日本書紀 廃したものであり、第三条の班田法は、氏上の公的土地領有の廃止を前提 ことの証拠とすることも危険である。 としてあらたにたてられた土地制度であって、両者ともに、 この樹下の誓 六馬飼造 ( 二七二頁注一〇 ) 馬飼造は朝廷の馬匹を管理する伴造の氏。牟射 いによる氏上の公的領上の廃止の宜言を前提としたものであるという。 志なるもの、よく馬を養う故に、推古朝の馬司に任じられ、のち庚午年籍 石井のこの解釈は、問題提起としてはきわめて重要である。ただ詔を天皇 に誤って馬養造に編せられたという ( 続紀、天平神護元年五月条 ) 。この氏 による土地公有宜言と解するのは、文義上、無理があるし、中国でも土地 との関係は不明。他に同種の伴造として各種の馬飼首 ( たとえば河内馬飼 公有宜言が発せられないままに、均田法が施行されているようである。 首↓二〇頁注一一一 I) がある。 五明神御宇日本天皇詔旨 ( 二七一頁注四一 ) この字句 (< ) は、二七二頁三行 七東国国司への詔三七三頁注一九 ) この詔 ( ) は、 ( ) 二年三月二日の詔 の百済使への詔にもみえ、また二年二月の鐘匱の制をたてる詔には、 (;q) 三八六頁 ) 及び、 ( 0 ) 同十九日の詔三八六頁 ) と一括して、仮に「東国国 「明神御宇日本倭根子天皇」三八三頁二行 ) 、三月二十日の皇太子の名代・ 司への詔」とよぶ。 ( ) は、東国の八道にそれぞれ国司を任命し、その任 子代奉献の奏には、 ( o ) 「現為明神御八島国天皇」 ( 二九一頁三行 ) とある。 務を説き、任地における権限を規定したもの。 ( ) は、その後、半年の後 ( ) は外国使臣に対する詔の冒頭の句であるが、公式令では、大事を蕃国 に任務を果して帰京した国司に対する論功行賞で、八道中、六長官はよく の使に宜する時に、この十字を以てすることになっており、両者全く同任務を遂行したが、他の二人は権限を守らなか。たことを宜したもの。こ じである。従って、 ( <i ) は当時の書き方ではなく、令の知識によって書き れに対し、国司の一行及び、上京した国造らが不服を申したてたが、 (o) あらわされた公算が強い。一方 (4 ) ・ (o ) は国内に対するものである。公 は朝廷がこれをとりあげて、六長官中にも、なお三人は権限に背いたこと 式令では、この場合「明神御大八洲天皇詔旨」としてあるので、それと字を明らかにするとともに、在地人数名を含む行賞を行なったもの。たたし、 句に異同がある。しかし、奈良時代の宜命の実例をみると、原則的には令罪をうけた国司らも、すべて大赦によって許されている。 の規定に従うが、必ずしも全く同じではなくて、往々、天皇の上に「倭根 八道の国司は詔 ( ) によって、長官・次官及び判官 ( 二七四頁注八 ) から 子」の三字をおくことがあり、その点で (); ) がこれに近い。倭根子の根は なり、それぞれ従者をもつ。また、任命された国司の名は詔 (o ) によって くであることがわかる。 美称、子は男女の称。また、文武即位の宜命では「現御神止大八島国所知次の如 表 1 天皇」とあるが、これは (o ) に近い。従って、 (< ) ・ ) ・ (o ) の字句が、 果して、当時のものか、令による表現ではなかったかという疑間が依然と 次官 長官 その他 して濃厚である。また、御宇は宇内を御するの意であるが、それ以前の類 穂積臣咋 富制臣・巨勢臣紫檀 似の表現は「治天下」であった。この種の表現はかなり古くからあり、反 Ⅱ巨勢臣徳禰朴井連・押坂連 臺直須弥 正天皇のころの、熊本県玉名郡江田船山古墳出土の太刀銘の「治天下復ロ Ⅲ紀臣麻利耆柁三輪君大口・河辺臣百依河辺臣磯泊以下八人 ロ齒大王世」は五世紀中葉の例であり、以後、七世紀末まで「治天下」が Ⅳ阿曇連 膳部臣百依 河辺臣磐管同湯麻呂 ふつうである。それなら、金石文の上で、「治天下」が、いつ「御字」と 大市連 中臣徳・涯田臣他四人 書かれるようになったかといえば、「御宇」は大宝令によってはじめて定 Ⅵ羽田臣 まったという市川寛の説がある。事実、御宇は大宝に次ぐ慶雲四年の威奈 Ⅶ田口臣 真人大村墓誌以前にはなく、たた、薬師寺東塔擦銘に「馭宇」があるだけ Ⅷ平群臣 である。従って「御宇」は、やはり、令によって定まり、それ以前は「治 右のうち、までは、「某所 / 犯者 : ・共介・ : 凡以下官人・ : 」という表記 天下」であったと考えるのが自然であるとおもわれる。従ってまた、孝徳よって明らかである。またⅥ以下の記載が他に比べて簡単なのは、この三 紀の (< ) ・ ) ・ (0 ) の表現のうち、少なくとも「御宇」を含む (< ) ・ 人の長官は、次表にみるように、はじめから罪なしとされているからであ ()a ) の二つは、令の知識で書かれたものではなかったかとおもわれる。従 ってまた、これらを根拠として、大化当時、日本・明神などの語があった 詔 ) の論功が、国司・国造の陳状のために変改され、詔 (0 ) となった
