日本書紀卷第二十五 みだりひとひととこ , っ ところしたが かみみなきみみなもおのこころよ 一前々は人々。分注参照。人を前というのは 造、彼の姓となれる神の名・王の名を以て自が心の歸る所に逐ひて、妄に前前處 天子を御前、神祠を幾前という類いか。処々は まひなひ なはひとひと ところっ 大化二年八月十四日の詔の「以 = 王名一軽掛 = 川處に付けたり。前前とは、猶入人を謂ふぞ。爰に神の名・王の名を、人の賂物とするを 野こ ( 二九九頁三行 ) に同じ。 つひおほみたからこころととのほ きよな びとをのこやっこめのこやっこ = 神名・王名を付した部民が、たまたま、売以ての故に、他の奴婢に人れて、淸き名を穢汚す。遂に民の心整らずし 買・譲渡されて奴婢とされると、清き名がけが よあた む くにまつりごとをさがた れるの意。 て、國の政治め難し。是の故に、今は、天に在す神の隨に、治め平くべき運に屬 三高天原の神の心のままにの意。 四 さき これ さと おほみたから 四これを先にしようか、あれを先にしよ、つか。 りて、斯等を悟らしめて、國を治めむこと民を治めむこと、是をや先にす是をや 二つのことを重ねて言う場合、今日では : ・ヲ先 もとのしわざ すめらみことみおもふけたの のち けふあすつい : ヲ先ニシと連用形で重ねるが、古くは 終止形で重ねる。従。て : ・ヲ先 = ス : ・ヲ先ニス後にす、今日明日、次でて績ぎて詔らむ。然も、素より天皇の聖化に賴みて、舊俗 という訓になる。これは一種の插入句と見ると ま かれみこたちまへつきみたち あひた かならまさ おほみたからいまみことの に習へる民、未だ詔らざる間に、必ず當に待ち難かるべし。故、皇子・群臣より 五 五庸調を禄として賜わるの意。 まさちからっきたま もろもろおほみたからいた 六・七難波小郡。↓一四六頁注一〇。 始めて、諸の百姓に及るまでに、將に庸調賜はむ」とのたまふ。 へ舒明八年七月条に「卯始朝之」とある。令 そのり ゐやののりさだ をごほりのみやおは みやっく 制では古記に、第一開門の鼓撃は「寅一点」、 是歳、小郡を壞ちて宮營る。天皇、小郡宮に處して、禮法を定めたまふ。共の制 第二開門は「卯四点」という。また第二開門の ひたりみぎつらな みなみのみかどと おはよくらゐたも かならとらとき 時開く大門は「大極殿及朝堂当門」といい、義 に日はく、「几そ位有ちあらむ者は、要ず寅の時に、南門の外に、左右羅列りて、 解には「朝堂南門」という ( 宮衛令、開閉門条の もおそ おほばゅ すなはまつりごとどのはべ 令義解及び令集解 ) 。 日の初めて出づるときを候ひて、庭に就きて再拜みて、乃ち廳に侍れ。若し晩く 九舒明八年七月条に「巳後退之」とある。 九 うまとき のそ かねき まうこもの 一 0 同条に入・退朝には「以 / 鐘為 / 節」という。 令では鐘鼓で知らす ( 宮衛令、開閉門条ほか ) 。參む者は、入りてること得ざれ。午の時に到るに臨みて、鍾を聽きて罷れ。共の 公式令義解に「凡京官、皆開門前上〈謂、第二 おほば かねかけもの つかさあかいろちきりまへ かねっ 開門皷前也〉、閇門後下〈謂、退朝皷後也〉」と鍾撃かむ吏は、赤の巾を前に垂れよ。共の鍾の臺は、中庭に起てよ」といふ。工人 一四 ある。 なには うなて だいせんゐやまとのあやのあたひあらたゐのひらぶあやま = 令では守辰丁が、漏刻之節を伺。て鐘鼓を大山位倭漢直荒田井比羅夫、誤りて溝漬を穿りて、難波に控引く。而して改め 一セ うつ ( 職員令、陰陽寮条 ) 。 のたま ひとあ ここふみたてまっ たしかいさ 一ニ集解に鶏入 ( 周代に宮中を護衛し暁を報じた 穿りて百姓を疲勞らしむ。爰に疏上りて切に諫むる者有り。天皇、詔して日はく、 役人 ) の類のかぶった絳績 ( 赤い頭巾 ) の類とい わあやまり うなてほ ところき むな いつは みだりひらぶ 「妄に比羅夫が詐れる所を聽きて、空しく漬を穿れるは、験が過なり」とのたまふ。 一三白雉元年十月条に将作大匠。↓三一六頁注 そのひ えたちゃ 卩日に役を罷む。 一四大化五年冠十九階の第十一・第十二等を大皀 0 みやっこそうち なら ことしをごほり おほみたからっか ゅゑ これら まゐ こほ こゅゑ みことの もの ここ し あめ ひ みことのり しかう たくみ あらた
日本書紀卷第三十 四九六 あかがねあみだのみかた くわんおむぼさちのみかただいせいし・ほさちのみかたおのおのひとはしらしみのきぬにしきかとり 一阿弥陀の左脇侍。勢至は右脇侍。 金銅の阿彌陀像・金銅の觀世音菩薩像・大勢至菩薩像、各一躯、綵帛・錦・綾 四 五 ( 二十二日 ) 三十七日 ) ニ綾は普通アヤと訓む。しかし、賦役令義解 たてまっきのえたつのひ かすがのおほきみみう っちのとのとりのひみことのり つかさつかさつかへのよほろ ひとっき に、「綾者有」文之繒」とあり、繒はカトリと訓を獻る。甲辰に、春日王薨せぬ。己酉に、詔して、諸司の仕丁に、一月 むので、その方に重点を置いてカトリと訓んだ いとまよかゆる 古訓。 に假四日放したまふ。 三他に見えず。続紀・万葉集に同名の別人が 三十二日 ) さっきみづのとのうしついたちきのえいぬのひ はじのすくねねまろ 見える。 五月の癸丑の朔甲戌に、土師宿禰根麻呂に命せて、新羅の弔使級金道那 四↓二八一一頁注一九。 のたま おほきまつりごとのつかさまへつきみたちみことのりうけたまは 五養老仮寧令に「凡在京諸司、毎ニ六日一並給ニ 等に詔して日はく、「太政官の卿等、勅を奉りて奉宜はく、二年に、田 休暇一日ことある。 