読者に では、はじめから不充分とわかっていることをやろうとしたのかと言われると、いや、 ちがう、と答えるしかないのです。 もしも、興隆の要因となったと同じものが衰退の要因になる、という私の仮説が正しけ ゝ。少なくとも、興隆期 れば、衰退期をとりあげるだけでも必らずしも不充分とはいえなし だけをとりあげるよりも、全体像の把握には役立つ。なぜなら、衰退期といえどもいくぶ んかは以前にさかのばって書く必要がある以上、全体像を視界に入れないとどうにもなり ません。全体が視界に入れば、その民族固有の精神もっかむことができる。そして、この スピリットこそ「要因 , であると思っています。 マキアヴェッリの生涯は、このように考える私にとって充分に素材でありえたのでした。 しかし、先にも述べたように、マキアヴェッリは、単なる素材ではない。作品を遺した 思想家です。つまり、彼にとっての「生の証し , は、今日にまで残り、しかもただ残った だけではなく、古典という、現代でも価値をもちつづけているとされる作品の作者でもあ るのです。生涯を追うだけで済まされては、当の彼自身からして、釈然としないにちがい ありません。私は、彼を書くと決めた後もずいぶん長い間、どうやれば、彼の生涯と思想 を両立させながら、かつまたフィレンツェ共和国の衰退と重ね合わせて書けるか、という 課題に悩んだものでした。 結局私が到達した考えは、両者を切り離す、というものだったのです。『わが友マキア
国家はすべて、いかなる時代であってもいかなる政体を選択しようとも関係なく、自ら を守るためには、カと思慮の双方ともを必要としてきたのであった。 なぜなら、思慮だけでは充分でなく、カだけでも充分でないからだ。 思慮だけならば、考えを実行に移すことはできず、カだけならば、実行に移したことも 継続することはできないからである。 『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』 わたしは、改めてくり返す。国家は、軍事力なしには存続不可能である、と。それどこ ろか、最後を迎えざるをえなくなる、と。 もしも、あなた方が、なぜわれわれに軍事力は必要なのか、フィレンツェはフランス王 『政略論』 182
第三部人間篇 フォルトウーナ 名声に輝く指導者たちの行為を詳細に検討すれば、彼らがみな、運命からは、機会し か受けなかったことに気づくであろう。そして、そのチャンスも、彼らには材料を与えた だけであって、その材料さえも、彼らは自分の考えどおりに料理したのにも気づくにちが しオし ヴィルトウ つまり、機会に恵まれなければ、彼らの力量もあれほど充分に発揮されなかったであ ヴィルトウ ろうし、また力量をもちあわせていなければ、機会も好機にはならなかったのである。 『君主論』 187
ブ人間は、百パーセント善人であることもできず、かといって百 1 セント悪人であることもできない。だからこそ : : : 幻 ブ人間というものは、困難が少しでも予想される事業には、常に 反対するものである : : : ブ人間は、恐布心からも、また悪の心からも、過激になりうる ものである・・・・ : プはじめはわが身を守ることだけ考えていた人も、それが達成さ れるや、今度は他者を攻めることを考えるようになる : : : イ古の賢人たちの書き残したこのことは、現代でも充分に生き ている。つまり : イ人間というものは、必要に迫られなければ善を行わないように いにしえ
〃とはいえ、この問題を充分に論ずるには、新秩序を打ち立てよ うとする者が自力で行おうとしているか、それとも他者の助け をあてにしているかで分けられねばならない : 突然に地位なりなんなりを受け継ぐことになってしまった者に ″他国を支配下におく必要に迫られ、征服は成功したにしても、 支配をつづけていくうえでの方策は、ケース・バイ・ケ 1 スで あるべきだ。まず : 〃古代のローマ人は、紛争に対処するに当って、賢明な君主なら ば誰もが行うことをしたのであった。つまり : た頭にしかと入れておかねばならないのは、新しい秩序を打ち立 てるということくらい、むずかしい事業はないということであ る :
第一部君主篇 とができなかったということを示す以外のなにものでもないからである。 指導者たちの責任こそ問われてしかるべきことであろう。 人間というものは、自分を守ってくれなかったり、誤りを質す力もない者に対して、忠 誠であることはできない。 『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』 君主ともなれば、自らに害をおよばさないでは、鷹揚であるという美徳を行使できない 場合に、しばしば出会うことかある 思慮深い君主は、こういう場合、ケチであるという評判が立つのを怖れてはならない。 節約家であるために彼の収入は充分で、民衆に負担を強いないでも大事業を行うことが おうよう ただ 「政略論』
第一部君主篇 共和国において、一市民が権力を駆使して国のためになる事業を行おうと思ったら、ま ずはじめに人々の嫉妬心をおさえこむことを考えねばならない なぜなら、 いかに力量抜群でかつ国益のためにやる気充分の人物でも、人々の嫉妬心に これらを実行すれば、精神面だけでなく、物質的にも君主に益するところの尊敬を、得 られるというものである。 「君主論』 人は、心中に巣くう嫉妬心によって、賞めるよりもけなすほうを好むものである それゆえに、新しいやり方や秩序を主張したり導入したりするのは、それをしようとす る者にとって、未知の海や陸の探検と同じくらいに危険をともなう「事業」になる。 「政略論」
第一部君主篇 軍隊の指揮官でさえ、話す能力に長じた者が、良い指揮官になれる。 単に軍規を守らせるだけならば、たいした能力は必要でない。そして、それだけでは、 多数の人間の集合体である軍隊を、手中に収めることはできない。むやみと厳罰でのぞむ よりも、彼らに向って説得したり鼓舞したりするほうが、効果は大きいものである。 それゆえ、自分の思うところを充分に伝えることのできる、話術の力が必要とされるの ただしわたしは、作戦上のことまで打ち明けよ、と言っているのではない。 作戦上の細かいことは、兵士は知らないでいるほうが有効である。 指導者をもたない群衆は、無価値も同然の存在である。 『政略論』 「戦略論』 109
人間というものは、必要に迫られなければ善を行わないようにできている それゆえ、すべてが自由放任であると誰もが勝手気ままに行動してしまい、世の中は混 乱と無秩序のみが横行することになる。 もしも、法律など存在しなくてもすべてが良き方向に進むような世の中ならば、法律は = 一不要になるであろう。だが、このような良き風習が支配的でない場合は、法律で規制する ことが必要になってくる。 古の賢人たちの書き残したこのことは、現代 ( 十六世紀 ) でも充分に生きている。 つまり民衆とは、自由を失わずにもちつづけてきた場合よりも、いったんそれを失った 後で再獲得した場合のほうが、なぜか過激に行動するという事実である。 ) にしえ 「政略論』 221
第二部国家篇 ここでは、特権階級の意味をはっきりさせておきたい。 この名で呼ばれる階級に属すのは、多大な財産をもっていて、それからあがる収入だけ で充分に生活可能な人々である。彼らは、生活の資を得るために、働く必要はまったくな これらの人々は、どの共和国にとっても有害な存在である。 ご、ゝ、彼らよりもずっと悪質なのは、 いざとなればこもることのできる居城を構え、他 者の自由を左右する権力をもっている人々である。 『政略論』 特権階級の存在する国では共和制は成立しえないというわたしの考えに対し、貴族でな い者は国政にたずさわることのできないヴェネッィア共和国の例は、これに反するではな いかと一一 = 0 、つ人かいるかもしれない