李林甫 - みる会図書館


検索対象: 李白
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1. 李白

しかし韓朝宗もほかの誰も李白に職を与えなかったので、彼は妻の家族と暮しつづけた。実 際、李白は生涯を通じて一度も自分自身の家をかまえなかったように思われる。李白が何度か かわった彼の妻の家族の中で暮していないときには、彼はいとこと考えられる入々、すなわち とにかく李という姓をもち、李白にたいして親族の義務を認める気持のある人々のもとに滞在 していたようである。李白は誰のところに滞在しているかをめったに述べはしない。しかし李 白が訪れたほとんどすべての場所で、彼が李という姓の父方のいとこやそのほかの親族にあて た詩を書いていることをわれわれは知っている。彼等はおそらく李白をもてなしていた家の主 人たちであったろう。 もうこうぜん 李白が著名な同時代人孟浩然 ( 六八九ー七四〇 ) と友だちになったのは七三〇年〔開元一八年〕頃 であったに違いない。孟浩然はすでに述べた李白の家から約七〇マイル北の襄陽の出身であっ ろくもんざん た。三九歳まで孟浩然は襄陽の南東一二マイルの鹿門山に住んで古典を勉強し、また詩を書い ていた。七二八年〔開元一六年〕、孟浩然は長安にのばり、官吏登用試験を受けたが落第した。 おうい ちょうきゅうれい しかし彼は詩人画家王維 ( 六九九ー七五九 ) と、政治家張九齢 ( 六七三ー七四〇 ) と友だちになった。 つぎのような話が伝わっている。ある日、孟浩然が王維と宮廷の一室にいると、玄宗皇帝が突 然はいって来られた。孟浩然は非常に驚いて寝いすの下にかくれた。しかし十分す早くという 、わ二け・こ十、、 ( も力なかった。そこで王維は当惑しながら説明しはじめた。しかし孟浩然の名が出る -4

2. 李白

た李白にまで及んだということが十分ありうるだろう。李白は七四四年〔天宝 = 一年〕の秋、長安 を去「たようである〈補注川参照〉。送別の宴が友人韋良宰によ「て催された。彼はこの宴のた めにあずまやを建てて、「長途の旅に出る前夜に、李白を元気づけようと」心をつくしたのだ 。た。多数の騎馬の人々が遠く長安の南西、約一二「イルの昆明池まで李白にしたがい、 「歌 声と鈴の音にあわせて」馬を進めた〔「乱離を経たる後、天恩もて夜郎に流され、旧遊を憶い懐を書し、 いたいしゅ 江夏の韋太守良宰に贈る」、全集巻一一〕。 はんよう 李白の最終目的地は范陽であ「た ( ここは現在の北京の南郊の一部を含んでいた ) 。しかし李 とうとう 白はまず都の西方約一〇〇「イルの鳳翔 ~ 行き、竇滔という人が奉納した地蔵菩薩の絵に讃を 書いた〔「地蔵菩薩の讃」、全集巻一一〕。李白の言葉によるとこの人物はさ「そうとした青年で、 最上流の社交界で歓楽の生活を送「てきたが、今は病にたおれ、「病苦から回復するために」 菩薩の助けを祈願していたのである。 その後 ( 晩秋に ) 李白は北東の井州 ~ 向かい、年長のいとこ李粲を訪間した。この家には美し しんべい い娘たち、歌姫、舞姫があふれていた〔「新平の長史兄粲に上 0 る」、全集巻七〕。その地の青年た ちに呼びかけた詩で李白は宮廷に職をえようと屈辱にたえたけれども、何の役にも立たなか 0 たと言「ている。しかし旧友たちさえ李白の運命にま 0 たく無関心に思えるとき、井州の新し い知人が彼に同情をよせることなど期待できない。彼らは李白の姿に檻の桟にはげしくからだ

3. 李白

身からこの情報をえたのであろうが 李白の名を皇帝の耳に人れたのはこの皇女であり、呉 筋とほぼ同じ時期に李白が宮廷に召されたことについてもこの皇女がかかわりをもっていたと いうことである。また別の説明によると李白を皇帝に推薦したのは呉であった。おそらく本 当のところは呉が李白の名を皇女に伝え、つぎに皇女が兄の皇帝に李白を推薦したというこ とだろう。

