しようこう あした めいこうきゅう 蓬葉山のことで仙人の山であり、「闃闔」は天界の人口の門である。ただ「朝に遊ぶ明光宮」をウ = おうほうきゅうかい イ丿 1 が Pa1aceofEterna1Life と訳するのは、逐字訳ではない。漢の王褒の九懐 ( 通路篇 ) によると、 明光は地名で、この世界の東の果てにある不死の郷すなわち仙界の山の名であるから、かくいうので あろう。 はんでんせい ) 李陽氷の「草堂集の序」では「八仙の遊」と言い、范伝正の「李公新墓碑」では「酒中の八仙」と 言う。『新唐書』文藝伝も「酒中の八仙人」と称する。杜甫の有名な「飲中八仙の歌」は『唐詩選』な じよよう りしん そしん ちょうきよくしようす、 どに見えるが、賀知章・汝陽王 ( 李 ) ・左丞相 ( 李適 ) ・崔宗之・蘇晉・李白・張旭・焦遂 6 八人を詠 きよう ずる。このうち蘇晉は開元一三年に五九歳で死んだ ( 六七六ー七三四 ) と『旧唐書』蘇珣伝 ( 巻一〇〇 ) はいしゅうなん に記す。范伝正は賀知章らの外に裴周南を人れる。李白が長安の都に入ったのは、通常は天宝元年 ( 七四一 l) の秋とされる。それでは蘇晉は八年前に死んでいた。ウェイリー が「でたらめ」と言うのは、 そのためである。郭沫若氏の新著『李白与杜甫』 ( 一九七二年、北京 ) では、李白は開元一八年 ( 七三 〇 ) に、ひとたび長安におもむき、しばらく滞在したと言う。この新説に従えば、蘇晉の生存中にす でに李白は長安にいたこととなて、いちおう矛盾がなくなる。ただし郭氏も言うごとく、李適が左 丞相にな「たのは天宝初年のことだから、杜甫の「八仙の歌」に詠ぜられたのは必ずしも一時一処の 事ではない。八人が同じ時に長安に居たと定めるには及ばない。 とすれば開元一三年以前に李白が長 安に在ったとの積極的な証拠とはならないのである。 ( 四 ) 「原憲の弱点」 the failing of イ目 l-lsien にあたることばは、魏顥の「李翰林集の序」 ( 全集巻三
やそれに与えられていると信じられていた象徴的、魔術的な意義をあっかった経典の章句を韻 文になおしているにすぎない。 李白の「賦」は非常に平板なものにならざるをえなかった。 この建築物はすべての入々の心の中で、これを建てた食人鬼とも言うべき年老いた女性の記 憶と密接に結びついている。この明堂を計画されている生けにえの儀式に使うことに反対する 騒ぎが起り、騒ぎは最後にはいたるところにひろまった。建物の壮麗さや規模の巨大さが天に とって不快であったことは、当時人々が噂したように、明らかに神々の警告として仕組まれた 六九五年の大火災によって証明ずみである。明堂は再建されて新しく命名し直され、その後は 宮廷の世俗的な役目をはたすためにだけ使われてきた。 いく年もあとで書かれたものの中で、李白は「一四歳のとき私はすでに奇書を読み、司馬相 じよ 代如の『賦』に対抗して『賦』を書いていた」と言「た。しかし李白は「明堂の賦」を書くため 年に「奇書」を参照する必要はなか「たはずである。明堂についての章句を集めた便利な文学手 レ引書がたくさんあった。李白少年時代のこの作品は、李白のお手本となった古代の「賦」や李 土白自身の後年の作品がともにあれほど目立っ特色としている生気ある言葉の横溢を欠いている。 李白は生涯のこの時期について、「一四歳のとき私はすでに高貴な人々の寵をもとめていた」 生 とも言っている。しかし記録の上で最初にそのような事例が認められるのは、なお五年あとの ことである。七一六年〔開元四年〕から宰相の地位にあった蘇題が七二〇年〔開元八年〕に権力の座 しばしよう
