目次 松尾峠遭難年祭 : ・ : 板倉勝宣・ : 3 登山法についての希望 : : ・松方一二郎・ : 4 山の仲間 : ・ : 大島亮吉・ : 5 私が板倉君から享けたものは : 「アルバータ山のピッケルものがたり」出版によせて・ : 芳賀淳子・ : 7 ・ : 堺惠子・ : 8 光徳小屋便り・ : 荒川一郎・ : 1 引きつける山 : ・ : 柴田由布子・ : indivi ・ : ・荒川秀夫・ : ふたつの散歩コース : ・ : 本間康正・ : 佐久間宏君のこと・ : : ・橋本實・ : 佐久間 ( グロ ) さんを偲んで : 遭難 : 桧山栄司 : ・ 第回登山史Ⅱ編集委員会を終えて : ・ : 伊藤貴紀・・ 、現役近況 : ・ : 吉田周平・ : 平成年度山岳部活動方針 : 8 年祭 ' 〔な板倉勝宣遭難囲年を迎え、記念事業 ( 講地元関係者など 150 名を超える人たち , 社演会 ) が 4 月 6 日、富山基立山町の芦峅寺であふれた。講演会の後は会場をそうしん のふるさと交流館で行われ、翌 7 日には板坊に移して、芦峅寺佐伯総代ほか地元有志 山倉勝宣遺躅の碑前に於いて囲年祭が行わ及び山岳界関係者との懇親会がにぎやか に行われた。 7 日の囲年祭は、風土記の丘一 れた。山桜会が主催し、芦峅寺総代有志、 て立山ガイド協会、日本山岳会富山支部が共に建つ則に、折からの雨にも関わらず大 勢の方々にお集まりいただき、献花し黙祷 に催したものである。 6 日の講演会は「大正期の立山臠人群をもって行われた。 像 5 松尾峠の遭難を巡る」五十嶋一晃 ( 法講演をお願いした五十嶋一晃氏、飯田肇 大山岳部〇 m) 、「草創期の学習院山岳部」氏にはあらためて御礼申し上げます。飯田 山桜会 ( 錦織英夫 ) 、「立山の積雪と氷河」氏には展示資料のご提供、使用機材の貸与 ) 月飯田肇 ( 立山カルデラ砂防博物館学芸課長 ) 等にご便宜を図っていただきました。また と題する講演がそれぞれ行われた。会場の佐伯信春総代はじめ芦峅寺の方々には、事 ふるさと交流館のホールには、遭難当時板前の諸準備、会場の手配等一方ならぬご協 倉と行を共にした三田幸夫氏、槇有恒氏らカを賜りましたこと衷心より御礼申し上 の関係者と板倉恭子氏及び日本山岳会富げます。 山支部、同石川支部、同福井市部、同栃木 2004 年Ⅱ月、芦峅寺集落のはすれに 支部並びに慶大関係者、北大関係者そして草深い板倉碑を訪れて以来 9 年、風化しつ などなど山登りを充実させる知識はたくいたからのように私には思えます。それに さんあります。今の大学山岳部にはそう私は先輩方の人間的な大きさに助けられ いった「かしこさ」への努力が圧倒的に足たことが幾度となくあります。山のような りていないと感じます。新たに週に 1 回ほ大きな器をもった人物の養成を山岳部は ど机上講習の時間をもうけ、かしこい山岳おこなっているのだと思います。 部の土台をつくりあげたいと思います。そ 3 つの条件をそれぞれの頭文字に れぞれ部員がレジュメを作成して持ち寄あわせまして、 (great), (ambitious), 岳り、議論します。山登りをより安全に、よ o (cleve 「 ) と覚えて頂ければ幸いです。 ch ・ 欟り魅力的なものにする手がかりになると < ・ O の山登りを平成年度の合一一口葉をし たいと思います。・〇の方々、これ 宿考えています。 「夢がある」に関しては詳しい説明が不からもどうか大きな心でご指導のほうよ 要かと思われます。大学山岳部として活動ろしくお願いいたします。 する以上、夢を追いかけることが求められ 編集後記 ています。私たちの武器は若さです。荒唐 ◆ご自分の名前のついた製品を世界に売り 無稽な計画ではなりませんが、それぞれが 出そう、と会社を設立した荒川秀夫さん。憲一 心から揺さぶられるような目標にむかっ 法条の社会的実現に向けて動き出した、 て若さを最大限に利用して突き進む。これ 鋼 ( はがね ) の意志を持っ柴田由布子さん。 こそが大学山岳部の醍醐味であるように インジビ精神は、脈々と継ってます。編集 思います。 考えています。 