ユーサー会の歴史 一バック研究会の テーマで、 27 年 4 月に行なわれた。以後、毎月事例 依る諸統計及決算事務機械化運營爿大況見學」という 第 1 回の事例発表は「國鐵における R / R 方式に 例研究会が活発に行なわれるようになった。 と突っ込んだ研究会を」というニーズに対応して事 などが次々と導入されるようになってからは「もっ 穿孑蠏読再生機、タグシステム機、邦字宛名印刷機 その後、電子管式機、テレタイブ連動機、テープ を中心に運営されてきた。 事務機械化に対する意見の発表が行なわれる月例会 ロ識の紹介、体験工夫の発表、意見の交換など、 REMRAND 研究会は、コンヒュータ関連技術や であった。 月例会で話題となるすべての事例が貴重な技術清報 での実践、コンヒュータ室の設呂・運用・管理など、 ーにとっては各種専門知識窈彦得、その実証と業務 当時は事務機械化の草創期であったため、ユーザ コンヒュータのユーザー会である。 バック研究会の出発であり、日本における最も古い、 REMRAND 研究会を糸した。これが現在のユニ 両面において事務機械化を発展させる目的で 連絡を密にし、忌憚なく意見を交換し、企画、技術 ンチカード・システムのユーザー約 3 0 社が、相互の 昭和 28 年 3 月 14 日、当時の Remington Rand 式パ 発表が行なわれてきた。 240 初期の月例研究会風景 初年度のレムランド研究会のテーマ 第 1 回 第 2 回 第 3 回 第 4 回 第 5 回 第 6 回 第 7 回 第 8 回 第 9 回 第 10 回 第 11 回 昭和 28 年 4 月 28 日 昭和 28 年 5 月 29 日 昭和 28 年 6 月 24 日 昭和 28 年 7 月 24 日 昭和 28 年 9 月 14 日 昭和 28 年 11 月 6 日 昭和 28 年 11 月 27 日 昭和 28 年 12 月 14 日 昭和 29 年 2 月 25 日 昭和 29 年 3 月 23 日 昭和 29 年 3 月 30 日 國鐵に於ける R / R 方式に依る諸統計及決 算事務機械化運營状況見學 渡米證券代表團の歸朝報告 R / R 方式による輸出入貿易統計の運營に ついて パンチオペレーター性檢査 機械室の防音装置と色彩調節 取引戸靑算事務機械化に關する説明 ( 場立より機械處理まで ) 米國に於けるパンチカードシステムの近 況について 中部電力に於ける料金調定事務株式事 務人事里の化について R / R 式電子管分類機およびテーフ穿孔タ イプライターと穿孔テーフ黷取自働穿孔 機について R / R 式統計會計機の最新金賎と近く市場 に出現する及ひ米國に於ける機械化 の王犬について 電子計算機の初歩的基本問題について 3 1 年 6 月には、各種部会の第 1 号として製造部会 が発足。その後、衛生管理研究会、プログラム部会、 く人手を少なくして、しかも正確に敏速に里して 量に比例させて増加することは困難となり、成るべ 大する一方、人件費は益々高騰する為に人員を事務 状況を観察するに、日に従い月を追って事務量は増 生命 ) は、「近年種々の事業において日々の事務里 倉刑された。同誌「巻頭言」で、瀬名貞利氏 ( 平和 ton Rand SystemsJ は昭和 29 年 9 月、季刊として 究会誌を発刊したことである。この fReming- また、初期の活動で注目されるのは、発足翌年に研 Systems 』の発行 誌『 Remington Rand 会カ輛催され、 59 社、 159 名の会員が参加した。 重要性をテーマに、パンチ・オペレータ穿孔大 33 年には、大量電算里時代における入力業務の 会カ催され、 130 名のユーザーが参加している。 37 年 11 月 19 日には広島県宮島において秋季全国大 った。 35 年からは、関西地区幹事も選出されている。 的な研究活動を展開しながら、地方にも拡大してい ラ葹甬部会唹関西 ) カかれるなど、業種ごとに継続
