四九年〔天宝八年〕の夏、山東の李白の家に近い竟州で書かれたものである。これは仏教の僧侶 を記念する追悼的な碑銘であるけれども、主として道教、それも道教の特定の一面、すなわち 錬金術との関係で興味深い作品である。実際、この碑銘を書く疑いなく報酬のよい仕事を李白 そんたいちゅう にあっせんしたのは錬金術師の孫太冲であ。た。宮廷では皇帝の寵をえようとする激烈な競争 。、こ。しかし地方では彼 か仏教徒と道家を、たえずまったく教訓にならない闘争にまきこんてオ 等はたがいにかなり寛容な態度をみせていたように思われる。それで李白は、作品の調和をそ どうしゅう こなったという意識をもたずに、僧侶道宗の墓碑銘の一部を錬金術師の孫太冲にたいする賛辞 に捧げているのである。 おそらく李白は数年まえに長安で孫太冲に会っていたことだろう。なぜならあとでみるよう 、孫太冲は七四四年〔天宝三年〕に首都にいたからである。彼は大錬金術師で、ふつうの材料 を使わずに不老長生の霊薬を作ることができると主張した。西暦紀元前一世紀以来、中国の錬 金術師が現実の材料から効力のある霊薬を作ることに何度も失敗を重ねてきたことを考えると、 孫太冲がさらに大衆の盲信につけこんで、彼の霊薬が道教の神太一 ( 至高の統一 ) の助力によ「 て「おのずと生じた」と公表したことは、われわれには無分別であったように思える。しかし 不老不死を与える薬など存在しないという前提にたっと、霊薬をめぐ「て興味をそそるものは、 もつばら、広告の技術と興行師的手腕の進歩となる。何百人もの他の錬金術師と同じように、 えん たいいっ
二年一一月一〇日の日付で李陽氷はつぎのように書いている。「私が退官の年 ( すなわち六九歳 の年 ) を迎え、また李白が手のほどこしようもない病の床に臥していたのはこの年であった。 ージ参照〉の形に作られて 彼の草稿は何千もの別々の巻き紙に書かれ、一巻の自筆原稿集〈一一ペ はいなかった。頭を枕から上げることもできない彼は私に著作を手わたして、編集を依頼した。 ちゅうげん : 困難な事態が中原に起って以来八年のあいだ彼は難民となっていた。そのため彼はこの期 間の著述をほとんどすべて失っていた。残存している作品は大部分ほかの人々から手に人れた ものであった」〔「草堂集序」、李陽氷、全集巻三一〕。 りようひょう 襍しかしやがて李陽氷本に対抗する詩集が流布された。七五四年〔天宝一三年〕に李白が草稿を 幺かぎこう 魏顥に手わたして、編集を依頼したことが思い出されるだろう。どうやら七六三年〔広徳元年〕 作頃、李白の死を知らずに書かれた文章で、魏顥はつぎのように言っている。「革命が混乱をき 氷わめ、各地に飛び火した期間に、李白の著作は完全に失われた。私が李白の著作を絳州〈山西の 李南西端〉で偶然手に人れたのは上元年間のおわり頃 ( 七六一年のおわりから七六二年のはじめ 後頃 ) になってからのことであった。私はその年、またその翌年、ひとりしばしば作品を読みか 免えしたけれども、それについて書くことはなかった。しかし今日、昔をしのびながら、私は筆 をとって序文を書いた。詩集のはじめには、われわれの友情を記念して、李白が私に寄せた詩 7 たいほう と私の返歌がおかれている。つぎに『大鵬の賦』がおかれている。昔の曲にあわせて書かれた こう
