明治三十六年 ( + 八歳 ) 賀状に 不圖それて何地去にけん幸の魂うつろなる身に春めぐり來ぬ ( 明治三十六年一月一日細越毅夫宛 ) 新扇 この闇にこの火と共に消えてゆく命と告げば親は泣かむか ふぎよう この無興いはば雪ふる破れびさし暮るる光の淡きに似たり このおきな筆を立てては虎のごと髯は少女のとめ針のごと ( イプセンの像に ) ほほけては藪かけめぐる啄木鳥のみにくきがごと我は痩せにき ( 明治三十六年七月「明星」卯七 ) うつろより惱みもてくる影の如秋は吾頬の痩に人りけり ( 明治三十六年八月二十五日小林茂雄宛 ) 星寒う落葉思ひを亂す夜や「秋」は吾頬の痩に入りけり たま 花びらや地にゆくまでの瞬きに閉ぢずもがもか吾靈の窓 うらぶれや心の憂さは拂ひかねほ、けし頬に秋の蠅うつ ( 明治三十五年十二月一日日記 )
226 いづこより古きなやみのよみが ~ りただよひ來るか頬痩秋風 ( 明治三十六年十一月「明星」夘十一 ) 冬木立 詩はさびし木の精ひそむ山彦のけざむさ添 ~ て聲か ~ すごと さび 身をめぐる愛のひかりに寥しみの影そひてくる歌の愁や よろこび 鑄し鐘の音に萬づ代のちからある歡喜としも我が戀成りぬ 闇に馳せて素琴ひきゅく星人と調かなしうかりがね渡る ( 明治三十六年十二月「明曻ー十一 l) 明治三十七年 ( + 九歳 ) 徴二三 あかひだ もながはる 朱襞の裳長春姫うたひくる珠簾の車むかへん詩かも まがねや なめらいし 鐵矢に天戸つぶれて雨とそ、ぐ野の滑石抱く無興かな 堂にして胸に三世の火を見なば無頭の古佛抱き眠んも好し からか 嘲笑うて黄鈍なす齒のすきまより凩吹かす古山男 ( 明治三十七年一月三日日記 ) すごと たます ほやせ
明治三十五年 ( + 七歳 ) 賀状より 爭はむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐 はらはむは惜しと徴笑む人もありみ袖の今日の淡雪小雪 ( 明治三十四年十二月三十一日野村右近宛 ) 師の君の若きみ袖にまゐらせむ歌もあらなく村に屠蘇汲む 歌筆にまづそめて見るみ名や誰おぞやこの春花心する ( 明治三十五年一月一日金田一花明宛 ) 白羊會詠草 タ川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや ( 鑛毒 ) しこん 野の道にくれなゐ襷若菜つみてタ川近く紮金をめでぬ ( 摘菜 ) 五岩の上に花亂れたり若草を踏む入もあらず春はくれ行く ( 行眷 ) かむり りかな低唱の人の紫金の冠紅梅 ( 同 ) 三冬枯にこは驕 とこまる きんし 明 東雲の光に見ずや常春の春の榮の金矢の命 ( 光明 ) 白濱の浦の小石に波よせて舟歌細く鷓なくこゑ ( 船唄 ) にひはる ( 明治三十四年九月盛岡中學校囘雜誌「爾伎多麻」 )
解題 啄木、石川一は明治十九年二月二十日、 ( これは戸籍上のデイトで、実は明治十八年十月二十七 日 ) 現在の岩手県岩手郡玉山村大字日戸なる曹洞宗の寺院常光寺に生れた。父は当時その寺の住 職一禎、母は工藤氏、かっ子、啄木はその長男である。幼時から神童を以て目された程の、極め て早熟な天才児であった。二歳の春父の転住と共に隣村渋民村の宝徳寺に移り、二十二歳の頃ま で生活の本拠を此地に置いた。少年時代の彼はその妹光子の手記に拠ると驕慢児的性行が顕著だ ったようである。これは、彼が四人兄弟の中のたった一人の男の子というせいもあったろうが、 それよりも彼の生活環境が、僧家という地方貴族であった点により深い誘因があったのではなか ろうか。 十一歳の頃既に文学的興味を覚えたが、意識的に新体詩、短歌等の創作に人ったのは盛岡中学 三年当時 ( 明治三十三年三月頃 ) 、同校在学中の先輩及川古志郎、金田一京助等の指導に依り、新 詩社の総帥与謝野鉄幹の歌風に親炙し、三十六年十月正式に新詩社加人前後に於て漸く活とな ったもののようである。当時の新詩社は従来の弟子師匠的東縛から解放された、極めて自由主義 的な雰囲気に包まれていた。このことは彼の詩的才能を伸張育成する為めに如何に役立ったかを 考える時、彼の新詩社加盟は非常に賢明、且っ好運であ「たということが出来る。 ひのと