入ってから、ようやくその作業を完了した。 アメリカ国内で、最初にを開始したプ ログラム内蔵方式のコンヒ。ュータは、 1949 年、工ッカート・モークリー社が開発した BINAC である。この BINAC は、ノースロ ップ・エアクラフト社の注文で製作された技 術計算用のコンピュータであるが、水銀遅延 回路による 512 語の記憶装置を備え、さらに 外部記体として磁気テープをするな ど、その当時としては画期的な技術を結集し て、完成にこぎつけたものであった。高水準 言語によるプログラムを可能にするために 初めてインタブリタが提供されたのも、この コンヒ。ュータである。 BINAC の開発と 並行して、工ッカ UNIVAC I 登場 ートとモークリー は、事務里用の 大型コンピュータの開発にも着手し、 1947 年 ( 昭和 22 ) 8 月には、基本的な言を完了した。 その最初の 1 台を、米国人口統計局に納入す る契約を獲得したのは、翌 1948 年 6 月のこと である。 1950 年、世界最初の明コンピュータとし て登場したこの UNIVAC I には、英数字が 直接取り扱えること、完全な自動検算回路を 備えていること、正逆両方向に読み書きでき る磁気テープ装置をもち、しかもそのデータ の入出力と内部の演算里を同時に行なうこ とができるようになっていたことなど、一般 のデータ里に有効な、新しい機能が組み込 まれていた。翌年 3 月に人口統計局に設置さ れたその第 1 号機は、国勢調査で予定されて いたすべての作業を、わずか 1 4 か月間で完了 している。 UNIVAC I の成功を契機として、この時 代には、多数の企業が商用のコンヒ。ュータの 製作に乗り出してきた。コンヒ。ュータの開発 が、大学や政府のプロジェクトとして進 1 2 められていた黎日月期が終わって、コンヒ。ュー タ産業がようやくその第一歩を踏み出したの である。しかしながら、開発にともなう巨額 の資金負担や技術的な困難さのために、短時 日のうちに市場から脱落した企業も少なくな い。工ッカート・モークリー社も 1952 年には、 資金的な基盤を得るために、 PCS のメーカ ーとして知られていたレミントン・ランド社 に合流し、同じくレミントン・ランド社に合 併された ERA 社とともに、同社のユニバッ ク事業部として、新たな出発をすることにな った。続く数年間のうちに、このユニバック 事業部は、 UNIVAC Ⅱ , 1103A などを始めと した大型から′」までの各種コンピュータを 開発し、 1 956 年には、科学技術計算用の超大 型コンピュータ UNIVAC LARC を発表し て、新しく誕生したコンピュータ市場に、最 も強力な基盤を確立した。 コンヒ。ュータ利 用の歴史は、そ 事務機械化の始まり の基礎となって いるパンチカー ド・システム ( PCS ) を抜きにして、語ること はできない。事務機械化、経営機械化は、 の PCS の利用から始まった。 大正 1 2 年 ( 1 9 2 3 ) 8 月 3 1 日 この日は、日 本の事務機械化の歴史にとって記念すべき日 となった。わが国刀めての PCS 、「パワー ズ式糸機械」が横浜港に到着したのである。 それは奇しくも、関東大震災の前日であった。 もし、この機械が 1 日早く陸揚げされていた なら、無惨な黒こげの残骸となっていたかも しれない。 幸いにも、陸揚げされずにいたために、震 災後、急ぎ神戸港に回漕し、災害による混乱 が一応沈静した 1 2 月になって、無事ューザー に引き渡すことができた。 この pcs は、三井物産力咽 ( 現・統計 局 ) 、省、大蔵省 ( 横浜税関 ) 向けに輸入
ら再スタート。当初、年 2 ~ 3 回の発行であったも のが、 40 年から隔月刊になり、 41 年から月刊となっ た。しかし、オイルショックの後、 50 年からふたた び隔月刊となって現在に至っており、 62 年末には 196 号 ( 通巻では 228 号 ) を数えるまでになっている。 海察団の 一方、技術革新の先端をゆく米国コンヒ。ュータ事情 についての関心が高まり、昭和 37 年 9 月には研究会 として初めて米国に視察団を送った。当時の幹事長 信義氏 ( 東京瓦斯 ) を団長とする一行 3 名は、パ ームスプリングスで開かれた米国 IJUA (Univac Users Association) に出席した後、約 1 か月の視 察を行なった。 40 年に第 2 回視察団が派遣されてか らは、年度行事のひとっとして定着し、毎年 UUA 秋 季大会に視察団を送り込んでいる。 