第 5 章 UNI VAC 1 1 1 0 5. 1 UN IVAC 1 1 1 0 第 5 章 UNIVACIIIO UN IVAC 1 1 1 0 5. 2 UNIVAC 1110 の位置付け 5. 3 UNI VAC 1 1 1 0 の問題点 5. 4 ソフトウェア関連 5. 5 ハードウェア関連 5. 1 20 世紀後半の世の中の変化は、誰も予測することができなかった 規模とスピードで推移する。この激変は人間がコンピュータを道具 として使い始めたことと無縁ではない。全ての分野での革新が怒涛 の勢いで始まり、あれよあれよと言う間に世の中は変貌を遂げた。 ータ自身も例外ではなかった。正直なところ UNIVAC はこの コンヒュ 潮流に乗り遅れた感がある。これを端的に現しているのが UNIVAC 1 1 10 であった。 この時から NUK の長い苦難の道が始まる。次から次へと大きな問 題が発生し、 NUK の全社員が問題解決のために翻弄されることとな る。 昭和 47 年の組織変更で、赤須はシステム開発本部の副本部長から 本部長に昇格した。この変更は本部長の富田がライン部門のシステ ム関連マネジメントを担当することになった為である。この結果 赤須はプロダクト問題の責任者として、この年に導入が開始された UNIVAC 1110 に纏わる問題解決の矢面に立っこととなった。 105
第 5 章 UNIVACIIIO いたのに対し、 UNIVAC は IC 化で大きな遅れをとっていた。この当 時の UNI VAC 社のハイエンドコンピュータは UNI VAC 1 108 であり、素 子はトランジスタとダイオードが使用されていた。世の中の高性能 機の要求にはもはや U Ⅵ VAC 1108 では応えきれず、後継機としての UNIVAC 1 1 10 の導入が NUK にとってはハイプライオリティの要求で あった。 5. 3 UN IVAC 1 1 1 0 の問題点 ( 1 ) 1 号機導入 UNIVAC 1110 は昭和 45 年 ( 1970 年 ) 11 月に発表されたが、開発が 大幅に遅れ、 1 号機が NUK データセンターに導入されたのは昭和 47 年 ( 1972 年 ) 4 月であった。しかも未完成品の政策的導入であり、デ ータセンター設置後も改修作業が続いていた。 ( 2 ) 客先導入 客先へは昭和 47 年 ( 1972 年 ) 9 月に東京電力、近畿日本鉄道に導入 された。 この段階でも安定性に乏しく、客先並びに NUK の多大な努力のす え稼動に漕ぎ着けている。バッチ、リアルタイムの処理は使われる プログラムが或る程度固定されるので安定稼動までの時間は比較的 短くて済むが、どのような使われ方をするかが予測出来ないタイム シェアリングュース (TSS) では、大きな問題が生じるのではと心配さ れていた。これに対処するために NUK の技術陣 ( 1 100 ソフトウェア 部 ) は過酷なテストパッケージを開発した。 UNIVAC 1 1 10 を、最初の TSS ュースの客先であるトヨタ自動車株 式会社に納入したのは翌 48 年の 3 月であった。心配していたとおり テストを開始した時の MTBF ( ェラー発生から次のエラー発生迄の平 107
第 3 部拡張 均時間 ) は秒のレベルで、分のレベルに至るまでに 1 週間、 の大台に乗ったのは 1 ヶ月経過後であった。 ( 3 ) オペレーティングシステムの安定化 1 時間 この時点までのトラブルの大半は 1100 OS ( オペレーティングシ ステム ) のバグによるものである。 UNIVAC 1 108 の OS である EXEC 8 は稼動後 5 年を経過し安定していたが、 UNIVACIIIO の OS はハ ウェアの変更に加え多くの機能を追加したため全面書き直しを余儀 なくされていた。このため多くのバグを抱えていたわけであるが、 NUK の努力の賜物か急速に安定稼動へ移行することが出来た。とは いうものの、この時点では予定されていた機能が全て組み込まれて いた訳ではなく、長期間に亘り OS のバージョンアップの都度新たに 発生するバグ潰しに多大な努力を傾注することになる。 グの IC は高発熱の素子しかなく、 ドウェアの弱点が目立ってきた。 ードウェアの安定化 UNI VAC 1 1 1 0 のハードウェアは水 当時の技術では高速スイッチイン OS がある程度安定してくると、 ()S の MTBF の陰に隠れていたハー 108 掛けることになってしまった。 改修作業がいつまでも続き、安定性の面も含め客先に大変な負担を FCO (FieIdChange0rder) が次ぎから次ぎへと発行され、客先での から出てきた。こうしたことが原因で客先設置後も長時間を要する に、多くの機能を追加していたのでロジックの不具合が、後から後 たが、安定して動作するロジックがなかなか確定しなかった。さら 機としては主記憶装置に初めてプレイテッドワイヤメモリーを用い 思考錯誤の繰り返しで安定稼動まで長時間要した。また、商用大型 冷方式を余儀なくされていた。この種のノウハウは UNI VAC にはなく、
