皇太子 - みる会図書館


検索対象: 日本古典文學大系68 日本書紀 下
347件見つかりました。

1. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第三十 一続紀、文武元年条に「八月甲子朔、受禅即 位」とある。朔日干支が異なるのは、書紀が元 嘉暦によって七月を大の月、続紀が儀鳳暦によ って七月を小の月としたためといわれる。八月 一日践祚は確実であろう。 ニ文武天皇。懐風藻などによると没年は二十 五歳であるから、この時は十五歳。立太子のこ とは、本紀では二月二十八日条の記事から、そ の日以前であろうと推定されるのみであるが、 続紀に「高天原広野姫天皇十一年、立為二皇太 子こ、また釈紀の引く私記に「王子技別記日、 文武天皇少名珂瑠皇子。天武天皇皇太子草壁皇 子尊之子也。持統天皇十一年春一一月丁卯朔壬午 〈十六日也〉、立為ニ皇太子ことある。 五三四 はつぎきのとのうしついたちのひすめらみことみはかりことおほ ) ちさだ くにさ 八月の乙丑の朔に、天皇、策を禁中に定めて、皇太子に禪天皇位りたまふ。 日本書紀卷第三十 ひつぎのみこ

2. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第二十四 ( 十四日 ) かのえいぬのひみくらゐかるのみこゅづ 一天皇譲位の最初の例。これまではみな天皇庚戌に、位を輕皇子に譲りたまふ。中大兄を立てて、皇太子とす。 の崩御によって新帝が即位したからである。譲 位の事情、詳しくは孝徳即位前紀三六八頁四 行以下 ) に見える。 日本書紀卷第一一十四 ニ孝徳天皇。 三立太子の事情は孝徳即位前紀三七〇頁五 行 ) にも見える。 なかのおほえた ひつぎのみこ

3. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀卷第二十 一天寿国繍帳には薩奈久羅乃布等多麻斯支乃 弥己師とある。ヌナクラは神功元年条にも「大 津渟中倉之長峡 ( 結 ) 」とある。ヌナ↓一〇八頁 注五。フトは太、タマは珠、シキは敷の意で、 みな美称。訳語田 ( 他田 ) さ ) 天皇ともいう。↓ 六四頁注一五。 = 欽明天皇。 三↓欽明元年正月条。 四宜化天皇。 ぬなくらのふとたましぎのすめらみこと 五本文には、これに当る事実はない。しかし 渟中倉太珠敷天皇敏達天皇 十四年条の破仏の記事について↓一五〇頁注一。 文史は文章と歴史、文学と史学。唐書、芸文士 いろはいしひめのきさき に、文史類という一類がある。 あめくにおしはらきひろにはのすめらみことふたはしらにあたりたまふみこ 六欽明紀では十五年正月条に立太子とある。 渟中倉太珠敷天皇は、天國排開廣庭天皇の第二子なり。母を石姫皇后 五 四 七漢書、恵帝紀に「太子即二皇帝位→尊一一皇后一 しるし すめらみことほとけのみのりう たけをひろくにおしたてのすめらみことみむすめ 天皇、佛法を信けたまはずして、文 日 = 皇太后ことあり、同、景帝紀や後漢書、明帝と日ふ。石姫皇后は、武小廣國押盾天皇の女なり。 紀などにも同様の文がある。↓欽明即位前紀十 うづき びつぎのみこな 一一月条。即天皇位↓補注跖ー一一〇。 史を愛みたまふ。一一十九年に、立ちて皇太子に爲りたまふ。三十二年の四月に、天 へ先帝の皇后石姫。 九河内志・通証等は和名抄の河内国錦部郡百 國排開廣庭天皇崩りましぬ。 済郷で今の大阪府河内長野市太井の地とするが、 ( 三日 ) おほきさき きさきたふと あまつひつぎしろしめ みづのえさるついたちきのえいぬのひ 地名辞書は大和国広瀬郡の百済 ( 奈良県北葛城はじめのとしなっ 元年の夏四月の壬申の朔甲戌に、皇太子、印天皇位す。皇后を尊びて皇太后 郡広陵町百済 ) とする。 一 0 旧事紀、天孫本紀に饒速日命十三世孫物部尾 と日す。 輿 C こ ) 連公の子で物部大市御狩 ( ) 連公の弟と 九 、もと おほむらし ある。大臣蘇我馬子と権勢を争い、仏教受容に もののべのゆげのもりやのおほむらじも くだらのおほるみや つき 反対し、用明二年に馬子らに攻め減ばされた。 是の月に、百濟大井に宮つくる。物部弓削守屋大連を以て大連とすること、故の ↓崇峻即位前紀。弓削は住地による名か。和名 ごと そがのうまこのすくね 抄に「河内国若江郡弓削〈由介〉」とある。今の 如し。蘇我馬子宿禰を以て大臣とす。 大阪府八尾市弓削の地。 こまっかひいまいづく のたま さっきみづのえとらついたちのひ = 欽明紀に守屋の名は見えない。 五月の壬寅の朔に、天皇、皇子と大臣とに問ひて日はく、「高麗の使人、今何 一ニ大臣蘇我稲目の子。宿禰は敬称。仏教文化 さがらかむろつみはべ の受容に努め、用明二年に物部氏を攻め減ばし にか在る」とのたまふ。大臣奉對して日さく、「相樂の館に在り」とまうす。天皇 て蘇我氏の権力を確立した。崇峻五年に崇峻天 かな みこころあよ にヘさ 皇を暗殺したが、次の推古朝には聖徳太子と協 調して政治に当り、太子の死後、推古 = 一十四年聞して、傷惻みたまふこと極めて甚なり。愀然きたまひて歎きて日はく、「悲しき ふみこの きこしめ 日本書紀卷第一一十 かむあが おほおみ こたへまう びだってんわう と なげ のたま

4. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

るが、それは、書紀編纂当時の、すでに皇太子制が導人されてから後の観 が許されていた ) 。 しかし、平安時代に人ってからは、イロが同母の意であったことが見失念によってそう記したものであろう。皇太子制の導入は、聖徳太子からと みられているが、なお問題は残されている。皇太子にあたる日本語にヒッ われ、イロの意味が異なって受けとられるようになり、単に家族の一員で ギノミコがあり、ヒッギは霊 ( ひ ) を継ぐ者 ( 一六頁注一 ) の意味である。天 あることを示す接頭語のように変ったらしい。そこで書紀の古訓の中でも、 庶兄をイロネと読み、はなはだしきは、同母弟にわざわざオナジ ( ラノイ皇の長子やその兄弟、またはさらに遠い皇族もヒッギノミコとなったが、 ロドと訓をつけ、異母兄とある本文を、コトハラカラノイロネと訓むもの本居宜長のように、ヒッギノミコは古くは一人に限られなかったという説 すらある。イロハという名称もこのようにイロの古い意味が忘れられた後もあり、ヒッギノミコは、やはり一人をえらんだとみる説にも、その選定 には、一定の順序があったか否かには異説があり、また、天皇が在世中に になって、家族の一員としての母を示すために作られたものであろう。 必らずヒッギノミコをたてたかどうかもよくわからない。なお、皇太子の 従ってイロハなる訓は極めて平安朝らしい訓であり、イロセ・イロネ・ イロドなどの訓のあて方も、平安朝的な偏りが存在することに注意する必執政について↓補注ー四。 要がある。また、父母をカゾイロと訓むが、母をイロだけで呼ぶことは奈六獄 (t タ ) ( 八頁注一五 ) 黒板本金剛般若集験記に、大獄をウルタへ、訴を ウルタフと仮名づけしている。また、高山寺本類聚名義抄には、畝にウル 良時代にはあり得なかったことである。しかし、今は平安朝的な訓み方と ノのハであろうと思わ タフの訓がある。院政・鎌倉時代の資料として、宮内庁本類聚名義抄には、 して、母をイロハと訓んでおく。イロハのハは、、、 田愬・訴にウタフ、図訟にウタフルコという訓があるが、そのアクセント れる。 記号を見ると、田人上平、図人平平上となっている。入声の点がつけてあ 四皇后・妃・夫人・嬪 ( 八頁注七 ) 天皇は多くの妻をもち、妻の身分にも るのはウッタフ、ウッタフルと、促音に訓んだ証拠である。してみると、 種々あった。律令制度の導人とともに、後宮の制度もととのい、儀制令・ 今日のわれわれのウッタエルの由来は古いものであり、ウルタフ↓ウッタ 、それ以外は、妻である内親王を妃、そ 後宮職員令には正妻を皇后とい フ urt1taFt1 ↓ urtaFt1 ↓ t1ttaF11 という変化を経たものであろ、つとい、つ遠藤 れ以外を夫人・嬪としている。書紀では神武以来、皇后の称を用い、その 嘉基博士の説は正しいものと見ることができそうである。しかし、観智院 のち妃以下の称も次第に多く用いるが、これらは書紀編纂当時の令の観念 本類聚名義抄には、ウタへまたはウタフと仮名づけしてある文字も多い によって書き分けたものであろう。 それに書紀の古写本もウタへとするものが多いから、本書では、訴・訟な 古訓では概れ、皇后はキサキ、妃はミメ、夫人はオホトジで、皇太后は 大后とも書き、オホキサキである。キサキの語源は不明。ミメのミは、神どの文字に、ウタへまたはウタフと仮名をつける。しかし、これは当時は、 ウッタへ・ウッタフと訓んでいたらしいと見てよさそうである。 又は天皇の事・物に冠する接頭語。メは妻。起源的には女。妾をもメとい 七オホミタカラ・タミ ( 八頁注一六 ) オホミタカラの訓は、百姓・民・人 うことがあり、やや見下げていう感じがある。オホトジのトジは戸主。 tonusi ↓ tonsi ↓ tonzi ↓ tozi となった語。戸口にいて、一戸の出入を支配民・庶民・庶人・万民・兆民・億兆・黎民・黎庶・黎元・公民・居人など の文字に与えられている。オホミは、「大御」にあたり、天皇、または天皇 したところから、一戸を所有支配するヌシの意が原義。現在のオカミサン という程度の意にも使うことがあり、ミメよりも、オホトジの方が低い位のものを敬って使う接頭語。タカラは、古事記伝などは財とする。この考 えによれば、人民は、天皇の財宝であると見ることとなろう。ただ大御財 置と受けとられたのであろう。オホキサキはキサキに、美称の接頭語オホ ↓ノこ五ロ 0 とする解釈は、江家次第の非常赦に「公御財」とあるのが、おそらく最古 のものであって、必ずしも古代の解釈ではない。一方、タカラは、田子等 五皇太子 ( 八頁注九 ) 中国で皇帝の嫡子を皇太子といい、皇帝のあとつぎ (i こ ) の転であるとする説もある。タコラがタカラに転ずるとい、つことは、 であった。日本でも、いつのころからか中国の制を学んで、天皇のあとっ 音韻上ありえないことではなく、田子という言葉は奈良時代にもすでに存 ぎを皇太子といい、長子またはその兄弟を皇太子にたてることが行なわれ た。しかし、皇太子の称号や制度が導人されたのは、そう古いことではな在する。ただし、タゴと濁るのが例であるように見える。また、タカラの カラを、ウガラ・ヤカラ・ ハラカラのカラと同じく、「族」を表わす語と 。書紀には、神武紀以来皇太子の称がみえ、立太子のことも書かれてい 五三九 補注跖ー一ー七

5. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

理する慣行の続いたことがうかがわれ、おそらく聖徳太子の時その例が開 巻十四以後の字の両種を含んでいる。また、巻二十二・二十三は巻十三以 かれたのであろう。たゞし皇太子又はその有力な候補者が国政に預った例前の仲間に人る。これらは、種々の観点からする書紀成立論の区分と一致 と考えられるものが以前にも一、二ある。即ち継体天皇の子勾大兄皇子 ( ↓ する点が多い。つまり、訓注の万葉仮名の部分は、最初に書紀が成立した 補注ー四 ) が外交のことにあたったことが継体六年十二月条にみえ、敏達 ときから存在し、本文を作成した人々と同じ人々が書いたものであると考 四年二月に大臣蘇我馬子とともに皇子が外交にあたっているがこの皇子は えられる。 敏達天皇の子、彦人大兄皇子らしく ( 一三八頁注二〇 ) 、従って同じ例に加 この形式の訓注は、コレヲパ・ : トイフと訓むのが普通であり、現存最古 えることができよ、つ。 の古写本である東洋文庫本皇極元年十二月条の乳部此云美父の場合でも 聖徳太子が皇太子として国政を総理した理由について家、水三郎は次のよ 「此」の字にも、明らかに、古い朱で、ヲ・とハの点がある。それゆえ、こ うにいう。これまで天皇は政治に携わらず、大臣・大連がそれに当ったが、 こは乳部コレヲバミプトイフと訓むべきである。しかし、こ、ついう訓注の 崇峻天皇が蘇我馬子によって殺害されるに及んで男子を天皇とすることを形式は元来、仏典などに見られるもので、ココニ、 ・ : トイフと訓むべきだ 避け、代って敏達皇后Ⅱ推古女帝が登極し、聖徳太子を皇太子として国政という意見がある ( 築島裕 ) 。 にあずからしめた。これは、天皇不親政の慣行を維持したまま、皇室が蘇 例えば、「那爛陀寺者、此云施无厭寺」 ( 唐、慧立、大慈恩寺三蔵法師伝 ) 、 我氏に対抗して政治をとろうとした意図によると。また家、水は皇嗣に国政「阿素洛、此云非天」 ( 唐、玄応、一切経音義 ) 、「阿恕伽者、晉言無憂」 ( 西晉、 を総理させることとなったのには、魏書、世祖帝紀下、太平真君四年十一月安息三蔵安法欽訳、阿育王伝 ) 、「蘇迷慮山、唐言妙高山」 ( 唐、弁機、大唐西 甲子条に「令下皇太子副 = 理万機一総中統百揆上」、三国史記、高句麗本紀、琉璃域記 ) 、「阿多羅、秦云無上」 ( 翻訳名義集、秦・羅什三蔵の訳語の引用 ) 王三十三年条に「立二王子無恤一為一一太子一委以一一軍国之事こ、同、百済本紀、 などを見ると、「 <t 此云」という形式で、 << は外国語、はシナ語である。 温祚王二十八年条に「立二元子多婁一為ニ太子一委以ニ内外兵事こ等と見え 晉とか唐とか、秦とかあるのはシナ語の王朝の名である。つまり、「 <t と るごとき、大陸・半島の慣行の影響もあったのではないか、とした。 いう外国語は、ココデハ ( シナでは ) ;q という」というのが、この形式であ 五新嘗 ( 一五八頁注一〇 ) ニヒナへはニヒノアへの約。 niFinöaFö↓ niFina ・ り、ココニハと訓むようにヲコト点がついている。従って、「開此云波羅 Fé. ニヒは、出来たて、とりたてのほやほやのものの意。その年の新穀を 企」とあるのは、「開という外国語 ( シナ語 ) はココデハ ( つまり日本では ) 指す。アへは合フの他動詞。相手のロに合ハスこと。つまり饗すること。 ハラキという」という意味であって、「此云」はココニハと訓むべきだと 新穀を差上げること。平安時代には、これをニハナヒと訓むのが普通。そ いうのが築島裕の意見である。 れは、ニヒナへの行事が、神聖な場 (? ) ( 場は神を祭る高いところをいう ) 先に見たように、書紀では、古写本でもコレヲバ : トイフと剛むよ、つに で人々が集って行われるので、ニハノアヒ ( 庭の合ひ ) の意と語源が解され ヲコト点をつけたものが多いから、平安朝の訓読においては、コレヲヾ るようになった結果である。ニヒナへは後にニヒナベと発音されるように トイフという形で訓んだものと思われるが、その中にあって、ほんの少 なり、更に転じてニイナメと発音されるに至った。今、古訓ニハナヒをす しであるが、 << ココニハトイフというよ、つに訓むべくヲコト点・傍訓の てて、最も古い意味のままに、ニヒナへと訓することとした。 ついたものがある。例えば北野本・欽明十五年条の鞍橋此尓 ( 云矩邏膩の : トイフ 六此云三 : 一 ( 一五九頁注二六 ) 書紀には、「開此云波羅企」というような訓 如きである。ここでは、此の下にニハの訓があるから、ココニ 注が多数付せられている。この注の部分の万葉仮名を調べてみると、いわ と訓んだものと思われる。 ゆる甲類乙類の区別のある仮名の混同例は極めて少なく、ほとんどないと なお、シナにおける「 << 此云」という形式を用いて、の部分に日本 いってよ、 ということは、この訓注は奈良時代の中期より以前につけら 語をあてている書紀の形式を、もし、ココニハトイフと訓み、「 << は、 れたものだと推定して差支えないということである。また、この訓注に使日本ではという」という形式と解すれば、は、外国語ということにな われている万葉仮名を詳しく調べると、巻十三と巻十四とを境として、使る。例えば、「開此云波羅企」において、日本語であるのはハラキだけで、 われている字の種類に相違対立するものがある。神代巻は巻十三以前と、 開は外国語ということになる。つまり、開は、本文の中ではシナ語で訓む 五五七

6. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

日本書紀 五八六 年正月条 ) ・東宮 ( 十年十月条 ) ・皇太子 ( 十年五月条 ) などと記しているの わしたものと解するか、または小山位の文字のあやまりと解するのが妥当 で、天智即位とともに立太子したとみるのが通説であるが、それは天武天であろう。ウチとは内位のことで、天智三年制の位階に内位・外位の別が 皇の即位を正当化するための書紀編者の追記で、実際には正式に皇太子に 最初からあったものか、あるいは天武朝における修正かについても問題が 立てられたのではないとみる説もある。↓三六〇頁注一四。 ある。内位・外位の区別はおそらく氏姓の尊卑によったものであろう。 三大友皇子の即位の有無 ( 三八二頁注一八 ) 大友皇子の立太子・即位につい 六村国連男依 ( 三八六頁注一 ) 天武五年七月没、外小紫位を追贈。大宝元年 て、書紀は何も記していない。しかし懐風藻には大友皇子を皇太子と記し 七月、功封百二十戸を中功とし、四分の一を子に伝えるべく定められ、霊 ており、また前田家本西宮記裏書をはじめ、平安時代以降のいくつかの史亀二年四月にはその息志我麻呂に賜田、天平宝字元年十二月、壬申の年の 料に、皇子の即位を記している。このことから、大友皇子は天智天皇の死功田十町を先朝の定めるところにより中功とし、二世に伝えさせた ( 続紀 ) 。 後即位し、日本書紀も元来は壬申の年を大友天皇紀として立てていたが、 村国連は美濃国各務郡 ( 今、岐阜県各務原市 ) の豪族。延喜神名式、美濃国 書紀の編者舎人親王が父天武天皇に皇位の簒奪者としての汚名をきせるの各務郡に村国神社二座・村国真墨田神社があり、和名抄、同郡に村国郷が を避けるため、曲筆を加えて故意に大友皇子即位の事実を削除し、天武天ある。 皇紀に編人したとする主張が、江戸時代、大日本史などによ「て行なわれ、七和珥部臣君手 ( 三八六頁注一 l) 文武元年九月勤大壱にて没し、直広壱位を 明治政府はそれを認めて皇子に弘文天皇と追諡、歴代天皇の中に加えた。 追贈。大宝元年七月、功封八十戸を中功とし、四分の一を子に伝えるべく しかし舎人親王の曲筆とする根拠は薄弱で、皇子の即位を記すのがいずれ定められ、霊亀二年四月にはその息大石に賜田、天平宝字元年十二月、壬 も平安中期以降の後代の史料であることもこの説の弱点である。これに対 申の年の功田八町を先朝の定めるところにより中功とし、二世に伝えさせ して、明治以後は、天智天皇の皇后倭姫が即位したとする説 ( 喜田貞吉 ) や、 た ( 続紀 ) 。釈紀所引私記のひく和邇部臣君手記はこの壬申の乱の手記。