ニ任那「 0 夏五月、天皇居ニ于耳梨行宮「是時大 一七七 推古天皇六年十月ー九年五月 のたま をか いかるが た さかもとのおみあらて

7. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第二十八 たちまちたまくらべのむらっ すなはいづものおみこまっかは 軍としたことの漢文的修辞か。継体二十一年八忽に玉倉部邑を衝く。則ち出雲臣狛を遣して、撃ちて追はしむ。 四 ( 三日 ) 五 月条にも見える。四四近江の北方にあたる越の みづのえたつのひ いくさのきみふけひ ならやま うへ ときあらたをのあたひあかまろいくさのきみまう 地方。越↓九一頁注二九。 壬辰に、將軍吹負、乃樂山の上に屯む。時に荒田尾直赤麻呂、將軍に啓して ふるきみやここ いほりところ したが すなは 一景行記に「玉倉部の清泉」が見える。滋賀 日さく、「古京は是れ本の營の處なり。固く守るべし」とまうす。將軍從ふ。則ち 県坂田郡米原町醒井の地か。 いみべのおびとこびと ふるきみやこまも らふるきみやこいた = 続紀、大宝二年九月条に出雲狛に臣姓を賜わあかまろ 赤廠呂・忌部首子人を遣して、古京を戍らしむ。是に、赤麻呂等、古京に詣りて、 ったとあり、ここの臣は追記。のち羽田矢国と ( 四日 ) と たてつく みやこほとりちまたた みづのとのみのひ ともに三尾城を政略。大宝二年従五位下 ( 続紀 ) 。 = 下文 ( 四〇一一頁一行以下 ) に七月一一日の河内道路の橋の板を解ち取りて、楯に作りて、京の邊の衢に竪てて守る。癸巳に、將 九 における戦況が見える。四この一段は、六月二 あふみいくさのきみおほののきみはたやす ならやまたたか はたやすためやふ いくさびとども 十九日是日条を受け、それと同性質の記事。 軍吹負、近江の將大野君果安と、乃樂山に戦ふ。果安が爲に敗られて、軍卒 五奈良市北方の丘陵地帯。近江・山城から大 6 ふつくに わづかみまぬか え お やくち 和盆地を防ぐ要衝。↓一一頁注一八。 悉に走ぐ。將軍吹負、僅に身を脱るること得つ。是に、果安、追ひて八口に至りて、 六他に見えず。十四年十月条の荒田尾連麻呂 みやこみ かくしいくさあ すなはやうやくひ は、あるいは同族か。七近江遷都以前に宮室の 奩りて京を視るに、街毎に楯を竪つ。伏兵有らむことを疑ひて、乃ち稍に引きて あった飛鳥 ( 奈良県高市郡明日香村 ) の地。 へ子人は首・子首にも作る。色弗瓮しの兄。 還る。 九年連姓を賜わり、十年三月帝紀及び上古諸事 ( 五日 ) きのえうまのひ すけのいくさのぎみたなへのをすみかふかのやま の記定に参加。十三年宿禰姓となり、養老三年 甲午に、近江の別將田邊小隅、鹿深山を越えて、幟を卷き皷を抱きて、倉歴 七月大宰大弐正四位下にて没 ( 続紀 ) 。忌部首↓ も くちきくく にはかいほりうち 二七二頁注一六。 に詣る。夜半を以て、梅をみて城を穿ちて、劇に營の中に人る。則ち己が卒と 九東入の父。続紀、天平十四年十一月条に「飛 鳥朝廷糺職大夫直広肆」とみえる。大野君は毛 たりまろ いくさのひとわか おそ ひとごと 野氏より分れた大族。十三年に朝臣に改姓。姓足摩侶が衆と別ち難きことを長りて、入毎に「金」と言はしむ。仍りて刀を拔き 氏録、右京皇別に「豊城人彦命四世孫、大荒田 き あら いくさふつくみた ことたちまちおこ 別命之後也」とある。 て毆ち、「金」と言ふに非ざるを斬る。是に、足摩侶が衆悉に亂る。事忽に起りて 一 0 ↓一〇六頁注七。 = 所在未詳。和名抄の大 まぬか 和国添下郡八田郷 ( 今、奈良県大和郡山市矢田 ) 所爲を知らず。