4 1 年には富士銀 行の島川聖明氏が招聘を受けて、同行のオンライ ン・システムについて講廣された。 その後、欧州各国のユニバック・ユーザーとも連 携を深め、情報交換を通じて、より高度なコンヒ。ュ ータ利用の研究を行なうため、 UUAE (Univac Users Association Europe) 春季大会にも出席 0 62 年度の欧州視察団 1 1 名を加えると、海外視察団の 参加者は現在までに 350 名にのばっている。 SYSTEMS 物可をして ( : 0 ”い第ⅵ載 n - : S 、円れ新賛川に際 iv - Rem R 対曾いつ : 勢お 1 をは第も物ごい当ー 第第紀第 曾デ機強化を一物いを聞 : 講脅” 百貨こけこ代的商品管理い第 ~ す月、、町ロ 0 を」ドを・ Remington Rand SYSTEMSJ 創刊号目次 事務能率の向上を計らねばならぬ状態である。此の 為には人手をたよっていては不可能で、どうしても 機械力を利用せねばならず、ここに諸般の事務機械 化を各方面で研究し実施せざるを得ぬ状態である。 ( 中略 ) われわれの知らねばならぬ事や研究すべき ことは益々多くなると思うが単に講演会や見学だけ では不十分である。 ( 中略 ) 今回之等の欠點を補い、 且会員諸賢の研究調査の御発表にも便宜を與える為 にわが研究会の機関誌 Remington Rand Sys- tems を鼾」することになった」 ( 原文のまま ) と、 今日 0 ア青報化時代を予知し、研究舌動の重要性を 強調された。 また、白根玉喜氏 ( 郵政省簡易保険局長 ) は「倉刑 を祝して」と題して、「毎年数百万件に上る多量の新 規契約の増加を考えますとき、現在の手作業に依存 しましては、業績の飛躍的上昇は望み得べくもなく、 事業経営に缺くべからざる如何なる事態にも対応し 得る確固たる基盤の確立は永遠に希み得ないもので あります。 ( 中略 ) 嚇合もこのとき RR 統計会計機の 研究機関誌 0 」行のことを知り、万人の友を得た如 く、また砌莫にオアシスを発見したかの如くに、大 きな喜びと期待を併せ感ずるのであります」 ( 原文の まま ) と、述べておられる。 まだコンヒュータ雑誌などなかった当時、同誌は ューザーの間のみならず、情報里の研究者イ道 出版関係者の間でも貴重な文献として高く詔面され 同誌は 34 年に CRemington lJnivac Systemsz と改称め 36 年度までに 22 号が発行された。 37 年度か ら会名が「ユニバック研究会」と改められたのを契 機に、同誌も rUnivac Systemsu として第 1 号か 昭和 56 年度米国視察団 (AIJIJA 大会で挨拶する幹事長小宮保氏 ) 1 年をに大きな 1 0 周年を迎えた昭和 3 9 年、数々の記念行事を開催し、 ユニバック研究会はさらに拡大した。 5 月に開催さ れた第 1 回の全国会議には、世界初のコンヒュータ 「 EN C 」の生みの親、 J. P. ェッカート博士を招聘。 「電子計算機の発明の皿と将来の展望」と題する 特別講演が行なわれた。 、 0 241
三重県農協では、渉外支援システムを活用して、昭和 61 年月に 「農協営業推進支援システム」を完成。また、 62 年 1 ロ月には、三重県系 統信用事業の第 3 次オンラインの稼働を開始した。写真は八ンティ ターミナルによる渉外活動風景 ( ー志町農業協同組合 ) 。 兵庫相互銀行では、外為事務オンライン・シ ステムを昭和 62 年 3 月からスタートさせ、さ らに 9 月には SWIFT ( 国際銀行間テータ通 信システム ) との接続を実現、海外銀行との 取引業務の円滑化を進めている。 157