にかえてこの十師制を作ったものと考えられる。ただし、唐の崇玄署の制一四大化改新の詔三八〇頁注一二 ) この詔は、大化改新の政治改革の大綱をう たったもので、大化の諸詔中、最も重視され、「大化改新の詔」として知 を学んでいないことと、この詔の末尾によれば、推古朝に定めた法頭制 ( 二一〇頁注九 ) はそのまま踏襲していることが注意せられる。十師は白雉られている。四条からなり、第一条に、私地 ( 屯倉・田荘 ) ・私民 ( 名代・ こまみえない。 子代・部曲 ) を廃すること、第二条に、京師・畿内国・郡司などの地方制 二年三月条にみえるが、その後にはなく、法頭もこの詔以後ーー これに反して、天武二年十二月条以後、僧正・僧都が再びあらわれ、令の度、関塞・斥候・防人などの軍事的制度及び駅制を定めること、第三条に、 戸籍・計帳及び班田法を制し、一定率の租を定めること、第四条に、調・ 僧綱制が形成されていく。 一 = 蘇我田口臣川崛三七七頁注四五 ) 蝙蝠にも作る。推古朝に大和国高市郡官馬・兵器・仕丁・采女などを定めることを記してある。この大化の詔は、 唐の律令法を念頭において、作られたもので、やがて、律令法典が整うに 田口村に居するをもって田口臣と号したという ( 姓氏録、左京皇別 ) 。 物部朴井連椎子三七七頁注四六 ) 斉明四年十一月五日条に物部朴井連鮪及んで、その目標は達せられる。従。てこの詔は、日本律令国家形成の第 一歩を示すものとみなされている。しかしこの詔については古くから、大 0 が見える。朴井連は姓氏録、和泉神別、朴井部の条に饒速日命の後とあ 化当時のもののままであるかどうかについて疑いをいだくものがあり、特 る。朴井は地名。↓二〇〇頁注一一。 に津田左右吉は、この詔文を、凡ではじまる文と、しからざる文章、即ち 吉備笠臣垂三七七頁注四七 ) 垂は分注三七八頁二行 ) に之娜とある。 続紀、天平宝字元年十二月条には大錦下笠臣志太留に作り、吉野大兄の密凡条と地の文とにわけ、凡条は、日本最初の令とみなされている近江令の を告げた功により功田二十町を賜わるという。吉備笠臣は、応神二十二年条文を転載したものであろうとした。その見解の基本に横たわっているの は、書紀全体の成立についての文献批判による見透しであるが、直接に詔 条に、吉備臣鴨別、波区芸県を賜わり、笠臣始祖となるという。 倭漢文直麻呂 ( 二七七頁注四八 ) 白雉五年二月条の書直麻呂と同一入。倭文にかかわるものとしては、凡条の文が、大宝・養老令の文章と全く同じ、 もしくは著しく類似しており、日本令のできていなかった大化当時にふさ 漢文 ( 書 ) 直↓一一三四頁注三。 朴市秦造田来津三七七頁注四九 ) 天智即位前紀八月条に小山下秦造田来わしくないこと、第二条のうちの畿内を規定した凡条は、近江令編纂当時 の都、即ち大和を中心とした四至によること、などである。その後、詔の 津、同元年十二月条に朴市田来津に作り、百済救援に赴く。朴市秦造は秦 成立については、およそ、三種の見解があらわれている。第一は、坂本太 造の、近江朴市にあったもの。延暦の近江国愛知郡売券に依知秦公が多く 郎・関晃などのそれで、詔は旧来考えられてきたように、大化当時の原詔 見える。 によるもので、ただ、若干の字句の修正などが編纂当時に加わったとする。 一三難波宮三七九頁注二六 ) 仁徳天皇の難波高津宮がこの地方に都がおかれ た先例として知られているが、遺跡の上ではまだ実証されていない。先年第二は井上光貞・田中卓などのそれで、大化当時の原詔の存在は認められ 来、山根徳太郎によ「て大阪城南方で発掘調査が続行されている大阪市東るが、文章は大幅に、浄御原令または大宝令によ。て書きかえられていた とする。その実証的根拠としては、次の二つが特に重要である。その一つ 区法円坂町の宮殿遺跡は、主として掘立柱を用いた建築が重複して痕跡を は、井上・田中によれば、第二条のうちの郡司を規定した凡条には、郡は 残したもので、四時期が区別され、第二期の建築のみが火災を受けている 事実から、第一期は白雉三年に完成した難波長柄豊碕宮、第二期は天武天郡といい、長・次官は大領・少領と書くが、そしてまた書紀には大化以前 と以後を問わず、郡・大少領の文字が少なからずみられるが、およそ、金 皇の時に改造され朱鳥元年正月に焼けた難波宮、第三期はその後再興され 石文その他には大宝令制定の時まで、一つとしてそれはなく、郡は必らず た難波宮、第四期は神亀三年から天平六年までに改造され、延暦十二年に 、長・次官は評造、評督・助督と記されているという事実である ( ↓補 廃止された難波宮に相当すると推定されている。主として第二期の内裏の 注ー一五 ) 。第二は、第三条のうちの田積・田租の規定には、いわゆる町 南半と大極殿あたりの一部、第四期の内裏の南半と大極殿を含む朝堂院の 北部などが今までに確かめられた。南北方向の中心線と主要殿舎の位置は段歩制が用いられているが、虎尾俊哉の研究によると、固有法のシロを町 動いていないから、内裏の回廊などの規模は変「ても、大化以来の伝統は段歩にかえたのは、浄御原令の発布 ( 持統三年 ) 以後のことであるという事 実である。以上の二説は、いずれも大化当時の原詔の存在を前提とする点 ながく守られていたことがわかる。 五七一 補注ー一〇ー一四
