漢東 - みる会図書館


検索対象: 李白
251件見つかりました。

1. 李白

「敗戦と混乱のため」に妨げられて、はたせないと言ている〔「荊州賊乱し、洞庭に臨んで懐い を言う作」、全集巻二四〕。しこ。、 オカ 0 て李白が揚子江を下「て武昌 ~ はい「たのは、おそらく一 一月にな「て揚子江地域に平和が回復されてからであ「たろう。武昌で李白は昔の友人僧貞倩 に会「た。李白が彼と知りあ「たのは漢東であり、ここでほば三〇年の昔、次のようなことが あったのだった。 かんとうたいしゆきた あいむか 漢東太守來相迎 漢東の太守来「て相迎う しようしんじん 紫陽之眞入邀我吹玉笙紫陽の真人我を邀えて玉笙を吹く げん 〔「旧遊を憶いて誰・郡の元参軍に寄す」、全集巻一三〕 漢東の太守がわれわれを迎えにや「て来た。また紫陽の聖者がひすいの牧笛を吹いて、われ われを招いた〈『流浪者の手紙』三二ー二四ページ ) 参照〉。 しばらくして貞倩が漢東 ~ もどるとき、李白は告別の辞を寄せている〔「江夏にて倩公の漢東に 帰るを送る序」、全集巻二七〕。李白は僧侶と俗人とのあいだの有名な友情 , ーーすなわち謝安 ( 三一一 〇ー三八五 ) と、仏教の経典ばかりでなく道教の哲学者荘子の解釈で有名な僧支遁 ( 三一四ー三六 よ ローいう 162

2. 李白

六 ) との友情ーーに言及して、筆を起している。精神の神秘的な類縁によ「て、李白と貞倩は この二人の「昔の人々」と比較することを恥じる必要はないと李白は言う。そして友が漢東 ~ 向けて去るという知らせは彼の心を絶望で満たした。李白は言葉をついで、漢東は、長い時代 を ~ だてて、稀にではあるけれども、一連の注目すべき人物を生み出したと言う。数えること しんのう もできないほど遠い昔、「農業の神」神農氏は漢東の町から遠くない洞穴で生れた。数千年の りよう のち、紀元前七〇五年、漢東の入季良が歴史のペー ジに輝いている〈『左伝』桓公の六年。レッグ 訳、第五巻、四八ペー ジ参照〉。「しかし、そのあとは平穏にこともなくすぎて、記録に値するこ 襍とは何一つ起らなか「た。唐王朝再興の頃〈則天武后の王位簒奪の後〉、漢東はなるほど紫陽先生 2 を生み出した。しかし彼が六〇歳で歿してからは、その地のただ一人の名士は僧侶貞倩とな「 作てしま「た。彼はまだはたすことのできない大胆な大望を胸にいだき、なおいっかそれの熟す る日を待ち望んでいる。また一方、彼は約東をはたす決意に彼のもつい「さいの能力を集中で きる人物であることを示した。彼は価値あるものを愛し、熱心に文学を勉強している。 後は彼に著作のすべての原稿を託した。そして両親についての心配が今度の旅行をくわたてる決 免意を彼にうながしたとき、私は離別にはげしく泣いた。」 李白は、流刑地からもど「た今、ふたたび長安に召され、宮廷に地位を与えられるだろう、 しんしよう またいつの日か貞倩とともに胡紫陽の埋葬されている新松の山を進遙できるだろうという希望 かん 163

3. 李白

たことを。黄金と白いひすいの割符でわれわれは歌と笑を買い、われわれは何カ月も何カ月も 酔いつづけて、王公、為政者をあざけっていた。われわれの仲間には四海の中でも「とも賢明、 勇敢な者どもがおり、雲のように高い志をもっていた。 ( しかし中でも君とは私の気持はく、 違うことがなかった。 ) 山を歩きまわり、湖水の岸をめぐることは、われわれ同様、彼等にとっ てもとるにたりないことであった。彼等と感情、思想のすべてをわれわれは分かち合っていた。 わいなん 彼等は何も出しおしみをしなかった。それから私は淮南へ去って、月桂樹の枝をたおり〈許氏の 、こ。しかしわれわれ 娘との結婚への言及か〉、君は洛水の北にとどまって、追憶と夢を嘆いてし / は長く離別をたえることができず、やがてふたたびともに仙界の城〔仙城〕〈漢東に近い山〉を探険 した。われわれは三六回まがりくねる流れの岸辺をたどり、そして流れはいたるところ千の花 で輝いていた。われわれは万に及ぶ谷を通り、そのすべてで松を吹きぬける風の声を聞いた。 ついに地面にとどく金のふさ飾りをつけた銀の鞍にまたがって、漢東の太守がわれわれを迎え 紙にやって来た。また紫陽の聖者〈道士胡紫陽。上清派第一四代開祖。七四二年またはその直後に歿す。 ていせん の李白は僧貞倩の依頼で墓碑銘を作った〉〔「漢東紫陽先生碑銘」、全集巻三〇〕がひすいの牧笛を吹いて、 浪われわれを招き、われわれが行くと、彼の建てた高殿でわれわれのためにこの世のものとも思 にぎやかな われない音楽を奏でた。それは不死鳥がつがいのめすに呼びかけるときのように、 音楽であった。漢東の太守は、笛が呼びかけるとき彼の長いそでがどうしてもじっとしていな

