日本書紀卷第二十一 ためのみこ またみなとゆらのみこ かづらぎのあたひいはむらむすめひろこ ひとりひこみこひとりひめみこ ある。↓一七三頁注一三・補注ー四。 = = 上宮田目皇子を生めり。更の名は豐浦皇子。葛城直磐村が女廣子、一の男・一の女を生 四 五 記・帝説・用明記に久米王。推古十年撃新羅将 まろこのみこ これたぎまのきみおや 軍となり、翌年筑紫に薨ず。姓氏録に登美真人めり。男をば麻呂子皇子と日す。此富麻公の先なり。女をば酢香手姫皇女と日す。 の祖という。三ニ帝説に殖栗王、用明記ー こ植栗 みつのよ ひのかみつかへまっ 王。姓氏録、左京皇別に蜷淵真人の祖。三三帝 三代を歴て日神に奉る。 説・用明記に茨田王。三四帝説に伊志支那郎女。 九 なっさっき あなほべのみこ かしぎやひめのきさきをか みづか もがりのみや 用明記ーー こま意富芸多志比売と異伝を示すが、こ 夏五月に、穴穗部皇子、炊屋姫皇后を辭さむとして、自ら強ひて殯宮にんる。 れは欽明妃の堅塩媛と伝が混同したのであろう。 三五↓補注ー四。 めぐみたまふまへつきみみわのぎみさかふすなはつはものとねりめ みかどさしかた 寵臣三輪君逆、乃ち兵衞を喚して、宮門を重瑰めて、拒きて入れず。穴 と 一上宮記・帝説・用明記に多米王。上宮記・ つはものとねりこた 帝説に、父用明の死後穴穂部皇后を娶り佐富女穗部皇子問ひて日はく、「何人か此に在る」といふ。兵衞答へて日はく、「三輪君 王を生んだとある。 はべ みかどひら つひゆる = 豊浦は飛鳥の地名 ( 高市郡明日香村豊浦 ) 。逆在り」といふ。七たび「門開け」と呼ふ。遂に聽し入れず。是に、穴穗部皇子、 三帝説に葛木当麻倉首比里古女子伊比古郎女、一三 おほおみおほむらじ 用明記に当麻倉首比呂之女飯之子とある。書紀大臣と大連とに謂りて日はく、「逆、頻に禮無し。殯庭にして誄りて日さく、 は父の名を女の名と誤解したらしい。ただし葛 かがみおもてごと やっかれをさむつかへまっ 城直と葛木当麻倉首との関係は未詳。葛城直↓ 『朝庭蒄さずして、淨めつか ~ まつること鏡の面の如くにして、臣、治め平け奉仕 一一八頁注一三。 一四 まさ すなは ゐや いますめらみことみやからさはましまふたりおほまへつきみはべ 四帝説に乎麻呂古王とあるが、乎は接頭語で らむ』とまうす。印ち是禮無し。方に今、天皇の子弟、多に在す。兩の大臣侍り。 大伴吹負を男吹負という類。用明記や推古十一 え またわれもがりのみやのうちみ 年四月条に当麻とあるのは母姓に因むのであろたれこころほしきままたくめ「か、まっ う。麻呂子は貴人の子弟を呼ぶ普通名詞 ( 継体・詛か情の恣に、専奉仕らむと言ふこと得む。又余、殯内を觀むとおもへども、 宜化・欽明・敏達の皇子に椀子皇子、麻呂古王 ゆる き ねが あり ) であるから、ここは元来「当麻皇子〈更名拒きて聽し入れず。自ら『門を開けよ』と呼へども、七廻應へず。願はくは斬らむ 麻呂子皇子〉」とでもあるべきところ。 おも みことまま 三母姓に因む。姓氏録、右京皇別に「当麻真と欲ふ」といふ。兩の大臣の日さく、「命の隨に」とまうす。是に、穴穗部皇子、陰 人。用明皇子麿古王之後也」とあり、天武十三 あめのしたきみ いつはさかふのきみころ 年十月条に、真人姓を賜わったことがみえる。 に天下に王たらむ事を謀りて、ロに詐りて逆君を殺さむといふことを在てり。遂に 当麻は地名 ( 北葛城郡当麻村当麻 ) で当麻都比古 し もののべのもりやのおほむらし いくさゐ みもろのをか 神社の所在地。淳仁天皇の母、清和天皇外祖母 物部守屋大連と、兵を卒て磐余の池邊を圍繞む。逆君知りて、三諸岳に隱れぬ。是 源潔姫 ( 嵯峨皇女・良房室 ) の母はいずれも当麻 一九 ニ 0 ひ ひそかやま なりどころ きさきのみやかく 氏。一〈↓即位前紀九月十九日条。「三代を歴て」 の日の夜半に、潛に山より出でて、後宮に隱る。炊屋姫皇后の別業を謂ふ。是を海石榴市宮 は三代の天皇にわたっての意。 さかふうがらしらつつみよこやま あところっげま ) もりやのおほむらじ 七欽明天皇の皇子。以下の記事は敏達十四年 と名く。逆の同姓白堤と横山と、逆君が在る處を言す。穴穗部皇子、印ち守屋大連を 八月条にも見える。 ふせ な・つ 力、 ど あ よなか へ ふたり こと きょ なにひと みかどあ は まう くち ここ いけのヘ ななたびこた ここ し ふせ これ つはきいちのみや ひそか
日本書紀 天智七 ) にかけて第四回の征討を行ない、六六八年九月、ようやく平壌を補注ー一 ) 、長幼の順によらず男女の順によった或本を本文に採択せずに 陥し高臧王らを捕虜として、高句麗を減ぼすことができた。書紀の天智即分注にとどめたことも、これを証する。しかし他に二、三の注目すべき点 がある。 位前紀七月是月・同十二月・同是歳・元年三月是月・同四月の各条は、高 宗の第三回出兵に関する記事であり、天智三年十月是月・同六年十月・同 第一に、記事の中に阿陪皇女すなわち元明天皇の平城遷都に言及してい る点、書紀の中では、撰上の十年前という最も新しい記事をふくんでいる 七年十月の各条は、高句麗滅亡の原因と経過にふれた記事である。これら 天智紀の関係記事は、斉明紀のように書名は明記していないが、やはり主部分といえる。 