る。そこで司馬承禎が性急にこの忠告を李白に与えたと仮定すれば、李白がこの「賦」を、彼 が独力で形成した神秘的なヴィジョンを長々と主張することによって、彼の身にもなって理解 してもらいたいという年老いた道士にたいする願いを、ある程度反映する作品としたことも驚 くにはあたらないだろう。 きよぎよし 六五七年〔顕慶二年〕に宰相の地位にあった許圉師の孫娘と李自は七二六年〔開元一四年〕頃結婚 あんりく して、数年の間漢ロの北方安陸の許氏一族の屋敷で暮した。この同居は疑いなく一時的なもの との了解であった。やがて李白が生活の資をかせぎはじめるだろうと期待されていたのである。 そして実際、われわれは李白が隣の町〔安州〕の長史に近作の詩三篇を同封した手紙を送って、 かん けい 職をえたいという希望をほのめかしたことを知っている。荊州〈漢ロの西一二〇マイル〉の長史韓 ちょうそう 朝宗 ( 六八六ー七五〇 ) あての別の手紙では、韓朝宗は ( のちに李白のもっとも親しい友入の一人 さいそうし となった ) 「崔宗之のような人々」のためにさえ仕事をみつけたのたから、李白のためにもきっ と何かして下さるに違いないとえん曲に言っている。この手紙にも李白は作品の見本を同封し じよ。つよう 時ている。七三四年〔開元一三年〕、韓朝宗は李白の家の北方約七〇マイルの襄陽の太守となった。 浪李白は太守を訪間し、その晩餐の席で敬意を表わす方法を間違えた。李白はお辞儀をするかわ りに手をふったのだった。太守がとがめると、李白は「酒が独自の礼儀をつくるのです」と答 えて、許された。
しかし韓朝宗もほかの誰も李白に職を与えなかったので、彼は妻の家族と暮しつづけた。実 際、李白は生涯を通じて一度も自分自身の家をかまえなかったように思われる。李白が何度か かわった彼の妻の家族の中で暮していないときには、彼はいとこと考えられる入々、すなわち とにかく李という姓をもち、李白にたいして親族の義務を認める気持のある人々のもとに滞在 していたようである。李白は誰のところに滞在しているかをめったに述べはしない。しかし李 白が訪れたほとんどすべての場所で、彼が李という姓の父方のいとこやそのほかの親族にあて た詩を書いていることをわれわれは知っている。彼等はおそらく李白をもてなしていた家の主 人たちであったろう。 もうこうぜん 李白が著名な同時代人孟浩然 ( 六八九ー七四〇 ) と友だちになったのは七三〇年〔開元一八年〕頃 であったに違いない。孟浩然はすでに述べた李白の家から約七〇マイル北の襄陽の出身であっ ろくもんざん た。三九歳まで孟浩然は襄陽の南東一二マイルの鹿門山に住んで古典を勉強し、また詩を書い ていた。七二八年〔開元一六年〕、孟浩然は長安にのばり、官吏登用試験を受けたが落第した。 おうい ちょうきゅうれい しかし彼は詩人画家王維 ( 六九九ー七五九 ) と、政治家張九齢 ( 六七三ー七四〇 ) と友だちになった。 つぎのような話が伝わっている。ある日、孟浩然が王維と宮廷の一室にいると、玄宗皇帝が突 然はいって来られた。孟浩然は非常に驚いて寝いすの下にかくれた。しかし十分す早くという 、わ二け・こ十、、 ( も力なかった。そこで王維は当惑しながら説明しはじめた。しかし孟浩然の名が出る -4
った穴からくみあげた水で顔を洗ったこと、またたった一足の木ぐっを共有していたことなど ちくけい が描かれている。「昨夜、彼等は帰って、ふたたび竹渓に月光がふりそそぐのを見つめる夢をみ た。そして今朝、東の門で私は彼等を見送っている」〔「韓準・裴政・孔巣父の山に還るを送る」、全 集巻一六〕。のちの伝説では、この三人にもう二人の入物が加えられ、彼等は ( 李白を加えて ) 竹 渓の六隠者〔六逸〕と呼ばれている。しかし李白が一度でも彼等の隠棲の地に参加したという証 拠は彼の詩にはないのである。 やがて李白はふたたび放浪をはじめた。七三八年〔開元二六年〕あるいはすこしのちに、李白 は揚州にいて、新しい運河ーーそれは穀物輸送の便をはかるために作られた一種の迂回路であ かしゅう ほんはなむけ についての詩を書いた〔「瓜洲の新河に題し、族叔舎人賁に餞す」、全集巻二五〕。七四二年 たいざん 〔天宝元年〕の夏、李白は中国東部の最高峰泰山に登った。皇帝も七二五年〔開元一三年〕にこの山 に登って、山の神に生けにえを捧げられた。李白は無事に山頂にたどり着けたのは、三千日の の ) 紙あいだ食を断ち、また絹の巻き物に『道徳経』を書き写したおかげであると考えている。しか のし李白は皇帝が通られるために作られた馬車道を登ったとも言っている。したがって四、五時 浪間の登攀は、いずれにせよ、骨の折れるものでも困難なものでもなかったことだろう。李白は 白い鹿の背に乗って登ったと言っている。しかし李白がこのように言ったのは、多くの道教の かんしゅう 仙人〈たとえば韓衆〉が白い鹿の引く雲の乗り物に乗ったと言われているからにすぎない。〔原文