唯し足摩呂のみ、聰く知りて、獨り「金」と言ひて僅に免るること の誤とする説 ( 集解・長等の山風 ) があるが地理 ( 六日 ) きのとのひつじのひ をすみすす いほりおそ いくさのきみ すみやかいた 的に無理。飛鳥に近い地であろう。 得つ。乙未 に、小隅亦進みて、薊萩野の營を襲はむとして急に到る。爰に將軍 = 一説文に「企。人在ニ山上一皃」とある。 ときいくさ これよりのちつひまた 一三この日の戦況は、下文 ( 四〇二頁一〇行以下 ) おほのおみほむちた 多臣品治遮へて、精兵を以て追ひて撃つ。小隅、獨り免れて走げぬ。以後、遂に復 にも見える。一四↓三九六頁注一九。一五他に 見えず。一六↓三八八頁注二一。 宅発見され ぬよう潜行するさま。天↓三九六頁注一一一六。來す。 まうこ せむすべ まう よなか こほ ちまたごと お たらの ひと かね まぬか に まつづみ よ おのいくさのひと かたなぬ

8. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第二十二 一↓一二八頁注四。 ニ延喜治部式に上瑞としている。↓田仁徳五 十三年五月条。 三ナは土地。ヰは居。ナヰで地盤のこと。フ ルは震動する意。ナキフルで地震の意。 四和名抄に「駱駝〈洛阨二音、良久太乃宇万〉」。 五和名抄に「驢〈宇佐岐無麻〉似 / 馬長耳」とあ る。俗にいう「ろば」。 大和名抄に「比都之」とある。 七雉は奈良時代にはキギシとい 0 たが、平安り。 時代にはキギスと転じた。↓白雉元年二月条。 はるきさらぎ しらきみまなあひせ おもほ 八・九欽明二十三年正月条の任那滅亡以後、関 八年の春二月に、新羅と任那と相攻む。天皇、任那を救はむと欲す。 九 係記事としては、敏達四年六月条に新羅が、四 ことしさかひべのおみことおほおにきいくさのきみ ほづみのおみもそひのいくさのきみ ならびなもら 邑の調を進めた記事がある。新羅は任那併合後、是歳、境部臣に命せて大將軍とす。穗積臣を以て副將軍とす。並に名を闕せり。 または敏達四年以後、日本に対して、この四邑 いくさゐ ため さ ただ ふね の調を貢進する義務を負ってきたが、その約が 則ち萬餘の衆を將て、任那の爲に新羅を撃つ。是に、直に新羅を指して、泛海から 怠られがちであったので、この年、積極的にこ さしせ きしかしこ の権益を確保するために、軍を興そうとしたの 往く。乃ち新羅に到りて、五つの城を攻めて拔きえつ。是に、新羅の王、惶みて白 であろう。ただし、是歳の記事は、一見、現実 一五 はたあ いくさのぎみしるしのはたもと た たたら すなら ほちくゐわだ 性にみちているが、全体的には二月の記事のい き旗を擧げて、將軍の麾の下に到りて立つ。多多羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・ われを説明する作文にすぎないともみられる。 一八 一九 ありひしのから あらら む ↓注一〇・一四ー一九及び補注ー一。 したが いくさのきみとも 一 0 境部臣は蘇我臣の一族 ( ↓補注おー一 ) 。ただ 南迦羅・阿羅羅、六つの城を割きて、服はむと請す。時に、將軍、共に謬りて日 し、この境部臣が誰であるかは分らない。集解 よ は境部臣摩理勢 ( 一九七頁注二七 ) のことであろはく、「新羅、罪を知りて服ふ。強ひて撃たむは可くもあらじ」といふ。則ち奏し うというが、三十一年是歳条に征新羅大将軍と またなにはのきしみわ いたび して新羅に派遣された境部臣雄摩侶三〇六頁上ぐ。爰に天皇、更、難波吉師紳を新羅に遣す。復、難波吉士木蓮子を任那に遣す。 