として高句麗僧道顕の日本世記を原史料とするらしい つぎに、大宝・養老令制では、天皇の配遇者の中で女王以下朝廷貴族の ところで池内宏の説によると、高句麗減亡の直接の原因となった大臣泉出身者は、三位以上を夫人、四位・五位を嬪と称しているが、ここでは嬪 のみ、天武紀では夫人のみであり、ここに嬪と記された阿倍橘娘は、天武 蓋蘇文 ( 蓋金 ) の死とその後の三子の不和は、新旧唐書とも高麗伝は乾封元 ( 天智五 ) 年、同じく本紀は同年六月、資治通鑑の唐紀は同年五月、冊府元十年二月条に阿倍夫入とあるのと同一入であろう。令制のような位階によ 亀の外臣部は同年六月に係けているが、それらはいずれも同年五月末か六 る夫入と嬪との区別は、まだなかったと考えるべきであり、書紀本文の整 月初における蓋蘇文の長子男生の救援依頼とそれに応じた六月における唐定にさいし、天智の配偶者を天武の配偶者よりも低く格づけたとみるべき の出兵を説明するために插入された記事にすぎず、蓋蘇文の死は泉男生墓であろうか。 最後に、天智天皇の皇子は、ここに記載された者以外にもいたらしいと 銘から推測すれば、その前年 ( 天智四 ) のことらしく、天智紀はこれを三 年十月是月条に載せているが、四年十月のこととみるべきであろうという。 いうことである。すなわち続紀は霊亀二年八月の施基皇子 ( 志貴親王 ) の薨 また三子の不和については、冊府元亀、外臣部の記すところがもっとも にさいして「天智天皇第七之皇子也」と記す。この第七子とは続紀の通例 によれば六人の兄がいるという意味であるが、ここでは大友・建・川島の 原史料に近いであろうというが、それはつぎのごとくである。 初高麗莫離支蓋蘇文死。共長子男生代 / 父為 = 莫離支之位「既初知 = 国三人しか挙げていない。また天平十九年十月条に御方大野に対する「大野 政一出巡二諸城「使三共一一弟男建・男産留 / 後知一一国事→男生既出、或謂ニ 之父、於二浄御原朝庭一在一一皇子之列一而縁一一微過一遂被一一廃退こという勅が 男建等一日、「男生悪ニ二男逼レ己、意欲 / 除之。不 / 如一一先以為レ計也」。男 ある。天智の諸皇子が天武・持統朝でも皇子の待遇を受けていたことは、 建等初不 / 言之。又有 / 人謂一一男生一日、「二弟恐下兄思奪ニ己権一欲二拒 / 兄天武八年五月六日条そのほか両紀の記事に明らかであるが、天武の諸皇子 には微過によって廃退というような例が求めがたい。したがって、扶桑略 不レ納」。男生使三所 / 親、潜往二平壌一以伺焉。男建等知而掩得之。緜 / 是 記に天智天皇の諸皇子について「王子、男六人、 : : : 但一人不レ載ニ系図こ 遞相猜弐。男建等乃以二共王命一召一一男生一男生惧不ニ敢帰男建等遂発 / 兵討之。男生走拠一一国内城一以自守。共子献誠詣 / 闕求 / 救。於レ是詔二何とあり、永閑の伊賀国名所記に信西国分という書を引いて、大友皇子の同 母弟に阿閉皇子、同母妹に阿雅皇女がいたとしているのも、あながち無視 カ一率 / 兵赴援。 すなわち天智六年十月条と大筋は同じであるが、この乾封元 ( 天智五 ) 年することはできない。大友皇子に弟妹がいれば、壬申の乱後は処分される であろうからである。 五、六月の交に唐に救援を求めたのは男生自身でなく、その子献誠である。 男生自身の人唐は、その墓誌銘によれば「二年、奉 / 勅追 / 公人朝」と、乾一ニ以二栗前王一拝一一筑紫率一 ( 三六九頁注四六 ) 天智八年正月条に蘇我赤兄を筑 紫率に任じ、十年正月条に赤兄を左大臣とした後、同六月是月条に再び栗 封二年のことであって、書紀がこれを天智六年に係けるのと一致する。た だし池内宏は、乾封元年末における李勣らの大軍増援を男生自身の人唐救隈王を筑紫率としたとある。本条を十年条の重複としてけずる説もある。 ↓補注ー四。 援によるものとみるため、墓誌銘の年次を否定している。 この記事は、后妃子女の列記の順序一 = 一若善治 / 国不 / 可 / 得也。但当有二七百年之治一也 ( 三七〇頁注二〇 ) このと = 天智紀の后妃子女 ( 三六七頁注三一一 l) ころ、本文は次の通りである。 について、まず子女の母ごとに一括し、母は嬪・宮入などの格によって記 底本若善治国可得也若不可得也 し、同腹の子女は長幼の順によっている点、天武紀などと同じであり ( ↓
みこたちともこた ことわりいやちこ であろう。なお大化三年は四年の誤り。↓ 九年皇子等、共に對 ~ て日さく、「理實灼然なり」とまうす。則ち草壁皇子尊、先づ進 四月是月条。一六これまで飛鳥寺・斑鳩寺のよ ちか あまっかみくにつかみ おのれあにおととおいたるいとけなきあはせ うに地名を称していたのを、大官大寺にならっ みて盟ひて日さく、「天訷地祇及び天皇、證めたまへ。吾兄弟長幼、拜て て元興寺・法隆寺などの漢風の名称を定めたも とをあまりのみこおのおのことはら のか。これをのちの定額寺の制度の起りとみる 十餘王、各異腹より出でたり。然れども同じきと異なりと別かず、倶に天皇の 説もあるが当らない。 七↓三二九頁注三七。 も あひたす ちかひごと 万葉毛に「天皇、吉野の宮に幸しし時の御製みことのりしたが 勅に隨ひて、相扶けて忤ふること無けむ。若し今より以後、此の盟の如くにあら 歌」があり、左注にこの時の作とする。また のちほろ うみのこた 一一五・一一六についてもこの行幸の時の作とする説が わす いつはしらみこ ある。天ー一一 0 ↓補注四ー一。 ずは、身命亡び、子孫絶えむ。忘れじ、失たじ」とまうす。五の皇子、次を以て相 三天智天皇の皇子。↓三六八頁注二八。 一三↓補注四ー一。 ニ三天智天皇の皇子施基皇子 ( 三六八頁注三四 ) 。天武天皇の皇子磯城皇子因以新羅遣一一奈末甘勿那「送二桓父等於筑紫「〇甲寅、紀臣堅摩呂卒。