あべのなかまろ だろう。この日本の衣装の男が晁衡であり、日本では阿倍仲麻呂の名で知られている〈補注参 しもつみちのまぎび 七一六年〔霊亀二年、唐の開元四年〕、彼ともう一人、下道真吉備という名の青年が日本から中 まきび 国 ~ 教育の仕上げのために派遣された〔すなわち吉備の真備である〕。真備は一九年間中国にとど ま「たのち、七三五年〔天平七年、唐の開元二三年〕、中国文明のあらゆる部門にわたる報告書と、 もんか 門下省 とくに中国の音楽と舞踏についての情報をも 0 て帰国した。仲麻呂は中国にとどまり、 のかなり高い地位 ( 官吏の九階級のうちの第七階級 ) を与えられ、のちには秘書省の校書郎を務 めた〈これは八〇二年から八〇五年まで白居易がしめた地位である〉。また仲麻呂は ( 皇帝の第一二番 ちょこうぎ おうい 目の王子 ) 儀王の「友人」 ( すなわち官選の学友 ) となり、王維 ( 六九九ー七五九 ) 、儲光羲 ( およそ七 〇〇ー七六〇 ) 、包佶、趙騨のような多くの文人と交際があ「た。七五三年〔天平勝宝五年、唐の天 華宝一二年〕、彼は日本 ~ 帰る許しをえて、明州 ( 現在の寧波 ) から上船した。仲麻呂が『百人一首』 に収められた有名な日本語の詩を作 0 たのは明州での送別の宴であ「たと言われている。 第天の原ふりさけ見れば春日なる いでし月かも 三笠の山に
注 補 中で生れたに違いない。 これらの出来事については、シャヴァンヌ『西突厥史料』 ( E. Chavannes, Documents s 、 ~ T'ou Kiue 〔 T 、〕 0 き一トミに 1930 ) のスャプの項の関連記事を参照せよ。 りようひょう じようし 李陽氷 ( 彼の家で詩人は死んだのである ) は李白の會祖父が「条支で追放者として暮した」というこ とを書いている。条支の名はベルシア湾に接し、・おそらくプシール半島と推定される半島に首都をお いていた王国に、漢の時代に与えられていた名称である。六六一年〔唐の竜朔元年〕、中国入は同じ名 称をアフガニスタンのガズナ Ghazna に与えた。しかし中国人のアフガニスタン支配はほんの二〇年 くらいつづいたにすぎなかった。それで八世紀にはアフガニスタンの条支についての記憶をもってい りようひょう る人はほとんどいなかった。李陽氷が条支について話している文書はあいまいな、装飾的、比喩的な 言葉で表現されている。彼がこの名称をたんに「世界の果て」という意味で用いたことにほとんど疑 いはない。それで、われわれはベルシア湾とガズナのどちらについても、李白の出生地となる可能性 があったと考える必要はない。 ゅうどう 〈 2 〉「道を有する等級」 ( 有道科 ) という範ちゅうーー・・ 李白はこれに属するものとして推薦されたーーーは道 教の経典の試験〔道挙〕と関係があるはずはない。なぜならこの試験は七四一年〔開元二九年〕まで存在 しなかったのだから。七三七年、同じように名前を首都に伝えられた別の文人の場合、道教練達者と くとうじよ してではなく、詩人としての技能によって推薦されていたことが明らかである〈『旧唐書』巻一一一の こうせき 高適の伝記を参照せよ〉。法令で定められた人数に加えて、とくに才能のある候補者を人数の制限な四 しに送る太守の権限は七三七年〔開元二五年〕の法令で制定された〈『唐会要』巻一一六、一四〉。しかしそ とつけっ
