百濟 - みる会図書館


検索対象: 日本古典文學大系68 日本書紀 下
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1. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

録、左京神別 0 大伴宿禰 0 条によれば、大伴室固德馬丁安に代ふ。僧曇慧等九人を、僧道深等七人に代ふ。に 男に勅を奉りて、易博 屋の子の談 ( 2 た ) から分れ、大伴氏と並んで靫負 せせとくわうだうりゃうこよみのはかせことくわうほうそんくすしのはかせなそちわううりようだくすりかりはかせせとくはんりゃうぶ ( % ) を率いて宮門を警衛したというが、佐伯部 の伴造である佐伯造との関係は明らかでない。 士施德王道良・暦博士固德王保孫・醫博士奈卒王有悛陀・採藥師施德潘量豐・ ニ九 三 0 のち天武十三年に宿禰に改姓した。 ことくちゃううだうたまひのひとせとくさむこんきとくこましくゐとくしんぬたいとくしんだ たてまっ 一 = ↓十四年正月十二日条。 固德丁有陀・樂人施德三斤・季德己麻次・季德進奴・對德進陀を貢る。皆請すに 一三去年の閏月は十一月。 依りて代ふるなり。 一四ソコ↓一〇六頁注八。 一五↓九年四月条。 やよひひのとのゐついたちのひ かへ 一六正月中に間に合うようにしてほしいの意で 三月の丁亥の朔に、百濟の使人中部木刕施德文次等罷り歸りぬ。 あろう。正月はあるいは五月の誤りか。 一七すぐに発遣するの意。 一八百済の五部の一。↓表七。 亦如 = 前法「而對答焉。遂乃立標而合戦。於是、百濟以鉾刺一一墮高麗勇士於馬一斬 一九百済の官位十六階の第五。↓表一。 ニ 0 他にみえず。将軍はあるいは百済の姓か。 首。仂刺 = 擧頭於鉾末「還人示衆。高麗軍將、憤怒益甚。是時、百濟歡呼之聲、 一 = 百済の五部の一。↓表七。 可」裂二天地「復共偏將、打」鼓疾鬪、追一一却高麗王於東聖山之上「 一三百済の官位十六階の第六。↓表一。 = = 他にみえず。鳥をカクと訓む古訓の由来未十五年春正月戊子朔甲午、立 = 皇子渟中倉太珠敷奪「爲 = 皇太子「〇丙申、百濟遣 = 中 はあるまいか 部木刕施德文次・前部施德日佐分屋等於筑紫「諮 = 内臣・佐伯連等一日、德卒次酒・ ニ四↓八年四月条。 = 五五経博士↓二八頁注八。王柳貴は他に見え 杆卒塞敦等、以 = 去年閏月四日一到來云、臣等、 = 以 = 來年正月一到。如此導而未 ず。↓一二九頁注二〇。 審。來不也。又軍數幾何。願聞 = 若干「預治 = 營壁「別諮、方聞、奉 = 可長天皇之詔「 実固徳は百済の官位十六階の第九。↓表一。 馬丁安は他にみえず。 來 = 詣筑紫「看 = 送賜軍「聞」之歡喜、無 = 能比者「此年之役、甚危 = 於前「願遣 = 賜軍「 毛十四年六月条にみえる勅をさす。 = 〈↓一〇四頁注三。王道良以下の人名他に使」逮 = 正月「於是、内臣奉」勅而答報日、印令」遣 = 助軍數一千・馬一百匹・船卅隻「 見えず。 = 九百済の官位十六階の第十。↓表一。 0 二月、百濟遣 = 下部杆率將軍三貴・上部奈率物部鳥等「乞 = 救兵「仍貢 = 德卒東城子 三 0 百済の官位十六階の第十一。↓表一。 = = ↓正月九日条。文次らは筑紫にとどまって 莫古「代 = 前番奈率東城子言「五經博士王柳貴、代 = 固德馬丁安「僧曇慧等九人、代 = いたのであろう。 僧道深等七人「別奉」勅、貢 = 易博士施德王道良・暦博士固德王保孫・醫博士奈率王 有悛陀・採藥師施德潘量豐・固德丁有陀・樂人施德三斤・季德己麻次・季德進奴・ 對德進陀「皆依請代之。 0 三月丁亥朔、百濟使人中部木刕施德文次等罷歸。 欽明天皇十四年十月ー十五年三月 一〇九 つかひ らまか やくのはか

2. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

」兵撃」之。取 = 二城一増築、留 = 甲士一千一戍」之」の事は、勅を奉りて堅く守る。延那斯・廠都が事は、問ひたまはむとも間びた とある。道薩・金現二城は位置未詳。 やっこむたりたてまっ 一へ中部・下部はともに百済の五部の一。↓表 まはじとも、唯勅の從ならむ」といふ。因りて高麗の奴六口を獻る。別に王人に奴 七。皮久斤は他に見えず。ヒコンコンの訓、釈 ( 十六日 ) ひとりおく と みなにりむせ きのとのひつじのひ ちうほうなそちひこんこん , 紀による。 一口を贈る。皆爾林を攻めて、禽れる所の奴なり。乙未に、百濟、中部奈率皮久斤・下 一九施徳は百済の官位十六階の第八。↓表一。 一九 ほうせとくやくかんなら まだ こまあたとたり 灼干那は他に見えず。ヤクカンナの訓、釈紀に よる。 部施德灼干那等を遣して、狛の虜十口を獻る。 ニ 0 = 0 斛は石 C) に同じ。雑令に「十升為 / 斗、十 むぎたねちさか こきしたま 斗為」斛」とある。ただし一升の実量は今の四十二年の春三月に、麥種一千斛を以て、百濟の王に賜ふ。 合強。サカは石の字音シャクをサカと伝えたに よる語。百石をモモサカと訓む例などがある ( 百石讃歎 ) 。 0 閨七月庚申朔辛未、百濟使入掠葉禮等罷歸。 0 冬十月、遣二三百七十人於百濟「 助二築城於得爾辛「 十年夏六月乙酉朔辛卯、將德久貴・固德馬次文等請二罷歸「因詔日、延那斯・麻都、 陰私遣一一使高麗一者、験嘗」遣」問一一虚實「所」乞軍者、依」願停之。 十一年春二月辛巳朔庚寅、遣」使詔二于百濟一使阿比多、率 = 三舟「來 = 至都下→日、験依二施德 久貴・固德馬進文等所レ上表意「一々教示、如」視二掌中「思二欲具一」情。冀將」盡レ抱。 大市頭歸後、如レ常無」異。今但欲二審報辭「故遣」使之。又復験聞、奈率馬武、是王 之股肱臣也。納レ上傳レ下、甚協二王心「而爲一主佐「若欲下國家無レ事、長作一官家「 永奉中天皇ハ宜以一一馬武一爲一一大使「遣」朝而已。重詔日、験聞、北敵強暴。故賜一一矢卅 具「庶防一一一處「 0 夏四月庚辰朔、在一一百濟一日本王人、方欲」還之。百濟本記云い駟月一日 百濟王聖明、謂一主人一日、任那之事、奉」勅堅守。延那斯・麻都之事、問與」不」問、 唯從勅之。因獻 = 高麗奴六ロ「別贈 = 王人奴一口「豬壑一〇乙未、百濟遣 = 中部奈 率皮久斤・下部施德灼ア那等「獻ニ狛虜十ロ「 十二年春三月、以ニ麥種一千斛「賜一一百濟王「 欽明天皇九年閏七月ー十二年三月 9 みことのりうけたまは ただ やよひ 3 よ 九九 ことみつかひ 7

3. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

敵を威嚇する。 くだらの ほうしゃうら さっき おほぎいくさのぎみたいきむちうあづみのひらぶのむらしらふないくさももあまりななそふなる 五月に、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等、船師一百七十艘を率て、豐璋等を百濟 一五↓三四五頁注三六。 くらゐっ こがねのふみたふくしんたま みことのり 一六↓二八一一頁注一 0 ・一一。 國に送りて、宜勅して、豊璋等を以て共の位を繼がしむ。又金策を信に予ひて、 一七なめし皮。天種子用の籾。斛をサカと訓む みことのりう かうぶりもの のは、石のヤ ) の字音をサカと伝えたによる。↓ 共の背を撫でて、褒めて爵祿賜ふ。時に、豐璋等と信と、稽首みて勅を受け、 九九頁注二〇。一九余豊璋。 もろもろためなみだなが = 0 以下は、道顕の日本世記によるか。なお、 ここでは三月とな「ているが、一一月に唐・新羅衆、爲に涕を流す。 三十八日 ) ひのえいぬのひ みなづきっちのとのひつじ 軍とも高句麗から撤退した。↓注一。是月に係 六月の己未の朔丙戌に、百濟、達卒萬智等を遣して、調進り物獻る。 るのは日本軍が疏留城に入った時。 一 = 百済遺臣の本拠、都々岐留山。↓三四五頁 注四二。 = = 南堺・西塁は高句麗のそれを指すか。また故唐軍、雲車衝朝、鼓鉦吼然。高麗士卒、膽勇雄壯。故更取一一唐二壘「唯有二二塞「 は疏留城を中継基地として日本と高句麗の連絡 が成。たので、今や唐はその南堺、高句麗との亦備一一夜取之計「唐兵抱」膝而哭。鏡鈍カ竭、而不」能」拔。噬」臍之恥、非」此而何。 国境を侵略しえず、新羅はその西塁、高句麗と の国境の防塁を陥落させられなくな。た、の意釋道顯云、言 = 春秋之志「正起 = 吁高而◎是歳、播磨國司岸田臣麻呂等、獻一一寶劒一言、於一一狹夜 か。釈紀に、輸をオトスと訓み、「案穀梁伝、 郡人禾田穴内一獲焉。又日本救二高麗一軍將等、泊二于百濟加巴利濱「而燃」火焉。次 輪者墜也」とある。 ニ三十二支で方向を示すと、子 ( ね ) は北、午 0 變爲孔、有二細響「如二鳴鏑「或日、高麗・百濟終亡之徴乎。 は南。 = 四本条も道顕の日本世記から採ったらしい。 元年春正月辛卯朔丁巳、賜二百濟佐平鬼室信矢十萬隻・絲五百斤・綿一千斤・布 道顕・日本世記↓三四四頁注二・三。 ニ五三年二月以後の冠位制による追記。即位前 一千端・韋一千張・稻種三千斛「 0 三月庚寅朔癸巳、賜二百濟王布三百端「◎是月。 紀八月条の大花下よりも一階上。 一宍↓二三六頁注一五。 唐人・新羅人、伐二高麗「々々乞二救國家「仍遣二軍將「據二留城「由」是、唐人不 毛百済王余豊璋らを送ったのは前年発遣の別 働隊。豊璋らは前年末に百済に着いている。↓ 得」略一一共南堺「新羅不獲」輸二共西壘「 0 夏四月、鼠産一一於馬尾「釋道顯占日、 補注 % ー九。この月に係る事件は、豊璋らの正 式な就任式と阿曇比羅夫の参列、宜勅か。 國之人、將」附二南國「蓋高麗破、而屬一一日本一乎。〇五月、大將軍大錦中阿曇比邏夫 天金泥で書いた冊書。文選、西京賦に「乃為二 金策一錫用 = 此土ことある。或はこがね作りの連等、率一一船師一百七十艘「送二豐璋等於百濟國「宜勅、以二豊璋等一使」繼二共位「又 ふだ。↓二七〇頁注二一。 ニ九予は与に同じ。 予一一金策於信「而撫ニ其背「褒賜二爵祿「于時、豐璋等與一信「稽首受」勅、衆爲流 三 0 百済の官位十六階の第二。↓表一。 涕。 0 六月己未朔内戌、百濟遣ニ達卒萬智等「進調獻物。 三一他に見えす。 天智天皇印位前紀ー元年六月 くにおく かきな とき 三 0 三一 だちそちまちら みつきたてまつものたてまっ 三五五

4. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

税は蓄積された田租。一千東は籾で五十石、今 の約二十石。 一九・ニ 0 ↓四一八頁注二一。 一 = 他に見えず。仍って絶や布を賜うとは、こ の時没したので賻物として賜わ「た、の意。淳 武は姓氏録、右京諸蕃に「不破勝、百済国人淳 武止等之後也」とあり、壬申の乱のころ美濃国 不破郡に住んでいたのであろう。 一八 ふむやっかさのはかせうへのすぐりくだらおほちからちつか 「〔ふこと得じ」とのたまふ。大學博士上村主百濟に大視一千東賜ふ。共の學業を ( 十六日 ) 一九 ( 十一日 ) ひのえたつのひ ひろせのおほいみのかみたったのかのかみ つかひまだ かのとのゐのひ 勸むるを以てなり。辛亥に、使者を遣して廣瀨大忌紳と龍田風訷とを祭る。内辰 ( 二十二日 ) いでまみづのえいぬのひ に、天皇、吉野宮に幸す。壬戌に、天皇、吉野宮より至します。 三十一日 ) ちきだいさむ さっきかのとのひつじついたちかのとのうのひくだらのじゅんむみしみづのえさるとしいたはりほ 五月の辛未の朔辛卯に、百濟淳武微子が壬中の年の功を褒美めて、直大參賜 ふとぎぬぬの ふ。仍りて絶・布賜ふ。 王禪廣百戸、通」前二百戸。直大壹布勢御主人朝臣與 = 大伴御行宿禰一八十戸、通」前 三百戸。共餘增」封、各有」差。〇丙戌、詔日、直廣肆筑紫史益、拜 = 筑紫大宰府典一 以來、於今廿九年矣。以 = 淸白忠誠「不 = 敢怠惰「是故、賜 = 食封五十戸・絶十五匹・ 。写本で脱綿廿五屯・布五十端・稻五千東「〇戊子、天皇幸 = 吉野宮「〇乙未、天皇至」自 = 吉野 一通証に庚子朔を脱するかという したのではなく、原本ですでに脱していたもの 宮「 0 二月壬寅朔、天皇詔 = 公卿等一日、卿等、於天皇世、作 = 佛殿經藏「行 = 月六齋「 か。朔日干支を記人すると、雨水が朔日だけに 師及郡国 + 、雨水」 = よ「。表現。以下も同紀 = 天皇時《遣 = 大舍人一問訊。験世亦如」之。故當 = 動心、奉 = 佛法一也。是日、授 = 宮人位 「連雨未 / 霽、懼ニ必淹傷一タ惕惟憂、思 = 念厥咎こ 記「 0 三月壬申朔甲戌、宴 = 公卿於西聽「〇丙子、天皇観 = 公私馬於御苑「〇癸巳、 とある。三五月十八日。本来五月条に置くべき この詔は、この前後の六月の記事に関連がある 詔日、若有 = 百姓弟爲」兄見 , 賣者、從」良。若子爲一一父母一見」賣者、從」賤。若准 = 貸 ため、編者がここに補人してしま 0 たもの。 0 朝から晩まで、晩から朝まで、一日中恐れ倍一沒」賤者、從」良。共子雖、配 = 奴婢一所生、亦皆從」良。 0 夏四月辛丑朔、詔日、 つつしむ ( 易、乾「君子終日乾々、タ惕若。厲无 」咎」 ) 。説文に「惕、憂也、懼也」とあり、「憂若氏祖時所免奴婢、既除」籍者、共眷族等、不得 = 更訟、言 = 我奴婢「賜 = 大學博士上 懼」は惕の字に付した傍注の混人か。前後は四 字句で成る。 = 摂心 ( じは仏語で、心をおさめ村主百濟大一千東「以」勸 = 共學業一也。〇辛亥、遣 = 使者一祭 = 廣瀬大忌訷與 = 龍田 ととのえること。悔過↓二四〇頁注二四。 風訷「〇丙辰、天皇幸 = 吉野宮「〇壬戌、天皇至」自 = 吉野宮「 0 五月辛未朔辛卯、 六効果の意。七↓二九〇頁注一一。 八↓四九四頁注二三。九↓四九八頁注三九。 = 和名抄、伊予国宇和褒 = 美百濟淳武黴子壬申年功「賜 = 直大參「仍賜 = 布「 一 0 ↓四八八頁注一六。 持統天皇五年正月ー五月 よ かへりおは 五〇九 ま

5. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第二十七 三五四 かれもろこしいくさたかくるまつぎくるま つづみかねな いくさびとたけくいさをを 一海外史料によると、この冬、遼東から南下れり。故、唐の軍、雲車・衝ありて、鼓鉦吼然る。高麗の士卒、膽勇み雄壯し。 した契芯加力の軍は鵯緑江岸で高句麗軍にくい そこ またよる はかりことそな とめられたが、江が凍結するに及び鼓譟して進故、更に唐の二つの壘を取る。唯二つの塞のみ有り。亦夜取らむ計に備ふ。唐の 撃した。翌春、唐軍は蛇水 ( 平壌東北方 ) で大雪 五 いくさひざかか な あた とぎさきにぶちからっ ほそく に苦しみ大敗したので、二月には遠征を中止、 兵膝を抱へて哭く。鋧鈍りカ竭きて、拔くこと能はず」とまうす。臍を噬ふ恥、 撤退した。 な まさ はふしだうけん しゅんしうこころ しか , くだらきか ニ後漢書、光武帝紀の「雲車十余丈、 : ・鉦鼓之これあら 此に非ずして何ぞ。釋道顯云はく、春秋の志と言ふは、正に高麗に起れり。而して先づ百濟に聲しめ 声聞一一数百里一 : ・衝輛糧 / 城」による。雲車は雲 かれしか のように高い車。これに登って敵の様子をみる もの。衝は城門などを衝き破る装置をつけた車。むとす。百濟、近侵さるること甚しくして苦急ぶ。故、爾いふといふ。 九 糧車 ( 光武紀注 ) 。朝は楼車、物見やぐらのある まう ことしはりまのくにのみこともちきしたのおみまろら たからつるぎたてまっ 車。 是歳、播磨國司岸田臣麻呂等、寶の劒を獻りて言さく、「狹夜郡の人の禾田 三二塁・二塞とも位置未詳。二塞に対する夜 あな いくさのきみたち 、はりのはま またやまと 襲を準備したのは高句麗軍。ソコ↓一〇八頁注の穴内にして獲たり」とまうす。又日本の、高麗を救ふ軍將等、百濟の加巴利濱に 一四。四以下の主語は高句麗の士卒。 はひかへ なるかぶらごと あるひと = 左伝、荘公六年に「亡 = 鄧国一者必此人也。若泊りて、火を燃く。次變りて孔に爲りて、細き響有り。鳴鏑の如し。或の日はく、 不一早図一後君噬 / 斉」。斉は臍。機を失って後悔 つひほろ しても力の及ばない意。 「高麗・百濟の終に亡びむ徴か」といふ。 六以下は噬臍についての道顕の自注。斉明六 三十七日 ) はじめのとしはるむつきかのとのうついたちひのとのみのひ さへいくゐしつふくしん 年七月条に引く日本世記にも自注がある。 元年の春正月の辛卯の朔丁巳に、百濟の佐平鬼室信に、矢十萬隻・五百 七「春秋」以下「先声百済」までは難解。↓補 はかりわたちはかりぬのちむらをしかはちひらたなしねみちちさかたま 斤・綿一千斤・布一千端・韋一千張・稻種三千斛賜ふ。 八他に見えず。岸田臣↓二八九頁注三七。 ( 四日 ) こきし 九播磨風土記の讃容郡中川里の条に、近江天 みづのとのみのひ みももむら 皇の世、丸部具 ( の ) の一家が買った剣の祟り 三月の庚寅の朔癸巳に、百濟の王に、布三百端賜ふ。 で死に絶え、後に苫編部犬猪 ( ) が家の跡の ニ 0 つきもろこしびとしらきのひと すくひみかど 土中からその剣を得たところ、あやしい剣であ是の月。唐入・新羅入、高麗を伐ちき。高麗、救を國家に乞へり。仍りて軍將を ったので朝廷に奉ったとある。 よ そるさし これよ もろこしびとそみなみさかひかす 一 0 今、佐用郡。兵庫県の西端に位置する。 遣して、疏留城に據らしむ。是に由りて、唐人、共の南の堺を略むること得ず、新 = 粟を作る畠。注九の播磨風土記の原文に「圃 にしそこおと ( っ ) ニ彼地之墟一土中得一一此剣一」とある。 羅、共の西の壘を輸すこと獲ず。 三日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとし なつうづぎ ねすみうまをこう みなみのくにつ たことは、海外史料には見えないが、下文元 夏四月に、鼠、馬の尾に産む。釋道顯占ひて日はく、「北國の人、南國に附かむと 年・二年の関係記事からも確かであろう。 一三あるいは皆火 (Kaipu1. 全羅北道扶安 ) か。 一四蕪 ( 顰 ) に似た鏃に孔をあけ、飛ぶと鳴「てす。蓋し高麗破れて、日本に屬かむか」といふ。 とま つかは かれさら やよひかのえとら けた このごろをか ふた え しるし え あな っ ただ ほふしニ四うらな ほそおと すく きたのくに さよのこほりひとあはふ やとよろづ よ いくさのきみ

