八李の悲運ー李白と錬金術 李白が都を退いたあとの時期は文人にと「てとくに不幸な時代であ「た。七四五年頃から七 りりんぼ 五一一年の死まで、ほとんど絶対的な権力をふる。たと言「てもよい宰相李林甫は「ま「たく教 育のない男で、筆を持っことさえできなか「た。彼は文学的才能があると評判される者を誰か れの別なく非常に嫌「た」〔『旧唐書』巻一〇六、李林甫伝〕。このような状況では、李白もき「と 術承知していたように、もう一度都で地位をえようと努力してみてもほとんど効果はなか「たで 錬あろう。そして実際、李白が明らかに地位をうるための運動を試みるのは李林甫の死後いく年 白かたってからのことであった。 一中国史のある時期には政治上の対立者はただ追放されるだけであ「た。し、かし李林甫体制の 運 もとでは、対立者は何らかので「ちあげの罪状で死刑を宜告されるか、または刺客によ「て即 悲 の 座に暗殺された。当時非常に有名で、李白とも杜甫とも親しい友入であ「た李当 ( 六七八ー七四 もんぜん 李七 ) という作家の運命がその一例であ「た。彼は『文選』 ( 『文学選集』 ) の標準的注釈書の作者李 8 ん 善の息子であ。た〔『旧唐書』巻一九〇、文苑伝の中〕。『文選』は進士科の試験の受験者が知。て
そんたいちゅう 孫太冲が不老長生の霊薬〔還丹〕を完成したと発表しただけなら、まったく注意をひきはしなか っただろう。しかし七四四年、孫太冲が「天然の霊薬」を作ることができると発表したとき、 ・り・・ル 1 は 洛陽の市長〔尹〕はこの高言を政府へ伝え、宰相李林甫が皇帝の個人的代理人の役目をはたす宦 すうざん 官とともに、調査のため嵩山 ( 洛陽近郊 ) の孫太冲の隠棲地へ派遣されることとなったのである。 皇帝へ提出された李林甫の報告書はこのような種類の文書の構想のうまさで有名であった中 そんてき 書舎人孫逖〈七六一年または七六二年高齢で歿した〉が李林甫にかわって書いたもので、今日なお保 存されている〔「宰相のために中岳にて合煉せる薬の自ら成れるを賀する表」、『文苑英華』巻五六二、『全 唐文』巻三一一〕〈補注参照〉。報告書によると「水がストープ〔炉〕の中に入れられ、炭が片側に 術おかれた。こうしてストー。フは密封され、われわれは立ち去った。数カ月後、封の糊は、指で 錬さわってみると、かたくついており、封が破られなかったことがわかった。そこでその地方の 白官吏やそのほかの人々の面前でストーブの戸が開かれた。炭はすっかり灰になって、灰は離れ 一たところへ集まっていた。人間の手が加えられることなく霊薬はとどこおりなくできあがって 運 、た。最初それは五色の光線をはなった。しかし最後にはそれは太陽の外観を呈して、ストー の プのはしで輝いた。」錬金術師孫太冲はこの燃えるように輝く物体を長安へ運ぶように命じら 李 れた。そして彼は実験成功の報酬として都水監に名誉職を授けられた。李白によると、皇帝は この輝く丸薬をのんで、その結果「一万年の長寿と天の至福に等しい至福を受けた」。
いることを求められていたほとんどすべての作品を収めた選集である。つぎのような插話が伝 えられている。父が『文選』注釈書の批評を求めたとき、李琶は大意を説明する補注をさし出 した。李善は「意味を忘れ」て「ことがら」の説明、すなわち歴史的地理的な言及、個々の単 そのほか言語上の細かい問題の説明に終始しているにすぎなかったからである。しかし父 は広く知られ成功した著作の体裁に根本的な変更を加えることを喜ばなかったので、息子の評 釈は別個の書物となって流布した〔『新唐書』巻二〇二、文芸伝の中〕〈補注四参照〉。李琶の著述の多 / 、と同ドレよ、つに、 この評釈書も現存してはいない。 李琶は墓碑銘ゃいろいろな記念の碑文を作 ることがとくに巧みであった。俗人の高官ばかりでなく仏教や道教の寺院も、このような仕事 のために巨額の金を李当に支払った。彼は中国で以前の誰よりも「文章を売る」ことによって 多くの産をなした人と言われている〔『旧唐書』巻一九〇、文苑伝の中〕。 