とき 六判事。↓四九四頁注二七。 なかのあそみのりまろらっかは さきのすめらみことみもあひっ セ↓四月二十日条。 中朝臣法麻呂等を遣して、大行天皇の喪を相告げしめき。時に新羅の言ししく、 へ以下の詔ー よ宜命体の原史料を漢訳したもの。 おも もとよりさふかんくらゐも いままたしか 宜命ふうな発想と措辞が残っている。 『新羅の、勅を奉る人は、元來蘇判の位を用てす。今復爾せむと將ふ』とまうしき。 九元年正月十九日条 ( 四八八頁八行 ) に見える さきこと のりまろら のたま これよ ので、元年と意改した写本もあるが、田中臣法是に由りて、法麻呂等、赴げ告ぐる詔を奉宣ふこと得ざりき。若し前の事を言はば、 麻呂らの出発は遅れ、二年に新羅へ通告したの みも こせのいなもちら むかしなにはのみやにあめのしたしらしめししすめらみことかむあが であろう。 在昔、難波宮治天下天皇の崩りましし時に、巨勢稻持等を遣して、喪を告 一 0 ↓四八八頁注一六。 一七 さふかんもみことのりうけたまは えいさんこむしゅんしうみことのりうけたまは = 史記、孝景紀の服虔注に「天子死、未 / 有 / 諡、 ぐる日に、翳金春秋、勅を奉りき。而るを蘇判を用て勅を奉ると言すは、 称ニ大行ことある。ここは天武天皇を指す。 いっきっさんこむさち またあふみのみやにあめのしたしらしめししすめらみことかむあが すなは 一 = 相は助字。お互いにの意ではない。 一 = 新羅の官位十七階の第三。↓表二。音は釈印ち前の事に違へり。又近江宮治天下天皇の崩りましし時に、一吉金薩 紀に「私記日、蘇音匝、判音干」とあるによる。 一四孝徳天皇。 儒等を遣して弔ひ奉らしめき。而るを今級を以て弔ひ奉るは、亦前の事に違へり 三相当個所に見えない。欽明元年九月条の稲 かち もとよりまう わくに とほみおやみよ 持 ( 六五頁注三四 ) とは別人。似た名に巨勢粟持又新羅、元來奏して云さく、『我が國は、日本の遠っ皇祖の代より、舳を並べて槭を ( 四七〇頁注三六 ) があるが、粟は禾とも書く。 またふるのりたが ひとふな つかへまっ 禾はアハともイネとも訓むので、巨勢禾持とあ 干さず、奉仕れる國なり』とまうす。而るを今一艘のみあること、亦故き典に乖へ ったものを編纂者がイナモチと訓み、稲持とい あきらけこころもっか まう みおやみよ う字をあてたのではないか。 。又奏して云さく、『日本の遠っ皇祖の代より、淸白き心を以て仕へ奉れり』と 一六新羅の官位十七階の第一一。↓表二。 あきらけ おも まめこころあもとのつかさの 一七↓三〇五頁注二三。新羅の朝廷で稲持が奉 まうす。而るを竭忠りて本職を宜べ揚ぐることを惟はず。而も淸白きことを傷りて、 宜した詔を金春秋が新羅側の代表として承った、 ならびゅひかた みつぎ こゅゑ の意。 詐りて幸き媚ぶることを求む。是の故に、調賦と別に獻れるとを、並に封めて 天天智天皇。 また いつは ら八 まめ のたま とぶらまっ うけたまはひと あ きふさん やまと しか こと おほ しらぎとぶらひきふさんこむだうな へ まっ 九 ゃぶ 0
日本書紀卷第三十 ならび たりちきくわういちいそのかみのあそみまろちきくわうにふちはらのあそみふひと そたり 一↓四〇〇頁注一三・四八二頁注六。続紀、大入。直廣壹石上朝臣麻呂・直廣貳藤原朝臣不比等には、並に五十人。 ( 十日 ) 四 五 宝元年三月条に麻呂と不比等の肩書は中納言と しもっきっちのとのゐついたちっちのえさるのひ だいくわんだいじほふしべんつう へひとよそへたま ある。 十一月の己亥の朔戊申に、大官大寺の沙門辨通に、食封四十戸賜ふ。 ニ↓四九四頁注二九。 としごと みことのり しはすっちのとのみついたちのひ こむくわうみやうぎゃうよ 三↓四一四頁注一七。 十二月の己巳の朔に、勅旨して、金光明經を讀ましむるに縁りて、年毎の十 四↓五二〇頁注一八。 みそかのひ おこなひひととたりいへで 五↓補注ー一一。 二月の晦日に、淨行者一十人度せしむ。 六↓四一一六頁注二八。八年五月十一日の詔で ( 七日 ) ( 十一日 ) はるむつききのえたつのひ まへつきみたちあへ っちのえさるのひ 正月上玄に読むことを命じている。 十一年の春正月の甲辰に、公卿大夫等に饗たまふ。戊申に、天下の鰥寡・ 七七日の白馬の節会。 あた みづかわたら おのおのしなあ 八↓四八七頁注三四・四八八頁注一四・一五。 ひとりひとあっえひとまづ 九十六日の踏歌の節会。 孤獨・篤癜・貧しくして自ら存ふこと能はざる者に稻賜ふこと、各差有り。癸 九 一 0 ↓四八一頁注三八。 うしのひまへつきみつかさつかさあへ = 養老東宮職員令に「傅一人〈掌下以 = 道徳一輔中丑に、公卿百寮に饗たまふ。 ( 二十八日 ) 導東宮上〉」とあるが、官位令では皇太子傅とよ も きさらぎひのとのう ついたちきのえうまのひちきくわういちたぎまのまひとくにみ みこのみやのおほぎかしづき ちきくわう び、正四位上相当官とする。なお皇太子個人は 二月の丁卯の朔甲午に、直廣壹當麻眞人國見を以て、東宮大傅とす。直廣 東宮、その役所は春宮坊と記す。四季を方角に 一五 さむみちのまひととみ ちきだいしこせのあそみあはもち すけ みこのみやのつかさのかみ 割当てると、春は東にあたる。軽皇子の立太子 參路眞人跡見をもて春宮大夫とす。直大肆巨勢朝臣粟持をもて亮とす。 ↓五三四頁注二。 ( 八日 ) きのえたつのひ かぎりなきをがみみこのみやまう 一ニ↓四七〇頁注三八。 三月の丁酉の朔甲辰に、無遮大會を春宮に設く。 