略解にも、『男の別れむとする時、女の詠めるなるべし』と云ってゐる。 しし やつを いはづま 次手に云ふと、この歌の一つ前に、『あしひきの山椿険く八峰越え鹿待っ君が齋ひ妻かも』 しし ( 一ニ六一 i) といふのがある。これは、獵師が多くの山を越えながら鹿の來るのを、心に期待 して、隱れ待ってゐる氣持で、そのやうに大切に隱して置く君の妻よといふのである。『 ひ妻』などいふ語は、現代の吾等には直ぐには頭に來ないが、繰返し讀んでゐるうちに馴れ いっ て來るのである。つまり禪に齋くやうに、粗末にせず、大切にする妻といふので、出て來る 珍らしい獲物の鹿を大切にする氣持と相通じて居る。『鹿待っ』までは序詞だが、かういふ 實際から來た誠に優れた序詞が、萬葉になかなか多いので、その一例を此處に示すこととし みなわ まきむく みづ 卷向の山邊とよみて行く水の水泡のごとし世 ひとわれ 柿本人屆歌集 の人吾は〔卷七・一ニ六九〕 まきリ・、 人麿歌集にある歌で、『兄等が手を卷向山は常なれど過ぎにし人に行き纏かめやも』 ( 一ニ 六八 ) と一しょに載ってゐる。これで見ると、妻の亡くなったのを悲しむ歌で、「行き纏かめ やまべ つね やまっげき
みがある。その直接性があるために、私等は十三首の第一にこの歌を置くが、族入の作った 最初の歌がやはりこれでなかっただらうか。 こと ひじりおほ いにしへはひじり 酒の名を聖と負せし古の大き聖の言のよろしさ ( 三三九 ) さか さけ ひとたち いにしへなな 古の七の賢しき人等も欲りせしものは酒にしあるらし ( 三四〇 ) さけ 当 - か ものい まさ ゑひなき 賢しみと物言ふよりは酒飲みて醉哭するし益りたるらし ( 三四一 ) たふと さけ 言はむすべせむすべ知らに ( 知らず ) 極まりて貴きものは酒にしあるらし ( 三四二 ) ひと さかつま し さけ なかなかに人とあらずは酒壺に成りてしかも酒に染みなむ ( 三四三 ) さけの さる みにくさか あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似るよ にかも仙三四四 ) たナら あたひな ひとっき さけ あに 價無き寶といふとも一坏の濁れる酒に豈まさらめや ( 三四五 ) よるひか さけの こころや あにし 夜光る玉といふとも酒飲みて情を造るに豈如かめやも ( 三四六 ) みち すず ゑひなき 世の中の遊びの道に冷しきは醉哭するにありぬべからし ( 三四七 ) たぬ むし われ この代にし樂しくあらば來む世には蟲に鳥にも吾はなりなむ ( 三四八 ) し このよ いけるものつひ たぬ 生者遂にも死ぬるものにあれば今世なる間は樂しくをあらな ( 三四九 ) さか もだを さけの ゑひなき 默然居りて賢しらするは酒飲みて醉泣するになほ如かずけり ( 三五 0 ) 殘りの十二首は印ち右の如くである。一種の思想ともいふべき感懷を詠じてゐるが、如何 なか あそ ま とり
たびまね 家持が、坂上大孃に贈ったのに、『夜のほどろ出でつつ來らく遍多數くなれば吾が胸截ち 燒く如し』 ( 卷四・七五五 ) といふがあり、『わが情燒くも吾なりはしきやし君に戀ふるもわが あっ 心から』 ( 卷十三・三二士一 ) 、『我妹子に戀ひ術なかり胸を熱み朝戸あくれば見ゆる霧かも』 ( 卷 十一一・三〇三四 ) といふのがあるから、參考として味ふことが出來る。 あさ あきっロ きのふ 秋津野に朝ゐる雲の失せゆけば昨日も今日も な ひとおも 作者不詳 亡会人念ほゅ七・一四〇六〕 挽歌の中に載せてゐる。吉野離宮の近くにある秋津野に朝のあひだ懸かってゐた雲が無く なると ( この雲は火葬の烟である ) 、昨日も今日も亡くなった人がおもひ出されてならない、 こもり′、 といふのである。人麿が土形娘子を泊瀬山に火葬した時詠んだのに、『隱ロの泊瀬の山の山 ま の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ』 ( 卷三・四二八 ) とあるのは、當時まだ珍しかった、火 いづも 葬の烟をば亡き人のやうにおもった歌である。また出雲娘子を吉野に火葬した時にも、『山 いづも の際ゅ出雲の兄等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く』 ( 四二九 ) とも詠んでゐるので明かであ る。此一首は取りたてて秀歌と稱する程のものでないが、物歌としての哀韻と、「雲の失せゅ ひぢかた こころ た