商品」と目されるようになり、ついには輸入 が禁止されるに至ったのである。この時点で、 RR 式 PCS は国内四十数か所に、ほば 1000 台が設置されていた。 太平ラ鞦争の勃発で、ユーザーが最も苦労 をしたのは、カードの入手であった。カード の国産化は、鉄道省が PCS を大量に導入し たころからの懸案であったが、 13 年にようや くその原紙の開発に成功した。戦時中はこう した国産力ードを、残量のとばしくなった輸 入力ードと併用していくよりほかに、道はな くなったのである。 こうした状況下でも、ユーザーは PCS の 利用を続けようと努力していたが、戦争の長 期化とともに、そうした態勢をすること も次第に困難になっていった。 たとえば、その当時、世界最大規模の PCS ユーザーといわれた国鉄では、開戦とともに 応召そ窈也によって男子職員が不足し、女子 オペレータを採用したが、その後さらに、非 現業部門を縮小することになったため、 20 年 4 月には機充計所を閉鎖した。また、 PCS 機械の疎開を始めたものの、 20 年 5 月の大空 襲によって、疎開未了の機械 150 台とデータ および施設の一切は焼失してしまった。 戦前に導入された PCS のほとんどは、 の年の空襲で失われた。 日日式 PCS の 輸入再開 第 2 次大戦後のわが 国の事務機械化は、 まず、占領軍主導で 始まった。占領軍は 日本経斉再建を進めるにあたって、まず近代 的な経営管理手法とそのツールを取り入れる よう指導したのである。 日本の各企業も、新しい企業活動の方向を 探るうえで、アメリカ式 0 営管理法に学ば うという考えをもつようになった。占領軍の 調査、統計、補給、人事管理に PCS カわれ ていたという事実が、事務機械化を促進する 14 役割を果たしたのである。とくに占領軍の補 給管理システムが、各企業の部品管理、生産 管理システムに与えた影響は小さくない。 戦前、 PCS の輸入に力を注いだ吉澤審三 郎氏は、その当時、寬羊造機 ( 現・日本オーチ ス・エレベータ ) 社長として、自社の被災工場 の復旧にあたっていたが、その合間をぬって それらの PCS ューザーを個別に訪問して、 状況を調査した。みずからの手で輸入した機 械の惨状と、ユーザーの強い修復の要請に、 責任を痛感した同社長は、みずから事業を再 開すべく決意し、昭和 22 年 6 月、吉澤機器株 式会社を言竝した。社員は、旧三井物産でサ ービスにあたっていた数人を集め、彼らを中 心に、とりあえず被災した機械窈彦理復旧を 第一として、業務をスタートした。ちなみに、 22 年の財閥解体で、戦前レミントン・ランド 社の PCS を扱っていた三井物産機械部のメ ンバーは、日本機械貿易、極東貿易などに分 散していた。 23 年になると、この PCS をめぐって新し い動きが出始めた。前年の 22 年 8 月 15 日に は、制限っきながら民間貿易の再開が許可さ れ、事務機械、統計機械の輸入には明るい見 通しが得られるようになってきたのである。 いちはやく、サービスを再開した吉澤機器は PCS は労働省統計調査局、大蔵省関跼、文 の採用を決めた。これを皮切りに、 RR 式 の新設計画にレミントン・ランド社の PCS 厚生省統計調査部は 25 年、大規模な PCS 的に再開されたのは、 25 年 1 月である。 社と同社の間で成立した。実際に輸入が本格 取り扱うという合意が、レミントン・ランド して、とりあえず吉澤機器が RR 式 PCS を 開後、できるだけ早い時期に締結することと 23 年 7 月、日本販売総里権契約は貿易再 再開はまず自分たちの手で」とふるいたった。 旧三井物産時代の機械部門の人たちも「輸入 もちろんのこと、日械貿易、極東貿易など、
したものであった。のちに三井物産が日本レ ミントン・ユニバックの設立に参加すること になったは、この大正 12 年の PCS 初輸 入にあったといえよう。 ところで PCS が生まれるそもそものきっ かけをつくったのは、アメリカの国勢調査で あった。アメリカでは、 1797 年 ( 9 ) 以来、 ほば 10 年ごとに国勢調査が実施されていた が、 1 9 世紀のゴールドラッシュで中西部への 人口移動がふえ、またヨーロッパからの移民 が急増したため、 1 880 年の国勢調査では、そ の集計に 7 年あまりも費やされるほど、たい へんな人手と時間がかかるようになってき た。そこで、機械力による調査集計方法の研 究が始まったのである。 この研究の中心になったのが、当時、人口 統計局にいた統者のハーマン・ホレリス とジェームズ・パワーズ技師であった。 1887 年 ( 明治 2 の、ホレリスの名を冠した最 初の PCS カ生した。 1 890 年の国勢調査で は、さっそくこの機械が活用され、ほば 2 年 半で調査集計を終えている。 