時代 - みる会図書館


検索対象: 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史
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1. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 5 章 UNIVACIIIO ( 5 ) 客先状況 UNIVACIIIO の不安定が原因となって、長年 UNIVAC 機を採用して いた客先から三下り半を付きつけられるという不幸な出来事も発生 したが、 UNIVAC 機を選定された客先幹部の方々のサポートもあり、 辛うじて UNI VAC 1 1 10 時代を乗り切った。とはいえこの為には膨大 な NUK の人、物、金が投入された。次に幾つかの事例を紹介する。 5. 4 ソフトウェア関連 ( 1 ) ソフトウェアとハードウェアの関係 ータと OS 発展の歴史に関しては多くの文献が出ている コンピュ のでここで詳述することは差し控えるが、ホン・ノイマンがストア ードプログラムを提唱して以降、ソフトウェアの世界は肥大化の一 途をたどることになる。人類がコンピュータを有用な道具と認識し たことから、コンピュータに対する機能改善について数多くの要望 が出され、その多くがソフトウェアで解決されることで、ソフトウ ェアの肥大化を誘引した。その対応としてハードウェアの面からも 機能の開発が進められ、ハードウェアの高コスト化を導いた。そし て今度はその解決策としてハードウェア機能をソフトウェアで置き 換える。この様にしてコンヒ。ュータの性能が向上した結果として新 たな機能追加の要望が出てくることとなる。この繰返しに加えて、 ードウェアコンポーネントの世界では IC 化に代表される革新の ノ、 波が押し寄せ、コンピュータの世代交代を加速させた。 ( 2 ) EXEC 8 から OS 1 100 への変革 NUK は UNIVAC 1 108 を日本に導入した頃から、 EXEC 8 の開発セン ターにマーケットリエゾンを送り込み、技術習得並びに情報の収集 に務めていた。 EXEC 8 はそれなりに完成された素晴らしい OS であ 109

2. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

1 1 IJNIVAC のリアルタイムシステムを支えた GCS 開発物語 クで競技記録の集計、速報に IBM 1401 システムが使用されて成功 を収めオンラインシステムが実用になることが証明されたのであ る。これを契機に IBM と UNIVAC はオンラインシステムの熾烈な受 注合戦を繰り広げることになった。 後述するように当時 ( 1960 年代後半から 70 年代前半 ) は通信の 自由化以前の時代で、通信事業は電電公社 ( 現 NTT) が独占し、同 社の技術基準や機器認定制度等々外部制約が多々あり、加えてコン ピュータに通信を行わせるプロトコルの国際標準化も作業途上にあ ったので、 NUK では独自のプロトコルを制定するなど苦労が多かっ たが UNIVAC が持っリアルタイム機能の優秀さとハードウェア、ソ フトウェアの技術陣の創意工夫と努力に加えて営業陣の熱意により NUK は IBM を凌駕する実績を築きつつあった。 オンライン / リアルタイム時代の黎明期に何故 UNIVAC は IBM を 凌ぐことが出来たのだろうか ? それには幾つかの理由を挙げることが出来るが、何と言っても UNIVAC のハードウェアと OS が優秀であったことが第一に挙げられ よう。本章では IBM に無い UNIVAC のオンラインシステムの最大の 特徴、コンピュータと通信制御装置 scs (Standard Communication Sub ー system ) 間のデータの授受を制御する画期的方式 ( これは特許で もあった ) ESI モード (Externally Specified lndex Mode) につ いて簡単に紹介したい。 ESI 方式が何故画期的であったか。第 2 世代の UNIVAC のオンライ ン機能を持ったセントボール系のコンピ = ータの入出力は、入出力 装置を入出力チャネルに接続し、データの入出力は ISI(Interna11y Specified lndex) 方式、即ち、チャネルの番号に対応する入力用、 出力用の BCW(Buffer control word) により指定されたメモリ上のバ ッフア領域を通じて行なわれていた。したがって、同時に接続でき 319

3. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 2 部成長 は想像に難くない。どのような話し合いがもたれたかは不明だが、 結論としては三井物産が乗り出すこととなり、三井物産と米社とで 合弁会社 (NRU) を設立し NRU がレンタル資産を買い取る、 YKK は米 国レミントン・ユニバック社に関わるすべての事業は NRU に移管す るということであった。 これによりこの事業の推進は吉澤審三郎から長澤昇三 ( 三井物産 機械部門担当副社長 ) に移ったことになる。長澤は NRU の初代社長に 戦後三井物産解散時の社長であった宮崎清氏を担ぎ出し、 NRU の会 社としての格付けを行うと共に、 NRU は三井物産が全面的にサポー トしている会社であることを内外に鮮明にさせた。 この時代は情報処理分野では pcs 全盛の時代であったが、米国で は大型 / 中型コンピュータの客先への導入が始まっており、日本でも 営業活動が開始されていた。当時発表されていた機種は、 ・ UNIVACII (UII) ・ Univac File Computer(UFC) ・ Univac Solid State Computer (USSC) の 3 機種で、共に時期の差はあるが日本へも導入されている。 1. 2 コンピューティング化へ向けて —Univac FiIe Computer (UFC) 導入 この秋には山一證券、小野田セメント、日本国有鉄道、日本通運 の 4 ヶ所への UFC システムの納入が決まっていた。この導入準備の ための H / W 、 S / W についての勉強を目的に、この年度に数名の人々が 派米されることとなった。 UFC の H/w は昭和 33 年 ( 1958 年 ) 10 月に松山俊介、森正宗、赤須 通雄、妹川和夫の 4 名、 USSC の H / w は昭和 34 年 ( 1959 年 ) 2 月に久 松敬一郎、小原脩司の 2 名、 USSC の s / w は米ロ肇が選ばれ渡米した。 当時赤須は大阪支店技術課係長 (YKK では技術課長だったが、 NRU 32

4. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 5 部ユニバックあれこれ はなかったかと思い、有り難く感謝した。 とって、またーっの社会勉強となった。 こで私のような若者に 赤須さんのように早くから記録資料を保管する心掛けが無かった ので、 48 年前の記憶を辿りながら当時の状況を真剣に呼び戻そうと 努力したつもりであるが、もし記憶に間違いが有ればお許し願いた い。私はユニバックという会社に入り、生涯を過ごすことができた が、会社は時代の変遷に伴い、時代の要請に応えつつ、拡大発展し て現在に至っていることは、皆さんご存じの通りある。それぞれの 時代に各自ベストを尽くして来た結果の連続であり、それゆえに成 果を結んだと思う。私は初期の時代の一端を、責任を持って担った と思っている。 222

5. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 4 章 第 4 章新しい時代に向けて 新しい時代に向けて 4. 1 赤坂時代の始まり 4. 2 テクニカルマーケティング部に改名 4. 3 ADAGE Graphic DispIay 4. 4 システム開発本部発足 4 1 赤坂時代の始まり 昭和 45 年 ( 1970 年 ) 3 月には新本社ビルとして建設が進んでいた赤 坂のユニバック・ビルが完成し、更なる飛躍に向けての新しい時代 に突入する。この年の 9 月 26 日には念願の東証二部上場を果たして いる。〔昭和 46 年 ( 1971 年 ) 8 月 2 日に東証一部に指定替え〕 同じ年の 9 月 28 日に伊豆エグゼクティプセンターの開所式が行わ れた。それまで猛威を振るっていた IBM の、天城センターに対抗し うる施設を持っこととなった。 4. 2 テクニカルマーケティング部に改名 新本社ビルへの移転に先立っ 2 月の組織変更で、開発部はテクニ カルマーケティング部に名称を変更し、開発担当、 DACS (Data Acquisition&ControI System) プロジェクト担当に加えて新たに商 品管理担当を新設した。この組織変更時に赤須は営業推進本部副本 部長に昇格し、テクニカルマーケティング部長を兼務した。この時 期から赤須は開発部門の作業から徐々に離れざるを得なくなり、新 設した商品管理部門の作業に忙殺されるようになっていく。

6. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 2 章ブライアント社製のディスク問題 第 2 章プライアント社製の ディスク問題 5 米国での作業 4 プライアント・ディスクの検収実施 2. 3 プライアントに関する開発部の関与 2. 2 問題点 2. 1 時代背景 2. 1 時代背景 2. 2. 展していたプライアントの大容量ディスク装置に目を付け、調査を この当時 NUK の商品企画の人間が欧州のハノーバー・ショウに出 いる限り防戦の手段がなく窮地に追い込まれていた。 IBM の攻撃にさらされ、 NUK は UNIVAC のプロダクトをベースにして 特に大規模な顧客べースを持っ会社 ( 東京ガス、大阪ガス等 ) が 2. 2 問題点 ラムペースの UNIVAC はディスクベースの IBM に差を付けられ始めて いた。すなわち大容量の記憶装置に対する要求が高まっており、ド 主流ではあったが、オンデマンドのデータ処理への移行が始まって 利用される時代に移行していた。いまだ磁気テープペースの処理が どり、 PCS は小規模の情報処理ないしは情報入力手段の一つとして この時代には、電子計算機システムの利用範囲は拡大の一途をた

7. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 3 章 IJNIVAC 1004 第 3 章 UN IVAC 1004 3. 5 受け入れ体制作り 3. 4 UN IVAC 1 004 のインストラクターズコース 3. 3 UN IVAC 1 004 カードプロセッサーの発表 3. 2 PCS について 3. 1 時代背景 3. 9 昭和 39 年度一 40 年度体制 3. 8 OUK ( 沖ユニバック株式会社 ) 発足 3. 7 RPM 制度のスタート 3. 6 UNIVAC 1004 サポートの為沖縄出張 3. 1 時代背景 高性能のタブレータの出現は NRU の願望でもあった。 IBM の 407 タフ。レータに苦杯を舐めさせられることが多くあった。 とほぼ互角に戦っていた。しかし、 UNIVAC の弱点はタブレータで、 pcs の世界では UNIVAC 120 の出現により、 NRU の健闘著しく IBM でしかなかった。 システムを持たないがために紙テープを入出力装置とした試作段階 れていた。国産各社のコンピュータ開発は開始されていたが、入力 したがって情報処理システムの分野は UNIVAC と IBM の 2 社に 2 分さ パンチカードに依存する pcs 全盛の時代であった。 システムは高嶺の花であり、コンピュータシステムのデータ入力は ていたが、まだまだ多くの企業にとって大型 / 中型のコンピュ この時代には一部企業ではコンピュータシステムの導入が始まっ

8. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

第 3 部拡張日本ユニバック株式会社 ( NUK ) 時代 第 1 章組織改編 1. 1 開発部門、開発室から開発部に昇格 1. 2 ユニバック総合研究所発足 第 2 章プライアント社製のディスク問題 2. 1 時代背景 2. 2 問題点 2. 3 プライアントに関する開発部の関与 2. 4 プライアント・ディスクの検収実施 2. 5 米国での作業 第 3 章三菱電機との提携 3. 1 発端 3. 2 幻のスクープ 3. 3 金曜会での事 3.4 NUK の組織対応 3. 5 三菱電機との製品開発 第 4 章新しい時代に向けて 4. 1 赤坂時代の始まり 4. 2 テクニカルマーケティング部に改名 4. 3 ADAGE Graphic Display 4. 4 システム開発本部発足 第 5 章 UN ー VAC 1 1 1 0 5. 1 UNI VAC 1 1 1 0 5. 2 UNIVAC 1110 の位置付け 5. 3 UNIVAC 1110 の問題点 5. 4 ソフトウェア関連 5. 5 ハードウェア関連 第 6 章システム統括本部発足 6. 1 システム統括本部発足 89 90 -1 っ・」っ」 00 9 9 9 尸 0 c.D 8 8 1 02 1 03 105 106 107 1 09

9. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

4 私の UNIVAC 物語 年、 40 年というような例も珍しくはなかった。 こんな暮らしが続く中で、わが社の社名は「日本ュニバック株式 会社」と変わり、電話で名乗るのに苦労していた「長い名前」から 解放され、「ユニバック」というロに馴染みやすい呼び名に変わっ た。赤坂に念願の本社ビルも建ち、我々若手社員もおおいに士気が 盛り上がった時期だった。 「より質の高い予防保守」と「命中率の高い故障原因の解明技術」 という二つの技を磨くことでユーザーの評価を得て、自らの満足も 高まるというのがカストマーサービスの喜びの原点だった。 この時代に仕事を通じて学んだ「コンピュータの構造に関する知 識」「論理回路の概要」「高速の入出力装置の中核にあるメカトロ ニクスの数々」などは、後の時代にいろいろな点で役に立っている し、退職後にも役に立っことが多い。 また、サービスという活動を通じてのユーザーとのリレーション の中から学んだことは数多く、私生活の中でも自分がユーザーの立 場になった時に役立っことが多かった。 ( 2 ) 1100 シリーズを中心としたカストマーサービスー 1 〔昭和 50 年 ( 1975 年 ) ~ 昭和 53 年 ( 1978 年 ) 頃〕 時代はバッチ処理の時代から「オンラインリアルタイム」の時代 にシフトし始め、 UNIVAC Ⅲのユーザーは、当社の上位機種に移行し たり、他社機に入れ替わったりが進んできた。最盛時 16 台あった国 内の UNIVAC Ⅲも徐々に減少し、我々担当者もいろいろな機種や業 務にシフトしていった。幸か不幸か私は最後のフェーズを任された 何人かとなってしまったが、当時マーケットの主流にあった後継機 種 1 100 シリーズのサービスを平行して行うことになった。 約 3 ヶ月の教育を受講してサービスを開始したときの担当ューザ ーは、都内の中堅証券会社と製造流通系の CAD や生産管理などに 257

10. 私とUNIVAC 日本における電子計算機の歴史

6 UNIVAC の ON-LINE の実績とその特徴 中でも、国鉄において試行したわが国初の専用回線による「 2 , 400 ビット / 秒」の実験は、丸の内の国鉄本社中庭に建ててありました「丸 い円形状の電子計算機室」と大阪支社とを UNIVAC 490 と UNIVAC 1004 間を国鉄の専用回線を用いて行った高速データ通信実験の成功の話 題は、電電公社 ( 現在の NTT) 独占時代の通信回線サービスに「高 速時代」の幕開けのきっかけを与えました。 一方、非金融業界 ( 製造、産業分野 ) におきましても、石川島播 磨重工業の TSS の開始、花王石鹸の物流 / 流通オンライン、川崎製 鉄・千葉製鉄所の熱延工程 (HOT-MIL) 厚板システム、水島製鉄所の 冷延工程オンライン、三菱自動車工業の生産管理オンライン、三菱 重工業の TSS 等々数々の実績を作り上げまさに「 ON ー LINE の UNIVAC 」 の名前をほしいままにしたと言っても過言ではないと思っています。 また、これらの ON ー LINE システムには、それぞれ特徴があり、 UNIVAC 製品だけで構築した「クローズした ON-LINE 」ではなく、ユーザの 要求を 100 % 取り入れた他社のシステムとの「オープン型の ON-LINE 接続」が大きな特徴でもありました。 NUK では、沖電気との端末の 共同開発提携、同じく三菱電機との共同開発の提携などを通して、 沖電気製端末、三菱電機製端末、オリべッティー製端末などが接続 されてきました。 このような実績の根源となった背景は、 ON-LINE に強いリアルタ イムソフトウェアの完備と当時の通信回線サービスは電電公社 (NTT) 独占時代であり、その NTT が提供する各種の通信回線サービ スと通信網への接続対応技術にあったと思います。 以下に、その 0N ー LINE の実績技術である「ネットワーク接続技術」 「他社システム接続技術」につき説明をしたいと思います。 あくまで当時の技術対応であり、今日の「 web コンヒ。ューティン グ時代」「ユビキタスネットワーク時代」の超小型、どこでも、誰で も、何時でも、何でも・・・といわれる世界、宇宙を超越したネットワ 277