子も見習って会社設立しましたが・・・ (æ) 「心が大きい」とは、私が山岳部に入っ 私が平成年度理想とする山岳部員の 「歩くこと自身にさえ深く入れば限りな 条件は、かしこくて、夢があって、心が大てその重要さを教えられたものです。大きい味がある。山は黙って歩きたい人が入る きい人物であります。 くて困難な山に登るほど、私は自分の小さところだ。理屈に愛想をつかし、うわべを 「かしこい」とは、単に学校の勉強がでさを感じます。息が苦しい登り、永遠と続飾るに飽きた人の入るところだ。黙って山 きることではありません ( もちろん単位はく下り坂。そんな中パートナーのほんの少を歩く男こそ最もよく自然と話をする人、 とらないといけません ) 。山では自分のおしのミスも頭にくるようになります。山岳自然の聞き手であるのだ」板倉勝宣のこの かれている状況を把握し、判断する力が求部ほど心の大きな人物が求められている一一一〔葉が、今の私の低山歩き支えている。 (Z) められます。常に先の行動を予測し迅速に部活はありません。個人の自主性が尊重さ発行日一一〇一三年四月 = 一 + 日 朝霞市根岸台 7 ー 行動しなくてはいけません。また、地理、れてきた歴史が学習院の山岳部にはあり発行人藤大路美興〒。 気象、医療、確保理論、装備の知識、歴史ますが、その背景には器の大きい先輩方が編集人錦織英夫〒・加飯能市川寺加 : 、ぎえ第を - いを 二気第 二第 鉢 ( 、第二第 , ・ 0 外名 No. 39 ( 2013.4 ) 学習院 山山 岳桜 部会 BASECAMP 11 山桜通信 39 '13.4 山桜通信 No 39 ・ 13. 4
つあった板倉碑を 修復し、そこに込 められていた思い を呼び起こし、あ らためて板倉勝宣 なる異能の登山者 と向き合うことが できた。近代登山 の黎明期に活躍し た芦峅寺案内衆の 末裔との交流のな かで、ここに松尾 峠遭難囲年祭を成 功裡に終え、ひと つの節目とするこ とができたことを 喜びたい。 7 年前に上梓した『学習院登山ムカリ和富山桜友会関係・廣田茂、朴沢栄子富山県山岳連盟 : 松本睦男立山 史—』に花を添えるものである。この行事真理、竹田康子、川村昭子慶応登高会関ガイド協会 : 多賀谷治、佐伯徹・政一一清、 に執念をもって取り組んでくれた桧垣陽係 : 松方峰雄、三田徹、西井久雄、磯弥須佐伯常行立山博来原寛、高木一一一郎 三会員に対しては、各方面から大成功で彦北大山の会関係・中村晴彦、渡辺興亜、 立山カルデラ博・飯田肇、菊川茂 あったとの評判が寄せられたことを付記在田一則日大桜門山岳会関係 : 石坂昭富山ナチュラリスト協会 : 志村幸光プ しておきたい。 一一郎、中嶋啓法大山想会関係・五十嶋一ナクラ修復グループ・・宮村晃富山山想 晃明大炉辺会関係 : 町俊一板倉家会・・亀村兼介高志山の会・・岡本邦夫、野 出席者山桜会関係 : 橋本實、同千鶴子、板倉恭子日本山岳会関係富山支部 尻津暑夫立山町・・有山忠一、有山美津子、 井ケ田傳一、右川清夫、芳賀孝郎、同淳子、山田信明、金尾誠一、金尾志津子石川支青木ムツミ、佐伯峰之、酒井文夫、高野富 同俊州、贄田統亜、福岡孝昭、桧山栄治、部箭川陽、飛弾子福井支部・・宮本美子、志鷹恵美子、飯島恵市国立登山研 錦織英夫、石川正弘、高橋和哉、桧垣岳夫、数男、大田慶子、加賀要子栃杢部・・山修所・・渡辺雄一「小林亘芦峅寺関係者 秦野郁郎、絹川祥夫、藤大路美興永田秀野井武夫、坂口一一一郎、森元一、山本武志、佐伯信春、佐伯栄治、佐伯元信、佐伯知彦、 樹、小森順江現役学生 : 吉田周平、ガラ河合義則、上田景子 < 0 関係・梅本知佐伯亀則、佐伯芳雄、佐伯高男、佐伯和起、 志鷹康定、志鷹義勝、森本信彦佐藤武彦、アーとやま関係 : 岩峅義博富山市 : 柴いは人生を山にとけあわせて ' 山なしには 佐伯令磨、佐伯定芳、佐伯賢輔、佐伯守也、田健次郎、柴田美和子、栗谷川勝行、長田生きられない人間になってゆく。この成り 佐伯レイ子、佐伯千穂子、小泉哲也、佐伯武嗣、井原勇、黒田昌子、木戸繁良、平沢修、行きは実に自然であった。