4. 李白

13 むすび とにかく、どんな理由があったにせよ、当時比較的よく知られた作家の中 たのかも知れない。 で、ほとんど李白一人だけが生涯《布衣》、すなわち「質素な布の衣服の人」としてとおしたの であった。しかも李白のように支配階級に属していた入の場合には、官僚的階級秩序の中の位 階によって、個人の地位が大半決定された社会において、そうしたのであった。 われわれもまた官僚制度をもっており、それは日々規模を拡大し、重要性をましている。し かし官職の階級や称号は官吏が広く社会全体の中でしめる位置とはほとんど関係をもっていな い。「役所」の外では、彼自身の家族の中でさえ、彼の正確な等級や地位はほとんど知られて いない。友入は、多くの場合、彼は「ホワイトホ 1 ル徇〔ロンドンの徇路名。諸官庁が立ち並んで いる〕に勤めている」とか、せいぜい彼は「海軍省で何かやっている」と言えるだけである。 中国では事情はまったく異なっていた。官名が身分証明に欠くことのできない一部として必 ずそえられた。友人も親類も官名を述べずに、ある人物について話すことはめったになかった。 本人も ( 非常にうちとけた手紙の場合を別にすれば ) 署名にいろいろな形で官名をつけ加えた。 ろうせい 「流れの中」 ( 在流 ) にいないということ、たんに「隴西の李白」であるということは、社会的に はえたいの知れない人間であるというに等しいことであった。なるほど氏族を官位より重要で りしん あると考えた変り者もいた。李白と同時代の李槇という人物〈補注れ参照〉は、常に「隴西の李 槇」と署名し、彼が占めたいろいろな高い地位を書かなかったと言われる〔『太平広記』巻一八 171

5. 李白

あんけいしょ 史思明はついで安禄山の子安慶緒を暗殺し、革命の指導権を握った。淹陽河畔の敗北の知ら じよ せを受けると、河南の高官多数が大あわてで南へ逃れた。その中に汝州の太守であった賈至も らくよう いた。六カ月後、東の都洛陽はふたたび陥落し、汝州もまた同じ運命にあった。しかし賈至が 職をあまりにもあわてて放棄したと感じられたことは明らかであり、彼は岳州の司馬に左遷さ れたのだった。左遷を慰めて、李白は丁重に賈至を賈氏一門でもっとも有名な賈誼〈一五八ペー ジ参照〉になぞらえている。「わが賢明な統治者ははるかにやさしい。なぜなら君はただ岳州に ちょうさ ぶん 左遷されただけであるが、昔、〔漢の〕文帝は偉大な賈誼をさらに二二〇マイルも南の長沙へ追 放したのだから」と李白は言っている〔「巴陵にて賈舎人に贈る」、全集巻一一〕。 また別の機会に洞庭湖を訪れたとき、李白と賈至は李一族の一員をともなっていた。李白は この人物を「私の一族のおじ〔族叔〕」と呼んでいる。この言葉はこの人物が年上の遠いいとこ にあたるという意味である〔「族叔刑部侍郎曄及び中書の賈舎人至に陪して洞庭に遊ぶ」五首、全集巻 りよう 二〇〕。この親族は李曄で、彼もまた難儀にあっていた。彼が南方へ追われた事情は「内」と かんがん 「外」の抗争、すなわち ( 宦官によって代表される ) 宮中と行政府とのあいだの抗争に興味深い 照明を投げかけてくれる。七五九年〔乾元二年〕、騎兵隊の馬を飼う廐舎の一つで働いていた馬 丁が、盜みを働いたという理由で地方の下級官憲に逮捕され、たちまち処刑された。馬丁の未 りほこく しちばぼうおうかん 亡入は、馬屋番として出発し、今や七馬坊押官となっている宦官李輔国に上訴した。李輔国の 160