みことのり 〈加太知波比〉」とあり、一方にのみ幸を与える に詔して日ひしく、諫むる者は名を題せとのたまひき。而るを詔に隨はず。今者、 こと。 = ( 固有思想としての清明 ( キョクアカ みづかくほさもと キ ) 心と通するか。↓一四二頁注一・三三一頁 自ら利を求むるに非ずして、國を助けむとすればか。題すると不るとを言はず、験 注三四。 すたわす うごなはりはべおほみたからうた 宅↓補注ー一九。 が廢れ忘るることを諫めよ」とのたまふ。又詔したまはく、「集在る國民、訴ふ 天「縁 / 奉一一国政この四字は日本語を漢文脈に ところさはあ あきらか うけたまは そうたがひ いままさことわりと したものか。古事記伝に「政は : ・奉仕事なるべ し。 : ・即ち君に服従て共事を承り行ふをいふなる所多に在り。今將に理を解かむとす。諦に、宜たまふ所を聽るべし。共の疑を みやこまゐ まうでぎうごなはものしばらまかあか みかどっどはべ り。故れ古言には政と云をば、君へは係ず、皆 奉仕る人にかけて云り」。政は具体的には国役決めむとして、京に入りて、朝集る者、且く退り散っこと莫くして、朝に聚ひ侍 租税の納人などをさすか。政のかかる用法は大 宝二年戸籍の「政戸」、東大寺奴婢帳の「令 / 為ニ 五十戸政こ、令集解の「非一成 = 中男「及寡妻妾治ニ天下「朝有一一進」善之旌、誹謗之木「所下以通ニ治道「而來中諫者上也。皆所三以廣詢ニ 者、並不 / 合 / 析〈朱云、謂、不 / 堪 / 政故」 ( 戸令、 于下一也。管子日、黄帝立ニ明堂之議一者、上觀一一於賢一也。堯有一一衢室之問一者、下聽ニ 為戸条 ) などに見える。 一九「都を遷す」は、難波遷都をさす ( 元年十二於民一也。舜有一一告」善之旌「而主不」蔽也。禹立一一建鼓於朝「而備二訊望一也。湯有ニ總 月九日条 ) 。宮廷の人々をはじめ、造都中で落 ち着くところがなく、「賓」 ( 旅の客 ) に似ている術之庭「以觀ニ民非一也。武王有ニ靈臺之囿「而賢者進也。此故、聖帝明王、所二以有 こと。 而勿レ失、得而勿亡也。所以、懸」鍾設」匱、拜一一收」表人「使三憂諫人、納ニ表于匱「 ニ 0 詔とは、元年の鍾匱制定の詔をさす。ただ し、そこには「題名」、即ち記名の規定を書き 詔ニ收」表人「毎」旦奏請。朕得ニ奏請「仍示一一群卿「便使一一勘當「庶無一一留滯「如群卿等、 もらしている。 一 = この前後分りにくいが、今は令または云の 或懈怠不」懃、或阿黨比周、朕復不肯」聽」諫、憂訴之人、常可レ撞」鍾。詔已如レ此。 誤りではないか。令ならば「詔令ニ随ハザル ( 」の意。云ならば上から続けて「随 ( ズトイ既而有下民明直心、懷ニ國土一之風ハ切諫陳疏、納ニ於設匱「故今顯ニ示集在黎民「共表 ルハ」と訓む。いずれにせよ、記名していな いのは、詔にはたが「ているが、私利を求める稱、綠レ奉一一國政一到二於京一民、官留使ニ於雜役「云々。験猶以」之傷惻。民豈復思」至 のではなく国を助けようとの気持だからであろ レ此。然遷」都未」久。還似一一于賓「由」是、不レ得」不」使、而強役之。毎」念ニ於斯「 うかの意。 一三必ずしも記名を要しないから、なるたけ上 未一一嘗安寢「験觀二此表「嘉歎難」休。故隨一一所諫之言「罷ニ處々之雜役「昔詔日、諫者 表して、自分の気付かないことを諫めて欲しい の意。 題」名。而不」隨」詔。今者、自非」求」利、而將」助」國。不」言一一題不「諫一廢忘「又 = 三愁訴のため上京したものも、留まって朝廷 に集まれの意。 = 四令では、地方官が、毎年定詔、集在國民、所」訴多在。今將」解」理。諦聽」所」宜。共欲」決」疑、人」京朝集者、 期に国務を報告するため、朝廷に集まることを 且莫ニ退散「聚ニ侍於朝「 いう ( 考課令、大弐以下条 ) 。 孝德天皇大化二年二月 のたま あら しる ひと な くにたす また うはぶみ な せざ ま わ
ことは既述の如くであるが、それは具体的には、 皇室領の多い点など、種々の特異性をもっていた。改新とともに朝廷が、 表 2 この東国及び大和における直轄領日六県 ( 二七四頁注一八 ) に対して、まず、 —ⅡⅢⅣ > ⅥⅦⅧ 新しい地方統治の方針を実行しようとしたことは、改新の意義を考える上 にも重要なこととおもう。 詔〇〇〇 x x 〇〇 0 刀ロ O 八県稲置三七四頁注一二 ) 県には天皇の直領地とする説とÜ国県制とも ( 0 は「奉法」、 x は「違令」 ) いうべき二段階の地方区画における下級のそれであるという説がある。 は、たとえば大和の六県三七四頁注一八 ) が事実、天皇の直領地とみられ とみることができる。詔 ( ) は「六人は法を奉り、二人は令に違へり」三 ることから支持される。またÜは成務記に、「定二賜大国小国之国造「亦 八六頁八行 ) と述べているのは表 2 の右側の状態を示したものである。