しかし人間の性 千尋、佐伯則一、志鷹英紀、佐伯昌邦、佐平沢英子、高野靖彦赤塚多美子黒部市・質は決して一様ではない。一時は一般的な 伯順子、佐伯紀夫、志鷹恵美子、佐伯文鍛冶哲郎南砺市・・大田和夫、浦井直彦傾向に引き込まれはするが、やがてそれは 江、佐伯厚子、松文敬子、佐伯善武、佐伯浦井正子、金田淑子、浦井直幸滑川市・・再び本来の道をたどらねばいられなくな 辰人、佐伯ャンジ早大・・果秀樹 KeidnlkhP 井上澄雄、井上みき子魚津市・・る。ことに山においてはそうなるのが本当 大山町民俗資料館関係・寺﨑睦子立山佐伯邦夫、佐伯克美、一一一輪圭子上市町・・であると思う。 ここにおいて、動的な山の味わい方、す サンダーバード関係 : 伊藤敬一山小屋伊東保男高岡市 : 近藤晋石川県河 関係・志鷹定義、五十嶋博文、佐伯友邦、 北郡内灘町 : 植崎滋富山大学 : 上田なわちロッククライミングとスノウクラ 以上フトとが現れてくるべきではなかろうか。 佐伯里子、佐伯謙一富山県山ま一碚隊関和彦 一方、静的な山の味わい方が深く入ってい 係 : 高瀬大輔、警備隊長椙山正オン・エ るにもかかわらず、動的なこの方面におい て未だに愚にもっかぬ冒険談が幅を利か す有様である。山を味わう手段としての登 板倉勝宣の存在がどれほどのものであったかは想像に難くない。彼がせめてその山に冒険が出てくるのは、はなはだ残念で 寿命の倍の人生を長らえてくれたなら、どれほどの山登りをしたであろう。多くのある。避け得られる冒険が得意になって冒 可能性を持ったまま早逝した人間に寄せる夢は、誰がいつ見ても楽しい。回忌と かされる間は、この方面の真の味は知るこ いう法要があるのかどうか知らないが、もう一度板倉勝宣なる人物に思いをはせ、 とができないはずである。人力の及ぶ限り 彼が何を考えていたのか、そして彼の亡くなった後、彼の仲間は何を思っていたの の確かさをもって地味に、小、いに、歩一 かを振り返っておきたい。屋上屋を架するというなかれ、彼にはもう一屋必要なのだ。 歩とかためて行く時に、初めていままで夢 にも知らなかった山の他の一面が、ジリジ ないか。われらの多くは、東洋人として山リとわれらの胸にこたえてくる。 登山法についての希望 を静的に、あるいは、直観的に味わう傾向毎年多くの危険なロッククライミング 板倉勝宣 とスノウクラフトが行われるようになっ を多分に有しているように思われる。 一つは、山そのものにもよるであろうが、てきたが、それはただその時の冒険として 平地に波乱を起こすような登山冒険談 の時代は過き去った。各人の個性にふさわ大抵はピークハンターとして始まり、やが過きて行くのが多くはあるまいか。今年は しい山の味わい方が内面的にのみか、外観て谷に下り、ついには里近くの山にまで深昨年より一層深く味わって行こうとする 山 的にも分かれてくるべき時がきたのではい味を感じて ' 山を人生に取り入れ、あるならば、もっと方法に注意し、研究されな 0 0 0 板倉恭子氏と藤大路運営委員長 ( 懇談会で ) 山桜通信 No 39 ' 13. 4
ければならない。 としても大いに無類だったわけだ。 ていたのだとしか思われない。 山男にとってそれはそれ自身人生なの中学生の頃は大体いつも級の首席で通山に入りだしたのは中学の二年の頃か であるのだから。動的な登山方法そのものし、何かというと号令をかける人間たったららしいが、中学の四、五年頃になると大 通 が一つの創作である。一寸平方ぐらいの爪が、高等科に来たらとたんにダブって、今分その病が深くなっている。輔仁会雑誌に 先と十本の指に万事を托し、あらゆる注意度は断然学校の成績を無視してしまった。 紀行文が出だしたのは大正三年の富士五山 を尽くして岩を攀じるとき、あるいはアッ独立自尊などという言葉は不愉快極まる湖めぐりなどが最も早いものだろう。大正 クスとクリーハーによって一歩一歩と山言葉だが、彼は自分に納得のゆかないこと三年というと「ワンデー」は中学の五年だ 頂に返っく時、そこにいいがたいものをおは一切しないという人間たった。その意味と思うが、その「旅の一日」という一文な 互いに感ずる。 