第 3 部拡張 信郎→佐々木勉→安藤博と受け継がれ、その後一時斎藤正治 が責任者となった時期もあったが、おおむね佐々木勉、安藤博が組 織改変に応じ、交互に勤めた。実務は新野清嗣以下のスタッフ ( 中 心は新野清嗣、芝崎信治、三保谷允 ) が担当し、 SSA の解体まで継 続した。 SSA は最大では 15 名程度の陣容であった。なお、「プロジ ェクトマネジメント」研究の専任として斎藤剛伸、佐ロ功が加わっ た時期もあった。余談ではあるが、 SSA は佐々木、安藤、新野の 頭文字を組み合わせたとも言われた。一時、斎藤が責任者となった 時期は「政策立案グループ」の斎藤、佐々木、安藤の頭文字で「 Big SSA 」、「実務グループ」の安藤、新野、芝崎の頭文字で「 Small SSA 」 とも呼ばれた。 6. 4 赤須の困惑 昭和 48 年 ( 1973 年 ) 4 月にシステム統括本部が富田本部長、赤須副 本部長で発足し、一年後の昭和 49 年 4 月には赤須が本部長に就任した。 この組織にはソフトウェア ()s 、 (P) 関連部に加えて営業本部に 所属していた SSA 機能が移管され、 SSA 機能は全社を対象とする機 能に格上げされた。 この時までは赤須のシステム職種に関する関与も、プロダクト開 発に関連するソフトウェア開発部門に限定されていたのが、一挙に システム職種の最高責任者に就任したことになる。 技術部門、開発部門を通じて赤須は担当部門での一級の技術者に なることを目標として努力し、自分の持っ技術力をベースに部門の マネジメントにも自信を持って対処してきた。しかし、システム職 種に関しては知識が欠落しており、今までのやり方では到底システ ム部門のトップの座を全うすることが出来ないことは明らかであった。 そこで、先ずはシステム部門の抱えていた悩みを自分の悩みにす 120
第 1 章 NRIJ では三井物産の基準を適用するということで係長へ降格されたが、 課の責任者としての地位は変わっていない ) 、妹川は大阪支店技術課 主任であったが、 2 名とも渡米中に東京への転勤発令が出され、と もに翌 34 年 6 月 2 日に帰国し、本社技術第四課に着任した。松山は 先に帰国しており要員の確保を初めとして、システムの導入準備に 掛かっていた。渡米中の出来事は別のメモに纏めることにし、 では帰国後の出来事をメモすることにする。 当時 pcs ( 含む UNIVAC 120 ) の導入は非常に活発で技術陣の要員 は払底していた。それだけに新機種に要員を割くのは現場の抵抗が 強く、数名の要員を捻出するのがやっとであった。一方山一證券、 小野田セメントへのシステムの導入時期は迫っており要員の確保は 愁眉の急であった。結局山一證券は渡米組の森、妹川に吉田破魔夫、 他 2 名の 5 名で担当し、小野田セメントは渡米組の赤須に横前俊生、 秋元貞元の 3 名で担当することになったが、インストール時には米 国から応援の技術者 2 名を呼んで対応した。 ( 米国でも要員が払底し ており FED(FieId Engineering Division ) からの人選はできず、工 場のシステムテストフロアの技術者が来日した。非常に人柄の良い 人物であった。 ) 松山は本社で諸々の管理業務に追われ、現場に出る ことは少なかった。 小野田セメント 小野田セメントの電算機部門はその名を遍く知られた南沢氏がト ップで、設備面で厳しい状況でのインストールを余儀なくされた。 通常は大型のコンピュータではプリインストールエンジニアと 呼ばれる機械の設置環境の構築を客先にサポートしており、米国か ら専門家を呼んで小野田セメントと折衝を重ねた。しかし、南沢氏 の同意を取ることができず、これでは責任は持てないと専門家を嘆 かせたままの環境でシステムの設置を余儀なくされた。 33
1 私の UNIVAC 物語 1 私の UN IVAC 物語 田中 稔 私は昭和 29 年 ( 1954 年 ) 2 月 1 日、吉澤会計機に入社した。 この年の 12 月に UNIVAC 120 の国内導入 1 号機、 2 号機が東京証 券取引所と野村證券に納入された。そして 3 号機の UNIVAC 60 が東 北電力に納入される予定であった。 UNIVAC 60 / 120 は日本における ータ実用のまさにさきがけとなった機種である。東京にお コンピュ いては 1 号機、 2 号機を設置稼働させるために、アメリカ留学から 帰えられた富田さん、私と同時期に入社した久松さん、米国から応 援に来られたフィニンジャー氏の 3 人が、同時並行作業で奮闘して いた。