一方、パワーズは 1907 年、ホレリスとは違 った純機械的な方式の PCS を開発し、 1910 年の国勢調査で、この新しい方式の機械を実 用化することに成功した。のちにユニバック PCS の特徴となった一斉穿孔方式は、このと き考案されたものである。以後、パワーズは 数々の独創的な機械群を世に送り出し、ホレ リスとともに初期の事務機械化に大きく貢献 している。 国勢調査の集計に悩まされていたのは、わ が国も同様であった。 明治 35 年 ( 1 902 ) 、国勢調査法案が議会を通 過し、それに使用するための統計機械の研究 が、翌 36 年から、逓信省まった。同省で は、当時わが国に紹介されていたホレリス式 PCS の文献にヒントを得て、 3 8 年、電気式集 計機の開発に着手し、翌 39 年完成した。この 機械は、発明者川口市太郎技師の名をとって、 川口式電気集計機と呼ばれている。 大正 7 年に至り、翌々年にせまった第 1 回 国勢調査集計のため、国ではアメリカで 使用されていたものと同種の機械の購入を計 画し、その調査を三井物産に依頼した。しか し、同社から入手困難という回答があったた め、国内で製作することになり、大正 10 年に 穿孔機を、 1 2 年に電気集計機を完成した。 輸入についても、まったくあきらめたわけ ではなく、大正 8 年には、ふたたび三井物産 に調査を依頼している。この調査にあたった 同年入社の吉澤審三郎氏の活躍で、パワーズ 式 PCS の輸入 0 殖が拓かれた。その後、同社 は国のほか、首省、大蔵省からも受注 し、大正 12 年にようやく初の輸入にこぎつけ たのである。 翌年には、三井物産がパワーズの極東総代 理権を取得し、本格的な販売活動を開始した ため、わが国の PCS はパワーズ式が大勢を 占めることとなった。戦前の市場では、官公 庁で 95 % 、民間を含めても実に 85 % のシェア を獲得している。 一方、ホレリス式 PCS も大正 14 年、森村商 事が里権を取得し、官公庁、生命保険会社 などへの販売活動を開始している。 パワーズ式 PCS は昭和 2 年 ( 1927 ) 、レミ ントン・ランド社に引き継がれ、 RR 式 ( レミ ントン・ランド式 ) PCS と呼ばれるようにな った。昭和 8 年ごろには、その設置事業所は 官民合わせて 30 か所を超え、機械台数は 4 1 3 台に達していた。 その前後から、日本は急速に困難な局面に 突入していった。昭和 6 年 9 月満州事変、 7 年 5 月 5 ・ 1 5 事件、 8 年 3 月国見退、 1 1 年 2 月 2 ・ 2 6 事件、 1 2 年 7 月日中戦争、 1 3 年 5 月国家総動員法発令、 1 6 年 1 2 月太平ラ鞦 争へと時代がめまぐるしく変転していくなか で、アメリカ生まれのこの種の機械は「敵性 1 3
創業への道程 わが国初の コンビュ→到着 昭和 30 年 2 月、日 本でネ刀めてのコン ヒ。ュータが兜町に 運びこまれた。 1 年も前から待ちこがれていた機械は、ビ ルの窓から吊り上げられ、路上や近隣のビル の窓から、もの珍しげなネ駢泉が集中した。噂 に聞く「電子計算機」をひと目見ようという のであった。東京証券取引所と野椪登券に導 入されたこの UNlVAC120 によって、わが 国のコンピュータ利用は、その第一歩を踏み 出したのである。 UNIVAC120 は、 PCS ( パンチカード・シ ステム ) の弱点とされていた計算能力を向上 させ、里業務の範囲拡大を図るために開発 されたもので、それまでの PCS の概念を一 変させるほどの画期的な機能と性能を備えて 、 0 コンピュータの 1 号機が、兜町に導入され た背景には、第 2 次大戦後、初といわれてい る当時の株式プームがあった。証券業界は、 朝鮮動乱の特需などによる好況と証券民主化 の波に乗って急成長を遂げ、売買取引高は上 昇の一途をたどっていた。 28 年 2 月 9 日には、 2300 万株という年間最高の出来高を記録し、 精算事務カいつかなくなったため、ついに 売買立会い停止という事態まで引き起こして いる。 もちろん証券業界も、決して手をこまぬい ていたわけではない。