一三養老東宮職員令に「春宮坊〈管二監三・署 ( 四日 ) じゃうゐ ちきゐ さづ っちのとのみのひかうぶりたまはるべきひと なつうづきびのえとら 六一〉。大夫一人〈掌下吐一一納啓令一宮人名帳・考 夏四月の内寅の朔己巳に、滿選者に、淨位より直位に至るまでを授けた 叙・宿直事上〉。亮一人・大進一人・少進一一人・ ( 十四日 ) ( 七日 ) 一八 いでまっちのとのうのひ つかひまだ ひろせ 大属一人・少属二人・使部卅人・直丁三人」と みづのえさるのひ よしののみや ある。長官の大夫は従四位下、次官の亮は従五まふこと、各差有り。壬申に、吉野宮に幸す。己卯に、使者を遣して、廣瀬と 位下に相当する官。 よしの まっ 一四↓四七〇頁注三六。 龍田とを祀らしむ。是の日に、吉野より至します。 ( 八日 ) 一五↓注一三。 あまごひ もろもろのやしろまう さつぎひのえさる みづのとのうのひまへつきみものまうしひとまだ 一六↓四八七頁注二七。 卯に、大夫・謁者を遣して、諸社に詣でて請雨す。 五月の丙申の朔癸 ( 六日 ) ( 二日 ) 一七四年四月十四日詔により有位者は毎年九等 ひのとのうのひ かのとのひつじのひみことのりぎゃうみやこうちつくにもろもろのてら みなづきひのえとら に成績をつけ、六年目にその平均が四等以上と 六月の内寅の朔丁卯に、罪入を赦す。辛未に、詔して經を京畿の諸寺 なった者にのみ授位することになった。五年正 ( 十九日 ) ( 十六日 ) きのえさるのひ かのとのみのひ みやこてらはらきょ いつつのくらゐ 月朔に授位してからこの年で六年になる。満選 に讀ましむ。辛巳に、五位より以上を遣して、京の寺を掃ひ灑めしむ。甲申に、 者とは六年という期間が満ち、授位さるべき資 ( 二十六日 ) すめらみことみやまひため かのとのうのひまへつぎみつかさつかさはじ みてぐらあまっかみくにつかみあかちまだ 格のある者、の意。 幤を訷祇に班したまふ。辛卯に、公卿百寮、始めて天皇の病の爲に、 天↓四九四頁注一一三。 ニ 0 たった やよひひのとのとり しな つみびとゆる かへりおは つかは 一四 よ あめのしたやもめ ( 十六日 ) みづのとの
五二八 日本書紀卷第三十 ひなゐどころもと せしんくわうさむしものをさのもろたら 一他に見えず。下訳語は、姓氏録、河内諸蕃に勢・進廣參下譯語諸田等を多禰に遣して、蠻の所居を求めしむ。 四 五 ( 九日 ) 「下日佐、出 / 自二漢高祖男、斉悼恵王肥之後一也」 ひろせのおほいみのかみたったのかぜのかみ まっ なつうづぎっちのえとらついたちひのえいぬのひ 夏四月の戊寅の朔内戌に、使者を遣して、廣瀨大忌神と龍田風訷とを祀らし ( 十七日 ) 一一↓四二七頁注四二。 あはせはぶりものたま もとのくらゐごんだいいち かものあそみえみしおひてたま きのえうまのひ ちきくわうさむも 三玉篇に南夷名とある。 む。甲午に、直廣參を以て、賀茂朝臣蝦夷に贈ふ。井て賻物賜ふ。本位は勤大壹な 四・五↓四一八頁注二一。 もとのくら -0 だいせんちう ふみのいみきあかまろおひてたまあはせはぶりもの ちきだいし 六↓三九六頁注一五。 。直大肆を以て、文忌寸赤麻呂に贈ふ。井て賻物賜ふ。本位は大山中なり。 七↓五一〇頁注三一。 三十一日 ) ( 十三日 ) ひのとのうのひ はやびとおほすみあへ さっきひのとのひつじ っちのとのひつじのひ 八他に見えないが、壬申の乱の功臣か。 五月の丁未の朔己未に、隼人大隅に饗たまふ。丁卯に、隼人の相撲とる 九天智三年から天武十四年までの冠位。隠退 して新冠位を賜わらなかったのであろう。隠退 ではないが旧冠位の例は↓四八六頁注六。 を西の槻の下に觀る。 ( 三日 ) 一 0 ・ = ↓四五一一頁注二七。 みやこおよよっのうちつくにもろもろのやしろまう っちのとのうのひまへつぎみものまうしひとまだ みなづきひのとのうし 一ニ飛鳥寺の西側の広場にある。↓補注ー三。 六月の丁丑の朔己卯に、大夫・謁者を遣して、京師及び四畿内の諸社に詣 ( 十六日 ) 一 = 一↓五一五頁注三六。 おのおのしな かみつかた おもきやまひするひとものたま あまごひ みづのえたつのひまへつぎみたちとしやそち 一四説文に「痼、久也」。賞賜の賞はこの場合に でて請雨す。壬辰に、諸臣の年八十より以上及び痼疾に賞賜ふこと、各差 ( 二十六日 ) 一五 ( 十八日 ) 似合わないので、集解は「按、賞字衍」という。 よしの かへりおは いでまみづのえとらのひ よしののみや ぎのえうまのひ 一五↓四九四頁注二三。 有り。甲午に、吉野宮に幸す。壬寅に、吉野より至します。 一六妹子の孫。毛人の子。のち大宰大弐・参議 ( 二十三日 ) まっ っちのえたつのひ あきふみづきひのえうま などを経て、和銅七年没。時に中納言従三位兼 秋七月の丙午の朔戊辰に、使者を遣して、廣瀬大忌神と龍田風訷とを祀らし 中務卿勲三等。小野朝臣↓四六五頁注五五。 ( 二十六日 ) むだいにい きのむらしはかとこ つかひちきくわうしをののあそみけの しらぎつか かのとのひつじのひ 宅↓補注ー三三。 一〈八月を小、九月を大の月として、朔日干支む。辛未に、新羅に遣はさむとする使直廣肆小野朝臣毛野・務大貳伊吉連博德 しな ら を後から記入したために、上文の乙巳と重複し たものか。↓五一三頁注七・八。 等に物賜ふこと、各差有り。 ( 三十日 ) ( 二十四日 ) 一九集解は「按、原放、行獄、蓋倒写。行 / 獄、 かへりおは いでまきのとのみのひ っちのとのゐのひ はっきひのえね 原ニ放徒繋一也。行謂二巡検一也」といい、阜日 八月の丙子の朔己一亥に、吉野に幸す。