の堤の上などに幸し給ふ時、かの家らに衣を懸ほして有を見まして、質に夏の來たるらし、 衣をほしたりと、見ますまに / \ のたまへる御歌也。夏は物打しめれば、萬づの物ほすは常 の事也。さては餘りに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど皆わろし。古への歌 は言には風流なるも多かれど、心はただ打見打思ふがま乂にこそよめれ』と云ってあるのは 名言だから引用しておく。なほ、埴安の池は、現在よりももっと西北で、別所の北に池尻と いふ小字があるがあのあたりだかも知れない。なほ、橋本直香 ( 私抄 ) は、香具山に登り給 うての御歌と想像したが、併し御製は前言の如く、宮殿にての御吟詠であらう。土屋文明氏 は明日香の淨御原の宮から山の陽の村里を御覽になられての御製と解した。 參考歌。『ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春たつらしも』 ( 卷十・一八一一、『い にしへの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山』 ( 卷七・一〇九六 ) 、『昨日こそ年は極 てしか春霞春日の山にはや立ちにけり』 ( 卷十・一八四 = D 、『筑波根に雪かも降らる否をかも愛 しき兄ろが布ほさるかも』 ( 卷十四・三三五一 ) 。僻案抄に、『只白衣を干したるを見そなはし給 ひて詠給へる御歌と見るより外有べからず』といったのは素直な解釋であり、燈に、『春は と人のたのめ奉れる事ありしか。又春のうちにと人に御ことよさし給ひし事のありけるが、 それが期を過ぎたりければ、その人をそ乂のかし、その期おくれたるを怨ませ給ふ御心なる
とが分かるが、その綿が眞綿だといふのは、三代實録、元慶八年の條に、『五月庚申朔、太 宰府年貢綿十萬屯、共内一一萬屯、以レ絹相轉進レ之』とあるによって明かである。以」絹相轉 進」之は、在庫の絹を以て代らした意である。また支那でも印度から木綿の入ったのは宋の 末だといふし、我國では延暦十八年に崑崙人 ( 印度人 ) が三河に漂著したが、共舟に木綿の種 があったのを栽培したのが初だといはれてゐる。また、木綿詭を唱へる人は、前護景雲三年 の續日本紀の記事は木綿で、恐らく支那との貿易によったもので、支那との貿易はそれ以前 から行はれてゐただらうといふのである。それに對して山田博士云、『遣唐使の派遣が大命 を奉じて死生を賭して數年を費して往復するに、綿のみにても毎年二十萬屯づつを輪入せり とすべきか』 ( 講義 ) と云った。 まわた 一首の意は、白縫 ( 枕詞 ) 筑紫の眞綿は名産とはきいてゐたが、今見るとなるほど上品だ。 未だ著ないうちから暖かさうだ、といふので、『筑紫の綿は』とことわったのは、筑紫は綿 の名産地で、作者の限にも珍らしかったからに相違ない。何十萬屯 ( 六兩を一屯とす ) といふ 眞白な眞綿を見て、『暖けく見ゅ』といふのは極めて自然でもあり、歌としては珍らしく且 つなかなか佳い歌である。 さういふ珍重と親愛とがあるために、おのづから覺官的語氣が伴ふと見え、女體と關聯す
いふ感慨をめてゐると云っても對象が對象だから此歌とは違ふのである。然るに有間皇子 は御年僅か十九歳にして、斯る客観的莊厳を成就せられた。 皇子の以上の二首、特にはじめの方は時の人々を感動せしめたと見え、『磐代の岸の松が 枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも』、『磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ 思ほゅ』 ( 長忌寸意吉麿 ) 、『つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ』 ( 山上憶良 ) 、『後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも』 ( 人麿歌集 ) 等がある。 併し歌は皆皇子の御歌には及ばないのは、心が間接になるからであらう。また、穗積朝臣老 まさき が近江行幸 ( 養老元年か ) に供奉した時の『吾が命し眞幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄 する白浪』 ( 卷三。二八八 ) もあるが、皇子の歌ほど切實にひびかない。 しひは 『椎の葉』は、和名鈔は、『椎子和名之比』であるから椎の葉であってよいが、楢の葉たら ナラ′キ うといふ説がある。そして新撰字鏡に、『椎、奈良乃本也』とあるのもその證となるが、陰 おそはやな 膺十月上句には楢は既に落葉し盡してゐる。また『遲速も汝をこそ待ため向っ蜂の椎の小枝 さえだ しひシヒ の逢ひは違はじ』 ( 卷十四・三四九三 ) と或本の歌、『椎の小枝の時は過ぐとも』の椎は思比、 四比と書いてゐるから、楢ではあるまい。さうすれば、椎の小枝を折ってそれに飯を盛った しひ と解していいだらう。『片岡の此向っ峯に椎蒔かば今年の夏の陰になみむか』 ( 卷士・一〇九九 ) シヒ なら なら
