ただ『歌』とあるがためだといふのであるが、これは編輯當時既に『御』を脱してゐたので あらう。考に、『御字を補ひっ』と云ったのは恣に過ぎた観があっても或は眞椚を傅へたも のかも知れない。『中大兄三山歌』 ( 卷一・一 ill) でも『御』の字が無い。然るにこの三山歌は 目録には『中大兄三山御歌』と『御』が入ってゐるに就き、代匠記には『中大兄ハ天智天皇 ナレバトカ皇子トカ有ヌベキニヤ。傍例ニョルニ尤有ペシ。三山ノ下ニ目鋒ニハ御ノ字ア リ。脱セルカ』と云ってゐる如く、古くから本文に『御』字の無い例がある。そして、『萬 葉集はその原本の儘に傅はり、改刪を經ざるものなるを思ふべし』 ( 講義 ) を顧慮すると、目 録の方の『御』は目鋒作製の時につけたものとも取れる。なほ、この『御』字につき、『御 字なきは轉寫のとき脱せる歟。但天皇に獻り給ふ故に、獻御歌とはかざる歟なるべし』 ( 僻案抄 ) 、『御歌としるさざるは、此は天皇に對し奉る所なるから、殊史に御 ' 字をばかゝざり しならんか』 ( 美夫君志 ) 等の説をも參考とすることが出來る。 それから、攷詮で、『この歌もし中皇命の御歌ならば、そを奉らせ給ふを取次せし人の名 を、ことさらにかくべきよしなきをや』と云って、間人連老の作たといふ説に贊成してゐる が、これも、老が普通の使者でなくもっと中皇命との關係の深いことを示すので、特にその 名を書いたと見れば解釋がっき、必ずしも作者とせずとも濟むのである。考の別記に、『御
歌を奉らせ給ふも老は御乳母の子などにて御睦き故としらる』とあるのは、事實は間はす とも、その思考の方嚮には間違は無からうとおもふ。諸注のうち、二詭の分布从態は次の如 くである。中皇命作詭 ( 僻案抄・考・略解・燈・檜嬬手・美夫君志・左千夫新釋・講義 ) 間人連老 いのちうちょ 作説 ( 拾穗抄・代匠記・古義・攷證・新講・新解・評釋 ) 。『たまきはる』は命、内、代等にかか たまきはる る枕詞であるが諸説があって未詳である。仙覺・契沖・眞淵らの欒極の詭、印ち、『な - マシ ヒノキハマル内ノ命』の意とするは餘り有力でないやうだが、つまりは共處に落著くので うつ はなからうか。なほ宣長の『あら玉來經る』説、印ち年月の經過する現といふ意。久老の 、 ) ち たま たまきふ 『程來經る』詭。雅澄の『手纏き佩く』説等がある。字智と内と同音だからさう用ゐた。 一首の意は、今ごろは、たまきはる ( 枕詞 ) 字智の大きい野に澤山の馬をならべて朝の御獵 をしたまひ、その朝草を踏み走らせあそばすでせう。露の一ばいおいた草深い野が目に見え るやうでございます、といふ程の御歌である。代匠記に、『草深キ野・ニハ鹿ャ鳥ナドノ多ケ レ。ハ、宇智野フホメテ再云也』。古義に、『けふの御かり御獲物多くして御興盡ざるべしとお ぼしやりたるよしなり』とある。 作者が皇女でも皇后でも、天皇のうへをおもひたまうて、その遊獵の有様に聯想し、それ を祝稲する御心持が一首の響に滲透してゐる。決して代作態度のよそよそしいものではない。
いも やまごしかぜ 山越の風を時じみ寢る夜落ちず家なる妹をか しぬ 軍王 けて偲びつ〔卷一・六〕 あや いくさのおほきみ 舒明天皇が讚岐國安益郡に行幸あった時、軍王の作った長歌の反歌である。軍王の俥は いくさのおほきみ 不明であるが、或は固有名詞でなく、大將軍のことかも知れない ( 近時題詞の軍王見山を山の みや 名だとする説がある ) 。天皇の十一年十二月伊豫の温湯の宮に行幸あったから、そのついでに 讚岐安益郡 ( 今の綾歌郡 ) にも立寄られたのであったたらうか。『時じみ』は非時、不時など とも書き、時ならずといふ意。『寢る夜おちず』は、寢る毎晩毎晩缺かさずにの意。『かけて』 は心にかけての意である。 一首の意は、山を越して、風が時ならず吹いて來るので、ひとり寢る毎夜毎夜、家に殘っ てゐる妻を心にかけて思ひ慕うた、といふのである。言葉が順當に運ばれて、作歌感情の極 めて素直にあらはれた歌であるが、さればといって平板に失したものでなく、捉ふべきとこ ろは決して免がしてはゐない。『山越しの風』は山を越して來る風の意たが、これなども、 正岡子規が嘗て注意した如く緊密で眄な云ひ方で、この句があるために、一首が具體的に緊 よお