乙巳に、吉野より至します。 ( 六日 ) ( 四日 ) 一八 聞社本頭注は、行は在の誤かという。 をののあそみけの かのえいぬのひ っちのえさるのひさぶらはしむるつみびとゆる ながづききのとのみ = 0 今、奈良県桜井市吉隠。初瀬の東部で、宇九月の乙巳の朔戊申に、行獄徒繋を原放したまふ。庚戌に、小野朝臣毛野 陀郡榛原町に隣接する。大和志には楓の名所と た あるが、壬申の乱のさい、天武天皇と共に通っ 等、新羅に發ち向る。 た道が見渡せる。 ( 十二日 ) ( 十一日 ) よなばり いでまひのえいぬのひ きのとのとりのび かむなづきぎのとのゐ 十月の乙亥の朔乙酉に、菟田の吉隱に幸す。丙戌に、吉隱より至します。 ( 十三日 ) ( 五日 ) かへりおは いでまひのえいぬのひ っちのえとらのひ しはすぎのえいぬ 十二月の甲戌の朔戊寅に、吉野宮に幸す。丙戌に、吉野より至します。 とある。 三↓四五八頁注四。 一三七日の白馬の節会 品↓四一六頁注一四 ら にしつきもとみ たねつかは つかひまだ つかひまだ かへりおは 一七 すまび
日本書紀卷第十九 とくそちもんくまな かほうとうじゃうしごんたてまっ やや異る。オリコケ↓補注ー一〇。 仍りて下部東城子言を貢りて、德率休廠那に代ふ。 四 ( 三日 ) ニ九・三 0 ↓補注四ー一〇。三一世子は太子。↓補 くだらっかひぜんほうとくそちしんもせんもんら はるむつきみづのとのみついたちきのとのひつじのひ 注四ー一〇。 = 三外戚の意。三三↓補注ー一〇。 九年の春正月の癸巳の朔乙未に、百濟の使人前部德率眞慕宜文等、罷らむ 三四前年十一一月のこと。↓六年是歳条。 のたま ところすくひいくさ かならまさ つかは すみやか 三五百済の五部の一。↓表七。三一〈百済の官位十 と請す。因りて詔して日はく、「乞す所の救の軍は、必ず當に救を遣すべし。速に 六階の第四。↓表一。毛二年七月条には奈率 きみかへりことい 宜文とある。真慕↓七六頁注七。三八五年三月 条には許勢奈率奇麻とある。 = 〈高句麗の進攻王に報 ~ 」とのたまふ。 五 きのえねのひ ちうほうかんそちけいせふらいら なつうづきみづのえいぬ に対するためであろう。↓九年四月条。 夏四月の壬戌の朔甲子に、百濟、中部杆率掠葉禮等を遣して奏して日さく、「德 いくさときあた そちせんもんらみことのりうけたまはやっかれくに 一百済の五部の一。↓表七。 = 十五年二月条に「百済 ( 中略 ) 乞 = 救兵→仍貢 = 率宜文等、勅を奉りて臣が蕃に至りて日はく、『乞す所の救の兵、時に應りて 徳率東城子莫古一代ニ前番奈率東城子言一」とあ よろこ つつしめぐみのみことのりうけたまは かぎりな おくりつかは る。東城は百済の複姓。 遣送すとのたまふ』といふ。祗みて恩詔を承りて、嘉慶ぶること限無し。然 三他に見えず。汝休は百済の複姓。 とり - 」カた ましんのさしえだち かのとのうしのひ 四↓八年四月条。 れども馬津城の役に、正月の辛丑に、高麗、衆を卒て、馬津城を圍む。虜の謂りて日はく、 五七年六月条には中部奈率掠葉礼とある。杆 も よ まねきた すすう あらのくにやまとのみこともち 率は百済の官位十六階の第五。↓表一。 『安羅國と日本府と、招き來りて勸め罰たしむるに由れり』といふ。事を以て 六↓八二頁注一九。 よ まことまさあひの つかは みたびそことつばひらか 七この年正月百済が新羅の援軍を得て高句麗なずら 准況ふれば、寔に當に相似れり。然も三廻共の言を審にせむとして、召びに遣せど の進攻を撃退した戦い。三国史記、百済聖王二 おも かれふか ならびまう ねが かしこすめらみことにしとなりのくにみなやまと 十六年正月条に「高句麗王平成与 / 濺謀、攻ニ漢 北独山城→王遣」使請 = 救於新羅→羅王命 = 将軍も、並に來こず。故深く勞しみ念ふ。伏して願はくは、可長き天皇、西の蕃、皆日本 かむが しばらまう いくさとど かしこ 朱珍一領ニ甲卒三千一発之。朱珍日夜兼程至ニ独 山城下「与 = 麗兵一一戦、大破 / 之」とある。文の天皇を稱して、可長き天皇としたてまつる。先づ勘當へたまへ。暫く乞す所の救の兵を停め 中の独山城と馬津城とが同じとすれば、忠清南 も ま のたま みことのり やっかれかへりことま ) たてまっ 道礼山の地となる。工ダチは、もと賦役労働に たまひて、臣が報し遣らむを待ちたまへ」とまうす。詔して日はく、「式て呈 服すること。転じて戦争に駆り出されることか となりわざはひすく まうしごとき み ら、戦争そのものをいう。 せる奏を聞きて、爰に憂ふる所を覿れば、日本府と安羅と、隣の難を救はざるこ 八三国史記、高句麗陽原王四年正月条に「以ニ われみことおほ しのびつかひ 濺兵六千一攻ニ百済独山城ことある。辛丑は九日。 と、亦朕が疾む所なり。又復高麗に密に使やりつることは、信くべからず。験命 九安羅と日本府が高句麗に百済進攻を勧めた こきしころものくびひら おの や いかにほしきまま というのである。↓十年六月条。 せば自づからに遣らむ。命せずして何容ぞ可得にせむ。願はくは、王、襟を開 一 0 状況からみて、いかにもありそうなことだ みまなとも うたがおそ の意。ノルはニ ( 似 ) ルの古語。 = = 一審は犯状の審問を慎重にするための手続き帶を緩べて、恬然に自づからに安くして、深く疑ひ懼るること勿れ。任那と共に、 よ おびゆる またわ よ みことのり づ ここうれ みことおほ また やす ま ふ いくさゐ 九六 なか こと と し いた