りりんぽ 七四六年〔天宝五年〕、李林甫は皇帝を廃して、皇太子を位につけようとする陰謀が発覚した りよう りゅうせき と主張した。たまたま李琶は告発された一人〔柳勣〕に馬を贈っていた〈補注参照〉。李当はこの 人物 ( 皇太子付きのある侍女の義兄弟であった ) に賄賂を贈り、陰謀で彼がはたした役割を秘密 にするように頼もうとしたという理由で告発され、死罪とされた。七四七年、李琶が太守であ えきと った北海 ( 現在の山東省益都県 ) へ死刑執行人が到着し、ただちに彼を処刑してしまった。何年 かたってから ( おそらく七五二年の李林甫の死後に ) 書かれた詩で、李白は李琶の高貴さと勇気 ほ ' 、かし りよう
李林甫の娘は風変りな経歴の持ち主であった。「生れながらに富と名声を恵まれていた」けれ ども、彼女は環境に影響されることなく、早い時期から同じ階級の多くの娘とは違った大望を あらわしていた。やがて、彼女は同じように高官の娘である蔡嬢と、廬山の尼寺で道教の尼と じんしん へいふうじよう なった。蔡嬢は尋真という名で屏風畳厩山山系にある〉の南に住み、李嬢は騰空の名でさらに北 の尼寺に住んだ。二人は道教の大蔵経〔道蔵〕を勉強し、「病気を魔法の草やまじないでなおす方 えいしんどう 法」を学んだ。年に数回、二人は詠真洞で会い、意見を交換した。李白は李林甫の娘を訪問す る妻に二篇の詩を寄せている。「その一」はつぎのように歌われている。 とうノ、う・し 隠 君は騰空子を尋う 君尋騰空子 の まさ へきざん へ 應到碧山家 応に碧山の家に到るなるべし うす うんも 廬 水舂雲母碓 水は舂づく雲母の碓 しやくなげ 乱 風掃石楠花風は掃う石楠の花 も ゅうぎよ 叛 の 若戀幽居好若し幽居の好きを恋うれば あ 禄相邀弄紫霞 相い邀えて紫霞を弄せんことを つま 〔「内の廬山の女道士李騰空を尋うを送る」その一、全集巻二五〕 むか と
一〇安禄山の叛乱ー廬山への隠遁 りりんぽ 七五二年〔天宝一一年〕の李林甫の死後、権力は皇帝の寵妃楊貴妃の遠いいとこにあたる楊国 しようじよ ) ちゅう 忠の手中に落ちた。七五二年の末、国忠は李林甫がしめていた右丞相の地位につき、前任者 の独裁的方法を継承したのである。国忠の体制が非常な不評をかったことはたしかである。七 あんろくざん 五五年、安禄山が謀叛を起したとき、彼は彼の目的が唐王朝を倒すことではなく、ただ楊国忠 を排除することであると表明していた〔『旧唐書』巻一〇六、楊国忠伝〕。現在残っている国忠につ いての記述は、ある程度、安禄山が叛乱にあたってひろめた宜伝にもとづいているということ があるかも知れない。国忠の体制のもとで、相次ぐ悲惨な飢饉の犠牲者を救う努力がはらわれ なかったという告発は〔『新唐書』巻二〇六、楊国忠伝〕たしかに間違っている。七五三年〔天宝一二 年〕と七五四年の両年には大量の穀物が政府の貯蔵庫から放出され、割引価格で販売されたこ とをわれわれは知っている〔『旧唐書』巻九、玄宗本紀の下〕。この点にふれて李白はある詩の中で つぎのように言っている。「帝国のかなめの長安では、今年も去年も十分な食べ物がなかった。 人々は手に何ばいもの真珠よりも、おわん一ばいの米をもらいたがっている。しかし幸い宰相 よう ようこく 120
注 訳 以下には写本の順序に従った詩篇の番号を漢数字でしるし、ウ = ィリーの番号を括弧内に入れたも のとの対照表をかかげておく。ウェイリーの ( 八 ) は便宜上やはり一首としてかぞえることにする。 ー三、 ( 四 ) ー四、 ( 五 ) ー五、 ( 六 ) ー二三、 ( 一四 ) ー六 、三一 l)—一四、三 lll)—l 五、 ( 二四 ) ー二四、以下三五 ) より ( 四一一 D までは原写本の順序と同じ。 このうちウェイリーの注記した『李太白全集』の巻数とページ付けに誤りがある。 ( 七 ) 巻六、五ペ ージ↓巻一一、五ページ ( 千里思 ) に、 ( 一一 D 巻一三、四ページ↓巻三、一四ページ ( 行行且遊猟篇 ) に それぞれ訂正されるべきである。 りゅうせき ) 柳勣の伝記は正史 ( 新旧唐書 ) にはない。