私は現場で彼等の作業を見ながら、分厚い英文のマニュアル ( コンピュータの電子回路の解説 ) を首っ引きで読みながら、理解 していくのが精一杯であった。 3 号機を稼働させるために私が任命され、翌 30 年の 3 月頃仙台に 赴任することになった。仙台では、富田さんの指導のもとに一緒に 仕事をすることになった。富田さんは奥さん同伴で既に私より前に 赴任して、住まいを定めていた。 富田さんが私を連れて東北機械計算におもむき、役員の方々に紹 介していただき着任を報告した。そして同社のほかの方々にも挨拶 をした。また東北電力におもむき、システム導入に関わった責任者 の三浦氏及び岸氏にお会いし、挨拶をした。 下宿は、既に赴任していた赤須さん、小貫君と合流し、 3 人一緒 ーで赤須さん に米が袋のおばさんにお世話になることになった 達と同じ釜の飯を食い、胸襟を開き友情関係を作り上げた。おばさ んは秋田の人で、よく面倒をみてくれて、まるで我が家にいるよう 219
第 3 部拡張 ともあれシステム本部はシステム職種の人々にとっての心の故郷 リソースマネジメントを含む人事権はシ と言う意味合いはあった。 ステム本部にあるというルールではあったが、日々のセールスの戦 場で戦っているのは営業であり、「営業の無理は何でも通す」という 感覚が強い営業との軋轢は避けて通れないものであった。 7. 3 経営悪化 昭和 48 年 ( 1973 年 ) から昭和 52 年の大亦社長時代は、 UNIVACIIIO を初め、軒並みの欠陥商品に足元をすくわれ、 NUK の経営は悪化の 一途を辿っていた。この事が営業本部内部のオペレーションを難し いものにしていた。 昭和 52 年 ( 1977 年 ) 6 月には福永社長が就任し NUK の建て直しに着 手する。この時に経営体制として三井物産、 UNIVAC 、 NUK プロバー より各 1 名の 3 専務制となり、永田、カサノバ、井上が専務に就任する。 昭和 53 年 ( 1978 年 ) の組織変更で、井上はライン部門の責任者と してライン部門長を兼務することとなり、マーケティング本部長に 就任、広末営業本部長、赤須システム本部長はマーケティング本部 この時点でシステム職群の一本化の動きに終 副本部長に就任した。 止符が打たれた。 昭和 50 年 米国建国 200 年祭行事の打合せ ミネアポリスの湖上にて 吉村賢一江口保定赤須通雄 井上敏治広末カ津上中作 124
第 9 章全日空プロジェクト の岡田の認識は、 ・ RTOS は、未熟で稼動の見込みが立たず、 UNIVAC 社全体の予 算も逼迫していること。 ( 全日空プロジェクトが RTOS のカ ギを握ることになること ) ・ Harry Sweere 率いる AirIine Operations (AO) は、 USAS を設計するためのノウハウはあるが、 PNR 座席予約のよう な大規模ソフトウェア開発については見通しが甘く、開発 責任者の ReganCampbell は、アプリケーションに強く勉強 もしているが、納期や移行についてはいささか感覚が古い ソフトウェアマンであること。 ・ローズビルには H i gh Vo lume OLTP のノウハウがないので、 EXEC8 のアーキテクチャでは実現不可能とされていること。 ・ 1 100 シリーズ標準 OS での PNR 座席予約システムの実現に は、世界の航空業界の座席予約関係者が強い関心、という より実現の可能性についての疑問を持っており、カットオ ーバー延期申し入れのタイミングを誤ると全日空社は「キ ャンセルー IBM 採用」の路線を取ると予想されること。 ( 事 実、日本 IBM も含め IBM は実現不可能と見ており、いずれ UNIVAC はギフ。アップして、全日空が IBM に泣きついてくると 判断していたことが、プロジェクト発足後すぐに分かった。 ) 昭和 50 年 ( 1975 年 ) の 4 月に全日空の内示を受け、いよいよ待っ た無しの窮地に追い込まれた営業は、 TOP 折衝で広末営業本部長が 赤須システム本部長に膝詰め談判で岡田の割愛を要請した。この結 果 5 月には業務命令で岡田は全日空プロジェクト部長に就任する。 またシステム本部は岡田の放出に伴いソフトウェア開発部を廃部せ ざるを得なかった。 岡田はプロジェクト部長就任後考えられるあらゆる手を打った。 165