注一七 ) とも考えられる ならびこと かたちかむが ふた つかひまだ みつきたてまっ 一一穂積臣↓一一六頁注七 並に事の状を檢校へしむ。爰に新羅・任那、二つの國、使を遣して調貢る。仍りて まうしぶみたてまっ あめかみま っちすめらみことま ふたはしら 一三この五城というのは、継体二十四年九月条 表を奏りて日さく、「天上に神有します。地に天皇有します。是の二の神を除 の、新羅が攻め取った任那の五城から思いつい あ いづこ またかしこ のちあひせ またふなかち た数ではあるまいか。 きては、何にか亦長きこと有らむや。今より以後、相攻むること有らじ。且船柁を 一四ー一九この六城のうち、多多羅・素奈羅・弗 としごと かならまうこ つかは いくさのきみめ 知鬼・委陀は継体二十三年四月是月条の四村、 敏達四年六月条の四邑と対応し、南迦羅はその乾さず、歳毎に必ず朝む」とまうす。則ち使を遣して、將軍を召し還す。將軍等、 ( 十日 ) ふゆかむなづきっちのえいぬついたちひのとのひつじのひ 冬十月の戊戌の朔丁未に、越國、白鹿一頭を獻れり。 ( 二十七日 ) なつうづきぎのとのひつじ かのとのとりのひ やかすことごとくこほ すなはよも 七年の夏四月の乙未の朔辛酉に、地動りて舍屋悉に破たれぬ。則ち四方 のり ) 」と なるかみ に令して、地震の訷を祭らしむ。 四 五 ながづきみづのとのゐついたちのひ くだららくだひとつうさぎうまびとつひつじふたっしろききぎすひとったてまっ 秋九月の癸亥の朔に、百濟、駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻を貢れ よろづあまり すなは つみし したが さ し こしのくにしろきかせきひとったてまっ なゐふ すめらみこと つかは ここ またなにはのきし とき かへ 一七

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三五八 日本書紀卷第二十七 なっさっきみづのとのうしついたちのひ いぬかみのきみなもら 一大上君↓二〇〇頁注四。豊璋を糺解と記す夏五月の癸丑の朔に、犬上君名を闕せり。馳せて、兵事を高麗に告げて還る。 四 のは斉明七年四月条の日本世記と同じ。この条、ニ ふくしんつみかた くげしやくさしみ 同書によるか。 = 百済王余豊璋のこと。↓一三糺解を石城に見る。糺解、仍りて信が罪を語る。 五 八頁注一三。三忠清南道扶余の東南の石城里。 さびきぬえふた みなづき まへのいくさのきみかみつけののきみわかこらしらき 四鬼室福信↓三四五頁注三六。かねて唐将劉 六月に、前將軍上毛野君稚子等、新羅の沙鼻岐奴江、二つの城を取る。百濟の 仁軌は「福信兇暴、残虐過甚、余豊猜惑、外合 もたなうらうがゆは こきしほうしゃう ぎみかたふこころあ 内離」と評していたと旧唐書、劉仁軌伝に見え 王豐璋、信が謀反くる心有るを嫌ひて、革を以て掌を穿ち縛ふ。時に自ら決め難 るが、また同書百済伝にも「時福信専一一共兵権一 すでかくごと すなはまへつきみたちと せむすべし 与ニ扶余豊一漸相猜弐」と見える。 = 沙比 ( 慶尚北道尚州 ) とすれば西から、三岐し。所爲知らず。乃ち諸臣に問ひて日はく、「信が罪、既に此の如し。斬るべき 七 八 ゆるす だちそちとくしふとくまう ( 慶尚南道三嘉 ) とすれば南から、新羅へ進撃し たことになるが、沙鼻・岐奴江か、沙鼻岐・奴や不や」といふ。是に、達卒德執得日さく、「此の惡逆しき人をば、放し捨つべから 江か、沙鼻岐奴の江か、未詳。今、釈紀の訓に こきしちからひと すなはしふとくつはぎはきか よる。六以下は、旧唐誓、百済伝の前注四のず」とまうす。