卷第三 〔一一三五〕おほきみは・かみにしませば ( 柿本人窘 ) : 〔一一三六〕いなといへど・しふるしひのが ( 持統天皇 ) : 〔一一三七〕いなといへど・かたれかたれと ( 志斐嫗 ).. 〔一一三 0 おほみやの・うちまできこゅ ( 長意吉廠呂 ) : 〔一一四一一〕たぎのうへの・みふねのやまに ( 弓削皇子 ) : 〔一一五 0 〕たまもかる・みぬめをすぎて ( 柿本人窘 ).. 〔一一五三〕いなびぬも・ゆきすぎがてに ( 柿本人窘 ) : 〔一一五四」ともしびの・あかしおほとに ( 柿本人麿 ) : 〔一会〕ひむがしの・たぎのみかどに ( 日並皇子宮の舍人 )••・ 〔一へ九〕あさひてる・しまのみかどに ( 日並皇子宮の舍人 )••・ 〔一九五〕しきたへの・そでかへしきみ ( 柿本人窘 )••・ 〔一 6 三〕ふるゆきは・あはになふりそ ( 穗積皇子 ) ・ : 〔一 60 あきやまの・もみちをしげみ ( 柿本人麿 ) : 〔三 0 ささなみの・しがつのこらが ( 柿本人音 ) : 〔一三こつまもあらば・つみてたげまし ( 柿本人麿ノ・ 〔一三三〕かもやまの いはねしまける ( 柿本人窘 ) :
單純に過ぎてしまはないため、餘韻おのづからにして長いといふことになる。 ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり み つき 見すれば月かたぶき箞一・四八〕柿本人 これも四首中の一つである。一首の意は、阿騎野にやどった翌朝、日出前の東天に既に曉 の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。その時西の方をふりかへると、 もう月が落ちかかってゐる、といふのである。 この歌は前の歌にあるやうな、『古へおもふに』などの句は無いが、全體としてさういふ 感情が奧にかくれてゐるもののやうである。さういふ氣持があるために、『かへりみすれば 月かたぶきぬ』の句も利くので、先師伊藤左千夫が評したやうに、『稚氣を脱せず』といふ のは、稍酷ではあるまいか。人麿は斯く見、斯く感じて、詠歎し寫生してゐるのであるが、 それがち犯すべからざる大きな歌を得る所以となった。 『野に・かぎろひの』のところは所謂、句割れであるし、『て』、气ば』などの助詞で績け て行くときに、たるむ虞のあるものだが、それをたるませすに、却って一種渾沌の調を成就 み
みなひと え やすみこえ 吾はもや安見兒得たり皆人の得がてにすとス やすみこえ 藤原鎌足 安見兒得たり〔卷二・九五〕 内大臣藤原卿 ( 鎌足 ) が采女安見兄を娶った時に作った歌である。 一首は、吾は今まことに、美しい安見兄を娶った。世の人々の容易に得がたいとした、美 しい安見兄を娶った、といふのである。 『吾はもや』の『もや』は詠歎の助詞で、感情を強めてゐる。『まあ』とか、『まことに』 とか、『實に』とかを加へて解せ・ばいい。奉仕中の采女には厳しい規則があって濫りに娶る ことなどは出來なかった、それをどういふ機會にか婆ったのだから、『皆人の得がてにすと ふ』の句がある。もっともさういふ制度を顧慮せずとも、美女に對する一般の感情として此 句を取扱ってもかまはぬだらう。いづれにしても作者が歡喜して得意になって歌ってゐるの が、率直な表現によって、特に、第二句と第五句で同じ句を繰返してゐるところにあらはれ てゐる。 この歌は單純で明快で、濁った技巧が無いので、この直截性が讀者の心に響いたので從來
一一 D といふ歌を以て和、てゐる。皇子の御歌には杜鵑のことははっきり云ってないので、 この歌で、札鵑を明かに云ってゐる。そして、額田王も亦古を追慕すること痛切であるが、 そのやうに社鵑が啼いたのであらうといふ意である。この歌は皇子の歌よりも遜色があるの で取立てて選拔しなかった。併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。 なぜ皇子の歌に比して遜色があるかといふに、和歌は受身の位置になり、相撲ならば、受 けて立っといふことになるからであらう。贈り歌の方は第一次の感激であり、和〈歌の方は どうしても間接になりがちだからであらう。 0 ひとごと 人言をしげみ言痛みおのが世にいまだ渡らぬ あさかは 朝川わたる〔卷二・一一六〕 但馬皇女 たじま 但馬皇女 ( 天武天皇皇女 ) が穗積皇子 ( 天武天皇第五皇子 ) を慕はれた歌があって、『秋の田 こちた の穗向のよれる片寄りに君に寄りなな言痛かりとも』 ( 一一四 ) の如き歌もある。この『人言 を』の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、竊かに穗積皇子に接せられたのが露はれた時の 御歌である。 ほづみ わた