証券事務機械化の計画 はすでに、 25 年暮れから翌 26 年 2 月にかけて 「第 1 回米国派遣証券代表団」が渡米し、証 券取引所における機械化の実情を調査したこ ろから始まっていた。こ弋表団は株式売買 高の急増によって繁忙をきわめている事務処 理への効果的な対応策を見いだすことを目的 としていた。 ついで 28 年 3 月には、同じ目的で「欧米証 券市場調査団」が派遣された。彼ら一行はフ イラデルフィアのレミントン・ランド社を訪 れ、研究所でイ中のある機械の前に案内さ れた。これが、 RR 4 0 9 ー 2 A 、つまり、 UNIVAC120 だったのである。この機械は、 従来の PCS では不可能だった計算を処理す る能力をもち、速さも格段に優れていた。 , れが調査団の一行、証券業界の事務機械化担 当者を強く魅了したのはいうまでもない。 ただし、この RR409 ー 2A は市販前の製品 であったため、翌 29 年 1 月の発売開始まで 1 年、日本到着までにはさらに 1 年を待たなけ ればならなかった。 30 年 2 月、 UNlVAC120 が導入されるに至 り、それまで PCS のみに頼って事務機械化 を進めてきたわが国の企業は一斉にその動向 を注目し始めた。東京証券取引所の機械室に は、連日、多くの人が見学に訪れ、その数は 1 日 300 人にもおよぶほどだった。故・湯川秀 相廿専士も、当時見学し、そ 0 能に驚嘆した ひとりである。 UNIVAC120 の登場により、日本のコンヒ。 ュータ時代の幕が切って落とされた。 世界初のコンヒ。ュータ は、第 2 次大戦に 米国の電子技術者 J. P. 工ッカートと物理学 者 J. W. モークリーの協力によって開発され た ENIAC (EIectronic Numerical lnte- grator and Computer) である。 1942 年 ( 昭和 17 ) 8 月、ペンシルべニア大学 ムア・スクール ( 電気工学教室 ) にいた工ッカ ートとモークリーは、真空管回路を利用した 高性能のコンヒ。ュータの実現性について、最 初の研究報告をまとめた。当時、ムア・スク ENIAC 甦
所が設立され、東京計算センターは同研究所に発展 的に吸収された。 そして、計算センターは、データセンター部門と して、従来からの事務計算業務だけでなく、科学技 術計算分野のニーズにもこたえるため、研究部門と 一体となり業務を展開することになった。 一方、佐賀町ビルでは、従来のとおり、 0UK9400 、 9 3 0 0 を設置し、主に一般事務計算サービス、経営計 算サービスの受託業務を里した。 46 年には大阪にデータセンターを開設、当面は事 務計算サービスを中心に業務の展開を図った。 一方、データセンター部門として科学技術計算サ ービスを主に担当するセンターが、翌年 4 月本社ビ ルに開設されることになっていく・・・。 総合→センターとそ」 昭和 45 年 3 月、東京・の新本社ビルが竣工し、 , 、ロデータセンターを開設した。 その狙いは、①コンヒ。ュータ利用技術の開発、普 及、②新規システムの開発およびそのテスト、③ユ ーザーへのシステム導入の支援、④ューザーへのバ ックアップ・サービスのいっそうの充実、など各種 サービス活動の拡充をめざすこと。設置機器として、 UNlVAC1108 超大型コンヒ。ュータ、 UNIVAC418 Ⅲ、 0 U K 9 4 0 0 、 0 U K 9 3 0 0 ( 3 システム ) 、 0UK1004 ( 2 システム ) などの大型機から′」機ま で 8 システムのコンヒ。ュータとデータ・コミュニケ ーション・ターミナルなど多くの装置を完備した。 一方、計算センターの機能としては、 UNIVACI 1 08 大型機利用による科学技術計算分野 の受託里を行なうことになった。この UNIVAC づ / ビー 2 3 6 受託した。 製造業、石油会社、大学、研究機関などから業務を 1 108 はモニター・オープン形式で利用され、大手の コンピュータ利用、テータ・センター利用の手引き 計算サービス験銃 ■コンヒュータの総合サービス 昭和 49 年、情報化社会の進展にともなう受託業務の 増大により、 2 か所に分散されていたデータセンタ ーは、研究部門におけるコンヒュータ利用技術の研 究、開発活動と一体となって活動を展開することと なり、日本ユニバック総合研究所はふたたび事務所 を移転し、全事業所を集結した。 