4. 李白

漢東太守醉起舞漢東の太守酔うて起って舞う おお きんぼうじ 手持錦袍覆我身手に錦袍を持して我が身を覆えば もんまくら 我酔うて横眠し共の股に枕す 我醉横眠枕共股 きゅうしようしの 嘗筵意気凌九霄筵に当って意気九霄を凌ぐ 星離雨散不終朝星のごとく離れ雨のごとく散じて朝を終えず 分飛楚關山水遙楚関に分飛して山水遙かなり 余既還山尋故集余は既に山に還って故の巣を尋ね 、きよう 君も亦た家に帰りて渭橋を度る 君亦歸家度渭橋 げんくんひこ 〔君家嚴君勇貔虎〔君の家の厳君貔虎よりも勇なり じゅうりよふせ いんな 作尹井州遏戎虜井州に尹と作って戎虜を遏ぐ たいこう 五月相呼度太行 五月相呼んで太行を度り りんくだ 摧輪不道羊腸苦〕輪を摧けども羊腸の苦しきを道わず〕 おも げん 〔「旧遊を憶いて誰郡の元参軍に寄す」、全集巻一三〕 〔ウェイリーはこの四句を英訳していないが、参考のため原文と訓読をここに補っておく。〕 君はおばえているか。昔、洛陽で董糟丘がわれわれのために酒楼を天津橋の南に建ててくれ えん そかんふんひ とうそうきゅう あいよ もとそう しよう わた あした

5. 李白

ばくぎやく 就中與君心莫逆中んずく君と心莫逆たり な 廻山轉海不作難山を廻り海に転じて難しと作さず さかし 傾情倒意無所惜情を傾け意を倒まにして惜しむ所無し 我向淮南攀桂枝 我は淮南に向かって桂枝を攀じ 君は洛北に留まって夢思愁う 君留洛北愁夢思 あいしたご 不忍別還相隨別るるに忍びず還た相随う と ちょうちょう 相隨迢迢訪仙城相随って迢々として仙城を訪う 三十六曲水廻三十六曲水廻綮す いつけい 一溪初人千花明 一渓初めて入れば千花明らかに ばんが , 、 たっくしようふうこえ 萬壑度盡松風聲 万壑度り尽す松風の声 ぎんあんきんらく 銀鞍金絡到平地 銀鞍金絡平地に到れば かんと ) たいしゅ 第漢東太守來相迎漢東の太守来「て相迎う ぎよくしよう しようしんじん の 紫陽之眞人邀我吹玉笙紫陽の真入我を邀えて玉笙を吹き 者 そんかろうじようせんがく 浪准霞樓上動仙樂准霞楼上仙楽を動かし あたからんぼう そうん 鳴哂然として宛も鸞鳳の鳴くに似たり 哂然宛似鸞鳳 袖長管催欲輕擧袖は長く管は催して軽挙せんと欲す わいなん うなが むか けいし