以ニ壬申年之 ( ↓補注四ー一 ) ではあるまい。芝をシの仮名に 使う例は極めて少ないが、止而切。之韻三等、 功「贈一一大錦上位「〇乙卯、詔日、及一一于辛巳年「檢二校親王諸臣及百寮人之兵及馬「 照母の文字。シの仮名に用いうる。 = 四天皇は諸皇子が成人するにつれて、再び皇故豫貯焉。◎是月、降二大恩一恤ニ貧乏「以給一一共飢寒「〇三月辛巳朔内戌、兵衙大分 位継承の争いを起すことのないよう、壬申の乱 に関係深い吉野の地で誓約せしめたのであろう。君稚見死。賞一壬申年大役「爲二先鋒一之、破二瀬田營「由二是功一贈一一外小錦上位「 0 一宝天皇が自己の動作に敬語を使う例は上代に 少なくないので、ここもその例による。 丁亥、天皇幸一一於越智「拜二後岡本天皇陵「〇己丑、吉備大宰石川王、病之薨一一於吉 実理がコトワリ、実灼然がイヤチコにあたる。 備「天皇聞之大哀。則降一一大恩「云々。贈一一諸王二位「〇壬寅、貧乏僧尼、施一一綿 神意や、道理がまぎれなく明らかに顕現するこ 布「 0 夏四月辛亥朔乙卯、詔日、商下量諸有二食封一寺所由ハ而可加々之、可レ除々之。 毛天武天皇の皇子は総計十人だが、ここは河 嶋皇子・芝基皇子など、天智天皇の皇子をも合 是日、定二諸寺名一也。〇己未、祭二廣瀨龍田訷「 0 五月庚辰朔甲申、幸ニ于吉野宮「 せての称と思われる。天武天皇の皇子でここに 見えない者は、まだ成年に達しないため誓盟に〇乙酉、天皇詔一一皇后及草壁皇子奪・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・ 加わらなかったのであろう。ここでの皇子の序 列は、草壁・大津両皇子を皇位継承候補者とし 芝基皇子一日、験今日與二汝等一倶盟二于庭「而千歳之後、欲」無」事。奈之何。皇子等 て別格におき、高市皇子以下は長幼の順序によ 。たものと思われ、以後の叙位・賜封などの記共對日、理實灼然。則草壁皇子尊、先進盟日、天訷地祇及天皇證也。吾兄弟長幼、 事でもこの順序は変らない。↓補注四ー一。 天ナケムはナカラムの古形。奈良朝の言い方井十餘王、各出二于異腹「然不」別一一同異「倶隨一一天皇勅「而相扶無」キ。若自レ今以後、 では形容詞の下に、直接ムという助動詞が附属 することができた。 不レ如一此盟一者、身命亡之、子孫絶之。非レ忘非レ失矣。五皇子、以」次相↓ 天武天皇下八年二月ー五月 四三五 さか あやま あきら こと ますす あひ
日本書紀卷第二十五 一名は軽皇子。天は美称。万も美称。家伝に 軽万徳王という。豊も美称か。類例は橘豊日命 ( 用明天皇 ) 。↓一五四頁注一。 = 皇極天皇。 三父は茅渟王、母は吉備姫王。 四・五神道は民族的な祭祀ほどの意。「天皇不 / 信ニ仏法一而愛一一文史こ ( 敏達即位前紀 ) 、「天皇 信ニ仏法一尊ニ神道こ ( 用明即位前紀 ) などの例が ある。神道↓補注ー一。 あめよろづとよびのすめらみこと 六三代実録、貞観元年条に難波生国魂神、延喜 神名式に摂津国東生郡難波坐生国魂神社 ( 今、大 天萬豐日天皇孝德天皇 阪市天王寺区生玉町所在 ) 。伐採のこと他所に 四 五 見えず。難波宮造営のためか。 あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと はとけのみのりたふと かみのみち セ出典は「漢書日、 : ・壮大柔仁好儒」 ( 芸文類天萬豐日天皇は、天豐財重日足姫天皇の同母弟なり。佛法を尊び、神道を 聚、儲宮部 ) か。柔は仁に同じ。大化改新に学者 いくくにたまのやしろき ひとな めぐみ はかせこの を多く用いたことをさすか。 輕りたまふ。生國魂社の樹を翫りたまふ類、是なり。人と爲り、柔仁ましまして儒を好みた 八大化改新に詔を多く降したことをさすか。 たふといや しきりめぐみのみことのりくだ それとも、白雉四年五月是月条の「ロ勅ニ恩命こ まふ。貴き賤しきと擇ばず、頻に恩勅を降したまふ。天豐財重日足姫天皇の四 の如き私的なものをさすか。 九 ( 十四日 ) みくらゐなかのおほえった おもほ みなうきかのえいぬのひ 九↓皇極四年六月十四日条 ( 二六六頁一行 ) 。 年の六月の庚戌に、天豊財重日足姫天皇、位を中大兄に傳へたまはむと思欲して、 以下二七〇頁一一行まで、この日の即位・立太 しかしかいへり なかとみのかまこのむらしかた みことのり 子・諸臣の任命の事情を記す。それは家伝にも 詔して日はく、云云。中大兄、退でて中臣鎌子連に語りたまふ。中臣鎌子連、 詳しい。 一五 ふるひとのおえ きみ ぎみをち いろね かるのみこ 一 0 中大兄皇子。↓一三七頁注二四・三五二頁 注一。 議りて日さく、「古人大兄は、殿下の兄なり。輕皇子は、殿下の舅なり。方に今、古 = 通釈は「宜命の語なるが故にかく省けるな しばら ま おととつつししたがこころたが きみあまつひつぎしら るべし」というが、もカか。↓注一九。 人大兄在します。而るを殿下陟天皇位さば、入の弟恭み遜ふ心に違はむ。且く、舅 一ニ↓二五三頁注二一。 そはかりこと おほみたからねがひかな 一三古人大兄皇子。↓一三八頁注七。 を立てて民の望に答はば、亦可からずや」とまうす。是に、中大兄、深く厥の議 一四令制では、三后・皇太子に上啓する時、殿 しのびも よみ 下と称す ( 儀制令、皇后条 ) 。それによる表現か を嘉したまひて、密に以て奏聞したまふ。天豊財重日足姫天皇、璽綬を授けたまひ ここでは殿下は中大兄皇子、兄はその異母兄、 一九 しかしかいへり のたま あなむち おほみことのり ゅづ 古人大兄皇子をさす。 て、位を禪りたまふ。策して日はく、「咨、爾輕皇子」と云云。輕皇子、再三に 一五孝徳天皇。 これさき 一六令集解に「古記云、舅・従母、釈親云、母 之昆弟為」舅、母之姉妹為 = 従母一案外祖父之子、固辭びて、轉古入大兄更の名は、古入大市皇子。に讓りて日はく、「大兄命は、是昔の あなづ 日本書紀卷第一一十五 のたま えら またみな き かうとくてんわう ふるひとのおはちのみこ ま一物 1 り・し たぐひこれ ここ みしるしさづ おほえのみこと ふか まさ しきり