第 5 部ユニバックあれこれ ーク時代とは、かけ離れたシステムでありますが、今日のネットワ ーク技術の歴史を作った基盤であると確信しています。日本ュニバ ックのオンラインの強さが理解できれば幸いであると思います。 1. 世界的特許「 E モード」の評価 米国の軍事産業では UNI VAC のコンピュータが多く採用されてい ます。 その実績の多くは、 ESI モードという優れた技術が使える事が大 きいといわれています。 ESI モードとは、外部からの情報 ( 回線からのデータ ) を自動的 に、回線と論理的に合致したアドレスを指定して、そこのアドレス ( 回線名、入力データ件数、終わりのデータの指定 ) に従い、該当 するメモリーに回線からのデータが記憶されるという自動回線デー タ遠隔制御であります。この方式は当時の他社システムでは回線制 御をソフトウェアにて対応していたのに対し、 UNI VAC では、特殊の ードウェアで対応したという優れものが多回線制御、全二重回線 ノ、 制御 (FuII-Duplex) という特徴を生み出し、全国回線オンラインの 実現、全二重通信方式が必須の銀行端末とのリアルタイムなどに大 きな効果をあげました。 NTT 回線の接続に必要な「多回線制御」「全二重通信方式」がこの ES I モードの技術があっての実績であったと思います。後にこの技 術は、 scs 通信制御装置から国産製の GCS へと引き継がれていきま した。さらに昭和 50 年 ( 1975 年 ) に発表した UNIVAC のネットワーク アキテクチュア DCA ( ディストリビューティッド・コミュニケーショ ンアーキテクチュアー ) は、分散型ネットワーク時代の到来を見越 したアーキテクチュアーで、その代表的製品の DCP / TELCON 通信処理 プロセッサー内にも、上記の概念が受け継がれてきました。 278
第 5 部ユニバックあれこれ VDE は UL に加え電波障害に関する規制をクリアする必要があり UNIVAC がこの手続きを行った。 ④メンテナンスからの要求 ドキュメンテーション 全世界の UNI VAC カストマエンジニアが保守を行うためその 要求は厳しく NUK の図面では応えきれず Logic 図の全面書き換え が必要となり特殊なタイプライタを米国から購入しこれにあて た。また、メンテナンスハンドブックの作成も UNI VAC 標準では初 めての経験で大変苦労した。 ・ PCA テストリスト UNIVAC には PCA を外部接続ピンから情報を与えかっそれらヒ。ン から結果を読み取ることでコンポーネントレベルの故障を判別す るするシステム IND ICATS があり PCA リペア部隊からの要求でこ のテストリストの作成を余儀なくされた。故障箇所発見率の目標 80 パーセントはかなり困難で、複雑な機能を持っ CTS ー Highlevel 、 CTS-Trance 等ではテストバックボードビンに加えて 2 階との接続 ピンからの情報もやり取りすることで解決した。 21. HCS の製造の立ち上げ GCS の開発と平行して HCS の製造は予定通り進行し、昭和 48 年 ( 1973 年 ) 10 月には東光より HCS の 1 号機が NUK に納入された。この システムは NUK の各種テストに使用された。 RPM-HCS は 8 月に国鉄 国立に 2 台納入された。 NUK 標準製品としての HCS は、昭和 48 年 ( 1973 年 ) 9 月に正式に販売開始し 10 月以降客先への納入が開始さ れた。 22. GCS のデザインレビュー 昭和 48 年 ( 1973 年 ) 1 1 月の 12 日 ~ 14 日の 3 日間、 346 UNIVAC のロー
8 UNIVAC 1050 リアルタイム物語 井出進、斉藤剛伸、水野孝三 9 私の U Ⅲ VAC 物語ー SCS の改造まで 加藤重信 1 0 メモリーズオプ UNI VAC 418 濱窪侔 著者紹介 あとがき 参考資料 第 5 部著者略歴 大石完ー 12 コンピュータ周辺機器技術に携わって 赤須通雄 11 UNIVAC のリアルタイムシステムを支えた GCS の開発物語 目次 285 305 309 317 350 360 362
第 8 章商品開発 ( 5 ) S80 / 65 誕生 最初のアプローチでは否定的な返事しか得られなかったが、 9 ー 3M の共同開発を内々に進めながら UNI VAC の了承取り付けるための努 力は続けた。最初にスペロニに実態を理解させることに成功した。 彼の裏工作に支えられ 9 ー 3M を S80 / 65 の型番で日本市場に出すこと は NUK の 100 % のリスクで行う了承が得られ、昭和 56 年 10 月に発 表することが出来た。 ( 6 ) WW ( ワールドワイド ) 80 / 65 昭和 57 年 ( 1982 年 ) に入り UNIVAC よりプルーベルで「 s 80 / 65 の ww 化検討会議」を開催する旨の要請があり、三菱電機より 5 名がブ ルーベル入りをして 2 月 2 1 日 ~ 3 月 7 日に会議は開かれた。 NUK か らは赤須 1 名が参加した。 この会議の開催はそれまでの UNIVAC の態度から見て唐突な感じ を受けたが、表向きは「 UNIVAC/MELCO の提携を進める上で具体的な プロジェクトが有る方がべターとの観点より実現化を図りたい。」