6. 李白

を失い、成都の長史として赴任の途上、李白の一家が暮していた昌明県を通った。 ( 当時一九 歳であった ) 李白は挨拶状を届け、面会を許された。青年李白の作品をいくつか見たあとで、 蘇題は同僚にむかって言った。「この若者はすぐれた才能をもっている。文体はもちろんまだ 完成されていないけれど、彼が詩作をつづければ、われわれはきっと尋常でない大詩人を見る ことになるだろう。もっとはばひろく勉強すれば、彼は司馬相如と肩を並。へる詩人になるだろ う。」李白は蘇迎との会見にふれて、「このような話は中国全土の具眼の人々に知れわたってい ( 8 ) る」と言っている。実際、この話には、多くの若い天才と年長の名士との最初の出会いをいろ いろなかたちで伝える物語でよく聞きなれたひびきがある。 李白の人生がま「たく新しい転回をみせたのはほばこの頃であ「たように思われる。李白は とうがんし たまたま東巌子という名の隠者と出会い、家族を離れて、彼の家の北西の山中にこの新しい友 人と暮した。李白はほば一二年後に書かれた手紙でつぎのように言っている。「数年のあいだ 私はまったく町へ足を踏み入れなかった。私は何千羽ものめずらしい鳥を飼「た。鳥は私が呼 こうかん たいしゅ ぶと飛んで来て、恐れ疑うようすもなく、私の手から餌をついばんだ。広漢郡の太守が ( 自宅 から成都へ向かう途中 ) われわれの話を伝え聞き、われわれを見に小屋 ~ やって来られた。太 守はのちにわれわれを《特異な才能をもつ人物》として都 ~ 送ることを提案されたけれど、われ ( 9 ) われは受けなかった」〈補注 2 参照〉。

7. 李白

〔「戦城南」、全集巻三〕 そうかん 去年、われわれは桑乾河〈万里の長城の北、山西北部と河北を西から東 ~ 流れる河〉の源で戦ってい そう た。今年、われわれは葱河〈トルキスタンのカシ「一ガル河〉の道で戦っている。われわれは。ハアー てんざん シア parthia 〔カスビ海南東の古国〕の海にくだける波で剣を洗い、天山山脈の雪の中で馬に草を 上 食べさせた。皇帝の部隊はことごとく白髪となり、老いこんで、故郷を一万里も離れて戦って 期 時いる。フン族は戦闘と殺りくのほかには何の仕事ももたない。彼らは野や耕地をもたず、ただ 慥白骨が黄色い砂に横たわる荒地をも 0 だけである】秦王家がダ ' タ , 人を寄せつけないように 大万里の長城を築いた場所、ちょうどそこで今度は漢王家の戦さののろしを燃やした。のろしは 偉絶え間なく燃え、戦と進軍はやむことがない。兵士は剣と剣を切り結んで、戦場にたおれる。 敗れた兵士の馬は天にむかってあわれないななきをあげる。からすとたかが人間のはらわたを 啣飛上挂枯樹枝 啣み飛んで上り枯樹の枝に挂く 士卒は草莽に塗る 士卒塗草莽 す 将軍空しく爾かく為るのみ 將軍空爾爲 乃知兵者是凶器乃ち知る兵は是れ凶器 聖入は已むを得ずして之を用いしを 聖人不得已而用之 すなわ ふく むな のぼこじゅ そうもうまみ しん

8. 李白

訳注 すいこう ( 1 ) 明堂が完成したのは、中宗皇帝が廃せられた嗣聖元年から数えて四年め、則天武后の年号では垂拱 しちつがん 四年一二月であった。『資治通鑑』 ( 以下『通鑑』とよぶ ) 巻二〇四に見える。以下の記述は『通鑑』に りたいはく よっている。王畸の『李太白全集』 ( 以下『全集』とよぶ ) の注にもあらましを引く。 ( 2 ) 「一年を二十四等分した約二週間の期間」。二十四気、二十四節とも言う。中国の暦法で、一年を春 分・夏至・秋分・冬至の四つで区分した期間を、さらにそれぞれ六等分したもの。だからその一期間 は約一五日強になる。それぞれの日に立春・雨水以下、小寒・大寒などすべて名がついている。垂拱 A 一ら : かいト ( ら - 四年に完成した明堂の制度については、『唐会要』 ( 巻一一 ) に見える。 くとうじよ ( 3 ) 僧懐義については『旧唐書』巻一八三、外戚伝、『新唐書』巻八二に伝記があり、『通鑑』巻二〇三、 が『旧唐書』巻一三三を引くのは誤 垂拱元年 ( 六八五 ) の条にもその出身が略述してある。ウェイリー 注 ( 4 ) 白馬寺は後漢の明帝の世 ( 六八年 ) 、洛陽の都に建てられたと言われる ( 『魏書』巻一一四、釈老志 ) 。 ( 5 ) 「開元五年の春、玄宗は : : : 」。『旧唐書』 ( 巻八 ) 、『新唐書』 ( 巻五 ) の本紀のどちらも、玄宗が洛陽 ( 東 都 ) に行幸したと記するのみで、明堂で祭ったとはしるさない。ただ『旧唐書』礼儀志 ( 巻八 ) に「五 おうぎ 193