日本書紀 五九〇 の斎宮より京に上る時の御作歌二首」、一六五・一六六に「大津皇子の屍を葛城 巻第ニ十九天武天皇下 の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首」の計六首を載 せる。 一天武天皇の諸皇子・諸皇女 ( 四一〇頁注五 ) 天武天皇の皇子・皇女として 知られるのは、ここに挙げられた十皇子・七皇女である。これらの皇子・ 大津皇子 ( 四一〇頁注九 ) 懐風藻は天皇の長子とする。室は天智天皇の皇 皇女は、天武・持統朝から奈良時代前半にかけて、政治的にきわめて重要女山辺皇女 ( 天智七年二月条・持統称制前紀 ) 。壬申の乱では天皇挙兵の報 な存在であったばかりでなく、また万葉集・懐風藻の作者として、文学史をえて近江を脱出、鈴鹿で天皇一行に合した ( 元年六月二十六日条 ) 。十二 的にも大きな地位を占める者が多い。 年二月はじめて朝政を聴き、十四年正月浄大弐位を授けられた。朱鳥元年 書紀の皇子・皇女の記載順序は、おのおのの母である后妃ごとに括られ、九月天武天皇の死にあたり皇太子に謀反したとの報があり、十月逮捕、死 同腹の子女は性別に関係なく長幼の順に列記され、后妃の順は皇后・妃・ を賜わった。年二十四。持統称制前紀・懐風藻に伝がある。懐風藻に「五 夫人・宮人とい「た格によっている。これに対し、続紀で天武天皇の第〇言臨終一絶」をふくむ詩四編、万葉一宅・一 0 九・一五三に作歌がある。 皇子と称する場合は、生母である后妃のうち、天皇の妻としての資格を有 長皇子 ( 四一〇頁注一一 ) 長親王・那我親王とも書く。栗栖王・長田王・ する内命婦以上の者と、それ以外の者との二つのグループに分け、おのお智努王 ( 文室浄一一 I) ・大市王 ( 文室邑珍 ) ・広瀬女王の父。持統七年正月浄広 のの中で長幼の順によるという方法をとっている。いま青木和夫の研究に 弐位を授けられ、霊亀元年六月一品 ( 二品か ) にて没 ( 続紀 ) 。万葉六 0 ・六五・ よって、天皇の皇子についてこれを実際の長幼の順序と対照せしめると、 当・八四・一三 0 に作歌がある。 次のよ、つになる。 弓削皇子 ( 四一〇頁注一 (l) 持統七年正月浄広弐位を授けられ、文武三年 七月没 ( 続紀 ) 。万葉一一一・二卆一三・ ・一四六七・一六 0 八に作歌がある。 舎人皇子 ( 四一〇頁注一四 ) のち親王。淳仁天皇 ( 大炊王、母は当麻山 実際 0 誕生順一高市一草壁一大津忍壁一磯城舎人一長穂積一弓削一新田部 背 ) ・三原王・三島王・船王・池田王・守部王・室女王・飛鳥田女王の父。 続紀による序列一 ( 8 ) ( 1 一 ( 2 ) 9 ( 川 ) 3 一 4 一 5 一 6 持統九年正月浄広弐位、養老二年正月一一品から一品に叙せられた。同四年 ( ) は推定部分 八月知太政官事となり、天平七年十一月没、太政大臣を追贈。天平宝字三 草壁皇子尊 ( 四一〇頁注五 ) 尊は皇太子もしくはそれに準じる皇子に対す年六月追尊して崇道尽敬皇帝と称せられた。日本書紀編纂の事業を総裁し、 る尊称。ただし諸皇子に関する書紀の標記は編纂時に統一したもので、当養老四年五月完成奏上 ( 続紀 ) 。万葉二七・一七 0 六・四一一九四に作歌がある。 初から皇位継承者としての地位が定まっていたことを示すものではない。 但馬皇女 ( 四一〇頁注一八 ) のち内親王。和銅元年六月三品にて没 ( 続紀 ) 。 日並知皇子尊 ( こ ひみ ) とも称される。天智元年誕生 ( 持統称制前紀 ) 。室は 万葉一一四・一一五・二六 ・一五一五に作歌があり、高市皇子の宮にいて、穂積皇子 天智天皇の皇女阿陪皇女、すなわちのちの元明天皇 ( 天智七年一一月条 ) 。文と交情があったらしい。 武天皇・元正天皇・吉備内親王の父。壬申の乱では最初から天皇に従った。 新田部皇子 ( 四一〇頁注二〇 ) のち親王。塩焼王・道祖王の父。文武四年 十年二月皇太子となり、十四年正月浄広壱位を授けられ、持統三年四月没。正月浄広弐位、神亀元年二月一品となり、知五衛及授刀舎人事、大惣管等 をかのみやにあめのしたし ろしめししすめらみこと 天平宝字一一年八月、岡宮御宇天皇 ( ) の尊号を奉られた ( 続紀 ) 。 の要職につき、天平七年九月没 ( 続紀 ) 。万葉一一六一・二六一一に皇子に献じた柿本 万葉一一 0 に作歌がある。 人麻呂の歌がある。 穂積皇子 ( 四一〇頁注二三 ) のち親王。持統五年正月に浄広弐とある。慶 大来皇女 ( 四一〇頁注八 ) 大伯皇女とも書く。斉明七年正月、天皇の船が 大伯の海に到ったとき誕生。二年四月斎王となり、三年十月伊勢に向った。 雲二年九月知太政官事、霊亀元年正月一品となり、同年七月没 ( 続紀 ) 。万 朱鳥元年十一月、大津皇子の事件後帰京、大宝元年十二月没 ( 続紀 ) 。万葉葉一一 0 三・一五一三・一五一四・一穴一六に作歌がある。但馬皇女と交情があり、また五六 左注によると、大伴坂上郎女がはじめ皇子に嫁し、すこぶる寵愛を受けた 一 0 五・一 0 六に「大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯 皇女の御作歌二首」、一六三・一六四に「大津皇子薨りましし後、大来皇女伊勢という。