補注で「その裁判に関する話にはすくなくとも七つの異説 がある」というのは、『旧唐書』 ( 巻九 ) 玄宗本紀、『新唐書』 ( 巻五 ) 玄宗紀、李林甫伝 ( 旧、巻一〇六、 きつおん つがん 新、巻二二三上 ) 、吉温伝 ( 旧、巻一八六、新、巻二〇九 ) および『通鑑』 ( 巻二一五、天宝五載の条 ) を さす。また李琶が馬一匹を贈づた相手が柳勣であったことは『旧唐書』 ( 巻一九〇、文苑伝の中 ) 、『新 唐書』 ( 巻二〇二、文藝伝の中 ) の李琶伝に見える。なお「皇太子を位につけようとする陰謀」の皇太 こう しゆく 子とは、忠王と呼ばれたひとで ( 名は墺 ) 、玄宗皇帝の第三子、のちに名を亨と改め、帝位についた粛 そう 宗皇帝である。 ふこう ) 李琶が書いた墓碑銘とは、「大唐泗州臨淮県普光寺の碑」 ( 『全唐文』巻一一六一一 l) のことで、この中に りんわい りりんぼ
は河南にもどっていた。そして李白が彼と非常にしばしば並べられる大詩人杜甫 ( 七一二ー七七 かいほう 〇 ) とはじめて会ったのは、ここ河南の今日の開封の近くであった。杜甫は当時詩入としてはま ったく無名であった。一方、李白の名声はすでに非常に大きかった。年長の詩人が杜甫を完全 に魅了したことは明らかである。「宮廷のもっとも輝かしい飾りであった李氏はわれとわが身 りようそう を解き放った。彼の仕事は今や神秘の探求である。彼もまた梁と宋〈河南北東部の地名〉の間を放 浪している。われわれは魔法の草をつみに行く約束をしたところだ」と杜甫は叫んでいる〔杜 結甫「李白に贈る」、全集巻三二、『杜詩詳註』巻一〕。李白が今その探求に献身していたという神秘 度とはいったい何であったのか。 四 しばしば、信心深い仏教徒は僧侶に施される戒律を、その半数あるいは半数以下だけ、でき 免れば誰か有名な高僧の手から授けられるかたちで受けたのである。道教にはこれと正確に対応 士する儀式はなかった。しかしほぼこれに相当するものは道教の免状 ( 鱇 ) を買うことであった。 この免状は受領者が奥義伝授の一定の段階に達していることを証明するものであった。玄宗皇 しばしようてい 旅帝は七二一年〔開元九年〕に司馬承禎〈一〇ページ参照〉からそのような免状を受けていた〔『旧唐書』 ~ 巻一九二、司馬承禎伝〕。杜甫に会「た頃、李白が道教の教義に習熟したことを証明する同じよ うな免状を手に人れようと決心していたことは明らかである。 こうじよき りげんいん 李白は河南の開封地区の採訪使であった大おじ李彦允から尊師高如貴あての紹介状をもらっ とほ
しようこう あした めいこうきゅう 蓬葉山のことで仙人の山であり、「闃闔」は天界の人口の門である。ただ「朝に遊ぶ明光宮」をウ = おうほうきゅうかい イ丿 1 が Pa1aceofEterna1Life と訳するのは、逐字訳ではない。漢の王褒の九懐 ( 通路篇 ) によると、 明光は地名で、この世界の東の果てにある不死の郷すなわち仙界の山の名であるから、かくいうので あろう。 はんでんせい ) 李陽氷の「草堂集の序」では「八仙の遊」と言い、范伝正の「李公新墓碑」では「酒中の八仙」と 言う。『新唐書』文藝伝も「酒中の八仙人」と称する。杜甫の有名な「飲中八仙の歌」は『唐詩選』な じよよう りしん そしん ちょうきよくしようす、 どに見えるが、賀知章・汝陽王 ( 李 ) ・左丞相 ( 李適 ) ・崔宗之・蘇晉・李白・張旭・焦遂 6 八人を詠 きよう ずる。このうち蘇晉は開元一三年に五九歳で死んだ ( 六七六ー七三四 ) と『旧唐書』蘇珣伝 ( 巻一〇〇 ) はいしゅうなん に記す。范伝正は賀知章らの外に裴周南を人れる。李白が長安の都に入ったのは、通常は天宝元年 ( 七四一 l) の秋とされる。それでは蘇晉は八年前に死んでいた。ウェイリー が「でたらめ」と言うのは、 そのためである。郭沫若氏の新著『李白与杜甫』 ( 一九七二年、北京 ) では、李白は開元一八年 ( 七三 〇 ) に、ひとたび長安におもむき、しばらく滞在したと言う。この新説に従えば、蘇晉の生存中にす でに李白は長安にいたこととなて、いちおう矛盾がなくなる。ただし郭氏も言うごとく、李適が左 丞相にな「たのは天宝初年のことだから、杜甫の「八仙の歌」に詠ぜられたのは必ずしも一時一処の 事ではない。八人が同じ時に長安に居たと定めるには及ばない。 とすれば開元一三年以前に李白が長 安に在ったとの積極的な証拠とはならないのである。 ( 四 ) 「原憲の弱点」 the failing of イ目 l-lsien にあたることばは、魏顥の「李翰林集の序」 ( 全集巻三