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くらじのきみ 乃」とある。 圍める軍を射却けしことを讚めて、尊びて名けて鞍橋君と日ふ。鞍橋、をば矩羅膩と = 一未詳。通典に「唐竜朔一一年改二尚書省一為ニ中 いくさのきみら つぶさ ほろぼ 台→神竜初復為一一尚書省都堂ことある。 云ふ。是に、新羅の將等、具に百濟の疲れ盡きたることを知りて、遂に、減して 一三遑は皇に同じ。あわておどろくこと。 のこりな あたらすやまとすめらみこと 一四↓三四頁注一五。 一 = サシ「カナフはそ「とねらいをさだめる意。餘無からしめむことを謀らむとす。一の將有りて云はく、「不可。日本の天皇、 しばしばわ マカナフは用意をととのえる意。 みやけ 一六鞍の前輪と後輪 ( し。和名抄に「楊氏漢語任那の事を以て、屡吾が國を責めたまふ。況や復、百濟の官家を滅さむことを謀 抄云、鞍橋〈久良保禰〉。一云鞍瓦」とあるが、 れへまね 雄略九年五月条には「鞍瓦後橋」とある。 らば、必ず後の患を招かむ」といふ。故止めつ。 宅領 ( じの合うところ。ヒキアハセの訓を付し た写本があるが、引合せは後世の鎧の胴と脇楯 が右脇で合うところをいう。 一〈クラジはクラ ( シの転であろう。鞍の ( シ新羅聞二明王親來「悉發 = 國中兵「斷」道撃破。是時、新羅謂 = 佐知村飼馬奴苦都一智。 ( 端 ) から端まで射通したことによるあだ名であ ろ、つ。 日、苦都賤奴也。明王名主也。今使二賤奴一殺二名主「冀傳二後世「莫レ忘一一於ロ「已而 一九百済官家は百済のこと。↓九二頁注一八。 苦都、乃獲一一明王「再拜日、請斬一主首「明王對日、王頭不」合レ受一一奴手「苦都日、 。一本云、明王乘 = 踞胡床「月王仰」天、大息 我國法、違一一背所 , 盟、雖日ニ國王「當」受二奴手一解授 = 佩刀於谷知一令」斬。日 涕泣。許諾日、寡人毎」念、常痛人二骨髓「顧計不」可一一荷活「乃延」首受」斬。苦都斬 目一間叔。掘大一間里。一本云、新羅留 = 理明王頭骨「而以」禮送 = 餘骨於百濟「 」上ナ今新羅王埋 = 明王骨於北廰階下一名 = 此一日 = 都堂「餘昌遂見二圍繞「欲」山山 不」得。士卒遑駭、不知ニ所圖「有二能射人、筑紫國造「進而彎」弓、占擬射二落新羅 騎卒最勇壯者「發箭之利、通一一所乘鞍前後橋「及二其被甲領會一也。復續發箭如」雨、 彌厲不」懈。射一一却圍軍「由」是、餘昌及諸將等、得下從一一間道一逃歸餘昌讚三國造射二 却圍軍「尊而名日ニ鞍橋君「矩糶膩→ = 於是、新羅將等、具知二百濟疲盡「遂欲」謀二滅 無び餘。有ニ一將一云、不可。日本天皇、以一一任那事「屡責ニ吾國「況復謀」滅一一百濟官 家「必招ニ後患「故止之。 欽明天皇十五年十二月 みまなこと ここ かならのちう いくさ たふと ひとり かれとど いくさのきみ なづ いはむまた 3

7. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

わたのほかまがき ひさ さ はたゆゑあ る意となる。 めて官家を置きて、海表の蕃屏として、共の來ること尚し。抑由有り。縱し削きて 一五しかし、たとい百済に合併しても後世の安 ひとくにたま もとさかひたが ながきよそしりいづくにくちさか おほむらじ 全は保証し難いが、まして百済と切離して置い 他に賜はば、本の區域に違ひなむ。綿世の刺、詛か口に離りなむ」といふ。大連 たならば、とても何年も守り得ない、との意。 かへりまう をししめ ことわりかな すめらみことのみことのりそむ これは、百済本位の言辞であり、百済本記の記 報して日はく、「教へ示すこと理に合へれども、恐るらくは、天勅に背きま 事が採り入れられているのかも知れない。 めいた 一六↓補注ー一〇。一七ムロッミは客舎。和名 抄に「館、タチ〈日本紀私記云、ム。ッミ〉、客つらむことを」といふ。共の妻切く諫めて云はく、「疾と稱して宜なせそ」といふ。 みことのりたまひものあは おほむらじいさめしたが つかひあらた 本ロ也」とある。ッミはツビともトミともいう。 みことのむねさづ まうしぶみ ッポ ( 壷 ) と同源。室と同意。難波館はここが初大連諫に依ひぬ。是に由りて、使を改めて宜勅す。賜物井せて制旨を付けて、表 見で、ここで外国の使を宿泊させた。旧址は大 阪市内。天漢書、文帝紀に「皇太后固要」とあ り、その注に「文穎日、要劫也」とある。要は 0 十二月、南海中耽羅人、初通二百濟國「 カずくでおしとどめること。 三年春二月、遣 = 使于百濟「支彌、括下出在 = 任那日本縣邑「百濟百姓、 一九表筒男翁 ) ・中筒男・底筒男の三神をまっ る。のち神功皇后を合祀し、延喜神名式、摂津浮逃絶」貫、三四世者並遷一一百濟一附貫也。 国住吉郡には「住吉坐神社四座」とある。現在 地、大阪市住吉区。↓田神代紀上、四神出生章五年冬十月、遷ニ都山背筒城「 第六の一書。ニ 0 海のそと。海外。表は衣と毛 との会意。もと上衣の意。転じて、そと。 六年夏四月辛酉朔内寅、遣二穗積臣押山「使二於百濟「賜二筑紫國馬卅匹「 0 冬十 一 = 新羅の訓↓一一二頁注一。 二月、百濟遣レ使貢」調。別表請二任那國上移蜊・下多蜊・娑陀・牟婁、四縣「多蜊國 一三応神天皇。このあたりのことは神功皇后三 韓征伐の伝説をいう。↓田神功摂政前紀。 守穗積臣押山奏日、此四縣、近連二百濟「遠隔二日本「旦暮易」通、鷄大難」別。今賜一一 一一三梵語 vyäkarava の訳。予言の意。仏教用語、 一般に将来の成仏を証する言葉の意。 百濟「合爲二同國「固存之策、無二以迺」此。然縱賜合」國、後世猶危。況爲二異場「幾 ニ四神功皇后。大后↓補注跖ー四。 = 五書紀では対韓関係の記事では殆どすべて官年能守。大伴大連金村、具得二是言「同レ謨而奏。廼以二物部大連麁鹿火「宛二宜」勅使「 家と書いて、国内の屯倉と書き分けているが、 よみは同じくミャケである。↓補注ー一三・物部大連、方欲下發二向難波館「宀營勅一一於百濟客「共妻固要日、夫住吉大神、初以二海 田崇神紀補注「任那」。 表金銀之國、高麗・百濟・新羅・任那等「授二記胎中譽田天皇「故大后息長足姫尊、 ニ六海外の属国としてその由来が久しい。藩屏 は垣根、蔽い防ぐ意。毛やはり。抑は一方を與 = 大臣武内宿禰「毎」國初置 = 官家「爲 = 海表之蕃屏「共來尚矣。抑有」由焉。縱削賜 おさえて次の言葉を導く接続の助字。 天綿は細長く糸の延びるさま。よって後世い 他、違一一本區域「綿世之刺、詛離二於ロ「大連報日、教示合」理、恐背一一天勅「共妻切 つまでも非難が絶えるときはあるまいの意。 ニ九百済の上表文に応じて。 諫云、稱」疾莫」宜。大連依」諫。由是、改レ使而宣勅。付二賜物拜制旨「依」表↓ 繼體天皇二年十二月ー六年十二月 みやけお ニ五 これ そ ありく 7 おそ やまひまう ニ七 みことのり

8. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

三日 ) あづみのやましろのむらじひらぶくさかべのきしいはかねやまとのあやのふみのあたひ きさらぎひのとのゐついたちっちのえねのひ 早馬という軽い意味。 ( イマはハュマの転で、 二月の丁亥の朔戊子に、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直 ハュマはハヤウマの約。↓大化二年正月条。 そあるかたちと とぶらひもとっかは Fay 「 auma—>Fa} 「 uma—*Fa) 「 ma. 縣をして、百濟の弔使の所に遣して、彼の消息を間はしむ。使報して言さく、 七↓二一頁注一四。 さいじゃうつねあしきわざかへるつかひさづ こぎしやっかれかた 八↓一三六頁注一九。 「百濟國の主、臣に謂りて言ひしく、『塞上恆に作惡す。還使に付けたまはむと 一九二月条 ( 二三七頁五行ー一一三八頁二行 ) に見 とぶらひともびとら まう すめらみことゆる える。 請すとも、天朝許したまはじ』といひき」とまうす。百濟の弔使の傔人等言はく、 ニ 0 阿曇連比羅夫と同人。↓注一五。 ニ七 つかひこんろんつかひ だいさへいちしやくみう いにしとししもっき 一 = 他に見えす。ただし難波吉士磐金は推古六 年四月条に、吉士磐金は推古五年十一月条・同「去年の十一月に、大佐平智積卒せぬ。又百濟の使入、焜崘の使を海裏に擲れたり。 三十一年是歳条・同年十一月条に見える。天武 十年草香部吉士大形に難波連を賜わる。姓氏録、 右京諸蕃に難波連は高麗国好太王より出るとあ 日本書紀卷第廿四 る。一三舒明十一年条に大匠書直県が見える。 ↓一一三四頁注三。 = = 原文に「遣阿曇山背連比羅夫 : ・遣百済弔使天豊財重日足姫天皇皇極天皇 ・ : 」と遣が二重にある。下の遣は衍か。 = 四義 天豐財重日 慈王。前年武王が死んで立つ。↓補注おー四。 重颶第足姫天皇、渟中倉太珠敷天皇曾孫、押坂彦人大兄皇子孫、茅渟 ニ五舒明三年三月、百済は人質として豊章 ( 璋 ) 王女也。母日二吉備姫王「天皇順二考古道「而爲」政也。息長足日廣額天皇二年、立 を奉ったが、豊璋と共に質としてわが国にいた か。白雉元年二月十五日条に百済君豊璋・共弟 塞城・忠勝と見える。「百済王の弟で日本に来爲二皇后「 0 十三年十月、息長足日廣額天皇崩。 ている塞上はいつも悪いことをしている。そこ で ( 百済に帰すために ) 帰国する使に付けて帰し元年春正月丁巳朔辛未、皇后印天皇位。以一一蘇我臣蝦夷一爲ニ大臣一如」故。大臣兄人鹿 て下さるようにと申し上げても、天皇はお許し になるまい」の意。 峺自執 = 國政「威勝 = 於父「由」是、盗賊恐懾、路不」拾」遺。〇乙酉、百濟使人大仁 三〈傔人↓四一頁注一一六。百済弔使の傔人の言 阿曇連比羅夫、從二筑紫國「乘二驛馬一來言、百濟國、聞二天皇崩「奉二遣弔使「臣隨二 ↓補注ー一。 毛百済の官位十六階の第一。↓表一。 = 〈七月条に百済の使として来朝したとあるか弔使「共到二筑紫「而臣望」仕一一於葬「故先獨來也。然共國者、今大亂矣。 0 二月丁 ら、卒とあるのは誤聞か 亥朔戊子、遣二阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣「遣二百濟弔使所「問二 ニ九今の南ベトナム・カンジア・タイ・ビル マ南部・マライ半島などを一括した地域か。旧 唐書、南蛮伝に「自 = 林邑一以南皆巻髪黒身、通彼消息「弔使報言、百濟國主謂」臣言、塞上恆作惡之。請」付二還使「天朝不」許。百 号為一一崑崙ことあり、延暦十八年わが参河国に も崑崙入が漂着し綿種をもたらした ( 類聚国史 ) 。濟弔使傔人等言、去年十一月、大佐平智積卒。又百濟使人、擲 = 焜崘使於海裏「 皇極天皇印位前紀ー元年二月 あがた ニ四 かへりことまう み

9. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

おきなどもあさ りに遅すぎることになる。 餘昌、新羅を伐たむことを謀る。耆老諫めて日はく、「天未だ與せじ。懼るらく 一 0 百済は都城以外の地を中・東・南・西・ わざはひおよ おきなどもなに われやまとっか の五方に分け、方ごとに車事指揮官をおいてい はの及ばむことを」といふ。餘昌日はく、「老、何ぞ怯き。我大國に事へまっ た。周書、百済伝に「東方日一一得安城ことあり、 あ つひしらきのくに くだむらのそこ 「五方各有ニ方領一人一以ニ達率一為 / 之。郡将三 る、何の懼るることか有らむ」といふ。遂に新羅國に人りて、久陀牟羅塞を築く。 人、以ニ徳率一為 / 之。方統ニ兵一千二百入以下七 くるし かぞめいわううれおもひはか ひさ いねものくらふことや かそうつくしび 百人以上ことある。 = 四年九月条に物部施徳麻奇牟とある。連は共の父明王憂へ慮らく、餘昌長く行陣に苦みて、久に眠食を廢む。父の慈 まれ 百済の姓の類かとも考えられるが、紀臣奈率弥 すなはみづかゆむか ねぎら 麻沙の場合の臣と同じく、日本のカバネがその闕くること多く、子の孝成ること希なりとおもふ。乃ち自ら往き迎へて慰勞ふ。 まま一種の敬称として用いられているものとも 見られるので、ムラジと訓んでおく。 一 = 三国史記の管山城にあたる。↓注九。忠清 0 夏五月内戌朔戊子、内臣率一一舟師「詣一一于百濟「 0 冬十二月、百濟遣 = 下部杆率浹 北道沃川の地とされている。カムムレノサシの 訓、釈紀による。 斯干奴「上」表日、百濟王臣明、及在一一安羅一諸倭臣等、任那諸國旱岐等奏、以斯羅 一三竹斯は筑紫。莫奇委沙奇は名義未詳。委は 上古音ワ、奇はガまたは力。 無道、不レ長二天皇「與レ狛同レ心、欲レ殘一一滅海北彌移居「臣等共議、遣二有至臣等「 一四放火用の矢。火薬発明以前はふつう矢先に つけた油布に点火して射た。魏志、諸葛誕伝 に仰乞一一軍士「征一一伐斯羅「而天皇遣有至臣、帥」軍以二六月一至來。臣等深用歡喜。以二 「臨 / 高以ニ発石車火箭一逆焼一一破其攻共ことあり、 わが国の例では平家物語の鼓判官の段に、樋口十二月九日「遣」攻一一斯羅「臣先遣一一東方領物部莫奇武連「領二其方軍士「攻二函山城「 兼光が鏑 ( ) の中に火を入れて法住寺殿の御所 有至臣所一一將來一民竹斯物部莫奇委沙奇、能射一一火箭「蒙二天皇威靈「以ニ月九日酉時「 に射立てたとある。 一五副使のない簡単な使者。 焚レ城拔之。故遣二單使馳船一奏聞。別奏、若但斯羅者、有至臣所」將軍士亦可」足矣。 一大まさに。ミザカリニはマサカリニに同じ。 宅良質の毛氈。獣毛製のフェルトの敷物。 今狛與二斯羅「同レ心戮レカ。難レ可成功。伏願、速遣二竹斯嶋上諸軍士「來二助臣國「 天百済聖明王の子。↓一〇六頁注五。 一九重臣たち。 又助一一任那「則事可」成。又奏、臣別遣二軍士萬人「助一一任那「拜以奏聞。今事方急。 ニ 0 アサムはイサムに同じ。 = 一慶尚北道西北部の一山城かというが位置未單船遣奏。但奉 = 好錦二匹・雅氈一領・斧三百ロ、及所」獲城民、男二女五「輕薄追 詳。ソコ↓一〇六頁注八。 = = ミサヲはもと真青の意。松の青の如く美し用悚懼。餘昌謀」伐一一新羅「耆老諫日、天未」與。懼調及。餘昌日、老矣、何怯也。 く不変なところから貞・操の意を生じ、また、 彩・孝の如き色と精神の美をいう。 我事一一大國「有一一何懼一也。遂入一一新羅國「築ニ久陀牟羅塞「共父明王憂慮、餘昌長苦ニ 行陣「久廢ニ眠食「父慈多」闕、子孝希レ成。乃自往迎慰勞。 欽明天皇十五年五月ー十二月 よしゃうしらき おそ おほ こみさをな なが あめいまくみ ったな

10. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第十九 四 あきふみづき くだらあらやまとのみこともちしらきはかりことかよは ゼんほうなそちびりまく 一この七月条には、百済が日本府の内部に新秋七月に、百濟、安羅の日本府と新羅と計を通すを聞きて、前部奈率鼻利莫 九 羅と通ずる官人のあることを知って、使者を遣 なそちせんもんちうほうなそちもくらまいじゅんきのおみなそちみまさらっかは きのおみなそち けだこれきの わして、それをいましめた事情を述べている。 古・奈卒宜文・中部奈率木刕牀淳・紀臣奈卒彌麻沙等を遣して、紀臣奈率は、蓋し是紀 ニ↓六八頁注二三。三百済の五部の一。↓表 からをみなと とどま いまそかぞっぱひらか 七。四百済の官位十六階の第六。↓表一。 臣の、韓の婦を娶りて生める所、因りて百濟に留りて、奈卒と爲れる者なり。未だ共の父を詳にせす。他 五四年十二月条に徳率鼻利莫古とある。鼻利 みなこれなら つかひ みまなっかさめ は百済の複姓。 も皆此に效 ~ 。安羅に使して、新羅に野れる任那の執事を召して、任那を建てむことを 六八年四月条の前部徳率真慕宜文は或は同一 やまとのみこともちかふちのあたひはかりこと 人か。七百済の五部の一。↓表七。 ふかせ へ四年十一一月条に徳率木刕眛淳とある。木刕謨らしむ。別に安羅の日本府の河内直の、計を新羅に通すを以て、深く責め罵る。 は複姓で木羅・木とも書く。↓三三頁注二一。 くたらほんき かふちのあたひあけえなし さろまつら すなは つばひらか 九五年十一月条には弥麻佐とある。↓七六頁百濟本記に云はく、加不至費直・阿賢移那斯・佐魯麻都等といふ。未た詳ならず。乃ち任那に謂りて 一八 一九 注三。 むかしわとほっおやそくこわう くゐしゅわう もとのかんきら にきびむつぶることむす 一 0 この注に述べているように、欽明紀には、 日はく、「昔我が先祖速古王・貴首王と、故旱岐等と、始めて和親を約びて、式 日本人と韓人の女との間に生まれ、百済の宮廷 このかみおととな いろど かぞ に仕えたものの名が多い。紀・物部・巨勢など て兄弟と爲る。是に、我は汝を以て子とも弟ともし、汝は我を以て父とも兄ともす。 氏が日本的で、名が百済的な人々はみなこの類 ともすめらみことっか ともこはきあたふせ ま である。なお、この種の日系韓人が外交上活躍 共に天皇に事へて、倶に強敵を距く。國を安みし家を全くして、今日までに至る。 するのは、百済王が彼を使って対日外交を有 にきむつ われとほっおやもとのかんき ことばおも てるひごと あ 利に運ばうとしたものであろうという説も出さ 一「ロ、先祖の、舊旱岐と、和び親びし詞を念へば、咬日の如くなること有り。蠍より れている。 = 任那の諸旱岐 ( 諸国王 ) の下の官 のちねむごろちかきよしみをさ つひとなりぐにあっ めぐみやから はじめうるは をはりあ 人であろう。日本府執事とは異る。↓四年十二 月・五年正月条。一 = 日本府の上級官人。名は以降、動に隣好を修めて、遂に與國に敦し。恩、骨肉に踰ゅ。始に善しく、終有ら 不明。河内直は百済系と称した帰化人の氏で、 なによ そらごともち のち天武十年四月に連に改姓した。河内漢直とむことを、寡人が恆に願ふ所なり。未審し、何に綠りてか輕しく浮辭を用ゐて、數 は別氏。姓氏録、河内国諸蕃に「河内連。出 / 自ニ うれたこころざしうしな とせあひだ 百済国都慕王男陰太貴須王一也」とある。 歳の間に、 慨然く志を失へる。古人の云へらく、『追ひて悔ゆれども及ぶこと無 一三ののしる。ノルは、原義、正しいことを大声 かみおほぞら しもしたっくにおよ たましひ・いま でいう意。一四百済の記録。田解説参照。 し』といへるは、此を謂ふか。上は雲際に達り、下は泉中に及ぶまでに、神を今に 一五姓 ( ) の直を古くは費直あるいは単に費と あらた かくしの あらは ちか まことのこころ も書いた。↓補注四ー八。 誓ひて、咎を昔に改めむ。一ら隱し匿ぶること無くして、爲す所を發露さむ。精誠 一六阿賢移那斯と佐魯麻都は二人の名。移那斯 かみかよは けだ ニ八つぎ は十年六月・十一年四月条には延那斯とある。 靈に通して、深く自ら克く責めむことは、亦取るべき所なり。蓋し聞く、人の後を 移は支韻の文字。上古音 ) 「 a ↓↓中古音 ) 「一と 三 0 にな おやのことさかやか いたはりな たふと 音が変化した。従って推古朝遺文では、ヤの仮 名として使うが、ここではの仮名として使爲す者は、能く先の軌を負ひ荷ひ、克く堂構を昌して、勳業を成さむことを貴ぶ。 おみ こと おのれつねねが よ ニ九 おやあと みづかよ 一五 とこらよ われ お いにしへのひと よ こ くにやす またと なそちな いへまた ニ七 お もの かろがろ およ いろね これ あまた あたし な