ま た詔 ( 0 ) は、国司・国造の陳状について「此を以て観れば、紀摩利耆柁臣・ 定二賜国国之堺及大県小県之県主一也」 ( ) 、成務五年九月条に「令ニ諸国「 以国郡立二造長一県邑置二稲置こ ( ) といっていることと、隋書、倭国伝に 巨勢徳禰臣・穂積咋臣、汝等三人が怠り拙き所なり」三八九頁五行以下 ) と評しているが、この三人が—・Ⅱ・Ⅲの長官であることは表 1 で明らか 「有二軍尼 ( クニ、国造か ) 一百二十人「猶一中国牧宰一八十戸置ニ伊尼翼一 ( 翼 であるから、それは表 2 において、 ・Ⅱ・Ⅲについてだけ左列と右列が は冀の誤りで、イナキか ) 如ニ今里長一也、十伊尼翼属ニ一軍尼こ ( ) とある ことから推測される。勿論記紀の成立からみて、成務朝の記事は事実であ 異なっている状態と全く符合する。こう考えるとまた、詔 ( ) の「六人は るまいが、隋書に記録された七世紀前半には、全国的にでなくとも国県制 法を奉り」の六人は表 1 の—・Ⅱ・Ⅲ及びⅥ・Ⅶ・Ⅷの六長官であって、 が成立していたとみるのである。但し隋書の記載は誇張で事実を伝えたも 従来いわれてきたように詔 (0 ) の、塩屋魚以下六人につき、「此の六人 は、天皇に順ひ奉れり」云々といっている六人ではなかったことは明らか のではないとみる人も多い。次に県の長官を何とよんだかにも二つの場合 である。 がある。一つは、県主である。県主はじっさいには氏の名になっているも のが多く、しかも、 C の直領地の六県の名と対応する県主の氏はかなり多 八道のうちⅢの一行についての詔 (o ) の記載には、後の上野方面のこと い。これに対してここにみえる県稲置は難解である。これについて通釈は、 が述べられている三八八頁注八・九 ) 。従ってかれらは当時の毛野方面に おそらく県の長はすべて県主であるという考え方から、県の次に主の一字 遣わされた国司であろう。次に > の一行においては駿河が含まれるので ( 二八九頁注三五 ) 、これは東海方面への国司であろう。従って、この八道を補って、県主、稲置とよんでいる。しかし、主の字のある古写本は存し これに対して中田薫は、県にはもともと C 天皇の直領地と、Ü下級 からなる東国とは、尾張・美濃、もしくは遠江・信濃以東の、東海道・東ない。 地方区画としての県と二通りあり、前者の長は県主であり、後者の長は稲 山道一帯であったとみられる。詔 (0 ) のⅧの一行についての記載に三国の 又は 名があり、これを越前三国に擬する説は古くからあって、とすると、北陸置であるとした。なぜなら右掲の⑩では「県邑置一一稲置こという。 国 ( クニ、国造か ) ー稲置の二段階の組織を示すが下級組織の長は稲置にな 道もまた、東国に入っていたとみる人もある。しかし、越と東国は区別し っているからである。この中田説は今日のところもっとも安定した見方で た方がよく、三国Ⅱ越前三国説は、にわかには賛同しがたい。 ある。なおここの県稲置の県に古訓ではアガタではなくて、コホリとなっ 東国に派遣されたこれらの地方官は、書紀に国司と書いてあるので、こ ている、そこで中田は同じ県もの場合はアガタ、Üの場合はコホリと訓 れを、令制の国司と同じものとみる人も少なくない。しかし、この東国国 むべしとした。ただし、書紀の古訓によって論することは危険である。 司は半年で任務を果して帰京しており、各道の範囲も後の国司の場合に比 この制の内容は、大化元年八月五日の詔と、 べて非常に広く、かっ、かれらは在地の国造らとともに、地方政治の改革九鐘匱の制三七四頁注一三 ) 二年二月十五日の詔三八三頁以下 ) とをあわせ読むことによって、概略を に当っている。その上、令の国司制が大化当時より後になってあらわれて くることを考えあわせると、この国司はむしろ、大化前代に、一定地域の知ることができる。前者は、この制の設置に関するもの、後者は、国役の ため上京し、この機関を通じて訴えをなしたものに対して、朝廷がこれを 諸国造の上に臨時に派遣されたミコトモチに類するものととるのが自然で とりあげ、処々の雑役をとどめることを宜したものである。この二つの詔 あろう。大化前代の東国は、西日本とは異なる新開地で、名代・子代など 五六九 補注ー五ー九 二 11 い
( 十日 ) ( 五日 ) いでまみづのとのうしのひ ものならふほふし ふゆかむなづきぎのえたっ っちのえさるのひ ・一三↓四一八頁注一二。 冬十月の甲辰の朔戊申に、天皇、吉野宮に幸す。癸丑に、大唐の學問僧 ニ九 ( 十五日 ) 一四↓四九四頁注一一三。 つかひっかは つくしのおほみこともちかふちのおほきみら らみやこまういたっちのえうまのひ 一五二月条の詮吉らか否か未詳。 智宗等、京師に至る。戊午に、使者を遣して、筑紫大宰河内王等に詔して日 一六庚寅年籍。↓補注ー五。 あへ ものならひひとはじのすくねをひらおくりたてまっ おくるつかひ 一七浄御原令の篇目の一。民政に関する法規を はく、「新羅の送使大奈末金高訓等に饗たまふこと、學生土師宿禰甥等を上送 集めたもの。養老令では四十五条ある。ここに もはらみことのりのふみまま そねぎらものたま おくるつかひあと 関係する造戸籍条には「凡戸籍六年一造。起ニ に詔書の依に」とのたまふ。 りし送使の例に准へよ。共の慰勞へ物賜ふこと、一 十一月上旬一依い式勘造。里別為 / 巻。