「昔、文学は同時代の人々をはるかに追い抜いて、天空へ舞い上がる詩魂をもった世捨人の ものであり、読者の心を清める文体、読者の魂を底まで長れさせる魔力をもっていた。しかし 聞くところによると、今日われわれの中にも李白という人物がいて、その『大鵬の賦』〈一〇ー しばしようじよようゆう 一二ページ参照〉と皇帝の政策に関する論文〔鴻猷〕は司馬相如と楊雄をまったく愚かに思わせ、 ちょうこう はんこ とるにたりない駄作と思わせると言われている また班固と張衡の作品を一顧の値うちもない、 〈この四人は漢王朝 ( 紀元前二世紀から二世紀まで ) の偉大な作家である〉。私は、今後、嘲笑の対象と 考えるべき作家の中に司馬相如と楊雄を入れる気になれるかどうか、確信はもてないけれども、 それはと、もか / 、一不ー かいふう・ 海風吹不斷海風吹いて断えず こうげつ 江月照らして還た空し 江月照還空 〔「山の瀑布を望む」その一、全集巻二一〕 《風は湖上を絶え間なく吹き渡り、月は川面に輝き、そして沈む》という、廬山に登り滝を見 て書かれた詩の二行を愛する。それから、 た ま むな 112
「この世の生は大きな夢にすぎない。労働や心労でこの夢をそこないたくはない。」こう一一一口 って、私は終日酔い、部屋の前の縁側に正体なく横たわった。目覚めたとき、私が門のなかの 庭を眺めると、鳥がたった一羽、花の中で歌っていた。私はいったい季節はいつなのかと自問 した。休みなしにこうらいうぐいすが春のそよ風の中でさえずっていた。その歌に動かされて、 私はやがて嘆息をもらし、酒が手もとにあったので、一人杯を満たした。大声で歌いながら、 私は月の出を待った。歌い終えたとき、私の意識はすっかりかすんでいた。 一般読者に たいていの大詩人について言えることであるが、李白も、すでに言ったように、 は比較的少数の作品によって知られている。実際、他の作品が研究に値するのは、主として、 著作全体との関連の中で典型的な傑出した作品がはじめて十分理解できるようになるからであ 下 る。しかし李白の作品の多くが別れの宴やそのほかの社交的な機会に友人に寄せられた、とる 時 にたりない挨拶の詩であるのもやむをえない。それらは型どおりの慣例にしたがった作品で、 の 造 たいていの場合、当時のたくみな韻文作者なら誰にでも書けたであろう。李白のもっともよく 知られた詩の中には、宮廷の要望にこたえて書かれたいく篇かの詩がある。しかしその評判は 本質的価値よりも、書かれたときの状況についてのちに生れた伝説に負うところが大きいと考 えられるので、私はそれらの詩の説明を試みようとは思わない。
歌詞が特定の順序を追わずにつづいている。同じ詩に二つの異なった草稿がある場合には、私 は二つとも採用した〈補注参照〉。李白はなお書きつづけている。私は彼が川 作作する今後の作 へいしんし 品の取り扱いをわが子平津子の手にゆたねる。また李白の経歴についてさらに明らかになるで あろう事実は、つぎの序文に収められるだろう」〔「李翰林集序」、魏顥、全集巻三一〕。 ギ、こう 魏顥の編集した本はごくわずかだけ流布したにすぎないように思われる。それは『新唐書』 の書誌〔藝文志〕にはあげられていない。実際、魏顥本は完全に姿を消してしまったようにみえ た。しかしそれは一〇六八年館寧元年〕に再発見され、四四篇の新しい作品を提供することが 明らかにされた〔「李太白文集後序」、宋敏求、全集巻三一〕。ともに李白の死後間もなく作られたこ の二つの詩集が、今日われわれが知っている李白全集の根幹となっているのである〈補注参 照〉。