日本書紀卷第二十六 こまっかひおっさうすもんらももあまりつくし はるむつぎみづのえとらついたちのひ 島根県八東郡東出雲町揖屋の揖屋神社。 六年の春正月の壬寅の朔に、高麗の使人乙相賀取文等一百餘、筑紫に泊れり。 実令制では東・西市司に価長各五人をおき、 みしはせのくに ふないくさふたももふな やよひ あへのおみなもら 物価を監督。↓補注ー一一五。このころ、商長 三月に、阿倍臣名を闕せり。を遣して、船師二百艘を率て、肅愼國を伐たしむ。 四 五 ( の ) という氏もあった。 も の おほかは わたりのしま おのふね みちのくえみし 毛白雉四年六月条に狛竪部子麻呂とある。天 阿倍臣、陸奥の蝦夷を以て、己が船に乘せて、大河の側に到る。是に、渡嶋の蝦夷 寿国繍帳にも高麗加西溢という画師が見える。 ふたりすす にはかさけ ちあまり かはむか 天高麗の使人のこと。 一千餘、海の畔に屯聚みて、河に向ひて營す。營の中の二人、進みて急に叫びて日 = 九四年是歳条に阿倍比羅夫の献上と記す。 ゅゑ おのれらころ みしはせふないくささはきた はく、「肅愼の船師多に來りて、我等を殺さむとするが故に、願ふ、河を濟りて仕官 一乙相は高句麗の官名か。主簿に次ぐ官とし て大相があるが、大はイルⅱ乙である。↓表六 ふねつかは おも 賀取文は七月に帰国。 へまつらむと欲ふ」といふ。阿倍臣、船を遣して、兩箇の蝦夷を喚し至らしめて、 ニ以下は家記による記事。↓補注 % ー一。 さ と はたちあまり すなは あたかくれどころそふなかす 三↓九一頁注三一。 賊の隱所と共の船數とを問ふ。兩箇の蝦夷、便ち隱所を指して日はく、「船二十餘艘 四↓三三八頁注六。 すなはしみのきぬつはもの まうきか すなはつかひ 五↓三三一頁注三八。 なり」といふ。印ち使を遣して喚す。而るを來肯へず。阿倍臣、乃ち綵帛・兵・ 六この説話では粛慎が蝦夷と区別されている。 き ふないくさつら ほとりつ ほしつの ねりかねなど ↓九一頁注三一。 鐵等を海の畔に積みて、貪め嗜ましむ。肅愼、乃ち船師を陳ねて、羽を木に繋け 七以下は未開民族の間で行なわれる物々交換 九 ふたり さをひとし の仕方と同じ。両者の中間に物を置き、黙って 交換すれば和解が成立したことになる。ここでて、擧げて旗とせり。棹を齊めて近つき來て、淺き處に停りぬ。一船の裏より、二 ひとへきぬ ところしみのきぬなどものみ めぐあり おきな は粛慎の船から派遣された首領格の老人たちが の老翁を出して、廻り行かしめて、熟積む所の綵帛等の物を視しむ。便ち單衫に 一度和解しようとして止め、交戦となった。 またき かへきぬ 八ホシメッノマシムという古語の意、未詳。 おのおのぬのひとむらひぎさ 欲しがらせ、気持をそそらせる意か。ホシメは換へ着て、各布一端を提げて、船に乘りて還去りぬ。俄ありて老翁更來て、換衫 「欲しめ」、ツノマシムは「つのらせ」の意。ッ あまたのふね ノルに関係ある語であろう。ッノルは物に対しを脱き置き、井て提げたる布を置きて、船に乘りて退りぬ。阿倍臣、數船を遣して て、気持を角 ( じのように向けて、とがらせる しばらく へろべのしま かへ まうきか こと。 喚さしむ。來肯へずして、弊賂辨嶋に復りぬ。食頃ありて和はむと乞す。遂に聽し 一四 九船を進める棹をそろえあやつって。 のとのおみまむたつあた き おの わたりのしまわかれ 一 0 粛慎人を。 肯 ~ ず。弊賂辨は、渡嶋の別なり。己が柵に據りて戦ふ。時に、能登臣馬身龍、敵の爲 = 大河河口のデルタの一つか、未詳。 あひだ なほ = 一渡島の一部であって、粛慎の地ではないの に殺されぬ。猶戦ひて未だ倦まざる間に、賊破れて己が妻子を殺す。 一五 ( 八日 ) なにはのむろつみいた なっさっきかのとのうしついたちっちのえさるのひ 一 = 一粛慎が弊賂弁島に築いた柵。妻子も居住さ 夏五月の辛丑の朔戊申に、高麗の使人乙相賀取文等、難波館に到る。 意。 せていた。 ころ うみほとり あはせひきさ つかは ちか ら ら しか よ みしはせ あたやふ かへ あさところとま なか ふたっ ほとり とき しばらく あまな 三四二 ひとつのふねうち め わた つひゆる とま カ ため
四四四 日本書紀卷第二十九 ためちか すなは きさぎみやまひ ひつじのひ 一↓補注四ー一五。 未に、皇后、體不豫したまふ。則ち皇后の爲に誓願ひて、初めて藥師寺を興つ。 一一↓補注四ー一。 ひ つみびと え みやまひい ももたりのほふしいへで = 大化元年八月十師・百済寺寺主とな。た恵仍りて一百僧を度せしむ。是に由りて、安平ゆること得たまへり。是の日に、罪を ( 十六日 ) 妙か。白雉五年二月条に見える学問僧恵妙とは ゑめうほふしやまひと くさかべのみこ ひのとのゐのひ 別人。 赦す。丁亥に、月蝕えたり。草壁皇子を遣して、惠妙僧の病を訊はしめたまふ。 三十四日 ) 四 四未詳。草壁・大津・高市の三皇子か。 しらぎ きのとのひつじのひ みう すなはみはしらみこ くるつひ 五新羅の官位十七階の第八。↓表二。 明日、惠妙僧終せぬ。乃ち三の皇子を遣して弔はしめたまふ。乙未に、新羅、 六十年六月筑紫にて饗禄をうけ、八月帰国。 みつきたてまっすなはことならひひとみたりにやくひっしたが ささんこむにやくひつだいなまこむぐゑんせうまだ 金原升も行をともにしたのであろう。 沙金若弼・大奈末金原升を遣して、調進る。則ち習言者三人、若弼に從ひて至 七新羅の官位十七階の第十。↓表二。 三十六日 ) しばらく ももたりのはふしいへで ひのとのとりのひすめらみことみやまひ へ他に見えず。 。丁酉に、天皇、病したまふ。因りて一百僧を度せしむ。俄ありて愈えぬ。 