惣写ニ三 ( 二十二日 ) あめとよたから きのとのうしのひいくさよほろっくしのみちのしりのくにかみつやめのこほりひとおほともべのはかま 通→其縫皆注ニ共国共郡共里共年籍→五月卅日 内訖」云々とある。 乙丑に、軍丁筑後國の上陽咩郡の入大伴部博麻に詔して日はく、「天豊財 天↓大化二年正月条三八二頁一行以下 ) 。 一九賦は、大化改新の詔では戸調・田調の両者 であ「たが、令制では人頭税とな。た。大化一一令下公卿百寮、几有」位者、自」今以後、於ニ家内一着一一朝服「而參中上未」開」門以前蓋 年八月の男身調 ( 三〇〇頁七行 ) で人頭税に変っ たとする旧説と、ここにロ賦とあるので、三年昔者到一一宮門一而着ニ朝服一乎。〇甲申、詔日、几朝堂座上、見ニ親王一者如」常。大臣 六月班賜の浄御原令で人頭税に変ったとみる新 説とがある。 與」王、起立ニ堂前「二王以上、下」座而跪。〇己丑、詔日、朝堂座上、見一一大臣「動 = 0 万葉三四の川島皇子の歌、同 = 一五の阿閉皇女の 歌は、この時の作という。 坐而跪。是日、以一絲綿布「奉二施七寺安居沙門、三千三百六十三「別爲一一皇太子「 一 = 白雉五年二月の遣唐使に従って入唐。 奉一一施於三寺安居沙門、三百廿九「〇癸巳、遣一一使者「祭三廣瀨大忌神與一一龍田風神「 一三白雉四年五月の遣唐使に従って入唐。 ニ三他に見えず。 0 八月乙巳朔戊申、天皇幸一一吉野宮「〇乙卯、以一一歸化新羅人等「居ニ于下毛野國「 = 四ー実↓下文十月一一十一一日条。 毛新羅の官位十七階の第十。↓表二。 0 九月乙亥朔、詔ニ諸國司等一日、几造ニ戸籍一者、依一一戸令一也。〇乙酉、詔日、朕將 天十二月に帰国。 = 九↓補注ー二九。 」巡一一行紀伊一之。故勿」收ニ今年京師田租ロ賦「〇丁亥、天皇幸一一紀伊「〇丁酉、大唐 三 0 ↓四七五頁注二九。 ・三ニ↓天武十三年十二月六日条。 學問僧智宗・義德・淨願、軍丁筑紫國上陽咩郡大伴部博麻、從二新羅送使大奈末金 三三丁は徴用すべき青壮年。仕丁・役丁などは 労働者、軍丁は兵士。 高訓等「還一室筑紫「〇戊戌、天皇至」自一一紀伊「 0 冬十月甲辰朔戊申、天皇幸一一吉野 三四和名抄に筑後国上妻郡。今、福岡県八女郡 の東部。 宮「〇癸丑、大唐學問僧智宗等、至二于京師「〇戊午、遣ニ使者「詔ニ筑紫大宰河内王 三五大伴部はもと大伴氏の部曲。全国的に分布。 ↓田雄略二十三年八月条。 等一日、饗一一新羅送使大奈末金高訓等「准下上一一送學生土師宿禰甥等一送使之例共慰勞 昊斉明天皇。 賜」物、一依ニ詔書「〇乙丑、詔一一軍丁筑後國上陽咩郡人大伴部博廱一日、於天豊財↓ 五〇五 持統天皇四年七月ー十月 なそら のたま のたま
功封については「凡五位以上、以 / 功食 / 封者、共身亡者、大功減 / 半伝ニ には「常守及墓守井八十四戸、倭国卅七戸・川内国卅七戸・津国五戸 三世一上功減一一三分之二一伝ニ二世一中功減二四分之三一伝 / 子、下功不 / 伝」、 ( 継体か ) ・山代国五戸 ( 天智か ) 、免 = 調徭一也、公計帳文莫」納、別為一一計帳一 寺封については「凡寺不 / 在一一食封之例一若以二別勅一権封者、不 / 拘二此令一 也、借陵守及墓守井百五十戸、京二十五戸・倭国五十八戸・川内国五十七 〈権謂一一五年以下一〉」、別勅封については「凡令条之外、若有ニ特封及増一並 戸・山代国三戸 ( 菟道稚郎子か ) ・伊勢国三戸 ( 日本武尊か ) ・紀伊国三戸 依ニ別勅ことあるのみで、戸数についての規定はない。 ( 五瀬命か ) 、右件戸納 = 公計帳文一而記 = 借陵守一也」と陵戸・墓戸でなく陵 三詔日、若有一一百姓弟為レ兄見レ売者、従レ良・ : ( 五〇八頁注一三 ) この文は、 守・墓守とよぶ。また延喜諸陵式には「凡山陵者、置 = 陵戸五烟一令 / 守 / 之。 説明の便宜上、 @ 「若し」以下「良に従けよ」まで、⑧次の「若し」以下有功臣墓者、置 = 墓戸三烟一共非 = 陵墓戸一差点令」守者、先取下近一一陵墓一戸上 「賤に従けよ」まで、 0 第三の「若し」以下「良に従けよ」まで、及び⑩充 / 之」とある。 「其の子以下」までにわけることができる。は兄が弟を売ること、⑧は一四踏歌 ( 五一九頁注三八 ) 隋・唐の民間行事で、正月上元の夜の観燈会に行 父母が子を売ること、 0 は借財のために賤となることで、詔は、⑧だけ なう。日本化してからは、正月十五日の男踏歌、十六日の女踏歌として宮 を有効とし、 @、 0 は禁じている。 廷の年中行事となり、アラレハシリとよばれた。釈紀に「私記日、今俗日ニ この詔が、持統三年に発布された浄御原令にもとづいた同四年の庚寅年阿良礼走→師説、此歌曲之終、必重称 = 万年阿良礼→今改日 = 万歳楽→是古 籍の造籍中に出されている点が重要である。なぜなら造籍は、大宝・養老語之遺也」とあるが、実例は日本紀略、延暦十四年 (? 九五 ) 正月十六日条に見 令制下では、十一月にはじまって、翌年五月に終るべく規定されており、 える。万年阿良礼は、万年に生命あられよの意か。ノ、 、ンリは踊躍の意。聖 浄御原令と大同少異であったと考えられるからである。またこの詔は、そ 寿万歳を寿ぐ意。 の点からみても「良に従けよ」、「賤に従けよ」の語からみても、造籍にあ たって、良・賤を区別記載するための基準を与えたものとみるのが妥当で あろう。