ではやつばり最も独立自尊的な人物だつどは今出して読んでみてもその老成さに その時、山がいかに偉大に見えてくるこたことになるのだろう。およそ付和雷同と驚くのである。 とであろう。いままで何度となく登った山 いうことをしないのである。級の仲間が一 大正三年から大正十二年の正月に立山 さえまったく異なった一面を示すに違い斉に某なる先生を打倒しても、彼は一人まで死ぬまで彼はかなりのものを書いてい よゝ。 るで別の世界に住んでいるといった調子る。人間として一頭地をぬいていたからだ 願わくば、われらのこれから行う動的なだった。〇なる先生の寝込みを襲って爆ろう、彼の山登りはいつも新しい天地を切一 登山方法についての記事が盛んに投書さ竹を投げ込んだという例の爆竹事件の時り拓いて行くといった風のものだった。自 4 れて一つの冒険もみのがされずに研究さも、彼はたった一人ではっきりと反対の立然、彼の書く文章も、その意味で同時代一 れて、日本の岩および雪の山に対する一層場をとったということだ。健先輩 ( 編注【者の間に大きな影響を与える性質のもの 深き感興に達することを祈ってやまない犬養健 ) などは当時の頭目格で無期停学をだった。そして先駆者の仕事の何れもがそ ものである。 ( 『山とスキー一一「四号』から ) 食った方だが、「ワンデー」はなにも〇先うであるように、彼の遺したそれらの文章 生をひいきにしたものもなければ、あとのは、何時読んでみても新鮮で人の心をひき 処分がこわかったものでもない。みんながつけてやまないのである。古典的などとい 山の仲問 騒ぐからといって一緒に騒ぐことが馬鹿う一言葉を二十六で死んだ彼に使うのは如 松、万ご ( 郎 らしかったのに相違ないのである。だか何にも大けさに響くが、彼のやった山登り 「ワンデー」 ( 編注〕板倉勝宣 ) は天下ら、高等科に入ると同時に彼が学校をまるが日本の登山史の上で立派に古典的な意 無類の人物だった。「ワンデー」の同時代で省みなくなっても、毎日のように鳥打帽味を持ったものであったということは争 者は今日ではみんな五十を越しているが、をふところにして学校の代わりに浅草のう余地がないし、彼の遺した文章が今日で 誰一人として、その後三十年にもなるの安オペラに通っても、誰も別段大して不思は日本の山岳文学の中で立派に一つの古 に、彼を連想させるような人間に出会って議とは思わなかったのである。今から考え典として待遇されていることも事実だ。 およそ山登りの相棒として、これほど信 いない。天下無類なのだから、学習院学生ると、人間として、一一段も三段も上に育っ 頼するに足り、これほど愉快な相棒はな視と熟慮とを要するのですが、長谷川君のば板倉君自身その文の中で言った言葉通 かった。だから彼と一緒に山登りをした連余儀ないお一一一口葉に依る、この何等統一のなりの東洋的な静観的な登山精神と、それか ら、一方においてそれと全く異なった境地 中は山に入るごとに、又山の話をするたび し、ほんとにこれこそくだらない感想の一 に、必ず彼のことを思い出さずにはいられ片が、板倉君を永久に記念すべく、特に撰に置かるべき、大胆な、果敢な、唯思う一 よゝ。 ばれたこの貴重な紙上に載せらるべき何つの単純な、而も太くて深い線上を側眼も 十年たち、一一十年たっても、いつもその物も有たないことを最初に固くお断り致ふらずに歩いて行くその強烈な溌剌たる 登山精神とのある発現、その片影を見出す 頃の仲間が集まれば彼のことを思い、彼のします。 ことを語るのである 私は先ずここに板倉君が平常から山にのです。まこと板倉君の有っていたその登 ( 『輔仁会雑誌第 172 号』から ) 対して抱いて居られた心持とか、或いは登山精神は、文字としてはただこの一文の中 山精神とかの名で呼ばるべきものに対しにのみ見出される様に思えます。この当時 て、私の僅かに享けることの出来た印象、の私は登山に対して一時深い迷妄に陥っ 私が板倉君から享けたものは それに依って私の与えられた啓示などを、た時でした。私が事実上この一文によって 大島発吉 ただ所感として乱雑ながら書き綴って見当時啓発せられ、心ひそかに指導せられて きたことは多大です。それから後に槇さん一 私が板倉君の山友達の一人となって、一ようと思います。 