第 9 章全日空プロジェクト この場で福永社長は挨拶もそこそこに 「今 Probst 社長からこういうことを言われた。 どうなんだ ! 」 と凄い剣幕で一同は説明に窮した。 その時の話の骨子は、全日空プロジェクトは、 UNIVAC 、 NUK 、全日 空の共同開発プロジェクトであり、 3 者が平等のリスクを持ってい る。これはこの業界の常識である。 10 月 28 日のカットオーバーは グッドチャンスであるにも拘わらず、ギブアップしたのは NUK 、全 日空であり UNIVAC に責任は無い。概略すれば以上のような事を言わ れたようである。 社長は「それはおかしい。もともとこの商談は UNIVAC のもっ豊富 な経験とノウハウを結集した USAS ・ RES をベースにしたものであり、 UNIVAC の提供するプロダクトの開発遅れが原因である。」と反論し 舌は平行線で噛み合わなかった様である。 たようであるが、 この時 から全日空プロジェクトは社長の大きな関心事となり、陰に陽に関 与することとなる。 ( 3 ) 福永社長の認識 社長の常識からすれば、如何に共同開発とはいえ、プロダクトサ プライヤとエンドユーザーとの責任がイーブンと言うことは納得し 難いことであり、このプロジェクトが持っ NUK の経営に及ぼすイン パクトの大きさから考え、このまま引き下がる訳にはいかなかった と思われる。そこで社長が取った次の手段は、共同開発プロジェク トであるならば、一番豊富な経験とノウハウを持っ UNIVAC からプロ ジェクトリーダーを出して欲しい、福永が責任を持って NUK 社員を UNIVAC 派遣のプロジェクトリーダーに全面協力させる、というオフ ァーであった。社長の腹には、及び腰の UNIVAC を引っ張り出し、よ り大きな責任を持たせる、と言う思惑があったと思われる。このオ ファーには UNIVAC も驚いたと思われる。 一三ロ 1 7 1
第 9 章全日空プロジェクト EXEC8 のアーキテクチャでは航空業界で要求されるような High volume OLTP を実現することは不可能である。 ・前提 2 RTOS 提案の中にある新しいソフトウェア開発方法論ならば計 画通りの納期を守る事ができる。 この内、「前提 1 」はゴウチョウ ( NeilGorch 。 w ) の総責任者として の認識、「前提 2 」は、 LDC の責任者になったマック (Ed. Mack) のコ ミットメントであった。この二つの前提は非常に重いもので、「前提 2 」の納期が守れなかった時点で提案者であったマックとその一派は 退職する。 一方、「前提 1 」の方は、後に全日空のシステムが HVTIP によって カットオーバーすると、ゴウチョウほか関係者たちに重くのしかか ることになる。「 HVTIP の標準 OS , 、の組み込みが遅れたのは社内ポ リティックスから来た歪み」と言われた理由はこの辺にあるらしい。 責任者交代の後も RT()S の開発は続けられるが、二つの OS 開発の 負担が UNIVAC 社にとって大き過ぎることは、時間の経過と共に次第 にはっきりしてきた。しかし、 1100 シリーズの OLTP の機能をどう するかは常に全社をあげての議論でありながら、良い智恵もなく、 常に結論を先送りする結果となっていた。ローズビルの開発部門も EXEC8 を捨てて新 OS に賭ける検討をしていた時期があったようだ。 恐らく RTOS を引継ぐことであったろうと思うが、定かではない。 ( 5 ) 全日空プロジェクトの果たした役割 全日空のシステムを受注した後、 NUK と U Ⅵ VAC 社の決断によって、 HVTIP 開発を日本で実施することで、契約が取り交わされた。 その結果、 1100 OS(EXEC 8)/HVTIP をベースに全日空の PNR 予約 システムは昭和 53 年 ( 1978 年 ) 11 月にカットオーバーし、その年
第 2 部成長 所があり、フィラデルフィアはバッチ系のシステム、セントボール はオンライン系のシステムを開発しており、 UNIVAC Ⅲはフィラデル フィア開発、 UNIVAC 490 はセントボール開発のシステムであった。 これらシステムの責任者の選定はこの点を考慮し、 UNIVAC Ⅲの責任 者はセントボール系の UFC グループより秋元を、 UNIVAC490 の責任 者はフィラデルフィア系の USSC グループより土屋篤を年末には選 営業・技術のスタッフ部門を本部とし、ライン部門は東京第一 部制の採用である。 昭和 37 年度 ( 1962 年 ) に東京では大きな組織変更が行われた。本 2. 7 本部 / 営業所体制 中道雄、池田元久の 3 名が派米されている。 ) ( 昭和 3 7 年の 1 月には秋元以下 4 名が、 8 月初旬には土屋以下、 任し体制作りに入っている。 田 44 ( 昭和 37 年度の技術関連の陣容は、参考資料 364 頁を参照 ) ニカルオペレーション ( テクオペ ) の前身である。 課長、久松のアイディアで関連課が誕生した。後の技術部門のテク したものだが、カタカナの課名にするのは抵抗があり、この新設課 イビジョンのスタッフ機能のエンジニアリングリエゾンをイメージ ては、 UNIVAC の保守担当部門であるフィールドエンジニアリングデ 関連課、この耳慣れない名前を決めたのは久松である。機能とし 他に企画課、関連課を新設しスタッフ機能の充実を目指した。 対応の一体化を図った。このときに技術部門のスタッフは教育課の 業所 / 東京第二営業所に業種で分け、営業・技術を一緒にして客先