造籍の当事者は、この基準に従って、良賤を定め、既に賤とされ ているものも、その由来を確かめる必要があった。 なおこの詔については刑部式の「 3 凡父母縁ニ貧窮一売 / 児為 / 賤、共事在ニ 己丑年 ( 持統三年 ) 以前「任依ニ元契一 2 若売在一一庚寅年 ( 持統四年 ) 以後「及 ④因ニ負債一被二強充レ賤、井④余親相売者、皆改為 / 良、◎不 / 須 / 論 / 罪、① 共大宝二年制 / 律以後、依 / 法科断」も参照される。式文の 3 は、詔の⑧に 当るものであるが、 2 ではひとしく父母が子を売る場合も、庚寅年籍制定 後の売買は認めないとしている。次に式文の@及び④は、それぞれ詔文の 0 及びに対応する。また式文には詔の 0 はないが、 0 は、大化の「男女 の法」 ( ↓補注ー一〇 ) と同系統のもので、直接、人身売買にかかわりはな い。なお、人身売買の事実があった時、これが法に反すれば、その売買は 無効とされ、同時に当事者に刑が科せられるのであり、それは賊盗律によ って知られる。しかし式文の◎・①によると、浄御原令制下では日本律が できていなかったためか、大宝律施行以前における人身売買には刑が科せ られていない。 一三凡先皇陵戸者・ : ( 五一一頁注三三 ) 以下は喪葬令に「凡先皇陵置一一陵戸一令 / 守。非ニ陵戸一令 / 守者、十年一替」と改め、職員令集解の古記の引く別言 補注ー七ー一四 六〇三
かみたてまつまひなひおは 伴造の氏。天武九年に連、十三年に宿禰となり、 に遣して、訷に供る幣を課す。 一八 ( 五日 ) 一九 のち斎部宿禰と称した。神代紀上の瑞珠盟約 はっきひのえさるついたちかのえねのひあづまのくにぐにくにのみこともちめ 章・神代紀下天孫降臨章などに忌部首及び忌部 八月の丙申の朔庚子に、東國等の國司を拜す。仍りて國司等に詔して日は は太玉命の子孫といい、姓氏録、右京神別、斎部 おほよあめのした くにぐにをさ よさ あまっかみう 宿禰条に「天太玉命之後」という。氏族伝承を く、「天訷の奉け寄せたまひし隨に、方に今始めて萬國を修めむとす。几そ國家の 記したものに斎部広成の撰、古語拾遺がある。 みなへのふみたっく いましたちまけどころまか ひとども あづか いささけ たもておほみたからおほ 宅大嘗祭の神幣か。美濃・尾張は東国との境 なので、次の東国国司発遣に先立 0 道饗 ( の所有る公民、大きに小きに領れる人衆を、汝等任に之りて、皆戸籍を作り、及田 くにのみこともちたちくにあ そのいけみづくぬがくほさおほみたからとも はたけかむが 祭ともとれる。 一〈以下一一七四頁一五行まで、東国国司発遣の畝を校 ~ よ。共れ薗池水陸の利は、百姓と倶にせよ。又、國司等、國に在りて罪 記事。その帰任以後の事情は、大化二年三月一一 日・十九日条三八六頁三行以下 ) に詳しい。 於高麗使一日、明神御宇日本天皇詔旨、」天皇所遣之使、與ニ高麗神子奉遣之使「既往 一九・一一 0 ↓補注ー七。 ニ一この書き出しは宜命体風。続紀、文武天皇元 短而將來長。是故、可下以一薀和之心「相繼往來上而已。又詔ニ於百濟使一日、明訷御宇 年八月条の宜命に「天坐神之依之奉之随」。 一三日本国内のすべての国々の意味。類例は 日本天皇詔旨、始我遠皇祖之世、以ニ百濟國「爲一一内官家「譬如ニ三絞之綱「中間以ニ 「朝一一万国於前殿こ ( 持統三年正月朔条 ) 。 = = 書紀にはこの箇所に似た雄略八年二月条の任那國「屬ニ賜百濟「後遣ニ三輪栗隈君東人「觀ニ察任那國堺「是故、百濟王隨」勅、 「国内所 / 有」の如き用例と、大化一一年改新詔の 「臣連伴造国造所有部曲之民」 ( 一一八〇頁四行 ) の悉示 = 共堺「而調有」闕。由」是、却 = 還其調「任那所出物者、天皇之所 = 明覽「夫自」 如き用例があり、前者はアリトアル、後者はタ 今以後、可四具題三國與一一所」出調「汝佐平等、不易面來。早須明報。今重遣一一三輪君東 モテルと訓む。ニ四↓二〇三頁注二四。オホミ タカラ↓補注ー七。 。又勅、可」送一一遣鬼部達率意斯妻子等「〇戊寅、天皇詔一一阿倍倉梯萬 人・馬飼造一」名 ニ五大小の豪族の支配する人々。 実↓欽明元年八月条・二八一頁注三七・三八。 侶大臣・蘇我石川萬侶大臣一日、當下遵一一上古聖王之跡「而治中天下復當」有」信、可 毛校田畝は、田地の調査、後に校田という。 令制下では、まず校田・造籍を行い、つぎに班」治一一天下「〇己卯、天皇詔一一阿倍倉梯廠呂大臣・蘇我石川萬侶大臣一日、可下歴問中大 田をした。東国の詔では、二年三月二日条及び 夫與一一百伴造等「以」悅使」民之路〇庚辰、蘇我石川麻呂大臣奏日、先以祭一一鎭神祇「 十九日条でも班田には言及していない。 天令の「山川藪沢之利、公私共之」 ( 雑令、国内 然後應」議一一政事「是日、遣一一倭漢直比羅夫於尾張國、忌部首子廱呂於美濃國「課 = 供 条 ) と同じ思想。 = 〈これの違反者に対する処置は二年三月十九之幤「 0 八月内申朔庚子、拜 = 東國等國司「仍詔一一國司等一日、隨 = 天紳之所奉寄「 日条三八八頁一六行以下 ) に見える。国司が裁 判権を与えられていない点に注意。令では、笞方今始將」修一一萬國「几國家所有公民、大小所領人衆、汝等之」任、皆作一一戸籍「及校ニ 罪は郡が断罪・処刑できたが、杖罪以上は郡が 田畝「其薗池水陸之利、與一一百姓一倶。又國司等、在」國不」得」罪 罪をきめて国司の判決をまっ ( 獄令、郡決条 ) 。 孝德天皇大化元年七月ー八月 つかは まさ よ たち のたま ニ七 つみ