( 十九日 ) おほみため きのとのとりのひ かぎりなきをがみ しはすひのとの ) 由 / 是人多附託」とあり、詩四首を収載。 十二月の丁卯の朔乙酉に、天渟中原瀛眞人天皇の奉爲に、無遮大會を五つの ( 二十六日 ) ニ三ただし懐風藻序に、近江朝にすでに文運の かはらをはりだのとゆらさかたまう みづのえたつのひ だいくわんあすか みやこひとりひととしたかきぬの 興ったことを「雕章麗筆、非ニ唯百篇こと記す。 寺、大官・飛鳥・川原・小墾田豐浦・坂田に設く。壬辰に、京師の孤獨高年に布 一西下文のように処罰された者が少ないので、 おのおのしなあ この謀反を大津皇子を除くために持統女帝が仕きぬたま 帛賜ふこと、各差有り 組んだものとみる説がある。↓四八〇頁注二六。 しらぎ くだら のちのしはす つくしのおほみこともちみ たみをのこめのこあはせほふしあま 註は欺くこと。後漢書、光武帝紀の賢注に「註 閏十二月に、筑紫大宰、三つの國高麗・百濟・新羅の百姓男女、井て僧尼 亦誤也」とある。また漢書、景帝紀にも「詔日、 廼者呉王瀑等為 / 逆、起 / 兵相脅、註一一誤吏民一吏むそあまりふたりたてまっ 民不」得」已。今等已減、吏民当」坐】瀛等一及六十二人を獻れり。 逋逃亡 / 軍者、皆赦之。楚元王子執等与一瀛等一為 / 逆、朕不 / 忍加 / 法」とある。一一五坐は縁坐。 = 六天武二年四月に泊瀬斎宮。三年十月に伊勢 0 朱鳥元年九月戊戌朔内午、天渟中原瀛眞人天皇崩。皇后臨朝稱制。 0 冬十月戊辰 に人侍。同母弟の大津皇子の死によって斎宮を 解かれた。時に二十六歳。万葉一六三・一六四は帰途朔己巳、皇子大津、謀反發覺。逮ニ捕皇子大津「井捕下爲一一皇子大津一所一一誌誤一直廣肆 の歌。大来皇女↓三四八頁注七・補注四ー一。 毛国王が施主となり、僧俗貴賤上下の区別な八ロ朝臣音橿・小山下壹伎連博德、與ニ大舍人中臣朝臣臣廱呂・巨勢朝臣多益須・ く供養布施する法会。この日がいわゆる百か日 にあたる。天「五寺」あるいは次の閏 + 二月条新羅沙門行心「及帳内礪杵道作等、卅餘人〇庚午、賜一一死皇子大津於譯語田舍「時 の「三国」のように数字を上げて、次にその内 訳を書くのは、持統紀の特例。 = 〈↓天武一一年年廿四。妃皇女山邊、被」髪徒跣、奔赴殉焉。見者皆歔欷。皇子大津、天渟中原瀛眞 三一↓補注ー三 十二月条。三 0 ↓補注ー三一。 人天皇第三子也。容止墻岸、音辭俊朗。爲一一天命開別天皇一所レ愛。及」長辨有一一才學「 三ニ↓補注おー三。 ↓一六〇頁注八。 三四養老戸令、鰥寡条に「凡鰥・寡・孤・独・貧・ 尤愛一一文筆「詩賦之興、自一一大津一始也。〇丙申、詔日、皇子大津謀反。誌誤吏民帳内 窮・老・疾、不レ能】一自存一者、令一一近親収養→若 無二近親一付二坊里一安恤」とあり、その義解に 不」得レ已。今皇子大津已減 ) 從者當坐一一皇子大津一者、皆赦之。但礪杵道作流一一伊豆「 孤は十六歳以下で父なきもの、独は六十一歳以 上で子なきものとする。また高年は八十歳以上又詔日、新羅沙門行心、與一一皇子大津謀反「験不忍一一加法「徙一一飛騨國伽藍「 0 十一 を指すが、ここは後漢書、光武帝紀その他に「高 年鰥寡孤独及篤癰無ニ家属一貧不 / 能一一自存一者、 月丁酉朔壬子、奉一一伊勢神祠一皇女大來、還至ニ京師「〇癸丑、地震。 0 十二月丁卯朔 如レ律」とか「賜下 : ・鰥寡孤独篤、貧不 / 能ニ自 存一者、粟人某斛上」とあるによるか。 乙酉、奉二爲天渟中原瀛眞人天皇「設一一無遮大會於五寺、大官・飛鳥・川原・小墾田 = 宝↓補注 ! 二九。 = 宍高句麗は六六八年に減 亡。↓天智七年十月条。百済は六六〇年に減亡。豐浦・坂田一〇壬辰、賜一一京師孤獨高年布帛「各有」差。 0 閏十二月、筑紫大宰、獻ニ ↓斉明六年九月条。これら両国の遺民と新羅か 三國高麗・百濟・新羅百姓男女、井僧尼六十二人「 らの帰化人男女・僧尼。 持統天皇稱制前紀 0 てら 4 0 くにこま 四八七 っ八
日本書紀卷第二十三 一息長は近江の地名三四頁注一六 ) 。天皇の 祖母広姫は息長真手王の女で息長の地に居住し たらしく、延喜諸陵式に「息長墓〈舒明天皇之 祖母名日一一広姫→在ニ近江国坂田郡一〉」云々とあ る。足日は美称。広額は容貌によるか。母糠手 姫皇女の一名田村皇女に因んで、本名を田村皇 子といった。なお、足日 ( ) については、隋書、 倭国伝に「倭王姓阿毎、字多利思比孤、号阿輩 鶏弥」とある。阿毎はアメ ( 天 ) 、多利思比孤は タラシヒコ ( 足彦 ) 、阿輩鶏弥はオホキミ ( 大王 ) 、 おきながたらしびひろぬかのすめらみこと じよめいてんわう 即ち天皇であり、いずれも当時の天皇の称であ 息長足日廣額天皇舒明天皇 ろう。補注跖ー一 ニ敏達天皇。ヌナ↓一〇八頁注五。 ぬなくらのふとたましきのすめらみことみまごひこひとのおほえのみこ 三押坂彦人大兄皇子ともいう。本来天皇にな 息長足日廣額天皇は、渟中倉太珠嗷天皇の孫、彦人大兄皇子の子なり。母な」糠 るべき人であったが、即位前に没した。↓一三 まう とよみけかしきやひめのすめらみこと ひつぎのみことよとみみのみことかむさ 八頁注五。 