まって來た。この語には、『朝日かげにほへる山に照る月の飽かざる君を山越に置きて』 ( 卷 四・四九五 ) の例が參考となる。また、『かけて偲ぶ』といふ用例は、その他の歌にもあるが、 心から離さずにゐるといふ氣持で、自然的に同感を伴ふために他にも用例が出來たのである。 併しこの『懸く』といふ如き云ひ方はその時代に發達した云ひ方であるので、現在の私等が 直ちにそれを取って歌語に用ゐ、心の直接性を得るといふ訣に行かないから、私等は、語そ のものよりも、その語の出來た心理を學ぶ方がいい。なほこの歌で學ぶべきは全體としての その古調である。第三句の字餘りなどでもその破綻を來さない微妙な點と、『風を時じみ』 の如く壓搾した云ひ方と、結句の『っ』止めと、さういふものが相待って綜合的な古調を成 さき 就してゐるところを學ぶべきである。第三句の字餘りは、人の歌にも、『幸くあれど』等 があるが、後世の第三句の字餘りとは趣がちがふので破綻云々と云った。『っ』止めの參考 歌には、『越の海の手結の浦を旅にして見ればともしみ大和しぬびつ』 ( 卷三・三六七 ) 等があ やまごし
あきぬ くさか ) ぢ みやこ 秋の野のみ草苅り葺会宿れりし兎道の宮處の かりい瀲 おも 額田王 假廬し思ほゅ〔卷一・七〕 ぬかだのおぼ、み 額田王の歌だが、どういふ時に詠んだものか審かでない。ただ兎道は山城の字治で、大和 と近江との交通路に當ってゐたから、行幸などの時に假の御旅宿を宇治に設けたまうたこと があったのであらう。その時額田王は供奉し、後に當時を追懷して詠んだものと想像していい。 かがみのおきみ 田王は、田姫王と書紀にあるのと同人だとすると、額田王は鏡王の女で、鏡女王の妹 であったやうだ。初め人皇子と御婚して十市皇女を生み、ついで天智天皇に寵せられ近 江京に行ってゐた。『かりいほ』は、原文『假跡』であるが眞淵の考では、カリホと訓んた。 一首の意。嘗て天皇の行幸に御伴をして、山城の字治で、秋の野のみ草 ( 薄・萱 ) を刈っ ャさ て葺いた行宮に宿ったときの興深かったさまがおもひ出されます。 この歌は、獨詠的の追懷であるか、或は對者にむかってかういふことを云ったものか不明 だが、單純な獨詠ではないやうである。意味の内容がただこれだけで取りたてていふべき曲 が無いが、單純素朴のうちに浮んで來る寫象は鮮明で、且っその聲調は溝潔である。また單
純な獨詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奧から俥はって來るのをおぼえるの である。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった。 歌の方注に、山上憶良の類聚歌林に、一書によれば、戊申年、比良宮に行幸の時の御製云 云とある。この戊申の歳を大化四年とすれば、孝德天皇の御製といふことになるが、今は額 E 王の歌として味ふのである。題詞等につき、萬葉の編輯當時既に異傅があったこと斯くの 如くである。 ふなの にぎたづ 葵田津に船乘りせむと月待ては潮もかなひぬ い いま 額田王 今は榜ぎ出でな「卷一・八〕 齊明天皇が ( 齊明天皇七年正月 ) 新羅を討ちたまはむとして、九州に行幸せられた途中、暫 にぎたづ 時伊豫の燹田津に御滯在になった ( 田津石湯の行宮 ) 。共時お伴をした額田王の詠んだ歌で ある。跿田津といふ港は現在何處かといふに、松山市に近い三津濱だらうといふ説が有力で あったが、今はもっと道後温泉に近い山寄りの地 ( 御幸寺山附近 ) だらうといふことになっ てゐる。印ち現在はもはや海では無い。 つきま しほ 9
縱ひ作者は女性であっても、集團的に心が融合し、大御心をも含め奉った全體的なひびきと してこの表現があるのである。供奉應詔歌の眞髓もおのづからここに存じてゐるとればい い。 結句の原文は、『許藝乞菜』で、舊訓コギコナであったが、代匠記初本で、『こぎ出なと よむべきか』といふ一訓を案じ、萬葉集燈でコギイデナと定めるに至った。『乞』をイデと イデアギ : 、 イデワガコマ 訓む例は、『乞我君』、『乞我駒』などで、元來さあさあと促がす詞であるのだが『出で』と同 音だから借りたのである。一字の訓で一首の價値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。 また初句の『燹田津に』の『に』は、『に於て』の意味だが、橘守部は、『に向って』の意味 に解したけれどもそれは誤であった。斯く一助詞の解釋の差で一首の意味が全く違ってしま ふので、訓詁の學の大切なことはこれを見ても分かる。 なほ、この歌は山上憶良の類聚歌林に據ると、齊明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた 時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから齊明天皇の九年に二たび伊豫の湯 に御いでになられて、往時を追懷遊ばされたとある。さうならば此歌は齊明天皇の御製であ らうかと左注で云ってゐる。若しそれが本當で、前に出た字智野の歌の中皇命が齊明天皇の お若い時 ( 舒明皇后 ) だとすると、この秀歌を理會するにも便利たともおもふが、此處では題
