つあった板倉碑を 修復し、そこに込 められていた思い を呼び起こし、あ らためて板倉勝宣 なる異能の登山者 と向き合うことが できた。近代登山 の黎明期に活躍し た芦峅寺案内衆の 末裔との交流のな かで、ここに松尾 峠遭難囲年祭を成 功裡に終え、ひと つの節目とするこ とができたことを 喜びたい。 7 年前に上梓した『学習院登山ムカリ和富山桜友会関係・廣田茂、朴沢栄子富山県山岳連盟 : 松本睦男立山 史—』に花を添えるものである。この行事真理、竹田康子、川村昭子慶応登高会関ガイド協会 : 多賀谷治、佐伯徹・政一一清、 に執念をもって取り組んでくれた桧垣陽係 : 松方峰雄、三田徹、西井久雄、磯弥須佐伯常行立山博来原寛、高木一一一郎 三会員に対しては、各方面から大成功で彦北大山の会関係・中村晴彦、渡辺興亜、 立山カルデラ博・飯田肇、菊川茂 あったとの評判が寄せられたことを付記在田一則日大桜門山岳会関係 : 石坂昭富山ナチュラリスト協会 : 志村幸光プ しておきたい。 一一郎、中嶋啓法大山想会関係・五十嶋一ナクラ修復グループ・・宮村晃富山山想 晃明大炉辺会関係 : 町俊一板倉家会・・亀村兼介高志山の会・・岡本邦夫、野 出席者山桜会関係 : 橋本實、同千鶴子、板倉恭子日本山岳会関係富山支部 尻津暑夫立山町・・有山忠一、有山美津子、 井ケ田傳一、右川清夫、芳賀孝郎、同淳子、山田信明、金尾誠一、金尾志津子石川支青木ムツミ、佐伯峰之、酒井文夫、高野富 同俊州、贄田統亜、福岡孝昭、桧山栄治、部箭川陽、飛弾子福井支部・・宮本美子、志鷹恵美子、飯島恵市国立登山研 錦織英夫、石川正弘、高橋和哉、桧垣岳夫、数男、大田慶子、加賀要子栃杢部・・山修所・・渡辺雄一「小林亘芦峅寺関係者 秦野郁郎、絹川祥夫、藤大路美興永田秀野井武夫、坂口一一一郎、森元一、山本武志、佐伯信春、佐伯栄治、佐伯元信、佐伯知彦、 樹、小森順江現役学生 : 吉田周平、ガラ河合義則、上田景子 < 0 関係・梅本知佐伯亀則、佐伯芳雄、佐伯高男、佐伯和起、 志鷹康定、志鷹義勝、森本信彦佐藤武彦、アーとやま関係 : 岩峅義博富山市 : 柴いは人生を山にとけあわせて ' 山なしには 佐伯令磨、佐伯定芳、佐伯賢輔、佐伯守也、田健次郎、柴田美和子、栗谷川勝行、長田生きられない人間になってゆく。この成り 佐伯レイ子、佐伯千穂子、小泉哲也、佐伯武嗣、井原勇、黒田昌子、木戸繁良、平沢修、行きは実に自然であった。しかし人間の性 千尋、佐伯則一、志鷹英紀、佐伯昌邦、佐平沢英子、高野靖彦赤塚多美子黒部市・質は決して一様ではない。一時は一般的な 伯順子、佐伯紀夫、志鷹恵美子、佐伯文鍛冶哲郎南砺市・・大田和夫、浦井直彦傾向に引き込まれはするが、やがてそれは 江、佐伯厚子、松文敬子、佐伯善武、佐伯浦井正子、金田淑子、浦井直幸滑川市・・再び本来の道をたどらねばいられなくな 辰人、佐伯ャンジ早大・・果秀樹 KeidnlkhP 井上澄雄、井上みき子魚津市・・る。ことに山においてはそうなるのが本当 大山町民俗資料館関係・寺﨑睦子立山佐伯邦夫、佐伯克美、一一一輪圭子上市町・・であると思う。 ここにおいて、動的な山の味わい方、す サンダーバード関係 : 伊藤敬一山小屋伊東保男高岡市 : 近藤晋石川県河 関係・志鷹定義、五十嶋博文、佐伯友邦、 北郡内灘町 : 植崎滋富山大学 : 上田なわちロッククライミングとスノウクラ 以上フトとが現れてくるべきではなかろうか。 佐伯里子、佐伯謙一富山県山ま一碚隊関和彦 一方、静的な山の味わい方が深く入ってい 係 : 高瀬大輔、警備隊長椙山正オン・エ るにもかかわらず、動的なこの方面におい て未だに愚にもっかぬ冒険談が幅を利か す有様である。山を味わう手段としての登 板倉勝宣の存在がどれほどのものであったかは想像に難くない。彼がせめてその山に冒険が出てくるのは、はなはだ残念で 寿命の倍の人生を長らえてくれたなら、どれほどの山登りをしたであろう。多くのある。