手姫皇女と日す。豐御食炊屋姫天皇の二十九年に、皇太子豐聰耳奪薨りましぬ。 四イロハ↓補注跖ー三。 いまひつぎのみこ やよひも すめらみことかむあが 五敏達天皇皇女。更名田村皇女。母は伊勢大 而るを未だ皇太子を立てず。三十六年の三月を以て、天皇崩りましぬ。 鹿首小熊の女菟名子夫人。↓一三八頁注一七。 ながづき みはぶりのことをは ひつぎのくらゐいまさたま とぎあた そがのえみしのおみおほおみ 敏達記には異母兄彦人大兄皇子との間に舒明・ 九月に、葬禮畢りぬ。嗣位未だ定らず。是の時に當りて、蘇我蝦夷臣、大臣 中津王・多良王の三子をもうけたとある。 ひとひつぎのくらゐ 六推古天皇。カシクは奈良時代には清音。 かへりまへつきみたちしたが おそ すなはあ 七聖徳太子。↓一五五頁注二〇ー二五。 たり。獨り嗣位を定めむと欲へり。顧みて群臣の從はざらむことを長る。則ち阿 一四 八↓推古二十九年二月五日条。 へのまろのおみはか いへあへ けをは あか 九↓推古三十六年三月七日条。 倍麻呂臣と議りて、群臣を聚へて、大臣の家に饗す。食訖りて散れむとするに、大 一 0 推古三十六年九月条に「戊子三十日 ) 、始 あへのおみのりごと かた すでかむあが みつぎな 起 = 天皇喪礼こ「壬辰三十四日 ) 、葬 = 竹田皇子臣、阿倍臣に令して、群臣に語らしめて日はく、「今、天皇既に崩りまして嗣无し。 之陵ことみえる。 おそ もすみやかはか みだれあ いづれみこ = 馬子の子。↓一九四頁注二九。大臣となっ 若し急に計らずは、長るらくは亂有らむか。今詛の王を以て嗣とすべき。天皇の た年月は不明だが、 馬子が推古三十四年五月に 一九 ひ みやまひ たむらのみこみことのり のたま あめのしたおほきなるよさし たやす 死去して後、間もない頃であろう。 臥病したまひし日に、田村皇子に詔して日ひしく、『天下は大任なり。本より輙 一ニ下文によれば舒明を立てようとした。 あら つつしあきらか おこた 一三推古三十二年十月朔条にみえる。孝徳即位 く言ふものに非ず。爾田村皇子、愼みて察にせよ。緩らむこと不可』とのたまひき。 前紀の左大臣阿倍内麻呂と同一人であろう。推 のたま なとよ かならまへつきみたちことしたが 古紀と併せ考えると、当時、蘇我氏と比較的親のちゃましろのおほえのみこ 密であったらしい。 次に山背大兄王に詔して日ひしく、『故、獨り莫諠讙きそ。必す群の言に從ひて、 0 てひめのみこ 日本書紀卷第一一十三 いまし も ノ もと 四 五 いろよあら
日本書紀卷第二十 いろどうしみことのり 一↓補注ー一。 = ↓補注ー二。 爾が弟牛に詔して、姓を賜ひて津史とす。 三↓二四頁注一六。 しらきっかひまだ みつきたてまっ 四敏達記に比呂比売命とある。此年十一月没。 十一月に、新羅、使を遣して調進る。 四 ( 九日 ) 五敏達記に忍坂日子人太子、亦の名は麻呂古 きさき た おきながのまてのおほきみむすめひろひめ はるむつきひのえたつついたちきのえねのひ 王とあり、用明二年四月条にも太子彦人皇子と 四年の春正月の内辰の朔甲子に、息長眞手王の女廣姫を立てて皇后とす。是 ある。舒明天皇の父で皇極天皇の祖父。没年不 五 またな そひとりおしさかのひこひとのおほえのみこ 明。墓は延喜諸式に「成相墓〈押坂彦人大兄ひとりひこみこふたりひめみこあ 一の男・二の女を生れませり。共の一を押坂彦人大兄皇子と日す。更の名は、麻呂 皇子。在ニ大和国広瀬郡→兆域東西十五町、南 みたりうちのしつかひのひめみこ ふたりさかのぼりのひめみこ 北廿町。守戸五烟〉」とある。大兄↓補注貰ー四。 古皇子。共の二を逆登皇女と日す。共の三を菟道磯津貝皇女と日す。 麻呂子↓一五六頁注四。六敏達記に坂騰王とあ 九 かすがのおみなかっきみむすめおみなごのおほとし つき ひとりみめ る。記伝に逆登は大和国添上郡の地名かという。 七敏達記に宇遅 0 王とあり、七年三月条に菟是の月に、一の夫人を立つ。春日臣仲君の女を老女子夫入と日ふ。更の名は、藥君 道皇女とある。記伝はここの磯津貝の三字を五 ふたりかすがのみこ ひとりなにはのみこ みたりひこみこひとりひめみこう 年三月条の菟道磯津貝皇女の名とまぎれた誤り 。三の男・一の女を生めり。共の一を難波皇子と日す。共の二を春日皇子と日 一四 一五 とする。↓一四〇頁注一。八敏達記に春日中若 せのおほかのおびとを よたりおほまたのみこ つぎうねめ 子とあり、記伝は仲君を仲子の誤りかとする。 す。共の三を桑田皇女と日す。共の四を大派皇子と日す。次に采女、伊勢大鹿首小 一七 春日臣↓補注貰ー六。九敏達記に老女子郎女と あらてひめのみこ たむらの うなこのおほとじ ぐまむすめ ある。一 0 敏達記に難波王とあり、姓氏録によ 熊が女を菟名子夫人と日ふ。太姫皇女更の名は、櫻井皇女。と糠手姫皇女更の名は、田村 れば路真人・守山真人・井南備真人・飛多真 人・英多真人・大宅真人および橘朝臣らの祖と 皇女。とを生めり。 いう。用明二年七月に物部氏討減の軍に加わっ きさらぎみづのえたつついたちのひうまこのすくねのおほおみみやこかへりまう たことが崇峻即位前紀にみえる。 = 敏達記に 二月の壬辰の朔に、馬子宿禰大臣、京師に還く。屯倉の事を復命す。乙丑 春日王とあり、姓氏録によれば香山真入・春日 まさ すめらみこと みつきたてまっ にヘさつねとし 真人・高額真人の祖という。難波皇子とともに に、百濟、使を遣して調進る。多に恆の歳より益れり。