216 ばんこう 晩江の春を雲ぞ美しきとけなばとけよ消ぬべき者か ( 明治三十五年七月二十五日小林花鄕宛 ) 血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野に叫ぶ秋 ( 詩燈 ) ( 明治三十五年十月第三「明星」五 ) 花祕めて袖に愁ひの高き夢とはなる影に吾戀しるよ ( 明治三十五年十月十七日細越白螽宛 ) 夢はかくて戀はかくしてはかなげに過ぎなむ世とも人の云はば云へ ( 菊あはせ ) 雨の香を鳩の羽に見る秋の堂紫苑さびしく壁たそがるる ( 草紅葉 ) ( 明治三十五年十一月第三「明星」六 ) 秋韶笛語 裂かば花に碎かば琴の夢追ふ子追うて旅する命の秋よ 天琴に誰かよき音の幸守らむ秋掩ふ雲にわかれて去ぬる 裝ひては花の香による蝶の羽秋はれの笛によろしき ( 明治三十五年秋日誌「秋設笛語」序より ) 若き我れにふるべき鞭のつよき神れゆくを笛によみすや 神を仰ぎ道なる花にはぐれきょ何地向きてぞ我れ歩むべき ( 明治三十五年十月三十日日記 )
( 明治三十七年二月十三日 ) 雛の夜 大鐘を海に沈めて八百潮に巨人よぶべき響添へばや しら甕を胸に羅馬の春の森上っ代ぶりのわが妻わかし 枯花に冬日てるごとわが歌ににほひ添ふとか戀燃えてくる あめ 光さす天の柔羽の夢ごろも我をめぐりて春の夜下りぬ 小桔梗はすてて眞白の雛菊を妻に撰りつと「秋」の息鋧し ( 明治三十七年三月「明星」辰三 ) 我心二つ姿とならび居て君がみもとにとはに笑ままし ( 明治三十七年秋上野さめ子宛 ) 明治三十八年 ( 二十歳 ) 凉月集〔せっ子夫人と連名〕 まどろめば珠のやうなる句はあまた胸に蕾みぬみ手を枕に 靑梅は音して落ちぬほととぎす聽くと立つなる二人の影に 薄月に立つをよろこぶ人と人饒舌なれば鳥ききそれぬ 宵闇や鳥まっ庭の燈籠に灯人れむ月のほのめくまでを やはは
小さくも吾は藝の子詩の愛兒歌はゞ足らん君に相似る ( 窓の蟋蟀に ) この思似ずや靑火に導かれ掩ふ霧白う墓に立っそれ ( 明治三十六年九月二十八日野村菫舟宛 ) 沈 古山に影ひく秋の雲のごとおもひ移りて行くや我が興 天よりか地よりか知らず唯わかきいのち食むべく迫る「時」なり 相逢うてひと目ただそのひと目より胸にいのちの野火ひろごりぬ みなわ 死の海のふかき浪より浮きもこし水沫なればか命あやふき ( 病みて ) ほざら せめてこの深き靜默に歌よあれなさけの火盞灰冷えしまま さびしみを胸に千すぢの髮のごと捲けると知りて天の名よびぬ やれうた こしかたよ破歌ぐるま綱かけて悲哀の里を喘ぎ過ぎしか にえだな 犧卓に蒼火ささげて陰府の國妖女夜すがら罪の髪梳く ( 明治三十六年十一月「明星」卯十一 ) 年 公孫樹 十 三恨負ひて悲風ひとたび胸に人り泣くに涙ぞ皆石となる さとし 明 大空や何か日頃のあこがれの默示流ると仰ぐタ雲 こもりぬ 石投げて水うつ興も秋のわび敗荷や我や隱沼寒き あめ よみ
316 千代治等も長じて慧し子を擧げぬ・ ちょんちょんととある小藪に類白の ッ つかれたる牛のよだれはたらたらと・ 月に三十圓もあれば、田舍にては・ つくづくと手をながめつつおもひ出でぬ 件なりしかの代議士のロあける・ テ 手を打ちて眠氣の返事きくまでの・ 手が白く且大なりき非凡なる・ 敵として博みし友とやや長く・ 手にためし雪の融くるがここちよく 手套を脆ぐ手ふと休む何やらむ・ 手も足もはなればなれにあるごとき・ 手も足も室いつばいに投げ出して ドア押してひと足出れば、病人の・ とある日に酒をのみたくてならぬごとく 東海の小島の磯の白砂に・ どうか、かうか、今月も無事に暮らしたりと、 どうなりと勝手になれといふごとき くより笛ながながとひびかせて ・大七くより笛の音きこゅうなだれて・ : 一ととかくして家を出づれば日光の 時ありて子供のやうにたはむれす・ 時ありて猫のまねなどして笑ふ・ 時として、あらん限りの聲を出し、・ 時として君を思へば安かりし・ 解けがたき不和のあひだに身を處して、・ ・ : 一 0 ルどこやらに杭打っ普し大桶を 何處やらに澤山の人があらそひて・ 何處やらに若き女の死ぬごとき・ うっとりと ・ : 一七一一年あけてゆるめる心 ! 年ごとに肺病やみの殖えてゆく・ 途中にて乖換の電車なくなりしに・ 途中にてふと氣が變り、つとめ先を・ 十年まへに作りしといふ漢詩を ・ : 一大五 戸の面には根突く音す。笑ふ聲す。 ・旨友がみなわれよりえらく見ゆる日よ・ 友として遊ぶものなき性惡の 友はみな或日四方に散り行きぬ 友も、妻も、かなしと思ふらしーーー病みても猶、・ ・三五友よさは乞食の卑しさ厭ふなかれ・ 友われに飯を與へきその友に・ 取りいでし去年の袷のなっかしき・ とるに足らぬ男と思へと言ふどとく どんよりとくもれる空を見てゐしに : 三 0 四 : ル四 : 九七
230 みてら 魂誘ふくゆらしれ燭も照り母が御寺は我をまねぎぬ 思ひ出ぬ北の海來し船旅の七日み膝に枕せし日を ( 明治三十八年九月「小天地ー一 ) 公孫樹 ほととぎす天の祠の靑石の扉を捲く雲を喰みて啼きける 蜆川や浪花は古き梅川が里といふなり靑簾の舟に 夏木立中の社の石馬も汗する日なり君をゆめみむ あかし しろがねにひびく光の天壇の御燭咲きぬ百合といふ名に いくび この海よさらば生火の帆をあげむ黄金鳥なく焔樹の岸へ わが廣野君がひとみの赫灼に巽あがりの野火はもえける いりひ まがぶね タ潮や黑き帆あげし凶船の落日追ひしに跡に流れぬ くゆ あくがれや缺けし香爐に思出の霞焚くなる火に燻りつつ くぐひ みちのくや丘の公孫樹の金色の秋の雲にし鵠は集くひぬ 靑潮や白鳥群るる鳴門海君とうかびぬ黄金の帆して ( 明治三十八年九月「小天地」一 ) 明治三十九年 ( 二十一歳 ) あめ
明治三十四年二月、盛岡中学に盟休事件が勃発した。この事件と翌三十五年初頭一世を震憾さ せた足尾銅山の礦毒問題、つづいて起った同年一月の第八師団雪中行軍隊の青森県八甲田山に於 ける遭難、この三つの事件は性来人道主義的傾向の顕著であった啄木に異常な感動を与え、爾後 の思想生活に及ばした発足点となった事に注目しなければならぬ。 即ちこの前年九月頃の彼は、回覧雑誌『爾伎多麻』などに、 もやの袖おばろのそらの春の神歌やめすらむ月姫のみや などと、専ら新詩社風な耽美的歌調を追っていたものであるが、三十五年一月の「白羊会詠草」 には早くも礦毒間闥を採り上げて、時代精神への鋭敏な働きかけを示唆している。 タ川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや この歌と、この年十月号の雑誌『明星』に始めて「白蘋」の署名下に発表された、 血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋 などは、やや瀧ろげながらも、彼が晩年に到達した詩境、即ち世に謂う「生活歌」の萌芽とも観 るべきであろう。殊に後者の場合は、彼がこの記念すべき出発に際して、既に自己の前途ーー多 難なるべき生涯への予知ではなかったかとも考えられる。之を逆説的にいえば、彼は先ず辞世の 歌を書きつけて置いてから、人世行路のスタートに立ったとも云えるであろう。 然しながら、この前後の作品は二三の例を除き、個性のひらめきも、独自の創見も観取されず、 才に任せて歌いまくるという風があった。鉄幹にその欠点を指摘された彼はやがて新体詩に方向