信印ち執得に唾けて日はく、「腐狗癡奴」といふ。王、健兒を 続きに「福信称レ疾、臥二於窟室「将下候二扶余豊一ニ ととの かうべすし 問 , 疾謀襲。殺之扶余豊覚、而率 = 共親信一掩一一勒へて、斬りて首を醢にす。 ( 十三日 ) 殺福信ことある。他の海外史料の記述もほば ただ くだらのこきしおのよきいくさのきみき あきはっきみづのえうまついたちきのえうまのひ一四 同じで、現地人の見聞に基づくかと思われる本 秋八月の壬午の朔甲午。新羅、百濟王の己が良將を斬れるを以て、直に國 紀が最も詳しい。七百済の官位十六階の第二。 一五 もろもろの ↓表一。八他に見えず。九ッハキは清音。 に入りて先づ州柔を取らむことを謀れり。是に、百濟、賊の計る所を知りて、諸 一 0 当時の朝鮮でよく使われた悪口か。 = 一八 やまとのくにすくひのいくさのきみいほはらのきみおみちからひとよろづあまりゐ いくさのきみかた 四〇頁注一〇・二六〇頁注一〇。一ニ馬のクッ ワ。クッワを引く意から、おさえ、ととのえる將に謂りて日はく、「今聞く、大日本國の救將廬原君臣、健兒萬餘を率 ゅ もろもろいくさのきみたちあらかじはか まさうみ 意。一三罪人の首などを曝しものにするために 塩や酢につけて腐取を防ぐ。大陸での古くからて、正に海を越えて至らむ。願はくは、諸の將軍等は、預め圖るべし。我自ら往 ( 十七日 ) 一九 の風習。 そこきしのさし っちのえいぬのひあたのいくさのきみ はくすき 一四以下、二年末までの記事は元年十二月条ときて、白村に待ち饗へむ」といふ。戊戌に、賊將、州柔に至りて、共の王城を 三十七日 ) 同系の史料によるか。三国史記、金庚信伝に っちのえさるのひやまと はくすきのえつらな もろこしいくさのぎみいくさふねももあまりななそふな 「竜朔三年癸亥、百済諸城潜図 = 興復→共渠帥繞む。大唐の軍將、戦船一百七十艘を率て、白村江に陣烈れり。戊申に、日本の 拠二豆率城一乞二師於倭一為一一援助→大王親率二庚 つらかた しりそ あたたか ふないくさま 信・仁問・天存・竹旨等将軍一以ニ七月十七日】 船師の初づ至る者と、大唐の船師と合ひ戦ふ。日本不利けて退く。大唐陣を堅めて 征討。次一一熊津州「与一一鎮守劉仁願一合 / 兵」とあ 三十八日 ) あひかた こきし あるかたちみ もろもろのいくさのきみ っちのとのとりのひ る。唐側にもこれに対応する記事があるが、旧 唐書、劉仁軌伝は、州柔城を「賊之巣穴」と認守る。己酉に、日本の諸將と、百濟の王と、気象を觀ずして、相謂りて日 つらみだ かれおの われらさきあらそ めて一挙にこれを攻略することを提案したのは はく、「我等先を爭はば、彼自づからに退くべし」といふ。更に日本の伍亂れたる 仁軌としている。 もの ねが あ くちいぬかたくなやっこ ま あた いくさのことこま ひと さら ところ ときみづかさだ と っ われ くだら 小へ

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日本書紀卷第十九 きみそ てひこ 一戟は両側に枝のあるほこで、鉤戟はさきの鉤戟を持りて、追ひて城の洫に至りて、戟を運して撃つ。手彦、因りて駿馬に騎 曲っているもの。漢書、陳勝伝賛の師古注に わた わづかみ ものが いくさのきみきみそのぞ 「鉤戟、戟刃鉤曲者也」とある。 りて、城の洫を超し渡りて、僅に身を以て免る。鬪將、城の洫に臨みて歎きて印は 一一城のほり。説文に「城池也」とある。 くすにじり これしらき ことば いまつばひらか かはヘのおみつひ いくさ 三語義未詳。 く、「久須尼自利」此は新羅の語にして、未だ詳ならず。