天皇、新羅の未だ任那を 物部氏討滅軍に加わっている。一 = 敏達記には 「難波王、次桑田王、次春日王」とある。一三敏 まな のたま 達記に大俣王、姓氏録、未定雑姓の茨田真人の建てざるを以て、皇子と大臣とに詔して日はく、「任那の事に懶懈ること莫」との 条に敏達天皇の孫大俣王とある。↓舒明八年七 月条・皇極元年十二月条。一四↓五三頁注二九。 たまふ。 ( 六日 ) 一五敏達記には伊勢大鹿首之女小熊子郎女とあ きしかねつかは かのえとらのひ なつうづききのとのとり る。大鹿首は姓氏録、未定雑姓に「津速魂命三 夏四月の乙酉の朔庚寅に、吉士金子を遣して、新羅に使せしむ。吉士木蓮子を 世孫天児屋根命之後也」とあり、続紀、天平勝宝 ニ四 きしのをさひこ 元年四月朔条の詔に伊勢大鹿首の名がみえる。 記伝は「神名帳に伊勢国河曲郡大鹿 = 一宅神社あ任那に使せしむ。吉士譯語彦を百濟に使せしむ。 まさ すなら みつきたてまっ みなづき り。此地より出たる姓なり」という。 一六敏達 六月に、新羅、使を遣して調進る。多に常の例に益る。井て多多羅・須奈羅・ 記に布斗比売命とある。一七敏達記に宝王、亦 このみこ ひめみこ に しもっき くだら みたりくはたのひめみこ ニ 0 かばねたま おほおみ ふとひめのみこ つのふびと にヘさつねあと さくらるのひめみこ まう 一九 みやけことかへりことまうきのとのうしのひ ことおこた あはせたたら きしの いまみまな たび くすりこの これ
あるふみ はっせべのみこ 〈敏達天皇の皇后。後の推古天皇。〈先帝の遣りて或本にはく、穴穂部皇子と泊瀬部皇子と、相計りて守屋大連を遣るといふ。日はく、「汝 霊柩を安置する仮宮。ここは大和国広瀬郡に営 ゅ ころ あはせ ふたりこ いくさゐ まれた敏達天皇の殯宮。↓敏達十四年八月条。 往きて、逆君拜て共の二の子を討すべし」といふ。大連、遂に兵を率て去く。蘇我 モガリ↓一三〇頁注九。 うまこのすくねほか こはかりことぎ みもとまう 一 0 先帝敏達の寵臣。↓敏達十四年八月条。逆 馬子宿禰、外にして斯の計を聞きて、皇子の所に詣でしかば、印ち門底に逢ひぬ。 にはサカシの傍訓が宮内庁本以下諸本にあるが、 ところゅ ときあさ まう きみ サカシ ( 逆 ) という形容詞はないので、サカフと ひとつみびと 訓む。 皇子の家の門を謂ふ。大連の所に之かむとす。時に諫めて日さく、「王たる者は刑人を ちか = 敏達十四年八月条に隼人をして殯庭を距が うまこのすくねすなは せたとある。兵衛は令制用語の借用。 近つけず。自ら往すべからず」とまうす。皇子、聽かずして行く。馬子宿禰、印便 一ニ宮門はここでは殯宮の門。重瑰は厳重にと ざす意。瑰は瑣の本字。に同じ。 一三蘇我馬子と物部守屋。 葛城直磐村女廣子、生ニ一男一女「男日二廠呂子皇子「此當廠公 生二田目皇子「浦皇子。 一四大臣と大連と。 一五詛はア = ・ナ = ソ・タレカなどの訓がある。之先也。女日二酢香手姫皇女「歴三二代一以奉ニ日神「 0 夏五月、穴穗部皇子、欲」辭ニ = 〈是非とも斬りたい。 宅用明天皇の皇居の地。↓補注早二。殯宮も炊屋姫皇后「而自強人二於殯宮「寵臣三輪君逆、乃喚二兵衞「重二宮門「拒而勿」人。 ここにあったとする説もあるが、敏達紀には、 「殯宮を広瀬に起っ」とある。 穴穗部皇子問日、何人在此。兵衞答日、三輪君逆在焉。七呼レ開」門。遂不二聽入「 一へ三輪山。三輪君の本拠。 於是、穴穗部皇子、謂三大臣與ニ大連一日、逆頻無レ禮矣。於一一殯庭一誄日、不レ荒二朝 一九敏達の皇后の宮。 ニ 0 別業は別荘。↓一八頁注一三。 = 一桜井市金屋にあ。た宮。海石榴市↓八頁注庭「淨如二鏡面「臣治平奉仕。印是無」禮。方今天皇子弟多在。兩大臣侍。詛得三恣 二八。一三この人のこと、大三輪三社鎮座次第、 」情、専言一一奉仕「又余觀二殯内「拒不二聽入「自呼レ開レ門、七廻不」應。願欲」斬之。 大倭神社註進状に率川神社を創祀したとみえる。 延喜神名式に山辺郡白堤神社がある。その所在兩大臣日、隨」命。於是、穴穗部皇子、陰謀下王 = 天下一之事 ( 而ロ詐在 = 於殺 = 逆君「 地に因む名であろう。 = 三地名による名であろうという。 遂與二物部守屋大連「率」兵圍二繞磐余池邊「逆君知之、隱ニ於三諸之岳「是日夜半、 一西穴穂部皇子の同母弟。後の崇峻天皇。 ニ五殺す。集韻に「討、一日、殺也」とある。 逆之同姓白堤與一一横山「言二逆君在處「穴穗 潛自」山出、隱 = 於後宮「犠齷 実イサメテに同じ。イヤシ↓アヤシ ( 卑 ) の例 がある。 或本云、穴穗部皇子與 = 泊瀬日、汝應三往討二逆君井共二子「大連 部皇子、印遣二守屋大連一部皇子「相計而遣 = 守屋大連「 毛王者は刑罪をうけた人を近づけない。刑人 は三輪君。春秋公羊伝、襄公二十九年条に「君遂卒」兵去。蘇我馬子宿禰、外聞一一斯計「詣二皇子所「印逢一一門底「生也。將」之ニ大連 子不 / 近二刑人→近ニ刑人一則軽 / 死之道也」、礼記、 所「時諫日、王者不」近一一刑人「不」可二自往「皇子不」聽而行。馬子宿禰、印便↓ 曲礼に「刑人不レ在二君側ことある。 用明天皇元年正月ー五月 一五七 いでま あひたばか かどもと 3 そがの