『板倉君の抱いて居られた山に対する心と板倉君とが入交じって私を影響しまし 5 緒に山へ登り始め、漸くお互いをほんとに 知ることが出来る様な程度までになった持、或いは登山精神』ーと言うものに就いた。槇さんは内的に深く、板倉君は外部的 に私の啓示者でした。こんな個人的なつま のは、極く最近のことで、其処には板倉君て、それを文字の上で知ろうとするならば、 なる人を真実知るためには極めて僅かなこの追悼号をお読みになる方は、もう一度、らないことを書くのではありませんでし 時の経過しかなかったのです。ですから其「山とスキー」の第三、四号をとりだして、た。では、板倉君は一体その一文の中で 処に於いて、私は自らが決して真に板倉君そこにかって板倉君自身の発表なされた何を私ー或いは私以外の多くの山へ登る 「登山法についての希望」なる一文をよく人々に示して呉れたのでしようか。それは の有って居られたものを掴んではいない ことを、よく認めるものです。然しそれにお読み返しになって下さい。それは板倉君勿論読めばわかる事ですが、ここにもう一 も拘わらず、今私の心は、あの板倉君の死によっては、単なる感想の一を文章とした度私が簡単に申しますと、即ちそれは「静 に対して、その根底から強くゆり動かされものであったかも知れません。然し、今と的と動的な山の味わい方」に就いてで、静 て、其処にやたらに感激し、昂奮し、追想なってはより深く感ぜられますが、私はそ的な山の味わい方の割合に比して、まだ幼 すべきいろいろの想いが余りに多く存すの僅か一頁ほどに過ぎない短かな文章の稚な動的の登山に対する根本的な指導、発 こす。この際何というべきか私には解なかに、ずっと後になって知ることの出来達のために、鋭い暗示と深い啓示とを与え 信 通 ん。私自身として決定的に板倉君のた板倉君のあの山へ対して抱いていた、深て、それに対する板倉君自身の深い思索の 桜 、静的な、想的な、形而上的な、言わ痕を示しているのでした。けれども板倉君山 、就いて何かを書くには、今姑くの凝 0 0 0 一言
しないと言っていた上級生部員と一緒にメンバー伊藤、庄司、吉田、亀野、荻原、行経験が圧倒的に少なかったため、基礎を 下山させた。付近からは前日に降った内山、ガラムカリ 固めることを合宿の目標とし、ルートは夜 雪が積もっていて、まるで冬山のようだっ詳細は冬合宿報告書をご覧ください。 叉神峠、鳳凰三山、御座石鉱泉までの縦走 としました。悳まで八ヶ岳の天狗岳や日 た。日間の夏合宿を経験した部員達も久 光の太郎山などで雪山の経験をつみ、山に しぶりの新雪に体力を奪われているよう平成年度山岳部活動方針 だった。 行く回数をなるべく増やそうと計画して ・ < ・ O の山登りを 5 鷹巣山 いました。しかし、過密なスケジュールの 吉田周平 メンバ 吉田、庄司、内山、山梨、伊藤 中、部員の一人が山行に遅刻する事件が起 ( 華 ) 、岸本、草野 今年度より新たに大学山岳部主将を務きます。なるべく多くの山行をこなして自 私は参加していないため、行動詳細は不めさせて頂きます吉田周平です。さっそく信をつけようとあせったあまりに、一つ一 明たが、新入部員に山登りの楽しさを知っ生意気な今年度の活動方針の発表 ! とい つの山行を大切する感覚が薄れていたと てもらうために計画された山行だった。 きたい所ですが、少し自己紹介と今までの思います。山行に対する意識を見直さずに 活動口をさせて頂きます。 次の山行に行ってはならないと判断し、予 富士山 ( 雪上訓練 ) 私は 3 人兄弟の末っ子、長男、姉 2 人の定していた山行計画を全て中止。かわりに メンバー伊藤、庄司、吉田、亀野、荻原、顔色をうかがいながら生きてきました。学春合宿までの 1 週間を朝の訓練週間とし 内山、山梨、ガラムカリ、平尾さん 習院中等科に入学後、剣道部に入部。 6 年ました。早朝に部室にあつまりトレー一一ン 例年冬合宿前に行う雪上訓練。アイゼン間続けたかいがあってか一一一段の実力ですグや掃除。時間的な余裕もあり、春合宿の ワーク、ピーコン捜索など冬山での実践的 ( 藤大路〇は一一段です ) 。