6. 李白

だんしゅうじっ れていないものは『新唐書』巻一五三の段秀実 ( 七一九ー七八三 ) の伝記である。 行〉「天の造り給う物〔天我が材を生ずる必ず用うる有らん〕」。「材」は以下に述べられる自然の産 物 ( 食料や飲み物 ) に言及し、人間の才能に言及するのではない。 このことを理解できなかった結果、 多くの不必要な校訂が行われた〔王畸の注によると、原文「天生我材必有用」を一本は「天生我身必 有財」とし、あるいは「天生吾徒有俊材」とし、「用」を「開」とした本などがある〕。 しんしん しん ふうし 8 〉岑先生〔岑夫子〕は偉大な詩人岑参 ( 七一五ー七七〇 ) とはおそらく別人であったろう。一四歳年長で あった李白がこの詩人に「夫子」と呼びかけることは、おそらくなかっただろう。岑参の年譜につい しんかしゅうけいねん ぶんいった ては『聞一多全集』三巻、一〇二ペ ージ〔『岑嘉州繋年考証』〕を参照せよ。 りよう 〈四〉もし李琶はほば七〇歳で亡くなったということ、また李善は李琶が約一一歳にすぎなかった六八九 年に死んだということが正しいとすれば、李琶とその父の物語は受け入れがたいものである。『文選』 は六五八年〔高宗の顕慶三年〕に皇帝に献上された。 りゅうせき 〈〉柳勣の裁判に関する話にはすくなくとも七つの異説があり、それらはどうにもならないほど矛盾し とうしょ ちょうしようそ ており、どれ一つとして意味の通じるものがない。趙紹祖 ( 一七五二ー一八三一一 l) 著『新旧唐書互証』 〔巻一九〕参照のこと。 注〈幻〉李白の全集の中に「僧伽 sangha の歌」〔全集巻七〕がある。この作品は、もしこの名前で有名なた サンガ だ一人の僧を歌ったものであれば、実際には李白の作であるはずがない。なぜなら僧伽 ( インドの僧 補 で、彼が入浴した湯はアガカンのそれと同じように大切であった ) は、李白がまだ子供であった七一

7. 李白

介人によって、事件は監察御史孫によって吟味された。そして孫箜は官憲の行動は権限をこ えるものではなかったと裁定した。未亡人はさらに上訴し、事件は三裁判官合議の法廷へもち 出された。この三人の一人が李白の親族李嘩で、彼は刑部侍郎の資格で事件の処理にあたって そんえい いた。三裁判官は孫の裁定を支持した。しかし馬丁の妻はしつように訴えつづけ、事件は最 もうじゃくきょ 後には侍御史毛若虚のもとへもち出された。彼は宦官李輔国の盟友だとのうわさのあった人で あり、そのため官僚階級にたいする叛逆者として中国の歴史家からびどく憎まれた人物である。 彼はどろばうを処刑した官憲に殺入の判決を下し、三人の裁判官は法を曲げたため有罪とされ ロた。三人はひどい譴責を受け、南方のいやしい地位へ追われた〔『旧唐書』巻一一二、李蜆伝。『通 鑑』巻一三一、乾元二年九月の条、『新唐書』巻二〇八、宦者伝〕。 作 ( 七五九年 ) 九月九日、山に登「て、会えない友をしのぶ習慣のあるこの日に、岳州の南の きゅうざん 丘山に登った李白はふたたび船団が集結しているのを見た。八月、南方で局地的な叛乱が勃発 こうそげん 李し、康楚元という人物が南楚の霸王と自称した。九月、彼の同僚張嘉延が岳州の上流約一五〇 後マイルの荊州という揚子江沿岸の町を占領した。九月九日に書かれた詩に、李白は「今叛乱軍 きゅうじっ 免は華容に迫っている」という覚え書きをつけている〔「九日巴に登り置酒して洞庭の水軍を望む」、 全集巻二一〕。すなわち叛乱軍は岳州からわずか三二マイルのところへ来ていたのである。「荊 とうてい 州の叛乱軍が洞庭湖に近づいているとき」書かれた別の詩で、李白は「帰郷したい」のだが、 そんえい ちょうかえん 161