すなは 通釈もいうように「大凡に宮門を云」「たものとまうす。印ち天皇起臨きたまひて詔して日ひしく、「験寡薄を以て、久しく大業 と解しておく。 やまひい ゅゑ 一七栗隈は山城国久世郡の地名。↓補注ー七。 に勞れり。今暦運將に終きなむとす。以て病諱むべからず。故に、汝本より験が そこの豪族 ( 栗隈首か ) から貢上された采女。黒 めぐあが こころたぐひ そみかどおほきなること 女はその名。 心腹たり。愛み寵むる情、比をすべからず。共れ國家の大基は、是験が世のみに 天他に見えず。系統不詳。栗下は近江国の郡 きもわか そのとき 名栗太に同じ。 非ず。本より務めよ。汝肝稚しと雖も、愼みて言へ』とのたまひき。乃ち當時に侍 一九下文 ( 一三二頁五行 ) に八ロ采女鮪女あり。 同一人と思われる。通釈は鮪女は采女の誤りで、 ちかくつかへまつひとどもふつく おのれ おそ おほきなるめぐみかうぶ もとは女孺采女等八人となっていたのではない りて近習れる者、悉に知れり。故に、我是の大恩を蒙りて、一たびは以て懼り、 かという。女孺・采女↓補注おー一一。 ニ 0 病気が重くて。沈は甚の意。広雅、釈詁に 「沈、大也」とある。 啓中於山背大兄時大兄王、使」傳一一問群大夫等一日、天皇遺詔奈之何。對日、臣等不 一 = 御覧になる。見ルの敬語。 知二共深「唯得二大臣語从一稱、天皇臥病之日、詔二田村皇子一日、非三輕輙言二來之國 一三骨を折り、つとめた。大業は天子として国レ を治める大業をいう。 政「是以、爾田村皇子、愼以言之。不二可緩「次詔二大兄王一日、汝肝稚。而勿二諠言「 ニ三病で死ぬ。「不 / 可 / 諱」は、忌み避けること ができないの意。すなわち死をいう。 必宜」從一一群臣言「是乃近侍諸女王及采女等悉知之。且大王所」察。於是、大兄王、且 品皇位を山背大兄王に授けるという遺詔を指 すか。 令」問之日、是遺詔也、專誰人聆焉。答日、臣等不」知二共密「既而更亦、令」告二群 大夫等一日、愛之叔父勞思、ド ョ二一介之使「遣二重臣等一而敎覺。是大恩也。然今群卿 所レ導天皇遺命者、少々違二我之所一」聆。吾聞二天皇臥病「而馳上之侍二于門下「時中 臣連彌氣、自二禁省一出之日、天皇命以喚之。則參進向二于閤門「亦栗隈采女黒女、 迎二於庭中「引二人大殿「於是、近習者栗下女王爲」首、女孺鮪女等八人、井數十人、 侍二於天皇之側「且田村皇子在焉。時天皇沈病、不」能レ覩」我。乃栗下女王奏日、所 喚山背大兄王參赴。即天皇起臨之詔日、験以二寡薄「久勞一一大業「今唇運將」終。以 病不」可レ諱。故、汝本爲二験之心腹「愛寵之情、不」可」爲」比。共國家大基、是非二験 世「自」本務之。汝雖一一肝稚「愼以言。乃常時侍之近習者、悉知焉。故、我蒙二是大 恩「而一則以懼、↓ 舒明天皇印位前紀 こころ っと よまさ っ みことのり いへど のたま - われいやしきみ ひと いましもと ひさ
一七 さきおほみことまま ちからあは ともきたのあたせ 前の勅の依に、力を戮せて倶に北敵を防きて、各封さす所を守れ。験當に若干の ひとおくりつかは むな ところみ = 一私は深く心にかけて心配しているの意。 一三罪科を取調べること。 人を遣送して、安羅の逃げ亡びたる空しき地に充實てむ」とのたまふ。 三日 ) みなづきかのとのとり みづのえいぬのひ つかは のたま 一四日本の救兵が日本府と任那の反百済派に利 用されることを警戒したのであろう。 六月の辛酉の朔壬戌に、使を遣して百濟に詔して日はく、「德卒宜文、取歸り 一五静かにやすらぐさま。 はた あるかたち いましくにこまあた 一六正月三日条の詔をさすか。 て以後、當復何如に。消息何如に。朕聞く、汝の國、狛の賊の爲に害らると。任那 宅高句麗をさす。 はげ はかりことおな さきごと 一〈所領。百済王や任那諸国の王は天皇が封じと共に、策り勵みて謀を同じくして、前の如くに防距け」とのたまふ。 たものという観念による。 一九通釈は加羅の誤りかというが、いずれにし ても逃亡の事情は不明。 ニ 0 正月帰国。 仍貢ニ下部東城子言「代ニ德率汝休麻那「 一 = 当復で、仮設の意。 一三馬津城の役以後の戦況は不明。 九年春正月癸巳朔乙未、百濟使人前部德率眞慕宜文等請」罷。因詔日、所」乞救軍、 必當」遣救。宜速報」王。 0 夏四月壬戌朔甲子、百濟遣一一中部杆率掠葉禮等一奏日、德 率宜文等、奉」勅至 = 臣蕃一日、所」乞救兵、應」時遣送。祗承 = 恩詔「嘉慶無」限。然 馬津城之役、正朝辛丑、高灑虜謂之日、由、安羅國與 = 日本府「招來勸罰以」事准況、 寔當相似。然三廻欲」審 = 共言「遣」召而並不」來。故深勞念。伏願、可長天皇、蕃皆 可長天 = 先爲勘當。暫停 = 所乞救兵「待 = 臣遣 , 報。詔日、式聞 = 呈奏「爰覿」所」憂、 日本府與 = 安羅「不」救 = 隣難「亦朕所疾也。又復密 = 使于高麗一者、不」可」信也。朕 命印自遣之。不命何容可得。願王、開」襟緩」帶、恬然自安、勿 = 深疑懼「宜共 = 任那「 依 = 前勅「戮」カ供防 = 北敵「各守」所」封。験當遣 = 送若干人「充 = 實安羅逃亡室地「 0 六月辛酉朔壬戌、遣」使詔 = 于百濟一日、德卒宜文、取歸以後、當復何如。清息何 如。朕聞、汝國爲 = 狛賊一所」害。宜共 = 任那「策勵同」謀、如」前防距。 九七 きであるが、ここは実際に三たび召したわけで 欽明天皇八年四月ー九年六月 ほろ われ おのおのよ 一八