チャームボイン準備を綿密にすすめることができました。 な技術を確認した。多くの一年生にとってトは大きな目玉。今でも山を歩いていると意気込んで臨んだ春合宿は皆の頑張りも は初めての冬山だった。女性部員がイ旨 本調を「どこの高校山岳部なの ? 」とやさしく尋あって予定よりも長い行程を進むことが 崩し、雪上訓練をあまりできなかった。 ねられます。大学 3 年生になる私ですが、できました。結局予定を一日短縮して下山。 雲取山 きっと少年のような純粋な目をして歩い準備に時間をかけたからか、あっという間 メンバー庄司、山梨、伊藤 ( 華 ) ているからですかね。そういえば山に登っの春合宿でありました。 入部してまだ日が浅い部員のための山ている人はみんな若く見えるものです。夏 行。私は参加していないため、行動詳細は合宿で 5 回も間違えられるとさすがに落私は山登りはスポーツではないと考え ています。ある種のインドアクライミング 不明たが、寝坊による遅刻、当日欠席、体ち込みましたが。 調不良など、冬合宿前に様々な問題が露呈私が主将となって最初の 2 月 53 月ははスポーツ的な要素が強いのは確かです 通 した山行。 春合宿を目標に活動しました。メンバーは が、山岳部の活動は単なるスポーツを越え 桜 山 霞沢岳 ( 夂入口宿 ) 2 年 2 人と 1 年 4 人という構成。全員の山ている、あるいは越えなければならないと 章の短さに不満を感じる方がいらっしゃ 見方がまったく変わるからだ。 現役近況 るかもしれませんが、この短さも私の誠実 例えば、震災での被災者の苦しみを聞い ても「なんとも思わない」と発言する人さ故です。ご了承ください。 がいたとする ( 私だ ) 。これがもし本心で以下に上期の山行を記載。 下期活動報告 あればこの人は自分の気持ちを偽らない 伊藤貴紀 誠実な人のはずだ。しかしこういう人は必八ヶ岳真教寺尾根 「やつばり結婚するなら誠実な男性がいず「非国民」「冷たい人」と非難されてしメンバー伊藤、庄司、吉田、内山、山梨 いな」。世の中ずいぶん誠実な人を求めてまう。なぜなら社会や集団の価値観に共感夏合宿後最初の山行。単純に登るだけで いる。しかし残念ながらこれは嘘だ。なぜしていないからだ。自分の真心が社会や集なく、若干の登攀要素も含まれていること なら本当に誠実な人を求めているのであ団の価値観にびったりと合う奇跡的な人からこのルートに決まった。夏合宿の成果 れば女性は私をほおっておくはずがない は、周囲から気持ちよく誠実な人と思われか、多くの部員は非常に楽に歩いていた。 のだ。 るだろう。しかし、このような人はまずい女性部員が一人山頂目前で体調を崩した 私は誠実な人間だ。誠実であることがないので、多くの人は誠実であることをやが、何とか無事に登頂することができた。 生きていく上で何もプラスにならないとめ、周囲の価値観に共感しているふりをし槍ヶ岳北鎌尾根 知ってはいるが、どうしても誠実さを捨てて周りからの非難を避ける。これは生きて伊藤、吉田、亀野 ることができない。こう言うと「ぞっつ」 今後、行く機会がないかもしれないので、 いく上でもっとも賢い生き方だ。私もこの とする人がいるかもしれないが、落ち着い生き方をがんばって実践してみた ( やっと時間がある時に行った山行。非常に楽しい 山行だった。北鎌尾根の取り付きで若干道 てほしい。誠実な人間には 2 種類のタイプ山岳部の話が始まります ) 。 がある。誠実さを周りから善いと思われる 上期の活動の反省から、下期の活動ではに迷ったが、他は問題なく通過できた。と 人と誠実さを悪いと批判されてしまう人周囲の価値観になるべく合わせた活動をにかく長かった。剣岳の源次郎尾根をさら だ。言うまでもないが私は後者だ。 した。具体的にはなるべく全部員が参加でに長くした尾根という印象だった。 誠実の意味を調べると、人や物事に対すきるような活勲だ。だが、慣れないことをⅱ月 る姿勢から真心を感じられることとある。したためか非常に疲れた。また真心と違う霞沢岳 ( 夂入口宿偵察 ) そして、真心とは、真実の心、偽りや飾りことをしたので心から楽しむことができメンバー伊藤、庄司、吉田、亀野、内山、 のない心を意味する。