和 姫の称制とする説 ( 黒板勝美 ) があらわれた。これは、本文ならびに天智十珥部臣は和珥氏の部民である和珥部の地方的管掌者か。和珥氏↓補注ー 年十月十七日条に、大海人皇子が自らは位を辞して、天智皇后の倭姫に鴻六。 業を授け、大友皇子を皇太子とすることを奏上したとあるのにもとづき、 八身毛君広 ( 三八六頁注三 ) 大宝元年七月、功封八十戸を中功とし、四分の かっ、大海人皇子の吉野人り以後、それが実現したとみる仮説に立ったも 一を子に伝えるべく定められた ( 続紀 ) 。身毛君は身毛津、牟義、牟宜都等 のである。従って、これらの説も、その前提はたしかなものとはいえない。 と書き、大碓命を始祖と伝える美濃国武義郡 ( 今、岐阜県武義郡・美濃市 ) 今日では、大友皇子は正式に即位したことは疑わしいが、事実上は近江朝 の豪族で、釈紀所引上宮記には牟義都国造とある。大宝二年御野国加毛郡 廷の主であり、天皇としての大権をもっていたとみる見方が有力である。 半布里戸籍に牟義君族弖爾志売、同本簀郡栗栖太里戸籍にム下津三野売等 四島宮 ( 三八三頁注二六 ) 奈良県高市郡明日香村島ノ圧にあった離宮。蘇我 が見え、婚姻圏が周辺に拡がっていたことが知られる。↓田景行四十年七 馬子の邸宅 ( 推古三十四年五月条 ) のあとに作られ、天武朝には草壁皇子の 月条。 宮殿となったらしい。皇極天皇の母吉備姫王が吉備島皇祖母命 ( 二四八頁九多臣品治 ( 三八六頁注七 ) 天武十三年朝臣姓となり、持統十年八月、元従 注九 ) 、舒明天皇の母糠手姫皇女が島皇祖母命 ( 三六一頁注三一一 I) と呼ばれ の功と堅く関を守ったことをほめて直広壱位を授けられ、物を賜わった。 たのは、ここに住んでいたためか。なお持統四年三月二十日条に島宮の稲蒋敷の子で古事記の撰者安麻呂の父だという伝えもある。↓三五三頁注三 を京畿内の八十歳以上の者に賜うとあり、大化一一年三月十九日条に「官司 処々屯田及吉備島皇祖母処々貸稲」を罷めることを命じているのは、離宮一 0 害 ( 三八六頁注一一 ) 底本の文字は「告」とあり、傍訓にラムとだけ仮名 の荘園的経済機能を現わすものか。 がある。「造」という文字が左側に校異としてあげられており 、北野・本「・も 五内小七位 ( 三八四頁注三 ) 天武元年当時は天智三年制の位階 ( 天智三年二 「造」とある。内閣文庫本は「吉」とあるが、これは「告」を誤ったもの 月条 ) が行なわれており、七位という位階はない。 これについては、天智三 と見てよかろう。「造」を正しい文字と見て、それをイツハルと訓み、ア 年制の位階をのちの大宝令制の位階にあてはめて小山位を小七位と書き表メノシタヲィッハラムとする説もある ( 丸山二郎 ) 。しかし、「害」の古字

7. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

一七 あっか みこころうたが ~ ) 毛詩、大雅、雲漢「兢兢業業」などこの熟語太子、意に疑ひて、殿に入りて見たまふ。妃、床に臥して涕泣ち、怖痛ひて自ら勝ふ の例は多い。その伝に「兢兢、恐也、業業、危 さ あた けさ ひつぎのみこあやしと なにうらみ 也」とある。オソルは上二段活用が古形。 ること能はず。太子怪び問ひて日はく、「今旦涕泣つること、何の恨有るか」との 八「間者」の者は助字。間一字にコノゴロの意 あたしことあら ただやっこかなし ところ みめまう とぶとりおのがこうつくし がある。一例「間者諸呂用 / 事」 ( 漢書、文帝紀 ) 。 たまふ。妃日さく、「餘事に非ず。唯妾が悲ぶる所は、飛天之鳥も兒を愛養ぶるが 比者・頃者などの者も同じく助字。 ため はむしおのがこまもをさ きすゑす 九一種の愛称で、ここは勾大兄皇子を指して 爲に、樹の巓に樔を作ふ。共の愛を深みせり。地に伏ふ蟲も子を護り衞めむが爲 いるが、特に勾大兄皇子の別名というわけでは っちしたあなほ すなはひと あにおもひはかりな え ない。皇子を麻呂古と呼んでいる例は他にも見 に、土の中に窟を作る。共の護を厚みせり。乃ち人に至りて、豈慮无きこと得 え、更に転じて皇子の正式の名となっている例 は、継体天皇皇子椀子皇子の如きもある。 一 0 風は教化。名義抄に「風、ノリ」とある。 菖母蜊矩能、簸覩細能哿波庚、那峨例倶屡、駄開能、以矩美娜開余嚢開、謨等陛嗚 = 奈良時代にはアキヅのヅは濁音。↓補注 4 一八。一 = 「宝とする云々」は尚書、旅英に見え、麼、菖等倆都倶蜊、須衞陛嗚麼、府曳偉都供蜊、符企儺須、美母慮我紆陪儒、能朋 「為 / 善最楽」は、東観漢記・後漢書などに見え る。一三原文の扇は煽に通じる。煽は名義抄に梨陀致、倭我彌細麼、都奴娑播符、以簸例能伊開能、美那矢駄府、紆嗚謨、紆陪倆 サカリナリ、サカュとある。玄功は深く大きい 堤々那皚矩、野須美矢々、倭我於朋枳美能、於魔細屡、娑佐羅能美於寐能、武須彌 功業。一四名義抄に「補、ツツル、オキヌフ、タ スク」。この詔も全文漢文的修飾に満ちている 陀例、駄例夜矢比等母、紆陪倆泥堤那皚矩。 0 冬十一月辛亥朔乙卯、於二朝庭「引ニ が、勾大兄を皇太子とし国務を輔翼させたのは、 聖徳太子以前の皇太子参政の例。六年十一一月条列百濟姐彌文貴將軍、斯羅浹得至、安羅辛已奚及賁巴委佐、作跛既殿奚及竹至等「 の記述 ( 二八頁一ー八行 ) に勾大兄が国事の決定 奉一壹恩勅「以二己汝。滯沙「賜ニ百濟國「◎是月、作跛國、遣二戝支一獻二珍寶「乞二己 に携わっている話のあることも注意を要する。 一五朝、遅くな「てから姿を見せて、いつもと異汝之地「而終不」賜。 0 十二月辛巳朔戊子、詔日、朕承二天緖「獲レ保二宗廟「兢々業 なっていた。 = 〈 ↓一二頁注五。一七悶 3 え 々。間者、天下安靜、海内淸平、屡致羸年、頻使」饒」國。懿哉、摩呂古、示二験心 苦しんで。腕は嘆く意。アッカフは新撰字鏡に 「喝、傷熱也、阿豆加布」とある。一八以下の妃 於八方「盛哉、勾大兄、光一一吾風於萬國「日本琶々、名擅二天下「秋津赫々、譽重二 の言葉は「他の事ではございません。私の悲し むわけは ( 次のことです ) 、天を飛ぶ鳥も自分の王畿「所」寶惟賢、爲」善最樂。聖化憑」遠扇、玄功藉」此長懸。寔汝之力。宜處一一 子を養うために、こずえに巣をくう。それは、 愛情が深いからです。地にはう虫も子をまもる春宮「助朕施」仁、糞レ吾補」闕。 ために土の中にあなをほる。それは、そこが安 八年春正月、太子妃春日皇女、晨朝晏出、有レ異ニ於常「太子意疑、人」殿而見。妃臥 全だからです。人たるもの考えずにはいられま すまい。私に子供の無い恨みは、まさに皇太子床涕泣、忱痛不」能ニ自勝「太子怪問日、今日一涕泣、有二何恨一乎。妃日、非二餘事一也。 にむけられます。私の名は子供がないので絶え 唯妾所レ悲者、飛天之鳥、爲」愛一一養見「樹巓作レ樔。共愛深矣。伏レ地之蟲、爲レ護ニ てしまう、それが私の悲しみです」の意。 繼體天皇七年九月ー八年正月 みや そうつくしびふか まもりあっ のたま とこ みづかた 8 3

8. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

二〇四 日本書紀卷第二十二 一 ( 薤日 ) いかるがのみや よなか うまやとのとよとみみのみこのみこと はるきさらぎっちのとのうしついたちみづのとのみのひ 婆露盤銘に「壬午年二月廿二日臨 / 崩之時」。太 二十九年の春二月の己丑の朔癸巳に、半夜に廐戸豐聰耳皇子命、斑鳩宮に 子の没年は本文の二十九年 ( 辛巳 ) ではなく、翌 もろもろのおほきみもろもろのおみおよあめのしたおほみたからことごとくおきなめぐ 三十年 ( 壬午 ) 二月二十二日を正しいとすべきで薨りましぬ。是の時に、諸王・諸臣及び天下の百姓、悉に長老は愛き兒を あろう。ニ↓補注ー三。なお大安寺縁起資財 な わかきうつくしびかそいろはうしな ′」と しほすあちはひくちあ 帳には「小治田宮御宇太帝天皇召二田村皇子一 失へるが如くして、鹽酢の味、ロに在れども嘗めず。少幼は慈の父母を亡へるが 以遣二飽浪葦墻宮一令 / 問二廐戸皇子之病ことあ 五 いねつめきねおと すなはたがへものすきや こゑみち る。三南史、孝義伝に、「王虚之喪 / 父二十五年 如くして、哭き泣つる聲、行路に滿てり。乃ち耕す夫は耜を止み、春く女は杵せず。 塩酢不 / 人 / ロ」とある。四↓補注跖ー一七。 のちたれ あめっちすでくづ ひっきひかり 五田を返す意。耕作する。六延喜諸陵式に 「磯長墓〈橘豊日天皇之皇太子、名云 = 聖徳→在 = 皆日はく、「日月輝を失ひて、天地既に崩れぬ。今より以後、誰をか恃まむ」といふ。 こまほふしゑじかみつみやの あた かみつみやのひつぎのみこしながのみさざきはぶ つき 河内国石川郡一兆域東西三町、南北二町。守戸 三烟〉」とある。いま大阪府南河内郡太子町大是の月に、上宮太子を磯長陵に葬る。是の時に嘗りて、高麗の僧慧慈、上宮 よ をがみ ため 字太子の叡福寺境内にいわゆる磯長墓がある。 おほ かなし ひつぎのみこかむさ 丘陵の南傾斜地に営まれた円墳。高さ約七メー皇太子薨りましぬと聞きて、大きに悲ぶ。皇太子の爲に、僧を請せて設齋す。仍り ま第ノ トル余、径約五四メートル。諸記録によると、 かみつみやのとよとみみのみこ やまとのくにひじりま こひちか 南を向く羨道と玄室は切石で構成し、玄室内に て親ら經を説く日に、誓願ひて日はく、「日本國に聖人有す。上宮豐聰耳皇子と日す。 九 三棺ある。梅原末治は、奥は間人皇后、前面東 きみのみちつつ あ はるかひじりいきほひ まことあめゆる は太子、西はその妃のものという。七↓一七四 固に天に縱されたり。玄なる聖の德を以て、日本の國に生れませり。三統を苞み貫 頁注二。帝説に「慧慈法師費一一上宮御製疏一還二 これまことおほきひしり おほみたからたしなみすく つつしゐやま さきのひじりおほきなるのりつ 帰本国一流伝之間、壬午年〔推古三十年〕二月廿 きて、先聖の宏猷に纂ぎ、三費を恭み敬ひて、黎元の厄を救ふ。是實の大聖なり。 一一日夜半聖王薨逝也。慧慈法師聞 / 之、奉二為王 いへどこころうるはしき われくにけ ひつぎのみこすでかむさ 命一講 / 経発 / 願日、逢二上宮聖王一必欲 / 所 / 化 吾慧慈来年一一月廿二日死者、必逢 = 聖王一面 = 奉今太子既に薨りましぬ。我、國異なりと雖も、心斷金に在り。共れ獨り生くとも、 よ かみつみやのひつぎのみこしゃうど かならみまか いっかのひ こむとしきさらぎ なにしるし 浄上一遂如一一共言「到二明年二月廿二日一発 / 病命 終也」とある。〈「固天縦之将聖」 ( 論語、子罕何の益かあらむ。我來年の二月の五日を以て必す死らむ。因りて上宮太子に淨土 篇 ) をはじめ、類似の語句が多い。天にゆるさ まうあ れて、ほしいままにしうる意。転じて、生れな に遇ひて、共に衆生を化さむ」といふ。是に、慧慈、期りし日に當りて死る。是を あら がらすぐれているものである意。九夏殷周の三 代の暦をいう。ここでは、聖天子の代といわれ以て、時の人の彼も此も共に言はく、「共れ獨り上宮太子の聖にましますのみに非 る禹王・湯王・文王をさし、それをつつみ貫く ほどのすぐれた王であるの意であろう。 ず。慧慈も聖なりけり」といふ。 一 0 大きな計画。 = くるしみ。 つかひむねまう みつぎたてまっ ことししらき 三易、繋辞上に「二人同レ心其利断 / 金」、疏に 是歳、新羅、奈末伊彌買を遣して朝貢らしむ。仍りて書を表りて使の旨を奏す。 「金是堅剛之物、能断而截レ之、盛一言利之甚一也」 けた おほよ とある。友情の厚く強いことは金をも断つほど たという意。一 = 「ウアヒテは参会ヒテの意。几そ新羅の表上ること、蓋し始めて此の時に起れるか。 うしな かむさ みづかぎゃうと ふみたてまっ こ い四 しゅじゃうわた さむう ときおこ よ ちぎ ふみたてまっ ほふしま そひと たの みまか

9. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

ことをさ にはかこれ まつりごとな おほやけわざか = = いわゆる浄御原律令の編纂開始を示す記事。故、倶に是の事を修めよ。然も頓に是のみを務に就さば、公事闕くこと有らむ。 令二十二巻は持統三年六月に施行され、その編 ひとわ おこな くさかべのみこのみことた ひつぎのみこ 目として考仕令 ( 持統四年四月条 ) ・戸令 ( 同年 人を分けて行ふべし」とのたまふ。是の日に、草壁皇子尊を立てて、皇太子とす。 九月条 ) の名がみえるが、逸文は伝わらない。 ( 二十九日 ) ( 三十日 ) よろづのまつりごとふさねをさ っちのえたつのひ あへのおほとじみう っちのとのみのひ 律の完成を示す記事はなく、その完成を否定す 因りて萬機を攝めしめたまふ。戊辰に、阿倍夫人薨せましぬ。己巳に、 る説もあるが、持統七年四月条に「但贓者依 / 律 せうしのくらゐたぎまのきみとよはまみう 徴納」とあり、同六年七月条には「十悪」の語 小紫位當摩公豐濱薨せぬ。 もみえる。なお令については、これ以前天智朝 ( 四日 ) ( 十七日 ) やよひかのえうま みづのとのとりのひ にいわゆる近江令が制定されたことが弘仁格式 ひのえいぬのひ おほあんどのおはしま 序に見え、家伝にも藤原鎌足が律令の刊定を命 三月の庚午の朔癸酉に、阿倍夫人を葬る。内戌に、天皇、大極殿に御して、 じられ、ほぼ条例を作ったとあるが、その完成 には疑問があり、その存在を全く否定する学説 もある。この浄御原令については、続紀、大宝未、皇后體不豫。則爲二皇后一誓願之、初興二藥師寺「仍度ニ一百僧「由」是、得二安平「 元年八月条、大宝律令完成の記事に「大略以二浄 是日、赦」罪。〇丁亥、月蝕。遣二草壁皇子「訊二惠妙僧之病「明日、惠妙僧終。乃 御原朝庭一為ニ准正ことあり、また諸方面の考察 から推しても、日本の律令政治支配機構の大綱遣ニ三皇子一而弔之。〇乙未、新羅遣二沙金若弼・大奈末金原升一進」調。則習言者 が作られたのは、この浄御原令においてであっ たと考えられている。↓補注ー一八。 三人、從一一若弼一至。〇丁酉、天皇病之。因以度一一一百僧「俄而愈之。〇辛丑、臘子鳥 = 四皇太子に万機を委ねること、聖徳太子につ いては用明元年正月条・推古元年四月条参照。蔽」天、自一一東南一飛、以度二西北「 また中大兄皇子については、家伝に「 ( 斉明天 皇 ) 悉以 = 庶務一委 = 皇太子ことある。ただ草壁十年春正月辛未朔壬申、頒 = 幣帛於諸神祇「〇癸酉、百寮諸人拜朝庭。〇丁丑、天 皇子の場合は、実際には政治の実権はほとんど 皇御一一向小殿一而宴之。是日、親王諸王、引二人内安殿「諸臣皆侍ニ于外安殿「共置酒 委ねられていなかったらしい 一一五天智天皇の嬪、阿倍倉梯麻呂の女橘娘か。 以賜」樂。則大山上草香部吉士大形、授ニ小錦下位「仍賜」姓日二難波連「〇辛巳、勅ニ ↓三六八頁注一八。夫人↓補注跖ー四。 兵他に見えず。当摩公↓一五六頁注五。 境部連石積「封ニ六十戸「因以給一卅匹・綿百五十斤・布百五十端・钁一百ロ「〇 丁亥、親王以下、小建以上、射二于朝庭「〇己丑、詔ニ畿内及諸國「修二理天社地社神 宮「 0 二月庚子朔甲子、天皇々后、共居ニ于大極殿「以喚一一親王諸王及諸臣「詔之日、 験今更欲下定二律令一改中法式故倶修二是事「然頓就一一是務「公事有」闕。分」人應」行。 是日、立一章壁皇子奪「爲一一皇太子「因以令レ攝二萬機「〇戊辰、阿倍夫人薨。〇己巳、 小紫位當摩公豐濱薨。 0 三月庚午朔癸酉、葬二阿倍夫人「〇丙戌、天皇御二于大極殿「 四四五 天武天皇下九年十一月ー十年三月 かれとも はぶ

10. 日本古典文學大系68 日本書紀 下

皇極天皇四年六月 孺母一也、此印人鹿臣、忽於宮中、爲二佐伯連子廠呂・稚大養連網田「所訣之兆也。」 〇庚戌、讓一一位於輕皇子「立ニ中大兄「爲二皇太子「 日本書紀卷第廿四