9. 李白

あんけいしょ 史思明はついで安禄山の子安慶緒を暗殺し、革命の指導権を握った。淹陽河畔の敗北の知ら じよ せを受けると、河南の高官多数が大あわてで南へ逃れた。その中に汝州の太守であった賈至も らくよう いた。六カ月後、東の都洛陽はふたたび陥落し、汝州もまた同じ運命にあった。しかし賈至が 職をあまりにもあわてて放棄したと感じられたことは明らかであり、彼は岳州の司馬に左遷さ れたのだった。左遷を慰めて、李白は丁重に賈至を賈氏一門でもっとも有名な賈誼〈一五八ペー ジ参照〉になぞらえている。「わが賢明な統治者ははるかにやさしい。なぜなら君はただ岳州に ちょうさ ぶん 左遷されただけであるが、昔、〔漢の〕文帝は偉大な賈誼をさらに二二〇マイルも南の長沙へ追 放したのだから」と李白は言っている〔「巴陵にて賈舎人に贈る」、全集巻一一〕。 また別の機会に洞庭湖を訪れたとき、李白と賈至は李一族の一員をともなっていた。李白は この人物を「私の一族のおじ〔族叔〕」と呼んでいる。この言葉はこの人物が年上の遠いいとこ にあたるという意味である〔「族叔刑部侍郎曄及び中書の賈舎人至に陪して洞庭に遊ぶ」五首、全集巻 りよう 二〇〕。この親族は李曄で、彼もまた難儀にあっていた。彼が南方へ追われた事情は「内」と かんがん 「外」の抗争、すなわち ( 宦官によって代表される ) 宮中と行政府とのあいだの抗争に興味深い 照明を投げかけてくれる。七五九年〔乾元二年〕、騎兵隊の馬を飼う廐舎の一つで働いていた馬 丁が、盜みを働いたという理由で地方の下級官憲に逮捕され、たちまち処刑された。馬丁の未 りほこく しちばぼうおうかん 亡入は、馬屋番として出発し、今や七馬坊押官となっている宦官李輔国に上訴した。李輔国の 160

10. 李白

にうざんし 『茅山志』第一〇巻、『道蔵』三〇四番〔洞真部伝記類、一五四冊〕を参照せよ。〔ここに三六四年とあ るのは晉の興寧二年にあたるが、『茅山志』では興寧三年とあり、著者の誤記であろう。〕 こしよう し ! しようてい 〈 5 〉李白が司承禎の名をあげた他の唯一の機会は胡紫陽の墓碑銘である〔「漢東紫陽先生碑銘」、全集 りがんこう 巻三〇〕。そこで司馬承禎の名は上清派の開祖の表に並べられている。司馬承禎は李含光によ。て受 け継がれ、ついで李含光は胡紫陽によって受け継がれた。 〈 6 〉『旧唐書』〔巻一九〇下〕によると、李白の父は任城の「尉」 ( 主任書記 ) であった。しかし李自は少年 時代との関連で父親にふれるにすぎないので、李白の父親は李白がなお非常に幼かった頃、死んだと いうこともありうるように思われる。したがって f 「父」という語のかわりに sh 早 f ロ「叔父」とい うような言葉を読むべきであるかもしれない。 ごいん 〈 7 〉呉筋の作品集〔『道蔵』一〇四五番、太玄部、宗玄先生文集、三巻〕には、錬金術関係の小論が一篇収 められている。その小論ではふつうの術語が用いられている。彼は錬金術の方法について読むことが 実際に目で見ることに劣り、また見ることが手をとって教えてもらうことに劣ると言っている。彼の 「玄綱論」は非常に初歩的な道教の手引き書であり、七五四年〔天宝一三年〕、玄宗皇帝に捧げられた ものである〔「宗玄先生玄綱論」、『道蔵』太玄部。また『全唐文』巻九二五〕。それにつけられた略伝 には、若い頃彼は進士科の試験を受けたが、落第したと書かれている。 〈 8 〉ときどき言われるところによると、杜甫の「酒杯の八仙人〔飲中八仙〕」中の有名な詩で、八仙人の一 そしん 人に蘇晉 ( 七三四年歿 ) をふくめたものは、広く知られた飲酒家を歌「た詩句にすぎず、七四三ー七四 181