つまり、誠実な人間 なかった。上期の活動とは異なり、比較的山梨 とは自分の気持ちに嘘をつかない人のこ周囲との対立はなかったと思うが、個人山冬合宿で行く霞沢岳の偵察。その他の山 とだ。ではなぜ誠実な人間が 2 種類に分類行も合宿も上期の活動のような強い印象にも登る計画だったが、天候不良により断 されるのか。それは真心が社会や集団の価がない。下期の活動はそんなものだった。念した。登り始めてすぐに女性部員が体調 値観に合うか合わないかによって周囲の以上で下期の活動報告は終わりです。文不良を訴えたため、この頃は冬合宿に参加 0 0 0 山桜通信 No 39 ' 13. 4
員全員の切符がとれたので上高地に行く佐久間さんのリーダー時代は正に激動なかった。佐久間リーダーは他校と掛け合 ことになった。電車終点の島々から歩いての時代であり、年から始まる太平洋戦い装備を揃えるは大変であったと思う。 涸沢に入った。グロは相変わらずキロ以争の終結 (coR ・ 8 ) と荒廃、新憲法の制 ・ 8 他校に先駆けて穂高唐沢の合宿 上背負わされていた。僕はキロそこそこ定と同時に起こった学習院の存廃問題とが再開されるが翌・ 8 の夏山から小生 だったが、リュックに差したピッケルが釜新学習院の発足 (T 幻・川 ) 、新学制制度へ等は初参加、ピギナーは食事当番をやらさ トンの出口の天井に引っかかり苦労した。の移等が矢継ぎ早に起こったさなか、弱れるのだが、米はなく小麦粉のすいとんが 涸沢では天候にも恵まれて、奥穂 5 前穂と冠中等科 4 年で、来が大空襲で焼け野原主食であった。・ 3 の春山は穂高岳沢 歩き、 1 、 2 のコルからグリセードで降りになる悳間の・ 4 にリーダーを引き受の合宿で、借り物の、ポーラーテント、ア たのは誠に愉快であった。 けたのである。先輩が兵役で学習院を去りイゼン、ピッケル、山靴、ザイル、スキー 山岳部長だった岡本先生に「グロ」とい (c02) この激動の社会の中で学習院山岳等の装備で合宿が成り立ったのである。夏 うのは英語では正確にどういう意味です部の長い伝統の継承と後任指導という困山の前には主として三つ峠でロッククラ イミング、ザイルテク一一ックの手ほどきを かと尋ねたところ、先生は一瞬考えられた難を引き受けざるを得なかったのである。 ・ 4 次第に四による空襲は激しさうけ、冬の合宿まえには富士山、谷川、日 ところで、 gurotesque の略で容貌魁偉と 云うことでしようと言われた。僕の方が先を増し、里只は焼夷弾の絨毯爆撃で焦土化光でアイゼン、グリセード、ザイルテク一一 だと思っていたのに、突然先に逝かれ途方し目白の本院も全焼し山岳部の部室も焼ックを習得した。 に暮れるばかりだ。 け、山の道具一切を失うことになるのであ共同装備の不足は部費では足りず、黒田一 る。 美治や大橋節夫のバンドを呼んできてダ 好漢グロのご冥福を心より祈る。 小生は・ 3 空襲が激しさを増す中、ンスパーティーを企画して部費のたしに 佐久問 ( グロ ) さんを偲んで岡山に疎開をするのだが 4 月には恵比寿したり、個人装備はアルバイトをしつつ揃 の自宅は全焼、疎開先に送るはずの荷物もえてゆくしかなかったのである。その頃、 橋本貪 恵比寿駅で焼けてしまった。岡山の街も山屋はケッ皮 ( カモシカや熊の毛皮 ) を腰 ・ 7 の四の絨毯爆撃で一夜のうちに焼にプル下げて山に入ったものだが、佐久間 お元気とばかり思っていたので、突然の ーダーは自宅の虎の毛皮のカーベット 訃報に接し驚きとともに誠に慙愧に耐えけ野原となり、遂に広島、長崎へ原子爆弾 ない気持ちでいつばいでした。特に小生にが投下され終戦の玉音放送 (c03 ・ 8 ) とを切り刻んで我々部員にケッ皮を作って とっては、山に入る手ほどきを受けた恩人なるのである。 co 末に復学するが食料難くれた。高級な虎の毛皮など見たこともな であったからです。 と物資不足は続き ( 中等科 4 年 ) に加く貴重なものであった。