新しいオフィスは中央区新川に新築されたコンヒ ュータ専用の東京ダイヤビルとなった。のデー タセンターと佐賀町のデータセンターが研究部門と 同居して、名実ともに総合的な計算サービスを提供 できる体制が築かれた。 ■ SHARE-II の TSS サービス開始 4 6 年に公郊甬信法が改正されて新しいネットワ ーク時代の幕カ輛き、以後、わが国の通信自由化は 段階的に進んできた。 ユニバックがタイム・シェアリング・システム (TSS) による専用回線の情報里サービスを開始 したのは 47 年の 10 月のことである。 UNlVAC1108 システム吏用し、 SHARE-11 ( シェア・イレプン ) と呼ぶ TSS サービスを提供してきた。 TSS は 45 年からスタートしているユニバック自 社内の TSS を始めとして、石川島播磨重工業、ト 0 00 0 00 、 0 0 、 0 , サービスをひろく世に普及するため、ユーザー企業 してきたことから、 48 年の 4 月には SHARE-II の 大型機の利用などに即応してますますニーズを増大 TSS サービスは企業経営の多層化、遠隔地からの を与えている。 以後のコンヒ。ュータの利用技術に大きなインパクト ったため、業界の注目を一身に集めるものであり、 にわカ瘋の代表的な企業において実用化の実績があ ヨタ自動車工業、三菱重工業、富士銀行など、すで TSS 普及をめざした SHARE-II NEWS
01 を PCS による 戦前の事務機械化 大正 1 2 年、三井物産によって、わが国初の pcs 「パワーズ式糸機械」が瀚入され、 戦前の PCS ユーサーでは、鉄道省が 世界最大規模といわれていた。昭和 8 事務機械化、経営合理化への実質的なスタ 年当時、自動穿孔機 151 台、手動検孔機 ートが切られた。 95 台、分類機 51 台、集計印刷製表機 47 計 344 台という記録が残ってい ノ . △・一 1907 年 ( 明治 4 の、米国人口局のジェ ロ、ロロ ームズ・パワーズの手で開発されたこの 鉄道省では主に貨物の品種別統計に 使用されていたが、当時の使用カード pcs は、以後、国 ( 現・統計局 ) 、首 枚数は年間 35 万枚にのぼっている。 省、大蔵省 ( 横浜税関 ) を始めとして、官 写真は、大阪交通博物館に保存され当 ている自動穿孔機、分類機、集計印刷 公庁、民間企業に相次いで導入されていっ 製表機 ( 上から ) 。 0 パワーズ式 PCS は、 1927 年 ( 昭和 2 ) に レミントン・ランド社がその事業を引き継 いでカ、ら後は、 RR 式 ( レミントン・ランド 式 ) PCS と呼ばれるようになった。 戦前、三井物産が瀚入した RR 式 PCS は、 1000 台にも達している。 OflT"11 第 被第市町村第査ロ番亡′府県市町村肩 ロ女 ~ 聞 2 2 2 -2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 第 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 : 2 2 2 2 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 ー 3 3 3 3 3 3 3 ー 3 3 コ 3 3 0 6 6 6 3 6 6 6 6 3 6 6 0 6 6 6 6 3 6 6 6 6 6 0 3 0 6 5 0 、 0 り 0 0 6 0 6 6 6 0 6 6 6 6 ー 0 3 8 9 3 0 3 8 8 日 8 日 3 8 3 , 0 3 8 3 0 0 0 8 8 8 3 日 3 8 8 3 8 0 0 3 8 8 6 日 6 6 を 0.3 ? 0 0 0 0 9 9 0 3 9 0 5 コ 9 9 0 9 0 9 9 9 0 0 0 3 0 0 0 9 9 0 9 3 9 ・ 0 9 9 9 9 0 0 写真は、第 1 回国勢調査時に使 と厚生省統計局て昭和 24 年の人 ロ動態調査に使用された 45 欄カ ード ( 中 ) 。下は 9 ロ欄標準カード。 20
