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検索対象: 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史
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1. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

1 1 UNIVAC のリアルタイムシステムを支えた GCS 開発物語 11 UN Ⅳ AC のリアルタイムシステムを 支えた GCS の開発物語 赤須通雄 317 この文の作成に当たっては、多くの方々の協力を頂いた。 2 項の とと思いこの文を起こすことにした。 が苦労して積み上げてきた足跡を、記録に留めることも価値あるこ になりかけている。オンライン、リアルタイムの実現のために先人 度で進み、今日ではオンライン、リアルタイムと言った言葉は死語 僅か 40 ~ 50 年の間に、コンピュータと通信の融合は信じがたい速 いる。 進み、いまやインターネットが情報通信分野でのインフラとなって 能とし、通信のデジタル化が急速に普及しコ , ンピュータとの融合が らに 1970 年代末に実用化された光通信が大容量の情報の伝達を可 発が開始された。今日のインターネットの元となるものである。さ より保護する仕組みとして 1968 年に米国国防省による ARPANET の開 一方通信の分野では、国の神経系である電気通信を、国防の観点 し世の中の全ての分野での変化を後押しした。 パイダル現象を引き起こし、コンピュータの利用技術の進歩と共振 れ、これらの技術を活用したコンピュータの性能の向上が、正のス 積回路に代表されるマイクロエレクトロニクス技術の進歩が加速さ 能の向上に拍車を掛けた。コンヒ。ュータを活用することにより、集 ランジスタの発明と、 1958 年の集積回路の発明がコンビュータの性 世の中の変化は、それこそ激動といえるものであった。 1947 年のト 20 世紀後半、人類がコンピュータを道具として使い始めてからの まえがき

2. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 10 章マー ( 2 ) 新規事業の立上げ ケティング本部時代 多くのアイディアについて検討されたが、最大の新規事業はシリ ーズ 8 によるオフィスコンピュータ事業で、 cs 事業部より大量の要 員をシフトして軌道に乗せることが出来た。その他コンピュータル ームの設備設計に関するコンサルテーション、設備構築の請負等が 従来のバンドルサービスから有償サービスへと脱皮が図られた。 ( 3 ) SE サービスのアンバンドル IBM のアンバンドルの実施に伴い、 SE サービスのアンバンドルに 対する本格的な検討実施が開始されたが、長年のバンドル SE サービ スに慣らされている客先、 NUK 営業体質が壁となり本格実施に至る までには長い年月をかけることになる。 ( 4 ) ラインサポート トヨタ自動車の本格的な CAD / CAM 構築 ( 自由局面処理を含む ) を 受注し、プロジェクトを発足させたが、全社規模で取り組むことが 要求され、赤須はプロジェクトリーダーとして月に一度のトヨタ詣 でを行っている。 1 83

3. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 5 部ユニバックあれこれ る入出力装置の数はチャネルの数と同じである ( マルチプレクサチ ャネルを使用した場合には、接続できる入出力装置の数は増やせる が、チャネル当たり同時に制御出来る装置は 1 台に限定される ) 。オ ンラインシステムでは、接続される端末の数は入出力チャネルの数 をはるかに上回る台数となる。当時の UNIVAC のコンヒ。ュータで通 信を行うには、通信制御装置 scs を介して通信回線と接続していた。 SCS はコンビュータのチャネルに接続する CTMC (communication Terminal Module Controller) 、通信回線に接続する IM(Interface Module ) 、及びコンピュータの入出力チャネルを拡張し多数の端末装 置を接続できるようにする CTM(Communication Termina1 Modu1e) に より構成されていた。 CTM は最大 16 個まで CTMC の下に構成するこ とが出来、通信回線に対応させていた。 1 組の通信回線には送信機 能と受信機能のそれぞれの IM を持っ構成になっていた。したがって 1 台の SCS には送伊 伊各々 32 個の計 64 個の IM があり、最 ロ、 -. ヌ - ロ、 大 32 回線を収容することができた ( ハードウェア概念図参照 ) scs の構成の概念は次図参照 ユ七ュータ チャネル ←端末進信可泉信制御装罟 GOS ) パッコ自域 喘末自 CTM 1 喘末日 OTM 2 OP 凵 メモ」一 OTMO I 2 I 3 Ib'b4 OTM 16 喘末秤 N ードウェア概念図 320

4. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 3 部拡張 る勢いでコンピュータの普及が進みューザー要求機能も拡大の一途 を辿った。汎用コンピュータの利用分野は、バッチ処理からリアル タイム処理、さらにタイムシェアリング ( 遠隔地からの共同利用 ) を目指していた。 これら全ての分野に秀でた汎用コンピュータを作り出す技術はい まだ確立されて居らず、勢い各分野別に異なるアーキテクチャのコ ータが一時的に世に出されることとなる。 UNIVAC に例を取れ ンヒュ ば UNIVAC Ⅲ , UNIVAC 1108 , UNIVAC 494 がこれに当る。 異なる複数のアーキテクチャのコンピュータを開発・改善・維持 していくのは商業的に不可能であり、求められるトレンドは統一ア ーキテクチャの確立であった。 IBM は IBM 360 システムでこの問題 を解決したが、この面では UNIVAC は出遅れ、紆余曲折の結果最終的 には UNIVAC 1100 シリーズに収斂することとなる。 全日空プロジェクトはこの狭間に陥って大変な苦労を強いられた が、 UNIVAC 1100 シリーズを本当の意味での汎用コンピュータに育 てる上で、このプロジェクトは大きな貢献をしたといえる。 ( 2 ) UNIVAC 1100 シリーズの OS ・ EXEC 8 が目指したもの UNIVAC1108 は昭和 39 年 ( 1964 年 ) に発表された汎用第 3 世代コ ータであり、 OS は EXEC 8 、これはソフトウェアのアーキテク ンヒュ チャとしては現在まで続いている os の系譜での最初の製品である。 EXEC8 の開発は、当時の UNIVAC にとって技術的に大きな挑戦で、 開発決定までにさまざまな紆余曲折があったと言われている。販売 面では、発表以前にユナイテッド航空の PNR 座席予約を含む、総合 システムの受注が内定していた。このため UNIVAC 1108 自体がユナ イテッド航空の受注実現のための RPQ の結果であり、当時の UNIVAC マーケティングの実力者が「 G0 」の出たミーティングの終了に当た って、黒板を背景に出席者全員の写真を撮って証拠としたなどとま 146

5. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 5 部ユニバックあれこれ ES I に関しては萬澤さんに最初のドラフトを書いていただき、何人 かの技術の方々に情報提供を頂き完成させている。 6 項以降の GCS の開発の物語は、実際に開発を担当された方々 ( 秋 元、田中、永田、森分、清水、山崎、竹森、他 ) より情報の提供を頂 き私が取纏を担当した。時間が経っていることでもあり、各人の記 憶のばらっき等で結構難航したが関係者の協力で何とか取り纏める ことが出来た。関連した各位に感謝申し上げる。 1. 米国でのオンライン / リアルタイムの歴史 商用コンピュータの実現は、 UNIVACI が 1951 年に最初の客先で ある商務省国勢調査局に納入が行われた時に始まる。当初は大型、 小型を問わずバッチ処理、例えば会計、在庫管理等に使用されていた。 1950 年代の終りに向けて、コンピュータの性能は、リアルタイ ム通信の一角を占めるようになった。即ち、コンピュータは、メッ セージ交換、航空会社の座席予約、銀行預金口座のオンライン更新 を行うことが出来るまでに発展していた。 1958 年には、スペリーランドの真空管使用の U Ⅵ VAC ファイルコ ンピュータは、汎用コンピュータとして初めて航空会社の座席予約 処理に使用された。数年後に トランジスタがコンピュータブロセ ッサの構成素子として真空管に取って代わってから、 1961 年、海軍 戦略データシステム (Navy Tactical Data system : NTDS) のために 作られたコンピュータの民需版が UNI VAC 490 として販売され、さま ざまなリアルタイムアプリケーションに使用された。 2. UN IVAC のオンライン / リアルタイムを 支えた ESI モード 昭和 39 年 ( 1964 年 ) は日本でオンラインの実用システムが初め て稼動した記念すべき年である。その年に行われた東京オリンピッ 318

6. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 3 部拡張 5.2 UNIVAC 1110 の位置付け ( 1 ) アーキテクチャ ーこで NUK の経営に大きな変化をもたらした UNIVAC 1110 に関し 説明する。 U Ⅵ VAC は世界初の商用コンピュータ UNIVACI を世に出し たのみならず、 UFC 、 USSC 、 UNIVAC 418 、 UNIVAC 490 、 UNIVAC Ⅲ、 UNIVAC 494 、 UNIVAC 1108 と次々に斬新な機能を持っコンピュータ を世に送り出しており、その一つ一つはその時代をリードする優秀 なものであった。しかし、残念ながら統一アーキテクチャの確立が 出来ないままに推移し、 IBM360 のシステムアーキテクチャが発表 されてからは守勢に立たされていた。 ( 2 ) IC 時代への対応 一方、 IC の出現により世の中は急速に LSI 時代 , 、と移行する。 IC は高性能、小型、高信頼、低コスト等多くの利点があり、コンピュ ータそのものを大きく変革することとなる。特にオンラインリアル タイムー、の適用範囲の拡大に伴い、高性能化ー、の要求は日に日に強 くなっていった。コンピュータの処理スピードもマイクロセコンド のレベルからナノセコンドのレベルに移行してきた。処理スピード の限界は電子の移動時間であり、 1 ナノセコンドに 30 センチが電子 のスピードである。処理のスピードを上げるためにはコンヒ。ュ を構成する素子間の距離を短くする必要があり、 LSI 化は必然であ った。加えて素子のスイッチングタイムもスピードを上げるための 大きな要素であり、この面の技術も数多く研究開発されていた。 の時代ではスイッチングタイムと発熱量はトレードオフの関係にあ り、 IBM は大型コンピュータに水冷式をいち早く採用し、高性能の ータを世に送り出していた。 コンヒュ IBM を初め国内のコンヒ。ュータメーカ各社が IC 化の方向に動いて 1 06

7. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 3 章 IJNIVAC 1004 第 3 章 UN IVAC 1004 3. 5 受け入れ体制作り 3. 4 UN IVAC 1 004 のインストラクターズコース 3. 3 UN IVAC 1 004 カードプロセッサーの発表 3. 2 PCS について 3. 1 時代背景 3. 9 昭和 39 年度一 40 年度体制 3. 8 OUK ( 沖ユニバック株式会社 ) 発足 3. 7 RPM 制度のスタート 3. 6 UNIVAC 1004 サポートの為沖縄出張 3. 1 時代背景 高性能のタブレータの出現は NRU の願望でもあった。 IBM の 407 タフ。レータに苦杯を舐めさせられることが多くあった。 とほぼ互角に戦っていた。しかし、 UNIVAC の弱点はタブレータで、 pcs の世界では UNIVAC 120 の出現により、 NRU の健闘著しく IBM でしかなかった。 システムを持たないがために紙テープを入出力装置とした試作段階 れていた。国産各社のコンピュータ開発は開始されていたが、入力 したがって情報処理システムの分野は UNIVAC と IBM の 2 社に 2 分さ パンチカードに依存する pcs 全盛の時代であった。 システムは高嶺の花であり、コンピュータシステムのデータ入力は ていたが、まだまだ多くの企業にとって大型 / 中型のコンピュ この時代には一部企業ではコンピュータシステムの導入が始まっ

8. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 5 章 UNIVACIIIO ( 5 ) 客先状況 UNIVACIIIO の不安定が原因となって、長年 UNIVAC 機を採用して いた客先から三下り半を付きつけられるという不幸な出来事も発生 したが、 UNIVAC 機を選定された客先幹部の方々のサポートもあり、 辛うじて UNI VAC 1 1 10 時代を乗り切った。とはいえこの為には膨大 な NUK の人、物、金が投入された。次に幾つかの事例を紹介する。 5. 4 ソフトウェア関連 ( 1 ) ソフトウェアとハードウェアの関係 ータと OS 発展の歴史に関しては多くの文献が出ている コンピュ のでここで詳述することは差し控えるが、ホン・ノイマンがストア ードプログラムを提唱して以降、ソフトウェアの世界は肥大化の一 途をたどることになる。人類がコンピュータを有用な道具と認識し たことから、コンピュータに対する機能改善について数多くの要望 が出され、その多くがソフトウェアで解決されることで、ソフトウ ェアの肥大化を誘引した。その対応としてハードウェアの面からも 機能の開発が進められ、ハードウェアの高コスト化を導いた。そし て今度はその解決策としてハードウェア機能をソフトウェアで置き 換える。この様にしてコンヒ。ュータの性能が向上した結果として新 たな機能追加の要望が出てくることとなる。この繰返しに加えて、 ードウェアコンポーネントの世界では IC 化に代表される革新の ノ、 波が押し寄せ、コンピュータの世代交代を加速させた。 ( 2 ) EXEC 8 から OS 1 100 への変革 NUK は UNIVAC 1 108 を日本に導入した頃から、 EXEC 8 の開発セン ターにマーケットリエゾンを送り込み、技術習得並びに情報の収集 に務めていた。 EXEC 8 はそれなりに完成された素晴らしい OS であ 109

9. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 5 部ュニバックあれこれ 12 コンピュータ周辺機器技術に 携わって 完 石 大 私は、昭和 45 年 ( 1970 年 ) 以来、 UNI VAC 大型コンピュータの、特 に周辺機器の信頼性問題に取り組んできた。技術の発展の過程で、 コンピュータの初期には、こんな問題で悩んだ時代があり、それら を克服して今日の技術に発展したということを記録に残しておくこ とも意味があると思う。その中から 2 、 3 印象に残っている問題につ いて、紹介することとする。 1. 紙が鋼鉄製活字を食った話 ( プリンター活字の磨耗対策 ) 昭和 34 年 ( 1959 年 ) に日本に初めて導入された HighSpeedPrinter ( 以下、 HSP という ) は、 1 行 132 字、毎分 600 行印書できる高速 度プリンターということで注目を浴びた。この HSP は、当初、 UNIVAC FileComputer(UFC) 、昭和 35 年 ( 1960 年 ) に私が担当した UNIVAC Ⅱ に続いて UNIVAC solid state Computer (USSC) 、 UNIVAC Ⅲ、 UNIVAC 490 、 UNIVAC 1107 などで活躍し、相次いで多数導入されてきた。 これら HSP は、導入された顧客で膨大な帳票作成に威力を発揮し ていたが、いくっかの問題点がクローズアップされてきた。その一 つが、プリンターの活字磨耗であった。顧客先では、予め作表した フォーム紙の枠内に英数字や記号を印書するのであるが、年月等の 欄では、その年、或いは、その月いつばい同じ活字を使うために その活字だけが磨耗してしまう。 350

10. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 3 章 UNIVAC 1004 グラムはプラグボードによる配線で行っていたので、プログラムの 容量が足りない場合にはセレクターを使用して容量を増加すること ができた。 ) が付いていたが、切替え素子として水銀リレーを使用し ていたので、セレクターを使用する都度 5Msec の Delay 回路を起動 する必要があり、演算時間のみならず配線ミスを起こしやすかった。 そこで IC を使用した電子式リレーの高速セレクターによって、 De 1 ay 回路を起動することなしに使用できるようにした。 ( 2 ) UNIVAC 1004 紙テープ読取装置 ( 3 ) UNIVAC 1004 紙テープ穿孔装置 3 OUK ( 沖ユニバック株式会社 ) 発足 NRU が発足したときには、東京芝浦電気株式会社 ( 東芝 ) が株主 (20%) として参加しており、将来の UNIVAC 機器の国産化を視野に 入れた pcs のリビルドに着手していた。不幸なことに東芝と永年の 関係があった米国 GE がコンピュータ市場に参入したことを理由に 東芝は NRU から手を引いてしまった。 ータ市場に参入するに当たって当時 UNIVAC ( 噂では、 GE がコンピュ 社長の Dr . レーダをスカウトしたが、天下の GE が始めた以上遠か らず UNIVAC は GE の軍門に下るに違いない。したがって今無理をし なくてもその内 UNIVAC は手の内に入ることになる、との思惑から東 芝は NRU から手を引いたという。ともかくこのときの判断で東芝は ータの世界で大きく遅れを取ることになる。 ) コン・ピュ 当時通産省はコンピュータ産業の育成に当たり米国メーカーの技 術を提携により日本に根づかせる政策を考えており、国産会社の中 で独力ではコンピュータ開発に難があった沖電気と UNIVAC との提 携を示唆した。裏の話は不明であるが、 NRU は東芝の代わりに沖電 気と組むことになり、 UNIVAC と沖電気の合弁会社として昭和 39 年