しかしご家族に とってはさぞご迷惑なことであったろう 佐久間さんは偉ぶらない親切な人柄と瀬とともに、佐久間リーダー犬養サプリ あわせて芯の強さを持ち、人の面倒見のよダーに面接入部するのだが山に行くにも、と思っている。 い方で周囲から厚い信頼を得ておられた。 装備を借り集めることから始めねばなら 当時の備品はテントは木綿、ザイルは 王と東久邇宮俊彦王が並び、皆で記念撮影教官に睨まれる。剣道、柔道、弓道の武士道 を行った記憶がある。宏君のお父様はでつがお奨めだがどれも性に合わない。そこで ぶりとした大きな方で、おみやげに各々色醍醐忠久君と相談して僕も山岳部に入る 佐久間宏氏 ( 昭和年政卒 ) 平成 通 圏年Ⅱ月日肺炎のため死去、享年鉛筆と画用紙を頂いたことが忘れられなことにした。部室は昔使ったバラック校舎 桜 山 い。両殿下のお名前をひとつずつ戴いた″昭の正門寄りの音楽室隣の教室の一一部屋に 制歳謹んでご冥福をお祈りします。 俊会〃というクラス会は今も続いている。あった。部員は 5 年生の舟橋明賢さん ( ラッ 皇太子 ( 現天皇 ) をお迎えするため、四キョウ ) 、波多野敬人さん ( ピートン ) 、三井 佐久問宏君のこと 谷にあった初等科の古い木造校舎から目源蔵さん ( ミッゲン ) 、山口裕久さん ( ゲタ ) 本問康正 白の本校の片隅に建っていたバラック校の 4 名と、既に入部していたグロ ( 宏君 ) と 僕たちが初等科に入学したのは昭和川 舎に移転した。中等科に入ると宏君は野球シンコー ( 後藤新一君 ) 、奥村敬介 ( だしハ ン ) 顔恵民 ( ガンテキ ) 、犬養康彦 ( ワイコー ) 、 年 4 月、満州事変が支那事変に移った年で部に入り、左利きのファーストとしてピッ あった。一学年は東西一一組に分かれ、ひとチャーの富永さんと奮戦し、当時学校挙げ石本一雄 ( いしパン ) などの同級生がいた。 最初の冬山は八ヶ岳で、赤岳鉱泉の少し 組は壟 3 人で、佐久間君は向う組で組みての大イベントであった付属戦に勝った で背が高く上から 2 ' 3 番目で、こっち組のである。その後まもなく彼は山岳部に入奥にある林の中にべースキャンプを張っ た。グロは鍋釜食料の他天幕など特大キス 部した。 の僕は背の低い方から 2 、 3 番目であった。 クラスは 1 年生より 6 年生まで全然変わ軍事教練は富士山の裾野の広々としたリングの天っ辺を越えて頭の上まで薊キ一 らず、担任の先生も変わらないから、彼と教練場で行われたが、体格のいい宏君は 4 ロ以上を背負っていた。僕などチピはキ 僕は碌に顔を合わせることもなかった。と人がかりでやっと持ち上げられる重機関口そこそこで許された。グロがどこに登っ ころが不思議なことに、宏君の牛込区一一十銃を運はされふうふう言っていた。僕のよたかは判らない。僕はげたさんと一緒に赤 うにチピで痩せている者は騎兵銃を持た岳と阿弥陀岳の鞍部に天幕を張り、零下幻 騎町の家に招かれたことがあった。 スラリと背の高いお母様が通してくれされ、成績の悪いものは敵軍に廻され、トー度を経験させられた。帰りは雪を吸った天 た部屋は、壁が印刷のときに使われる凸凹チカに入れさせられた。敵軍の大将は 5 年幕ひとっ薊キロ以上のものをグロが背負 、彼の背負ってきた鍋釜その他が僕に の文字で書かれたツヤのある赤褐色をし生の三島由紀夫・平岡さん ( 綽名は青瓢箪 ) ていた。宏君は男だけの 4 人兄弟の末っ子で、僕ら兵隊にはタバコでものんで寝転廻ってきて、入山と同じ重さのリュックを で、″ジャック〃と呼ばれていた。 4 年生がっていればいいと言ってくれたものだ。背負わされたのにはガックリした。 の頃だったが、市ヶ谷見附にあった大日本中等科の 2 年は強制的に入寮させられ、宏目白の木造建造物は昭和年 3 月以降 印刷の工場を東西両組の生徒が招かれて君は少年寮の一寮、僕は一一寮で食堂だけ一の来泉大空襲ですべて灰になった。高等科 にはグロは文甲へ、僕は理乙へ進んだ。そ 見学したことがあった。見学の後、宏君の緒だった。 お父様を真ん中に、その両側に久邇宮邦昭中等科では運動部に入らないと教練のして終戦、翌年の昭和幻年の夏山は山岳部 = = ロ 0 山桜通信 No 39 '13. 4