避け得られる冒険が得意になって冒 可能性を持ったまま早逝した人間に寄せる夢は、誰がいつ見ても楽しい。回忌と かされる間は、この方面の真の味は知るこ いう法要があるのかどうか知らないが、もう一度板倉勝宣なる人物に思いをはせ、 とができないはずである。人力の及ぶ限り 彼が何を考えていたのか、そして彼の亡くなった後、彼の仲間は何を思っていたの の確かさをもって地味に、小、いに、歩一 かを振り返っておきたい。屋上屋を架するというなかれ、彼にはもう一屋必要なのだ。 歩とかためて行く時に、初めていままで夢 にも知らなかった山の他の一面が、ジリジ ないか。われらの多くは、東洋人として山リとわれらの胸にこたえてくる。 登山法についての希望 を静的に、あるいは、直観的に味わう傾向毎年多くの危険なロッククライミング 板倉勝宣 とスノウクラフトが行われるようになっ を多分に有しているように思われる。 一つは、山そのものにもよるであろうが、てきたが、それはただその時の冒険として 平地に波乱を起こすような登山冒険談 の時代は過き去った。各人の個性にふさわ大抵はピークハンターとして始まり、やが過きて行くのが多くはあるまいか。今年は しい山の味わい方が内面的にのみか、外観て谷に下り、ついには里近くの山にまで深昨年より一層深く味わって行こうとする 山 的にも分かれてくるべき時がきたのではい味を感じて ' 山を人生に取り入れ、あるならば、もっと方法に注意し、研究されな 0 0 0 板倉恭子氏と藤大路運営委員長 ( 懇談会で ) 山桜通信 No 39 ' 13. 4
ければならない。 としても大いに無類だったわけだ。 ていたのだとしか思われない。 山男にとってそれはそれ自身人生なの中学生の頃は大体いつも級の首席で通山に入りだしたのは中学の二年の頃か であるのだから。動的な登山方法そのものし、何かというと号令をかける人間たったららしいが、中学の四、五年頃になると大 通 が一つの創作である。一寸平方ぐらいの爪が、高等科に来たらとたんにダブって、今分その病が深くなっている。輔仁会雑誌に 先と十本の指に万事を托し、あらゆる注意度は断然学校の成績を無視してしまった。 紀行文が出だしたのは大正三年の富士五山 を尽くして岩を攀じるとき、あるいはアッ独立自尊などという言葉は不愉快極まる湖めぐりなどが最も早いものだろう。大正 クスとクリーハーによって一歩一歩と山言葉だが、彼は自分に納得のゆかないこと三年というと「ワンデー」は中学の五年だ 頂に返っく時、そこにいいがたいものをおは一切しないという人間たった。その意味と思うが、その「旅の一日」という一文な 互いに感ずる。 ではやつばり最も独立自尊的な人物だつどは今出して読んでみてもその老成さに その時、山がいかに偉大に見えてくるこたことになるのだろう。およそ付和雷同と驚くのである。 とであろう。いままで何度となく登った山 いうことをしないのである。級の仲間が一 大正三年から大正十二年の正月に立山 さえまったく異なった一面を示すに違い斉に某なる先生を打倒しても、彼は一人まで死ぬまで彼はかなりのものを書いてい よゝ。 るで別の世界に住んでいるといった調子る。人間として一頭地をぬいていたからだ 願わくば、われらのこれから行う動的なだった。〇なる先生の寝込みを襲って爆ろう、彼の山登りはいつも新しい天地を切一 登山方法についての記事が盛んに投書さ竹を投げ込んだという例の爆竹事件の時り拓いて行くといった風のものだった。自 4 れて一つの冒険もみのがされずに研究さも、彼はたった一人ではっきりと反対の立然、彼の書く文章も、その意味で同時代一 れて、日本の岩および雪の山に対する一層場をとったということだ。健先輩 ( 編注【者の間に大きな影響を与える性質のもの 深き感興に達することを祈ってやまない犬養健 ) などは当時の頭目格で無期停学をだった。そして先駆者の仕事の何れもがそ ものである。 ( 『山とスキー一一「四号』から ) 食った方だが、「ワンデー」はなにも〇先うであるように、彼の遺したそれらの文章 生をひいきにしたものもなければ、あとのは、何時読んでみても新鮮で人の心をひき 処分がこわかったものでもない。みんながつけてやまないのである。古典的などとい 山の仲問 騒ぐからといって一緒に騒ぐことが馬鹿う一言葉を二十六で死んだ彼に使うのは如 松、万ご ( 郎 らしかったのに相違ないのである。だか何にも大けさに響くが、彼のやった山登り 「ワンデー」 ( 編注〕板倉勝宣 ) は天下ら、高等科に入ると同時に彼が学校をまるが日本の登山史の上で立派に古典的な意 無類の人物だった。「ワンデー」の同時代で省みなくなっても、毎日のように鳥打帽味を持ったものであったということは争 者は今日ではみんな五十を越しているが、をふところにして学校の代わりに浅草のう余地がないし、彼の遺した文章が今日で 誰一人として、その後三十年にもなるの安オペラに通っても、誰も別段大して不思は日本の山岳文学の中で立派に一つの古 に、彼を連想させるような人間に出会って議とは思わなかったのである。今から考え典として待遇されていることも事実だ。 およそ山登りの相棒として、これほど信 いない。天下無類なのだから、学習院学生ると、人間として、一一段も三段も上に育っ 頼するに足り、これほど愉快な相棒はな視と熟慮とを要するのですが、長谷川君のば板倉君自身その文の中で言った言葉通 かった。だから彼と一緒に山登りをした連余儀ないお一一一口葉に依る、この何等統一のなりの東洋的な静観的な登山精神と、それか ら、一方においてそれと全く異なった境地 中は山に入るごとに、又山の話をするたび し、ほんとにこれこそくだらない感想の一 に、必ず彼のことを思い出さずにはいられ片が、板倉君を永久に記念すべく、特に撰に置かるべき、大胆な、果敢な、唯思う一 よゝ。 ばれたこの貴重な紙上に載せらるべき何つの単純な、而も太くて深い線上を側眼も 十年たち、一一十年たっても、いつもその物も有たないことを最初に固くお断り致ふらずに歩いて行くその強烈な溌剌たる 登山精神とのある発現、その片影を見出す 頃の仲間が集まれば彼のことを思い、彼のします。 ことを語るのである 私は先ずここに板倉君が平常から山にのです。まこと板倉君の有っていたその登 ( 『輔仁会雑誌第 172 号』から ) 対して抱いて居られた心持とか、或いは登山精神は、文字としてはただこの一文の中 山精神とかの名で呼ばるべきものに対しにのみ見出される様に思えます。この当時 て、私の僅かに享けることの出来た印象、の私は登山に対して一時深い迷妄に陥っ 私が板倉君から享けたものは それに依って私の与えられた啓示などを、た時でした。私が事実上この一文によって 大島発吉 ただ所感として乱雑ながら書き綴って見当時啓発せられ、心ひそかに指導せられて きたことは多大です。それから後に槇さん一 私が板倉君の山友達の一人となって、一ようと思います。 『板倉君の抱いて居られた山に対する心と板倉君とが入交じって私を影響しまし 5 緒に山へ登り始め、漸くお互いをほんとに 知ることが出来る様な程度までになった持、或いは登山精神』ーと言うものに就いた。槇さんは内的に深く、板倉君は外部的 に私の啓示者でした。こんな個人的なつま のは、極く最近のことで、其処には板倉君て、それを文字の上で知ろうとするならば、 なる人を真実知るためには極めて僅かなこの追悼号をお読みになる方は、もう一度、らないことを書くのではありませんでし 時の経過しかなかったのです。ですから其「山とスキー」の第三、四号をとりだして、た。では、板倉君は一体その一文の中で 処に於いて、私は自らが決して真に板倉君そこにかって板倉君自身の発表なされた何を私ー或いは私以外の多くの山へ登る 「登山法についての希望」なる一文をよく人々に示して呉れたのでしようか。それは の有って居られたものを掴んではいない ことを、よく認めるものです。