岳集』では「古意」と題する〕。これは李白が七四二年〔天宝元年〕の秋、都に出発するとき書かれ た作品である〈三七ページ参照〉。そのあとに「酒をすすめようとして〔将進酒〕」、すなわち「酒 宴の前の歌」がつづく〈敦煌写本 ( 補注参照 ) 四二番。そこでは「からの酒つばを嘆く〔惜讎空〕」と題さ れている〉。これは笛と太鼓の伴奏で歌われた昔の歌謡の曲に合わせて作られている。もと歌の 歌詩 ~ まおそらく西暦一世紀にさかのばるものであり、今日なお保存されている〔『楽府詩集』巻一 五〕。しかし原形はどうにもならないほど損われており、理解できるほとんどただ一つの章句 は「さあ、心が作った昔の歌に魂をあずけて我を忘れよう」という箇所だけである。つぎにあ げるのは昔の曲に合わせた李白の新しい歌詞である。 きみ 君不見黄河之水天上來君見ずや黄河の水天上より来り ま ほんりゅう かえ 奔流到海不復回奔流して海に到り復た回らざるを めいぎようはくはっ 君不見高堂明鏡悲白髮君見ずや高堂の明鏡白髪を悲しむ あした くれ 朝如青絲暮成雪朝には青糸の如く暮には雪と成るを じんせい かん 人生得意須盡歡人生意を得ればく歓を尽すべし きんそん 莫使金樽室對月 金樽をして空しく月に対せしむる莫かれ てん 天生我材必有用 天我が材を生ずる必ず用うる有らん こう・が しよう な
〇ー七一二年に死んだのに、作品は明らかに成人の会見を描いているからである。おそらくこの歌は りよう 僧伽の墓碑銘を書いた李琶の作であろう。この歌は李白全集の中心をなす作品の中で、真偽が間題と 1 なるごく少数の作品の一つである。他方、李白の全集の末尾にふつう印刷される追加作品の補遺に収 められ、進話の書物や、のちの地誌的な著作からとられた作品はおそらく本物ではないだろう。 〈『新唐書』巻五九〔藝文志〕は『唐の宮廷のための偉大な霊薬作製の賛歌〔唐朝煉大丹感応頌、一巻〕』 を李林甫の作としている。 けんしようい 〉おそらく七五三年、あるいは七五四年に南京で権昭夷という人物へあてた送別の辞〔「金陵諸賢と権 十一を送る序」、全集巻二七〕で、李白は権昭夷と彼が一緒に錬金術を熱心に研究したと述べている。 〉「卿」 ( 長官 ) は、長安にはいるすべての武器を記録した衛尉寺の長として、彼が占めていた特定の地 位に言及している。デ・ロトウール『官僚制度要綱』三六二ページを参照せよ。 〉私は「我」 ( わたくし ) を「或」 ( 時には ) と修正した〔原文は「而るに我時有ってか白日に忽ち睡ら んと欲す」であるが、この我を或に改め「或いは時有ってか : : : 」と読むのである〕。 かいそ おうちゅう 〈 % 〉懐素の生年、歿年については汪中 ( 一七四五ー九四 ) の『述学別録』 ( 巻四 ) を参照せよ。彼はしばし げんじよう ば六三四年〔貞観八年〕から七〇七年〔景竜元年〕まで生きた同名の昔の人物 ( 托鉢僧玄奘三蔵の弟子 ) と混同されている〔陳垣氏によれば六二四ー六九七、『釈氏疑年録』一〇二ペー の〉任華の詩については『全唐詩』第四函第八冊〔巻一一六一〕を参照せよ。そのほかの参考文献。『唐詩 ぶんえんえいが せきげん 紀事』巻一三、『太平広記』巻二〇一、『文苑英華』巻四七、『全唐文』巻三七六、『〔唐〕拡言』巻一一
0 た。」「私は帝国の政策を論じたが空しか「た。紫の飾り帯〈九階級の官吏のうち第二、第三階級 。、三品〕が身につける資格をも。ていた〉が私の腰に結ばれることはなか「た」〔空しく談ず帝 王の略、紫綬身にけず。「門有車馬客行」、全集巻五〕。中国で詩が与えられていた高い評価を考 えると、李白がただ詩人とだけ考えられることに満足しなか「たのは奇妙に思えるかも知れな しかし、高い地位にある人物が余暇をみつけて詩も作「たとすれば、すばらしいと考えら れたけれども、高官でない職業詩人は、少なくとも存命中には、低い社会的地位に甘んじてい たというのが真相である。