と 言わざるを得なかった UNIVAC 側の苦悩を感じた。 その後の調査で、昭和 55 年 10 月に出した NUK の判断は正しかっ たことが立証された。 S80 / 65 が ww プロダクトとして全世界に供給 され、 65 の下位機種として 55 が出されるに至り、 UNI VAC の SUL-3 の開発センターと製造工場は閉鎖された。 S80 / 55 / 65 は全世界の UNIVAC のマーケティング部門から高い評価 を得ることができた。 ( 7 ) UNIVAC—NUK の抗争 S80 / 55 / 65 を WW に供給するルートを巡り、 UNIVAC—NUK 間の新た な抗争が持ち上がることとなった。 NUK は NUK/MELCO 開発契約並び に UNIVAC/NUK 開発契約に基づき、法的には輸出は NUK を通すべきで 1 43
第 3 部拡張 用専用 OS (ACP 後に TPF) で構成されているが UNI VAC パッケージも 業務機能部分 (USAS) と大量トランザクションの処理を可能とする 汎用 OS (RTOS : Real Time Operating system) により構成されてい RTOS の開発は途中で断念され、汎用 OS である 1100 OS/HVTIP への変更を余儀なくされた。 RTOS から IIOOOS/HVTIP へ変更された 経緯に関しては別項で述べられているので、それを参照願いたい。 前述のように、 IBM ューザー、 UNI VAC ューザーともに、 PNR によ る業界標準準拠の座席予約システムを持っことになるのであるが、 IPARS より 10 年近く遅れて世に出た USAS であるので、それなりに 優れた点を持っている。 (IPARS と USAS の比較に関しては参考資料 388 頁を参照 ) 日本の航空会社における PNR 座席予約システムは、日本航空によ る JALCOMII が最初である。英国航空より IPARS べースのパッケージ (BABS) を購入し、国際線の予約業務を中心として昭和 45 年 ( 1970 年 ) 1 1 月に稼動開始した。 全日空では、本書記載のプロジェクトにより、 JAL から 8 年遅れ の昭和 5 3 年 1 1 月に、 USAS をベースとした RESANA システムにより PNR 座席予約が開始された。 日本ェアシステムでは、更に 9 年遅れの昭和 62 年 ( 198 7 年 ) 1 1 月 に、全日空同様に USAS べースの SKYCALL システムによって実現され 日本の 3 大航空会社における PNR 座席予約システムの稼動開始が、 奇しくも 11 月で同じ時期を選んでいる。これは、国内線航空旅客に は年末年始・春休み・夏休み・ゴールデンウィークという繁忙期が あり、システム稼動開始直後の予期せぬ障害による混乱を最小化す これらの繁忙期及びその予約開始時期 ( 当時は搭乗日の るために 1 ヶ月前 ) を避けたための結果故であろうと想像される。 156
第 3 章 UNI\/AC 1004 第二営業所に入ったときからである。このときの 2 年間で井上、澤 野と一緒に仕事ができたことは、赤須の人生にとって掛け替えのな い経験、勉強になったと思う。 澤野との忘れることのできない思い出は、ある日赤須君一緒に来 なさいと野村證券に連れて行かれたことである。訳も分からずに野 村證券の役員応接に連れて行かれ、システムを販売した代金数億円 の小切手を赤須君、君が受け取りなさいと言われ、数億円の小切手 を手にしたことがあった。 「技術の人達が頑張ってこの成約ができたのだから、技術を代表し て君が受け取りなさい」澤野の気配りの凄さを感じさせられた出来 事であった。 昭和 38 年 1 月 UNIVAC 工場の UNIVAC 1004 SYSTEM TEST FLOOR にて 赤須ミッシェノレ UNIVAC 工場のスタッフ
第 3 部拡張 あると主張した。 UNIVAC は感情的に NUK を通すことに拒絶反応を示していた。客観 的に見れば、 NUK が先行してバックアッププランを進めていたから こそ、 UNIVAC の、開発の失敗のリカバリが出来、 UNI VAC のマーケッ ト部門からは歓迎され、 ww の市場の破綻を防いだのは事実であった。 しかしながら結果として SUL の開発センターと製造工場を閉鎖せざ るを得なくなったのも事実であり、彼等はこのリカバリとして S80 / 55 / 65 を WW に供給するオペレーションを成功させ、利益を生み 出す責務を負わされていたことは想像に難くない。 最終的に、 UNIVAC と三井物産でどのような話し合いがなされたか は不明であるが、結果として、 WW に供給するルートから NUK は降り ることになった。 さらに、 U Ⅵ VAC 商品並びに国内調達商品の販売を整理する目的で、 後に日本ュニバック情報システム株式会社が設立され、 UNIVAC と NUK の抗争の矢面に立っていた主な人々は、日本ュニバック情報シ ステム株式会社に移り、この問題に終止符が打たれた。 144