どほりに纐田王の歌として鑑賞したのであった。 オホク 橘守部は、『跿田津に』を『に向って』と解し、『此歌は備前の大伯より伊與の田津へ渡 らぜ給ふをりによめるにこそ』と云ったが、それは誤であった。併し、『に』に方嚮 C 到著地 ) を示す用例は無いかといふに、やはり用例はあるので、『粟島に漕ぎ波らむと思へども明石 となみ の門浪いまだ騒げり』 ( 卷七・一二〇七 ) 。この歌の『に』は方嚮を示してゐる。 やまこ 紀の國の山越えて行け吾が背子がい立たせ いっかし 額田王 けむ橿がもと「卷一・九〕 紀の國の温泉に行幸 ( 齊明 ) の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、『莫囂圓隣之、大相 ワガセコガ イタタセリケムイッカシガモト 七兄爪謁氣、吾瀬子之、射立爲兼、五可新何本』といふので、上半の訓がむづかしいため、 々の訓があって一定しない。契沖が、『此歌ノ書ャウ難儀ニテ心得ガタシ』と歎じたほど で、此儘では訓は殆ど不可能だと謂っていい。そこで評釋する時に、一首として味ふことが いっかしもと 出來ないから囘避するのであるが、私は、下半の、『吾が背子がい立たぜりけむ嚴橿が本』 に執著があるので、この歌を選んで假りに眞淵の訓に從って置いた。下半の訓は契沖の訓
( 代匠記 ) であるが、古義では第四句を、『い立たしけむ』と六音に訓み、それに從ふ學者が いっかしごそ 多い。厳橿は厳かな橿の樹で、紳のいます橿の森をいったものであらう。その樹の下に嘗て 私の戀しいお方が立っておいでになった、といふ追憶であらう。或は相手に送った歌なら、 『あなたが嘗てお立ちなされたとうかがひましたその橿の樹の下に居ります』といふ意にな るだらう。この句は厳かな氣持を起させるもので、單に句として抽出するなら萬葉集中第一 流の句の一つと調っていい。書紀垂仁卷に、天皇以二倭姫命一爲二御杖一貢二奉於天照大一是以 ィッカシガモ をモロノ 倭姫命以二天照大一鎭二坐磯城厳橿之本一とあり、古事記雄略卷に、美母呂能、伊都加斯賀母 カシ カシガモト ュュシキカモ 登、加斯賀母登、山山斯伎加母、加志波良袁登賣、云々とある如く、神聖なる場面と關聯し 橿原の畝火の山といふやうに、橿の木がそのあたり一帯に茂ってゐたものと見て、さういふ ことを種々念中に持ってこの句を味ふこととしてゐた。考頭注に、『このかしは紳の坐所の 齋木なれば』云々。古義に、『淸淨なる橿といふ義なるべければ』云々の如くであるが、私 は、大體を想像して味ふにとどめてゐる。 さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむづかしくて私の心に遠いので、向き眞 コエテュケ 訓に從った。眞淵は、『圓』を『國』だとし、古兄岻湯氣だとした。考に云、『こはまづ紳 サヤギ 武天皇紀に依に、今の大和國を内っ國といひつ。さて共内っ國を、こに囂なき國と書たり。
トックニハナホサヤゲリトイへドモウチックニハヤスラケシ 同紀に、雖邊土米清餘妖荷梗而、中洲之地無風塵てふと同意なるにて知ぬ。かくてその隣と は、此度は紀伊國を也。然れば莫囂國隣之の五字は、紀乃久爾乃と訓べし。又右の紀に、 邊上と中州を對云しに依ては、此五字を外っ國のとも訓べし。然れども云々の隣と書しから は、遠き國は本よりいはず、近きをいふなる中に、一國をさ乂では此哥にかなはず、次下に、 三棆山の事を綜廱形と書なせし事など相似たるに依ても、猶上の訓を取るべし』とあり、な ソザウタ ほ眞淵は、『こは荷田大人のひめ哥也。さて此哥の初句と、齊明天皇紀の童謠とをば、はや き世よりよく訓人なければとて、彼童謠をば己に、此哥をばそのいろと荷田 ' 信名 , 宿禰に傳 へられき。共後多く年經て此調をなして、山城の稻荷山の荷田の家に間に、全く古大人の訓 に均しといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隱しおかば、荷田大人の功も徒に成なん と、我友皆いへればしるしつ』といふ感慨を漏らしてゐる。書紀垂仁天皇卷に、伊勢のこと うましくに を、『傍國の可怜國なり』と云った如くに、大和に隣った國だから、紀の國を考へたのであ っただらうか。 みもろヤマ メグラス 古義では、『三室の大相土見乍湯家吾が背子がい立たしけむ厳橿が本』と訓み、奠器圓」隣 モロノイッカシガモ でミモロと訓み、紳祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登を參考と イタッラゴト した。そして眞淵説を、『紀 , 國の山を超て何處に行とすべけむや、無坿説といふべし』と評 をツツュケ