宮廷では詩入はほかの職業入、たとえば医者、占い師、手品師と同 じ階級に分類されていた。詩入は官職をもたず、地位を示す記章をもたない「質素なぬの衣服 〔布衣〕の人」であったのである。 李白が長安で書いた詩の中でも 0 とも有名なものに、「月明りによ「てただ一人酒を飲む〔月 下独酌〕」と題する四篇の作品がある。これはおそらく七四三年、あるいは七四四年春の作であ る。「その三」はつぎのように歌っている。 三月成陽城 三月成陽城 せんか 千花昼錦の如し 千花晝如錦 たれよ 春独り愁えん 一口、カム目 誰能春獨愁唯、皀 かんようじよう ひるにしき
一生れた土地と少年時代 李白の生れた場所がどこであったかは大いに論じられてきた問題である〈補注 1 参照〉。しか しようめい しとにかく確実な点は、五歳の頃から彼が四川の首都成都の北東約一〇〇マイルの昌明県で成 長したことである。李白は幼い頃から詩に興味をもちはじめた。「子供の頃、父は私に『子虚の しばしようじよ 『寺院』四五ページ参照。賦は散文と韻文から構成される。『子虚の賦』は司馬相如 ( 賦』〈ウ = ィリー 一一年歿 ) の作〉を勉強させた。私はこの作品が非常に気に入った」と李白は言っている〔「秋敬 たんろざん 亭に於いて従姪帯の廬山に遊ぶを送る序」、全集巻二七〕。実際、この作品には『不思議の国のアリ 代 時ス』にみるような風変りな名前があり、また白虎、黒ひょう、そのほか空想的な実在しそうに 砂もない動物の狩が生き生きと描かれていて、子供ならたしかに喜ぶ作品とな「ている。李白は こ ) 地 一四歳の頃には、父親から教わった種類の「賦」を独力で書いていたと言っている〔「張相鎬に 贈る」二首、その二、全集巻一一〕。事実、製作時期を推定できるもっとも早い李白の詩は一五 れ 生 歳のときに書かれた「賦」である。この「賦」が書かれた事情を説明しようとすると、どうし ても話が本筋を離れてしまう。しかしこの脱線は李白が成長した時代の生活について多くの深
安で李白のために任官の道を切り開こうという考を捨て、李白とともに「風や稲妻よりも早く、 きゅうてん 不死鳥〔鸞〕と竜によって空たかく引かれて行く兵車」に乗って、九天にある玉帝の仙界の宮殿 へ行くようにすすめている。 このような一節で李白はたんに空想的な神話に賛嘆の言葉をおくっているたけではないと私 は考える。李白が語っている探究は初期の道教哲学者たちの「遊」 ( 旅行、放浪 ) である。それ 『古代中国の三思想家』六一ページ参照〉。 は肉体的な旅ではなく精神的な旅であった〈ウ = ィリー この詩の目的は、まず錬金術の実験を空想物語風に描写して友人の目をみはらせ、つぎに道教 の啓示の追求が、どの錬金術師にも負けないくらいの魔術者李白を仲間としていれば、公的生 術活の荒々しい闘技場での権力闘争よりもはるかに好ましいものだとほのめかす点にあるように 錬思われる。李白の作品には錬金術への偶然の言及が数多くみられる。しかしもつばら錬金術を かいほ第ノ ようきゅう 白あっかった作品はほかには一つだけである。それは開封に近い雍丘の県長崔某という人物の錬 一金術の炉に銘としてかかげるために書かれた作品である〔「雍丘の崔明府の丹竈に題す」、全集巻二 腿四〕〈補注為参照〉。 おうきよう この詩を理解するためにわれわれはつぎの話を知っておかなければならない。〔後漢の〕王喬 しよう という人物は宮廷に地位をもっていたが、洛陽の南東約一〇〇マイルの葉県の県長として派遣 された。彼は魔術者だったので、非常に遠方へ赴任したけれども、毎月一日にはきまって洛陽 らん 103