九日本語を学習する者の意であろう。 ( 三十日 ) いぬゐのかたわた 一 0 ↓四三二頁注五。 かのとのうしのひ = アカツはワカツ。マダスは参出す意。参向辛丑に、臘子鳥、天を蔽して、東南より飛びて、西北に度れり ( 三日 ) ( 二日 ) する意。 いはひのみてぐらもろもろあまっかみくにつかみあかちまだみづのとの はるむつきかのとのひつじついたちみづのえさるのひ 。↓二八〇頁注二。 一ニ賀正の礼 十年の春正月の辛未の朔壬中に、幤帛を諸の神祇に頒す。癸 一四 ( 七日 ) 一三↓四三九頁注二八。 むかひのこあんどのおはしまとよのあかり ひのとのうしのひ とりのひっかさつかさひとびとみかどをがみ 一四正月七日の節会。↓補注ー八。 酉に、百寮の諸人、拜朝庭す。丁丑に、天皇、向小殿に御して宴したまふ。 一五・ = 〈未詳。いずれも内裏の殿舎か。↓補注 ともおほみきをめ まへつぎみたちみなとのあんどの みこたちおほきみたちうちのあんどのめし 是の日に、親王・諸王を内安殿に引人る。諸臣、皆外安殿に侍り。共に置酒して 一七三月帝紀および上古諸事の記定に参加。雄 かばねたま せうきむげのくらゐさづ だいせんじゃうくさかべのきしおほかた 略十四年四月条に、難波吉士日香香の子孫に大 草香部吉士の姓を賜わ「たとある。難波吉士樂を賜ふ。則ち大山上草香部吉士大形に、小錦下位を授けたまふ。仍りて姓を賜 ( 十一日 ) 一八 よさ むそへ かのとのみのひさかひべのむらじいはつみみことのり ( 五五頁注三一 ) の一枝氏で、難波にあって日下 ひて難波連と日ふ。辛巳に、境部連石積に勅して、六十戸を封したまふ。因り 部を管掌し、海上交通にも従事した氏であろう。 ( 十七日 ) ひのとのるのひ 草香部吉士は十一一年十月連姓を賜わり、難波連 ふとぎぬみそむらわたももあまりいそはかりぬのももあまりいそむらくはももわたま 氏は十四年六月忌寸姓を賜わ。た。姓氏録ではて絶三十匹・綿百五十斤・布百五十端・钁一百口を給ふ。丁亥に、親王より ( 十九日 ) あまつやしろくにつ 河内皇別に難波忌寸を載せ、大彦命の後とする。 うちつくにおよくにぐにみことのり っちのとのうしのひ かみつかたみかど しもっかたせうこん 一〈↓三一八頁注四八。十一年三月条の「新字」以下、小建より以上、朝庭に射ふ。己丑に、畿内及び諸國に詔して、天社地 編纂に関しての賜封か。 やしろかみみやをさめつく 一九↓二八一一頁注六。 社の神の宮を修理らしむ。 ニ 0 大射。↓三〇〇頁注二四。 ( 二十五日 ) きさきもろともおほあんどのおは きのえねのひ きさらぎかのえね 一 = 諸国の神社の社殿。 二月の庚子の朔甲子に、天皇・皇后、共に大極殿に居しまして、親王・諸王及 一三政務を行なう朝堂の正殿。その存在が確認 のりあらた またのりのふみさだ まへつきみたちめ されるのはこの飛鳥浄御原宮が最初。↓二六一一 び諸臣を喚して、詔して日はく、「欣、今より更律令を定め、法式を改めむと欲ふ。 頁注一一。 ゆる うたまひたま なにはのむらしい あとりあめかく つきは のたま これよ たつみのかた われ よ つかは と とぶら 0 やくしじ みこたちおほぎみたち よ た まうけ
日本書紀卷第二十三 も かな ほどはしうれし せむすべし 一心おどりあがり。名義抄に「踊・躍、ヲドル、 一たびは以て悲しぶ。踊躍り歡喜びて、所如知らず。仍りて以爲へらく、社稷宗廟 四 ホドハシル」とある。神功五十年五月条に「吾 おもきこと おのれわか いかにあ をちのおきなども 王、歓喜踊躍の仁 ) 、不 / 任一一于心こともある。 は重事なり。我眇少くして不賢し。何ぞ敢へて當らむ。是の時に嘗りて、叔父 = 所如の如は行く意。爾雅、釈詁に「如、往也」 およまへつきみたちかた とある。行ク所は、すなわち、するすべ。 及び群卿等に語らむと思欲 ~ り。るに導ふべき時有らざれば、今まで言はざらく 三国家。社稷は、社は土地の神、稷は五穀の神。 五 おのれいむさきをちのおきなどもやまひとぶら とゆらでらはべ みやこゅ 君主が居城を建てる時、この二神を王宮の右に のみ。吾曾に叔父の病を訊はむとして、京に向きて豐浦寺に居りき。是の日に、 祭る。君は社稷の主であり、国家存すれば社稷 のたま いましをち つね の祭が行なわれ、亡べば廃せられるから、社稷すめらみことやくちのうねめしびめ は転じて国家の意となる。その王宮の左に祭る天皇、八ロ采女鮪女を遣して、詔して日ひしく、『汝が叔父の大臣の、常に汝が のが宗廟。祖先の霊を祭る廟の意。社稷と同じ ためうれ ももとせのち ひつぎのくらゐ あら ゅゑつつし く国家の意に用いる。このところ、漢書、文帝爲に愁へて言さく、百歳の後には、嗣位恢に嘗れるに非ずやとまうす。故に愼み 九 紀「奉二高帝宗廟一重事也。寡人不佞、不 / 足二以 すでわきわき 称一願請 = 楚王一計宜者、寡人弗 = 敢当一群臣皆伏て自愛めよ』とのたまひき。既に分明しく是の事有り。何をか疑はむ。然れども我 固請、・ : 寡人不ニ敢辞「遂即ニ天子位こによる。 あにあめのしたむさぼ たたき あらは すなはあまっかみくにつかみともことわ 0 年が若くて。広雅、釈詁に「眇、小也」とあ豈天下を餮らむや。唯聆きし事を顯さくのみ。則ち天神地祇共に證りたま ~ 。是 ねが まへつきみたちもとより 五元興寺縁起では、豊浦寺が推古以前に出来 を以て、冀はくは正に天皇の遺勅を知らむと欲ふ。亦大臣の遣せる群卿は、從來 ていたように記してあるが、伝暦では舒明六年 ことごと ものまう ひとども に「建一一豊浦寺塔心柱一」とある。