いので、立ち上がって酔った舞をまった。それから彼は刺しゅうをした上衣を持って来て、そ れを私にかけたので、私は彼の膝をまくらに眠った。この宴でわれわれの精神は九天〔九霄〕へ そ 舞い上がった。しかしタベにはわれわれは星か雨のように、山を越え、川を渡って、遠く楚の 辺境に散って行った。私は昔の山の巣へもどり、君もまた渭水をまたぐ橋を渡って故郷へ帰っ やがて間もなく元参軍の父は北方の大都市太原の尹〔市長〕となった。息子は父と暮すように なり、七三四年〔開元一三年〕の夏、親子は太原を訪問するよう李白を招待した。李白はその年 の終り頃太原に着いた。「流浪者の手紙」で李白はつぎのように言っている。 ほくけいきた 行來北京歳月深行いて北京に来りてより歳月深し 感君貴義輕黄金 君が義を貴び黄金を軽んずるに感ず 、しよく けしー、 せいぎよくあん 瓊杯綺食青玉案瓊杯綺食青玉の案 すいほう きしん 使我醉飽無歸心 我をして酔飽して帰心無からしむ じようせいくま 時時出向城西曲時々出でて向かう城西の曲 しんし 晉祠流水如碧玉 晉祠の流水碧玉の如し こ 0 ゅ たいげん すい
てこの免状は宮延での失敗にもかかわらず、家を離れていた三年間にえたものとして示すにた るだけものを手に人れたことを意味したのであった。 しかし、この頃李白の家族はいったいどのような構成であったのだろうか。ここで李白の四 度の結婚の問題を論じておくのが便利であろう。李白が最初の妻、許氏の娘によって一人の娘 、こう めいげつど と明月奴という名の息子をもうけたと魏顥は伝えている〔「李翰林集序」、全集巻三一〕。明月奴 は幼名であり、魏顥は成人後の名を書いていないから、この子供はおそらく幼いうちに死んだ げん のだろう。最初の妻もまた若くして亡くなった。友人元参軍が七三五年〔開元二三年〕、北方に 滞在することをすすめて李白を招待したのは、おそらく妻を亡くした李白に異なった風景をあ りゅう じわわせるためであったろう。つぎに李白は劉某という娘と結婚した。しかし「彼らは別れ た」。この言葉はおそらく二人がたがいに同意の上で離婚したことをほのめかしているのだろ 。離婚は法的に許されていた。 李白の三度目の結婚は「魯 ( すなわち山東 ) の一婦人」とであったが、その婦人の名はわかっ ていない。彼女によって李白は頗黎という名の息子をもうけた。おそらくこの息子は李白自身 りはくきん がいくつかの詩で言及し、李白が深く愛していた息子李伯禽と同一人物であろう。七五〇年 〔天宝九年〕頃に書かれ、「魯の東部に養育のため残した二入の幼い子供に」寄せられた詩で、李 白はつぎのように言っている。
訳注 「天台暁望」の題の一首と比較すると文字の異同がある。任華の引く所では、「雲は垂れて大鵬飛び、 きよごうせ 山は巨鼇の背を圧す」であるが、今の李白集では、「雲は垂れて大鵬翻がえり、波動いて巨鼇没す」と なっている。これは任華の記憶違いかも知れないが、李白の初稿が彼の引用のようになっていたのを、 のちに改めた可能性もある。 しば とうざん ) 「浙江では : : : 」とウェイリーが述べた根拠は「且らく東山に向かって外臣と為る」の句である。 ナンキン ウェイリ 1 は東晉の謝安が東山に隠栖したとの故事があり、謝安は当時の都建康 ( 今の南京 ) を去って しようこう 今の浙江省紹興市に近い処でくらしていたから、その故事を李白が用いたものと考えたのであろう。 またそこから西を関 しかし原文の東山はおそらく山東と同じで、唐代の都長安の周辺を関中といも かんこくかん どうかん 西または山西と称するのに対する語である。山東はすなわち関東で函谷関 ( および潼関 ) の東にある広 い地域をさす。黄河の中流から下流へかけての流域一帯である。従ってウェイリーは「任華は李白の 北方への周遊にはふれていない」と言うが、実はこの東山の二字によって、李白の北方中国における 「周遊」が述べられたのである。 ( 色任華の生卒の年は明らかでない。しかし「魏七秀才の広州に赴くを送る序」 ( 『全唐文』巻三七六 ) に は、詩人にして酒徒なる若き友人二人をあげた。その一人元積 ( 七七九ー八三一 ) を詩人として知って いたからには、彼の二〇歳頃つまり貞元一六年 ( 八〇〇 ) 頃までは、任華も生きていたこととなる。と すると任華の生まれたのは、ウ = ィリーの推定よりは遅く、開元八年 ( 七二〇 ) 以後であろう。元槇の 名がこの文にあらわれるのに誤りがないとしての話である。なおここで送別の辞を与えた魏七の兄魏 な けんこう