といふ。是に、河邊臣、遂に兵を 四ナイガシロは、無キガ代 ( ~ ) の転。軽んずる 四 たちまちの しりぞ いほり いくさのひとどもことごとくないがしろ したが 意。 引きて退きて、急に野に營す。是に、士卒、盡に相欺蔑にして、遵ひ承くるこ 五カゾ↓補注ー一四。 あ な いくさのきみみづかいほりうちゅ ことごとくかはヘのおみにヘら 六ィモは兄弟から見て姉妹の双方をいう。セ は姉妹から兄弟の双方をいう語。古くは、イモと有ること莫し。鬪將、自ら營の中に就きて、悉に河邊臣瓊缶等、及び共の隨へ 五 は兄弟双方の結婚の相手、セは姉妹双方の結婚 とりこ と たをやめ かそこ もせあひあはれ あた いくさのきみ の相手であ。たから、イモセは、つまり結婚のる婦を生けながら虜にす。時に、父子夫婦、相血むこと能はず。鬪將、河邊臣に間 相手同士を呼ぶ語であった。後に同母の兄弟と いましいのちたをやめ いづれはなはを なにひとり 姉妹との結婚が禁止されるに及んで、イモは男ひて日はく、「汝、命と婦と、孰か尤だ愛しき」といふ。答へて日はく、「何ぞ一の から見た結婚の相手の女性。セは女から見た結 めをし わざはひと 婚の相手の男性をいうようにな「た。従「て夫女を愛みて、調を取らむや。如何にとい ~ ども命に過ぎざらむ」といふ。遂に許し 婦にイモセの訓がある。 め いくさのぎみ あらは ところ たをやめをか 七何といっても自分の命に過ぎるものがあろ て妾とす。鬪將遂に露なる地にして、共の婦女を鼾す。婦女後に還る。河邊臣、就 うかの意。 たをやめはなは したが さききみかろがろ へ闘将の妾の意。妾を和名抄にヲムナメとあ きてらはむとす。婦人、甚だ以て慙ぢ恨みて、隨はずして日はく、「昔に君、輕し るのは、妾にヲミナとメとの二訓があるのを誤 いまなにおもて あひあ あひしたが って一語と見なして伝承したものであろう。ヲ ミナはおそらく、ヲ・ ( 小 ) オミナ ( 嫗 ) の約。はじく妾の身を賣りき。今何の面目ありてか相遇はむ」といふ。遂に肯言はず。是の め若い女の意。後に女一般をいう。メは妻、ま さかもとのおみむすめうましひめ おな つきのきし きなひと たは妾。やや見下げていう感じがある。 婦人は、坂本臣の女、美媛と日ふ。同じ時に虜せられたる、調吉士伊企儺、人と 九親しみをかわそうとした。カタラフは事情 な つひしたが しらきいくさのきみたちぬ せ をくわしく述べて、仲間とする意がある。 爲り勇烈くして、終に降服はず。新羅の鬪將、刀を拔きて斬らむとす。逼めて褌を 一 0 名は不明。崇峻即位前紀七月条に坂本臣糠 しりたふら やまと 手の名がみえる。坂本臣は和泉の豪族。和名抄脱かしめて、追ひて尻臀を以て日本に向はしめて、大きに號叫は眺なり。びて日は に和泉国和泉郡坂本郷 ( 大阪府和泉市阪本町付 近 ) がある。のち天武十三年十一月に朝臣に改しむらく、「日本の將、我が膣雎を嚼 ~ 」といはしむ。印ぢ號叫びて日はく、「新 姓した。姓氏録、和泉国皇別に「坂本朝臣。紀 くら なほさきごとさけ これよ 朝臣同祖、建内宿禰男紀角宿禰之後也。男白城 羅の王、我が膣雎をへ」といふ。苦め逼まると雖も、尚前の如く叫ぶ。是に由り 宿禰三世孫建日臣、因 / 居賜一一姓坂本臣ことあ し ことばうば こをちこ かそむたか る。↓田安康元年一一月・雄略十四年四月条。 て殺されぬ。共の子舅子、亦共の父を抱へて死ぬ。伊企儺、辭旨奪ひ難きこと、皆 = 他に見えす。調吉士↓四四頁注八。 たをやめ ひ やっこ ころ こきし きみそ と とき ほこめぐら とりこに いへど おほ ここ のちかへ すぐれたるうまの なげ そ みな