↓補注おー三。 嚴矛嚴矛、此をば伊箇之倍虚といふ。の中取てる事の如くにして、奏請す人等なり。故 六未詳。八ロは地名であろうが、所在不明。 よをちのおきなどもまう 天武元年七月条 ( 三九八頁七行 ) に「 ( 大野君 ) 果 安追至 = 八口一企而視」京」とあるから、飛鳥京能く叔父に白すべし」とのたまふ。 に近いところ。采女↓補注おー二。 おのら はっせのなかのみこ のたま かそこ ことなかとみのむらしかはヘのおみ 七山背大兄の叔父の蝦夷大臣。 既にして泊瀬仲王、別に中臣連・河邊臣を喚して、謂りて日はく、「我等が父子、 八軽はずみなことをするな。自重に同じ。 ならびそが あめのした ところ たの たかやま 九↓八頁注一二。 ロくにむ。願ふ、 並に蘇我より出でたり。天下の知れる所なり。是を以て、高山の 一 0 食をむさばるのがもとの意。名義抄ムサポ ひつぎのくらゐたやす まへつきみたち みくにのおほきみさくらゐのおみことおほ レ 0 ノ = 天の神地の神、共に証明せられよ。こ ロ間 位は輙く言ふこと勿」とのたまふ。則ち三國王・櫻井臣に令せて、群卿に こ、「證リタマヘリ」と完了に訓む古訓もある。 そ や かへりことき おも きのおみおほともの それならば、「天地の神々が証明しておられる 副へて遣りて日はく、「還言を聞かむと欲ふ」とのたまふ。時に大臣、紀臣・大伴 ことなのだ」の意味となる。 さらけ さき をは 一ニいかめしい矛。イカシは神意の厳かなの意。むらじ 連を遣して、三國王・櫻井臣に謂りて日はく、「先の日に言ひ訖りき。更に異なる 一三中臣本系帳・中臣寿詞などでは中臣氏が代 な いづれきみかろ いづれきみおも 々皇神と皇孫との中を取りもつ意に使われてい こと無し。然れども臣敢へて、誰の王を輕みして、誰の王を重みせむ」といふ。 る。ここは臣下と天皇との間に立って中をとり ひと いかしほこ し これ やっかれ つかは をさな のちのみことのり みことのり し なかとりも め も よ なに とき つかは おほおみ こ - 」 かれ
日本書紀卷第一一十五 きさらぎみづのえねついたちのひ みつのからくに くだらしらき ものならふほふしつかは 一↓一九二頁注二〇。ニ左大臣、阿倍内麻呂 二月の壬子の朔に、三韓三韓とは、高麗・百濟・新羅を謂ふ。に、學問僧を遣す。 四 五 ( 二七〇頁注九 ) 。三比丘・比丘尼・優婆塞・優 ( 八日 ) ま っちのとのひつじのひ あへのおほおみよくさのおこなひひとしてんわうじ ほとけのみかたよはしらむか たふ 婆夷。四↓補注ー七。 己未に、阿倍大臣、四衆を四天王寺に請せて、佛像四躯を迎へて、塔 五太子伝古今目録抄所引大同縁起に「安倍大 うちま りゃうじゅせんかたっく 臣敬請坐者」として、内に天宮一具を安置する の内に坐せしむ。靈鷲山の像を造る。鼓を累積ねて爲る。 五重塔一基及び小四天王四口を挙げる。右のう なつうづきかのとのゐついたちのひ かうふ ち塔は五重塔、四仏像は小四天王四ロ、霊鷲山 像は天宮一具にあたろう。一釈迦の浄上に鼓夏四月の辛亥の朔に、古き冠を罷む。左右大臣、猶古き冠を着る。 みつきたてまっ いはふねのぎつく しなの の胴などを利用して作ったか。別に、鼓のよう 是歳、新羅、使を遣して貢調る。磐舟柵を治りて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃 な形に作ったと解する説もある。 八古冠とは推古の十二階冠。今これを廃し、前 きのヘ 年制定の七色十三階冠を施行した。ただ、十一一との民を選びて、始めて柵戸に置く。 階冠のほかに大臣に授かった紫冠はこの新制の はるむつきひのえうまついたちのひみかどをがみ 第三色に位置づけられ、従来通り大臣が着した 五年の春正月の丙午の朔に、賀正す。 ( 三〇四頁注四 ) 。そこで「左右大臣、猶古き冠 かうふりとをあまりここのしなっく はしめ だいしぎつぎ を着る」という。或いは、同じ紫冠でも新・旧 二月に、冠十九階を制る。一に日はく、大織。二に日はく、ト / 織。三に日は は形制を異にし、左右大臣のみは新制の冠をう だいしう つぎ だいしつぎ せうし せうしうつぎ けることをいさぎよしとせず、依然古制冠をか 紫七に日はく、 く、大繍。四に日はく、ト 繍。五に日はく、大紫。六に日はく、トヒ、。 ぶる意か。そして翌年、阿倍内麻呂・蘇我倉山 一五 だいくゑしゃうつぎ だいくゑげつぎ せうくゑしゃうつぎ せうくゑげ 田麻呂が死ぬと、はじめて新任の左右大臣はこ / 花上。十に日はく、ト 大花上。八に日はく、大花下。九に日はく、ト / 花下。十一に れを着した ( 五年四月条 ) とみることもできる。 たいせんしゃう だいせんげ 九今、新潟県村上市岩船。柵↓補注ー一一八。 日はく、大山上。十二に日はく、大山下。十三に日はく、小山上。十四に日はく、 一 0 ↓三〇五頁注三〇。 = ↓二八〇頁注二。 一ニ大化三年の七色十三階の冠位を更に改めた だいおつじゃうつぎ せうせんげ たいおっげ もの。はじめの六階はそれと全く同じ。つづく 小山下。十五に日はく、大乙上。十六に日はく、大乙下。十七に日はく、小乙上 一七 十二階を三年制と比べると、大小の錦・青・黒 りふしむ せうおっげ 冠の名称を花・山・乙とかえ、さらに各階を上十八に日はく、 / 乙下。十九に日はく、立身。 下に細分し、最後の冠位、建武を立身と改めた。 みことのり やつのすぶるつかさもものつかさお つき はかせたかむくのぐゑんりほふしそうみん 是の月に、博士高向玄理と釋僧旻とに詔して、八省・百官を置かしむ。 