0 ゞ USSC の高速磁気ドラム記憶装置 ( 左 ) とカタログ表紙 の高速磁気ドラムを主記憶装置に採用し、毎秒約 12 , 000 回の加減算を行なう能力があった。 USSC は、第 2 世代コンピュータの先駆けとして、当時の PCS を EDPS (EIectronic Data Processing System) に発展させるのに大いに貢献した。 のちに記憶容量を減らして低価格にした STEP (SimpIe Transition tO Electronic processing) と、 1 , 280 語 0 愛気コア記憶装置および 2 台の磁気 テープ用シンクロナイザを付加し、最高 20 台までの 磁気テープ装置を接続できるよう高性能化した USS Ⅱのニつのシステムが追加されている。 ・初めて多重プログラミングを実現した大型コンヒ ュータ UNIVAC Ⅲ 1960 年に発表された IJNIVAC Ⅲは世界で初めて 多重プログラミングを実現した。これは数個のプロ グラムを同時並行に実行するオヘレーティング・シ ステム CH 旧 F 、 BOSS によるものである。これに より、コンヒュータのもつ潜在能力をあますところ ■ PCS の中核となった小型コンヒュータ UNlVAC120 、 60 1950 年、パンチカード・システム ( PCS ) の中核とな るコンヒュータ RR409 が開発され、改良型の RR409 ー 2 A 、 2 B を経て、 1954 年 ( 昭和 29 ) には名 称も UNIVAC120 、 60 と改められた。 カード読み取り穿孑置と演算里装置で構成さ れた UNIVACI 20 、 60 は記憶装置に冷陰極放電管 吏用し、 12 云 6 行のデータが記憶できた。プロ グラムは 2 面の配線盤で行ない、演算度は加減算 が 10 マイクロ秒、乗算が 50 マイクロ秒と、当時とし ては驚くべき速さであった。 UNIVAC120 の登場により、日本においても昭和 30 年代に PCS による事務機械化が急速に進んだ。 また UNIVAC120 は事務計算ばかりでなく、 LP ( 線型計画法 ) を始めとして、各種の技術計算にも 活躍した。 ■大容量の記憶装置をもった事務用中型コンヒュー タ UFC 1955 年 ( 昭和 30 ) に事務処理用として発表された中 型コンヒュータ UFC(UNIVAC FiIe Computer) モデル 0 に続き、 1957 年にはモデル I 、 1961 年には 主記憶装置が磁気コアで 2 倍の容量をもつモデルⅡ が発表された。事務計算に合わせて設計された UFC は、大容量磁気ドラムを最大 33 台 ( 594 万桁 ) ま でに応じて接続することができ、台帳など莫大 なデータを記憶。また、各種入出力装置を任意の組 み合わせで 1 0 台ま続できるため、バッチ里ば かりではなく在庫管理や航空機の予約などのオ ンライン里にもひろく利用された。 ■磁気コアを採用した事務用大型コンヒュータ UNIVAC Ⅱ 1957 年に発表された UNIVAC II は UNIVAC I の改型である。水銀遅延タンク記憶装置を磁気コ アに代えて、容量や性能を向上させたこの事務用大 型コンヒュータは、行政、軍事、運輸、交通、電力、 銀行、保険など各分野に数多く使用された。 ■固体回路を全面的に採用した中型コンヒュータ USSC 1956 年に開発された UMC(UNIVAC Magnetic Computer) を改良して、 1 957 年 ( 昭和 32 ) に磁気増 幅器やトランジスタ吏用した世界最初の全固体回 路の中型コンヒュータ USSC(UNIVAC SoIid- state computer) が 50 , 00 行という大容量 、 C 一朝望 R. る 1 一 6 一 7 UNIVAC ) Solid-State っ Computer IJNIVAC Ⅲの磁気コア記憶装置 なく利用できるようになり、事務分野で最も進歩し た経斉的な大型コンヒュータとして、多くの大企業 でイ吏用された。また、 UNIVAC Ⅲでネ刀めて登場し た高性能の UNISERVO Ⅲ A 磁気テープ装置も画 期的な入出力装置であり、 NRZ 方式に代わる位相 1 88