然しそれにお読み返しになって下さい。それは板倉君勿論読めばわかる事ですが、ここにもう一 も拘わらず、今私の心は、あの板倉君の死によっては、単なる感想の一を文章とした度私が簡単に申しますと、即ちそれは「静 に対して、その根底から強くゆり動かされものであったかも知れません。然し、今と的と動的な山の味わい方」に就いてで、静 て、其処にやたらに感激し、昂奮し、追想なってはより深く感ぜられますが、私はそ的な山の味わい方の割合に比して、まだ幼 すべきいろいろの想いが余りに多く存すの僅か一頁ほどに過ぎない短かな文章の稚な動的の登山に対する根本的な指導、発 こす。この際何というべきか私には解なかに、ずっと後になって知ることの出来達のために、鋭い暗示と深い啓示とを与え 信 通 ん。私自身として決定的に板倉君のた板倉君のあの山へ対して抱いていた、深て、それに対する板倉君自身の深い思索の 桜 、静的な、想的な、形而上的な、言わ痕を示しているのでした。けれども板倉君山 、就いて何かを書くには、今姑くの凝 0 0 0 一言
は、あの直情な性質としては、それらのこ板倉君に就いて書くべき何物ももたないそして終に信仰の刃を振りかざして人々 とを盛るに極めて簡潔直裁な文章を以つのです。何故ならば、それはただその人自の上に立ちたる実践的殉教者の慨を有す てしたので、却って私はその発表せられた身のみが、文字として発表し、一一一〕葉としてるに到りました。ここに到って、板倉君の 当時まだ板倉君とは面識のある程度しか表し得るものであるからです。即ち静的死が一層の力と強さとを加えて、板倉君を樋 知らなかったので、それ程に深く印銘せらな山の味わい方とは、事実私等が山に居乍知る者の上に、板倉君自身を中心として丁山 るる所がなかっただけです。そしてその後ら、山々が私等の肉体的な視野よりかくれ度龕燈の僅かに限られた光圏のように、あ に次第に板倉君と接近してくるに及んで、て、それが私等の心野のうちに聳え輝くとる範囲を限って深く感銘せらるる或るも 益々深く感じて来たのでした。 きー言いかえますと心だけが山を歩いてのが存在せるものの如くに思われます。 板倉君が云った静的と動的の登山方法 いるとき、即ち前に書いたように、山上の こんなことを書いても何にもなりませ ー即ち言いかえれば、山の味わい方に於い花の草原に身体だけが寝転んでいるときんが、私は漸く板倉君の山友達の一人と て、板倉君自身がある深いものを有っていが主なのですから、その時の心境は他の者なって、これからは機会あるごとに一緒に たことは事実です。例えば、山上の美しい には充分に知ることの出来るわけがない山へ登れることの楽しみにしていたので 花の草原にただ一人で仰向けに寝転びなのです。ですからそれは姑く置いて、動的したが、その漸く一一回目の登山に加わろう がら、何時間でも、青空や雲や静かに聳えな方面における板倉君の過去を振り返っとしていた時に板倉君のあの死です。私は ている山の姿をじっと黙って眺めて喜んて見ますと、それに対する板倉君の熱烈さ先す何よりも先に、板倉君の死に対して悲 でいるときと、ただ一途頂に達するためにと真摯な態度を幾分なりとも知ることがしいとか、悼むとかなどという気持ちより一 何等名誉もなく功名もなく、嶮しい氷と岩出来る様に思えます。私は全体としては板も、自分は山登りで一つの大きな損失をし との上に全身のありとあらゆる筋肉を緊倉君の過去の登山の経歴とかなんとか呼たと感じました。 張させているような時との一一つを板倉君ぶものを知りませんが、例えば北アルプス ほんとに山へ登ろうとするのには、大勢 は愛していたのです。然し敢えてこのようの垠咼の山頂、槍を目指して、本邦で最初の仲間の団体で登れるものではありませ な時を愛し求めることは板倉君のみに限にスキー登山を企画実行したのは板倉君ん。それかと言って何時でも何処でヘでも られたことではなく、この頃夏のみならず、でしよう。