日本書紀卷第二十五 あめのしたをさ みかどほまれすす はたそしり 一舜の時、旌を五達の道に設け、善言を進め天下を治めたまひしこと、朝に善を進むる旌、誹謗の木有り。治道を通して、諫 四 る人には旌下にたってこれを説かせたという故 ひときたゆゑ みなひろしもとふらゆゑ くわんし くわうていめいだう 事。↓補注ー一八。 むる者を來す所以なり。皆廣く下に詢ふ所以なり。管子に日へらく、黄帝明堂の議 ニ堯の時、木を橋梁の上に建て、民に政の過 五 かみけんみ げうくしっとひ しもたみぎ しゅんせん 失を書かせて反省の資としたという故事。芸文 を立てしかば、上賢に觀たり。堯衢室の問有りしかば、下民に聽けり。舜善を告ぐ 類聚、納諫に同句がある。↓補注ー一八。 はた ぬしかく うこんこ そな とふらのそ たうそうすゐには 三「黄帝」より「所以なり」 ( 第六行 ) まで、管 子、桓公間篇と同文であるが、これは管子を直る旌有りて、主蔽れず。禹建鼓を朝に立てて、訊ひ望むに備ふ。湯總術の庭有りて、 み ぶわうれいだい けんじゃ せいていめいわう 接引いたのではなく、魏志、文帝紀の裴松之注 や芸文類聚の引用から記したもの。黄帝・堯・民の非を觀る。武王靈臺の囿有りて、賢者進む。此の故に、聖帝明王の、有ちて失 舜・禹・湯はいずれも聖王。 えばう このゆゑ かね ひつまう 四魏志の斐松之注に明台とあり、天子の政をすること勿く、得て亡ずること勿き所以なりといへり。所以に、鍾を懸け匱を設け 行なう台。 め 五衢室の衢は奥の意で政を聴く室。上は賢人て、表收る人を拜す。憂へ諫むる人をして、表を匱に納れしむ。表收る人に詔して、 のなす所をよく観た、下は民衆の声をよく聴い あしたごと われまうし またまへつきみたちみ すなはかむが こひねが たの意。六↓注一。 旦毎に奏請さしむ。験奏請を得て、仍群卿に示せて、便ち勘當へしめむ。庶はく 七芸文類聚に練鼓 ( 朝廷の内外において練者に 一四 一五 も とどこは おこた まへつきみたちある 打たせる鼓 ) 。 は留滯ること無けむことを。如し群卿等、或いは懈怠りて懃ならず、或いは阿黨け 八裴松之注・芸文類聚に総街 ( 四方から集まる ぎ まさ カ 道路の旁の庭 ) 。 比周せば、朕も復諫むることを聽き肯へずは、憂へ訴へむ入、當に鍾を描くべしと 九周文王が陰陽天文の変を察するために作っ かくごと こころ おほみたからをさをさ くにおものり た台で、芸文類聚に囿を復に作る。 のたまひき。詔已に此の如し。既にして民の明直しき、いに、國土懷ふ風を有 一 0 「所以に」以下第一一行の「撞くべしとのた まひき」まで、鍾匱制定の詔 ( 元年八月五日条、 まうしぶみ たしか まうけひっ いまうごなはりはべおほみたからみ 二七四頁一五行以下 ) と同内容。比較対照せよ。ちて、切に諫むる陳疏を、設の匱に納れたり。故、今集在る黎民に顯示す。共 = 同詔では「牒」。一ニ同詔では「訴」。 くにまつりごとっかへまっ みやこいた おほみたから つかさとど 一 = 一同詔では「味日一執 / 牒。奏二於内裏こ。 の表に稱へらく、國の政に奉るに縁りて京に到れる民をば、官に留めて雜 一四同詔では「或懈怠不 / 理」。 しかしかいへり なほこれも あにまたここ えだち おも 一五同詔では「阿党有 / 曲」。阿党は、おもねっ 役に使ふと、云云。朕も猶之を以て傷惻む。民も豈復此に至ると思ひけむや。然 て ( 阿 ) 、仲間 ( 党 ) になること。比周は論語、為 一九 たびびとに これよ え みやこうつ 政篇に「子日、君子周而不 / 比、小人比而不 / 周」 るに都を遷して未だ久しからず。還りて賓に似たり。是に由りて、使はざること得 とある。周は、古注に忠信 ( 忠実 ) と解し、新注 ここおもごと ふみみ やす に普侃と解する。忠実に交ること、交情に富む こし J 。ヒは、私の心で片よ「て親しむこと、仲ずして、強ひて役ひつ。斯を念ふ毎に、未だ嘗より安く寢ねられず。験此の表を觀 さき ことしたが よみ かれいさ ところどころくさぐさのえたちゃ 間ばめをすること。カタチハヒは霊異記上第五 話訓釈に「償 ( 狩谷掖斎は攷証に儻の譌という ) て、嘉し歎むること休み難し。故、諫むる言に隨ひて、處處の雜役を罷めむ。昔 かたちはひ ふみ ふみと ひ し な ひと のたまふことで いまひさ や てう すで ふみひっ むかし かれ こゅゑ ねむごろ まつりごとのみちいた と われこ っ みことのり かたぶ くさぐさの しつ