紀皇女 ( 四一〇頁注二四 ) 万葉三九 0 に作歌がある。また二九ー一一三に「弓削 の室であった。また三 0 犬左注に「右の一首は、平群文室朝臣益人の伝へて 皇子、紀皇女を思ふ御歌四首」があり、四一西・四一一五の左注には、「右の二首は、 云はく、昔多紀皇女竊に高安王と嫁ひて嘖められし時に、この歌を作り給 ひきといへり」とある。ただしこの場合は、紀皇女 ( 前掲 ) とする説もある。 或は云はく、紀皇女薨りましし後、山前王の、石田王に代りて作るといへ り」とある。 ニ額田姫王 ( 四一〇頁注二七 ) 万葉には額田王。万葉集の女性の代表的歌人 の一人。はじめ大海人皇子に嫁して十市皇女を生んだのち、天智天皇に召 田形皇女 ( 四一 O} 員注二五 ) のち内親王。慶雲三年八月三品で伊勢斎王と なり、神亀元年二月一一品、同五年三月没 ( 続紀 ) 。万葉一六一一、笠縫女王の歌されたと考えられる。没年は未詳だが作歌は持統天皇代にも及ぶ。作歌は 万葉心・八・九・一六・一七・天・二 0 ・一三 ・一三・一五一・一五五・哭八・一六 0 六の十三首。 の題詞分注に、「六人部王の女なり。母を田形皇女と日ふ」とある。 うち一一 0 は天智天皇の蒲生野遊猟 ( 天智七年五月条 ) のおり、大海人皇子によ 十市皇女 ( 四一〇頁注二八 ) 大友皇子の室、葛野王の母 ( 懐風藻 ) 。扶桑略 記・宇治拾遺物語などには、皇女が壬申の乱勃発に先立って近江朝の動静びかけた「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の歌、 また四一穴・一六 0 六は「額田王の近江天皇 ( 天智天皇 ) を思ひて作る歌一首」で、 をひそかに吉野の大海人皇子 ( 天武天皇 ) に通報していたとの所伝がある。 「君待っとわが恋ひをればわが屋戸の簾動かし秋の風吹く」の歌である。 四年二月阿閉皇女とともに伊勢に参詣、七年四月急死、赤穂に埋葬された。 高市皇子命 ( 四一〇頁注三一 ) 長屋王・鈴鹿王の父。壬申の乱では天皇挙三胸形君徳善 ( 四一〇頁注二九 ) 他に見えず。胸形君は十三年十一月朝臣姓 兵の報をえて近江を脱出、積殖の山口で天皇の軍に合し、のち天皇から全を賜わった。姓氏録、右京神別に宗形朝臣、河内神別に宗形君を載せ、吾田 軍の統帥を委任されて活躍した。十四年正月浄広弐位、持統四年七月太政片隅命の後とする。胸形氏は本来筑紫の宗像三神をまつる氏で、神代記・ 大臣に任じられ、同七年正月浄広壱位、同十年七月没。万葉一五六ー一五八に作神代紀上、瑞珠盟約章にみえ、奈良時代にも筑前国宗像郡の郡司や宗像神 社の神主をつとめていた。しかし畿内にも進出したらしく、延喜神名式、 歌がある。草壁皇子に対して「後皇子尊」 ( こ ) と称せられる。伴信友は、 この記事で「命」と尊称を加えたのは、草壁皇子についで立太子したこと大和国城上郡に宗像神社三座がみえる。類聚三代格所収元慶五年十月十六 日官符によると、この神社は大和国城上郡登美山 ( 奈良県桜井市外山 ) に鎮 の証であるとするが、その確証はない。 座し、天武天皇の時以来、高階氏 ( 高市皇子の末裔 ) の氏人が祭祀に奉仕し 忍壁皇子 ( 四一〇頁注三四 ) のち親王。忍坂部・刑部とも書く。山前王・ ていたという。徳善の女が天武天皇の後宮に入ったことは、胸形氏の中央 小長谷女王の父。壬申の乱では吉野から天皇と行を共にした。十四年正月 浄大参位、大宝三年正月知太政官事となり、慶雲二年五月没 ( 続紀 ) 。天武貴族への進出・成長に大きないみをもつものであったと考えられる。 十年三月には帝紀及び上古諸事の記定事業に参加、のち大宝律令の撰定を四令制課役と租庸調制度 ( 四一一頁注四一 l) 大宝・養老令制において、一般 公民の負担する税目としては、租・庸・調・雑徭などがあったが、そのう 主宰した。 ち、租は段別に二東二把 ( のちに一東五把 ) の率で納入する田租三八二頁 磯城皇子 ( 四一〇頁注三五 ) 朱鳥元年八月封一一百戸を加えられた。天智天 注三 ) 、庸は一年一〇日の歳役として布などを納めるもの、調は絹・絶・ 皇の皇子施基皇子 ( 天智七年二月条 ) とは別人。 泊瀬部皇女 ( 四一一頁注三六 ) 長谷部内親王とも書く。天平十三年三月一一一布あるいは食料品などの地方産物を人別に納めるもの ( 二八二頁注五・一 品にて没 ( 続紀 ) 。万葉一九四・一九五「柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女・忍坂部皇四、三〇〇頁注一一 I) 、また雑徭は年間六〇日ずつ国司を通じて賦課される 子に献る歌一首〈井に短歌〉」の左注に、「右、或る本に日はく、河島皇子徭役労働 ( 五一五頁注三一 ) をいった。そしてこれらを総称する言葉として を越智野に葬る時、泊瀬部皇女に献る歌そといへり」とあることから、天課役の語があった。ただわが国における唐令の継受のしかたと、それぞれ の税目の成立の事情とを反映して、課役の持つ意味は非常に複雑なものと 智天皇の皇子川島皇子 ( 天智七年二月条 ) の室であったとする説がある。 託基皇女 ( 四一一頁注三七 ) のち内親王。多紀・当耆にも作る。朱鳥元年なっている。そのおもな理由は、唐では租が人頭税であり、従って課役の 語も租調 7 課 ) ・歳役雑徭 ( Ⅱ役 ) の全部をさす言葉であったのに、わが国 四月伊勢神宮に派遣、文武二年九月伊勢斎王となり、天平勝宝三年正月一 では租を田積に対する賦課税としながら、課役の語はそのまま継受してし 品にて没 ( 続紀 ) 。万葉尖九、春日王の歌の題詞分注に「志貴皇子の子、母 まったためである。そのため、大宝令においては、原則として調・庸・雑 は多紀皇女といふそ」とあり、天智天皇の皇子施基皇子 ( 天智七年二月条 ) 五九一 補注四ー一ー四