而も一一回も試み、その一度は単単独で登山することも出来ないのです。ほ 冬でも春でも秋でも何時でも山へ登ろう身でした。成功したとか、しなかったとかんとに山へ登るには、ごく少数の相信じ、 とする人々は、勿論その範囲のみの人々に 言うようなことは全くこの場合問題外でお互いを認め合った山友達は絶対必要で、 限られてはいませんけれど皆この両方面す。他にも尚北海道で多くの記録があるこまた何ものにもかえ難いものと思うので を対照させることを好んでいるのでしよとでしよう。要するにこの方面では板倉君す。私のくだらない所感はもうこの位でや うが、ただ板倉君に於いては、その程度がは実に純潔で熱心な実践者でした。この動めさせて下さい。 極めて熱烈で、真摯で、深かっただけです。的な登山傾向を本邦に於いて向上せしむ 静的な山の味わい方、それについて私はるために、板倉君は熱烈な先駆者でした。 残したいと思いました。 り 古子 もう一つの動機は、この祝典の 4 年前、 1996 年の学習院アルバータ登山隊の カこ芳 応援隊に、私も参加したことです。登攀の 日の明け方、登攀隊の棚橋靖さんたち 3 人 出 は「日本隊のピッケルの折れた石突き部 ル 分を山頂から掘り出してきますからね」と のケ スコップをもって出発しました。日が昇 山ッ り、マキルートの岩壁をアリのような点に タヒ なって登る 3 人を、私たちは双眼鏡で見て いました。時間のあと、「山頂は雪が深 レ くて見つけられなかった ! 」といって登攀 隊が降りてきました。そのシーンは忘れら れません。そのことがあって、私にはピッ 2013 年 2 月、私は絵本「アルバータ絵本を創ろうと思った動機の一つは、ケルへの思いが強くなりました。 2000 年のカナダ・ジャスパーでのアル 山のピッケルものがたり」を自費出版いた 隊員であった私の父・三田幸夫をはじ しました。 ータ山登頂周年の記念祝典です。 1925 年、日本で初めての海外登山遠私が心打たれたのは、カナダの人たちめ、隊長槇有恒さんや、登攀の最後までピッ 征隊が、カナディアンロッキーの未登峰・が、年前の「アルバータ山の初登頂」を「日ケルを背負った学習院の岡部長量さん、波 アルバータ山 ( 3619 E) 初登頂をしま本人の偉業」として大々的に祝ってくれた多野正信さんなどが、絵本作りの間、見守っ ことでした。開拓者・カナダ人の一番の着てくださったと思います。 した。支援者細川護立侯爵は登山隊に、一 本のピッケルを頂上に立てるようにと託眼点は未知の地に挑む日本隊のスピリッ出来上がった絵本は、山桜会の贄田さ しました。頭部に侯爵のイ一一シアルトでした。「大正時代」の日本人が地図もん、藤大路さんが細川家の永青文庫にお届 が金で象嵌されていました。そのピッケル装備も情報も、現在と比べては不備、文化けくださいました。日本隊の使用したシル は第一一登のアメリカ隊が引き抜くときにも違う国の、難関の山を登りにきたことをクのザイルとともに収蔵していただくこ 折れてしまいました。長い年月を経て、折大変評価しました。私を含めて、日本からとになったと伺い喜んでおります れたピッケルが一本に繋がる数奇な運命参加した百人近い日本人は、あらためて自お申込みは albe 「 ta1925@gmai 一 . com と人々の出会いを、絵と文でたどるものが分たちの先人の勇気を見直す機会を与えまたは携帯 090 ー 47 一 8 ー 9252 ( 芳賀 ) まで。 られ、私もなにかの形でこれを自分なりに価格は送料込みで一七〇〇円です。 たりです。 絵 アルバータ山の ピッケルものがたり 0 「伝説の銀のピッケル」 時を超え、国を超えて、世界の登山家が一本のピッケルの命を蘇らせた。 山岳史の中に、小さいけれどピカッと輝いている星のようなものがたり。 絵と文 : 芳賀淳子 0 ( 『山とスキー第号』から ) 山桜通信 M39 ' 13. 4