〇ー七一二年に死んだのに、作品は明らかに成人の会見を描いているからである。おそらくこの歌は りよう 僧伽の墓碑銘を書いた李琶の作であろう。この歌は李白全集の中心をなす作品の中で、真偽が間題と 1 なるごく少数の作品の一つである。他方、李白の全集の末尾にふつう印刷される追加作品の補遺に収 められ、進話の書物や、のちの地誌的な著作からとられた作品はおそらく本物ではないだろう。 〈『新唐書』巻五九〔藝文志〕は『唐の宮廷のための偉大な霊薬作製の賛歌〔唐朝煉大丹感応頌、一巻〕』 を李林甫の作としている。 けんしようい 〉おそらく七五三年、あるいは七五四年に南京で権昭夷という人物へあてた送別の辞〔「金陵諸賢と権 十一を送る序」、全集巻二七〕で、李白は権昭夷と彼が一緒に錬金術を熱心に研究したと述べている。 〉「卿」 ( 長官 ) は、長安にはいるすべての武器を記録した衛尉寺の長として、彼が占めていた特定の地 位に言及している。デ・ロトウール『官僚制度要綱』三六二ページを参照せよ。 〉私は「我」 ( わたくし ) を「或」 ( 時には ) と修正した〔原文は「而るに我時有ってか白日に忽ち睡ら んと欲す」であるが、この我を或に改め「或いは時有ってか : : : 」と読むのである〕。 かいそ おうちゅう 〈 % 〉懐素の生年、歿年については汪中 ( 一七四五ー九四 ) の『述学別録』 ( 巻四 ) を参照せよ。彼はしばし げんじよう ば六三四年〔貞観八年〕から七〇七年〔景竜元年〕まで生きた同名の昔の人物 ( 托鉢僧玄奘三蔵の弟子 ) と混同されている〔陳垣氏によれば六二四ー六九七、『釈氏疑年録』一〇二ペー の〉任華の詩については『全唐詩』第四函第八冊〔巻一一六一〕を参照せよ。そのほかの参考文献。『唐詩 ぶんえんえいが せきげん 紀事』巻一三、『太平広記』巻二〇一、『文苑英華』巻四七、『全唐文』巻三七六、『〔唐〕拡言』巻一一
くことになった〔「武十七諤に贈る」、全集巻一一〕。彼は ( 洛陽がすでに陥落していたことは明ら かであるから、おそらく七五六年早々 ) 「叛乱軍の危険をおかして」李白の息子を連れてこよ うと申し出た。山東はその年おそくまで、じゅうりんをまぬがれていたように思われる。しか し情勢は、もちろん、非常に不安定であり、危険であったから、武諤が首尾よく約東をはたす ことに成功したとは思われない りようえん そう 李白は九江へ向かって池州を出発する前夜、梁苑 ( 現在の帰徳 ) にいる妻 ( 旧姓宗〈五七ページ 参照〉 ) に手紙を書いて旅行のことを告げ、池州にいた三年のあいだに彼女からはほとんど何の たよりもなかったけれど、今ようやく一通の手紙を受けとったと言っている。李白は「二人の あいだには多くの川と山がよこたわっているけれども」、彼女にたいする気持は変っていない と保証している〔「秋浦内に寄す」、全集巻二五〕。李白は彼女に累を及ぼすことを恐れて、彼女 が叛乱軍の占領地域にいるという事実にはふれていない。李白が九江に着いたあと、彼女も弟 そうけい 宗璟につきそわれて南へ下った。李白はこの義弟に「自分は理想的な義兄」とは言えないし、 また自分は「あなたのすぐれた姉にうやうやしくかしずかれるのが恥かしい人間です」と告白 している〔「夜郎に竄せられ、烏江に於いて宗十六璟に留別す」、全集巻一五〕。 李白の四人目の夫人は、実際、上流階級と交わっていたようである。九江に来たとき、彼女 りりんば がたとえば先の独裁者李林甫の娘のような上流の人物を訪間したことがわかっているのである。