ニ四 一三・一四通釈に「ダイシキとあれど、古訓にタ ( 十七日 ) みねたて あへのおほおみみう すめらみことしゅしやくもんおはしま やよひきのとのみついたちかのとのとりのひ イショクともあり、いづれに呼しならん。詳な 三月の乙巳の朔辛酉に、阿倍大臣薨せぬ。天皇、朱雀門に幸して、擧哀たま らず」と。呉音シキ、漢音ショク。従ってダイ ( 二十四日 ) ニ七 っちのえたつのひ すめみおやのみことひつぎのみこたちおよもろもろまへつきみことごとくしたがみねたてまっ シキ、又はタイショク。↓三〇三頁注二三。 ひて慟ひたまふ。皇祖母奪・皇太子等及び諸の公卿、悉に隨ひて哀哭る。戊辰 一五花は華にもっくる。呉音はクヱ。 まう そがのおみひむか あざなむざし くらのやまだのおほおみひつぎのみこしこ = ( 中国の冠制に鷸 0 冠あり。鷸 ( ) の羽でか に、蘇我臣日向、日向、字は身刺。倉山田大臣を皇太子に語ちて日さく、「僕が異母 ざった冠。集解は、乙は鷸の音をとったものと 0 ことし おほみたからえら つかひまだ ふるかうぶりや お つづみかさ ひだりみぎのおほおみなほ えみしそな せうせんじゃう 三〇六 せうしぎつぎ つひ やっかれことはらの つぎ こし せうおっしゃう 0
日本書紀卷第十九 これわ やまとのみこと、ちこた 一未詳。あるいは伊賀臣か。 日本府答へて日はく、「任那の執事、召ぶに赴ざることは、是吾が遣さざるに ニ用いて。以は用に同じ。 たてまた かへるつかひの われすめらみことまう 三四年十一月条の津守連派遣をさす。 由りて、往づること得ざるなり。吾、天皇に奏しに遣すに、還使宜りて日びしく、 四日本府臣の意。 つもりのむらじさ さ 、まつばひらか われまさ いがのおみことばよこなま 五ョギルは古くはヨキルと清立日。 『朕當に印奇臣語訛りて宋だ詳ならず。を以して、新羅に遣し、津守連を以して、 六この言は四年十一月条にみえる津守連の百 たはゆ あひたま くだら いましみことのりうけたまは 済に対する詔に当る。 百濟に遣すべし。汝、勅を聞らむ際を待て。新羅・百濟に、な自勞り往きそ』と 七↓七六頁注五。 のたま たまたま みことのりかくごと 八↓七六頁注一三。 いひき。宜勅是の如し。會、印奇臣の新羅に使するを聞きて、乃ち追して天皇の宜ふ 九百済が国境をこえて任那の下韓に配置して 四 やまとまへつきみみまなっかさ ところと みことのり いた郡令・城主を撤退させるの意。四年十一月 所を問はしむ。詔して日ひしく、『日本の臣と任那の執事と、新羅に就きて、天皇 条には「宜 / 附二日本府ことある。 のち のたま 一 0 承知しない。肯へズは肯へニスの約。ニは うけたまは 否定の助動詞ズの古い連用形。 の勅を聽れ』とのたまひき。百濟に就きて命を聽れと宜はざりき。後に津守連、遂 五 = 百済の聖明王をさす。大王は敬称で、称号 あるしからくにはべ よき いまわれ ではない。 に此に來り過る。謂りて日はく、『今余、百濟に遣さるることは、下韓に在る、百濟 = 一キダキダは、細かくつけたキザミ。ここで やまとのみこともち こほりのつかさぎのつかさいだ は細かい気持の一つ一つの表現。触は、外界に の郡令・城主を出さむとなり』といふ。唯此の説のみを聞けり。任那と日本府と、 ふれて生じる心の作用をいう仏教語。 ゅゑまう うけたまは 一三以下八八頁六行まで、百済王が日本に使者 百濟に會ひて、天皇の勅を聽れといふことを聞かず。故に往でざることは、任那の を送り、その意見を述べる。大部分、百済王の すなはまう かんきら こころあら 上表文であるが、表は屡、、過去のことに遡って 説明を進めているので、過去の事情を知る上に意に非ず」といふ。是に、任那の旱岐等日はく、「使の來り召ぶに由りて、便ち往參 ため かれまう やまとのみこともちのかみたてまた も貴重な史料をふくむ。この遣使は二月条の施 徳馬武らの言にみえる = 一月十日発遣予定の疾使でむとすれども、日本府卿、發遣し肯へず。故往でず。大王、任那を建てむが爲 にあたる。ただしこのとき日本府や任那旱岐ら つぶさの よろこ こころきだきださとしめ の使人が同行してきたかどうかは不明。得文ら 、情の觸曉し示す。を覩て忻喜ぶること、具に申ぶべきこと難し」といふ。 一七 は十月条に帰国の記事がみえる。 もののべのなそちがひら なそちあとくとくもん こせのなそちがま 一四百済の官位十六階の第六。↓表一。 三月に、百濟、奈率阿モ得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非等を遣して、表上 一五未詳。阿モは百済の複姓か。 みことのりのみふみあ なそちこれんらやっかれくにいた なそちみまさ 一六未詳。八年四月条の奈率奇麻は同一人か。 りて日さく、「奈率彌麻沙・奈率己連等、臣が蕃に至りて、詔書を奉げて日はく、 宅未詳。 うるは すみやか おな はべ いましたちそこ 天以下三行は二年七月条 ( 七六頁 ) の事実をさ 『爾等、彼に在る日本府と共に、同じく謀り善しく計りて、早に任那を建つべし。 し、詔書のことは五年二月条にみえる。 みことのりのみふみあ ひと いましそ 一九蕃は藩に通じ、外藩の国の意。自国を卑下 爾共れ戒め。他にな誑かれそ』といふ。又津守連等、臣が蕃に至りて勅書を奉 した呼称。↓六五頁注二八。 やよひ ここきた つど まう あざむ のたま これみ みまなっかさ たたこ おほみこと よ つかひ こと まうこ しらきっかは やっかれくに よ すなはめ つかは ふみたてまっ つひ