8. 李白

ではなかった。しかしこの程度でも貴族に援助金を出したことを自慢できる人間はほとんどい ないのである 。いったい李白は何によって暮しをたてていたのだろうか。中央アジアからおそ らく無一文でやって来た父親〈一七八ページ参照〉には、李白に仕送りをする余裕があったとは思 われない。われわれはただ李一族のほかの誰かが李白を後援していたと仮定できるだけである。 李白は、一生、父親の親類と密接なつながりをもちつづけており、彼の作品には二〇人くらい りちゅうふ ( ) のいとこや父方の親族にあてた詩が含まれている。そのなかの一人李中孚は僧侶であり、ほか はほとんど皆官吏で、あるものは高い地位を占めていた。大おじはすこしのちの時期に山東の 重要な町済南の太守であった。 放浪の時期のはじめに李白は偉大な道士司馬承禎 ( 六五五ー七三五 ) に出会った。「昔、江陵で 私は天台山の司馬子微に会った。彼は、私には仙人の容ばうと道士の体格がそなわっており、 彼とともに空間の境界をこえて霊の旅に出られるだろうと言った。このときの気持を表わすた め私は大鵬と希有の鳥の出会いを歌った『賦』を書いた。この『賦』は世間にひろく流布したと みえて、いろいろな人々の筆蹟で写されたこの『賦』を私はよく見たものだった。しかしそれ は青年の作品で、壮大な着想が十分に表現しつくされているとは私には感じられなかった。そ げんしゅう れで私は中年になってその『賦』を破棄した。しかし『晉王朝史』で阮修の『大鵬の賛』を読 しんしょ んたとき〈『晉書』巻四九。阮修は三世紀後半の人〉、私にはそれがあまりに貧弱に思えたので、私 しばしようてい 0

9. 李白

南の川の岸に建つこの寺院に、昔、私の親戚の北海の太守が住んでいた〈おそらく血縁は非常 に遠か。た〉。ひっそりとさびしい前庭に、もう天才は住んでいない。高い広間には陰気な世捨 て人たちが坐っている。学間の遺物として、書物をとじるひもによく似たにんにくの葉が生い 茂っている。彼の琴の台を白いほこりがべールのようにおおっている。生前、彼が植えた花の ねはん 木は涅槃の境に沈んで、春の影響を受けることもない。 李琶と同じく李白も仏教の寺院のために碑銘を書いた。彼は現存しているよりもはるかに多 数の碑銘を書いたことであろう。なぜなら中国の寺院の数が徹底的に減らされた八四五年〔会 昌五年〕の夏と秋に、李白の碑銘の多くが消滅したに違いないからである。ただ一つ制作時期 のはっきりしている仏教的著作が七四九年〔天宝八年〕の夏のものであり、またこれまでのとこ ろでは李白と道教の関係についてより多く考えてきたので、ここで仏教にたいする彼の態度 とうとう について少し述べておくのが便利だろう。七四四年、李白が竇滔のために書いた「地蔵菩薩の 讃」についてはすでに述べた ( 四四ページ参照〉。その他の李白の仏教的作品の中には僧侶の死を けじよう 悼む哀歌、寺院の鐘の献辞〔「化城寺の大鐘の銘」、全集巻二九〕、亡くなった僧侶の仲間の僧にか せん わって書かれた、亡き僧の霊に捧げる祈願文〔「竇氏の小師のために瑢和尚を祭る文」、全集巻二 九〕、秦某という婦人が亡夫追善のために金泥銀泥で素描させた阿弥陀の極楽図とその周辺説 りよう

10. 李白

九魏顥・仲麻呂・任華 七四九年と七五四年のあいだの李白の動静を年月を追って明らかにすることはむつかしい。 七五三年〔天宝一二年〕、李白はふたたび開封の近 くにいた。すなわち山東の家から一六〇マイ せん ルくらい西にいたのである。しかしわれわれは七五三年の秋、李白が家へ向かわないで、宜州 えこう ( 現在の安徽省寧国 ) へ行き、画僧会公と近くの山を周遊する計画を立てたことを知っている 〔「梁園より敬亭山に至りて会公に見えて陵陽の山水を談じ、兼ねて同遊を期す、因って此の贈あり」、全 そう 集巻一二〕。つぎに李白は明らかに開封北東の曹州を通っており、帰郷の途にあるように思わ れる。しかし彼は南へそれたようである。そして七五四年〔天宝一三年〕の春、われわれは南京 こう に彼の姿を見るのである。それから春も深まった頃、李白は揚州で魏顥と会った。われわれは 詩人と作品について非常に多くの情報をこの人に負っているのである。 ぎ - こ第ノ 魏顥自身について知られていることは多くはない。何年かまえに魏顥が長安へ行くとき、有 名な詩人李願が彼に詩を寄せていた〔「魏万の京に之くを送る」、『全唐詩』 ( 巻一三四 ) 、李碩三〕。しか おうおくざん さんせい し魏顥が揚州で李白に会ったのは、彼が河南と山西の境界にある王屋山に隠棲してからしばら 106