第 8 章商品開発 する不信感から、国内開発を主張し続けていた。 判断に困った赤須はスペロニのアドバイスもあり、たまたま来日 していたゴウチョウ ( 当時の UNIVAC 社プロダクト企画の責任者 ) に 相談した。ゴウチョウのアドバイスは、 AD ( UNIVAC 社の米国内のマ ーケティング担当部門 ) も同じ悩みを抱えている。 AD も NUK と同様 にリアルタイムパッケージを AD が開発し米国内の客先に提供して いたが、 ATT のベル・ラボラトリの要求に応えるために TIP と言う リアルタイムパッケージの新規開発のコミットをしており、人的リ ソース難で困っている。そこで NUK からも人を出して共同開発した らどうか、その上で AD と NUK が一緒になって圧力を掛ければ UNIVAC の開発部門も標準製品として取り上げざるを得なくなるのではない か、というものであった。 大変に魅力的なオファーだったので、その案に応じれば NUK の要 望が満たされるのか否かを見定めるために、 TOPS の開発責任者であ った大野信と EXEC8 の第一人者である黒田純一郎の 2 名を調査のた めに米国に派遣した。 2 名の調査の結果は、 TIP の仕様は素晴らしい ものであり、開発が成功すれば充分に NUK の要望を満たすものであ る、というものであった。非常に大きなリスクを抱えていたが、当 時の NUK の体力からみても全力で TI p の開発に取り組むのがベスト であるとの結論に達した。 この結論に達した要素の 1 っとしては、天下のベル・ラボラトリ にコミットされているので、開発途中でギブアップすることは無い であろうとの判断があった。第一段として橋本圀彦をへッドとする 10 名の開発要員を開発現場のベル・ラボラトリに送り込み、更に 10 名の要員を追加派遣している。 この間赤須は UNIVAC 1100 システムの開発センター ( ローズビル 開発センター ) の責任者であるイーダムと膝詰め談判を行い、ロー ズビル開発センターが TIP を標準製品としてサポートする約束を取 139
第 9 章全日空プロジェクト しながら説明を行う自転車操業に近い状況であった。 USAS に関して はミネアポリスの AO から Regan CampbeII 及び paul sandve が来日 し、 USAS の機能仕様書 (Function specification) の説明や営業活 動に関する支援・助言を受けることが出来た。 RTOS ・ USAS ともに何とか客先に概要レベルの説明が出来るように なった頃、全日空での検討も本格化しはじめた。 ( 2 ) 売込み競争 UNIVAC ・ IBM ・日立の三つ巴のコンべであった。当時の全日空情報 システム部長の寺本氏を中心に、 10 ~ 15 名程度の専任チームが組織 され、 3 メーカーへの対応責任者が次の様に配置されていた。 UNIVAC 担当 : 種橋氏 IBM 担当 : 豊口氏 : 加賀氏 日立担当 寺本氏と社内競合関係にあり情報システム部長も担当された坂手 氏を中心とした日立派の勢いがたいへんに強く、最後は UNIVAC vs 日立の争いとなった。 昭和 50 年 ( 1975 年 ) 3 月に、「 UNIVAC に決定する」旨の内示を受け た。セールス開始から 2 年を要する長期戦であった。 RTOS ・ USAS と もに少ない情報の中で評価され決定されたのであるが、今から考え ると消去法による UNIVAC 選択であったろうと想像される。 ・ IBM : JAL の後塵を拝するので採用したくない ・日立 : 昭和 39 年からの主メーカーではあるが、ェアラインアプ リケーションの先進性に欠け、世界標準からかけ離れてしまう ので採用したくない ・ UNIVAC : 積極的に採用したいわけではないが RT()S ・ USAS がある 加えて、武蔵、長谷川の両営業マンの息が長く粘り強いセールス 活動による勝利であった。 159