『君がありと云はなくに』は文字どほりにいへば、『一般の人々が此世に君が生きて居ら れるとは云はぬ』といふことで、人詈の歌などにも、『人のいへば』云々とあるのと同じく、 一般にさういはれてゐるから、それが本當であると強めた云ひ方にもなり、兎に角さういふ にく 云ひ方をしてゐるのである。馬醉木については、『山もせに喰ける馬醉木の惡からぬ君をい っしか往きてはや見む』 ( 卷八・一四二八 ) 、『馬醉木なす榮えし君が掘りし井の』 ( 卷七・一一一一 八 ) 等があり、自生して人の好み賞した花である。 この二首は、前の御歌等に較べて、稍しっとりと底深くなってゐるやうにおもへる。『何 しか來けむ』といふやうな強い激越の調がなくなって、『現身の人なる吾や』といって、諦 念の如き心境に入ったもののいひぶりであるが、併し二つとも優れてゐる。 ひ よわた あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る つきかく 月の隱らくしも「卷二・一六九〕柿本人屆 ひなみしのみこのみこと 日並皇子の殯宮の時、柿本人麿の作った長歌の反歌である。皇子なと書くのは皇太子だ 9 からである。日並皇子な ( 草壁皇子 ) は持統三年に薨ぜられた。
ふので、『雲隱る』は、『雲がくります』 ( 卷三・四四一 ) 、『雲隱りにき』 ( 卷三・四六などの 如く、死んで行くことである。また皇子はこのとき、『金烏臨ニ西舍一苡聲催 = 短命泉路無ニ 賓主一此タ離」家向』といふ五言臨経一絶を作り、懷風藻に載った。皇子は夙くから文筆を 愛し、『詩賦の興は大津より始まる』と云はれたほどであった。 この歌は、臨繆にして、鴨のことをいひ、それに向って、『今日のみ見てや』と歎息して ゐるのであるが、斯く池の鴨のことを其體的に云ったために却って結句の『雲隱りなむ』が 利いて來て、『今日のみ見てや』の主觀句に無限の悲響が籠ったのである。池の鴨はその年 も以前の年の冬にも日頃見給うたのであっただらうが、死に臨んでそれに全性命を托された 御語氣は、後代の吾等の警嘆せねばならぬところである。有間皇子は、『ま幸くあらば』とい ひ、大津皇子は、『今日のみ見てや』といった。大津皇子の方が、人麿などと同じ時代なの で、主觀句に沁むものが出來て來てゐる。これは歌風の時代的變化である。契沖は代匠記で、 『歌ト云ヒ詩ト云ヒ聲フ呑テ涙フ掩フニ遑ナシ』と評したが、歌は有間皇子の御歌等と共に、 萬葉集中の傑作の一つである。また妃山皇女殉死の史實を隨伴した一悲歌として永久に遺 されてゐる。因に云ふに、山邊皇女は天智天皇の皇女、御母は蘇我赤兄の女である。赤兄大 臣は有間皇子が、『天與 = 赤兄一知』と答へられた、その赤兄である。 167
まって來た。この語には、『朝日かげにほへる山に照る月の飽かざる君を山越に置きて』 ( 卷 四・四九五 ) の例が參考となる。また、『かけて偲ぶ』といふ用例は、その他の歌にもあるが、 心から離さずにゐるといふ氣持で、自然的に同感を伴ふために他にも用例が出來たのである。 併しこの『懸く』といふ如き云ひ方はその時代に發達した云ひ方であるので、現在の私等が 直ちにそれを取って歌語に用ゐ、心の直接性を得るといふ訣に行かないから、私等は、語そ のものよりも、その語の出來た心理を學ぶ方がいい。なほこの歌で學ぶべきは全體としての その古調である。第三句の字餘りなどでもその破綻を來さない微妙な點と、『風を時じみ』 の如く壓搾した云ひ方と、結句の『っ』止めと、さういふものが相待って綜合的な古調を成 さき 就してゐるところを學ぶべきである。第三句の字餘りは、人の歌にも、『幸くあれど』等 があるが、後世の第三句の字餘りとは趣がちがふので破綻云々と云った。『っ』止めの參考 歌には、『越の海の手結の浦を旅にして見ればともしみ大和しぬびつ』 ( 卷三・三六七 ) 等があ やまごし
も秀歌として取扱はれて來た。そこで注釋家の間に寓意説、例へば守部の、『此歌は、天皇 を安見知し吾大君と中し馴て、皇子を安見す御子と中す事のあるに、此采女が名を、安見子 と云につきて、今吾安見子を得て、既に天皇の位を得たりと戲れ給へる也。されば皆人の得 がてにすと云も、采女が事のみにはあらず、天皇の御位の凡人に得がたき方をかけ給へる御 詞也。又得たりと云言を再びかへし給へるも、共御戲れの旨を慥かに聞せんとて也。然るに かやうなるをなほざりに見過して、萬葉などは何の巧も風情もなきものと思ひ過めるは、實 におのれ解く事を得ざるよりのあやまりなるぞかし』 ( 萬葉緊要 ) の如きがある。けれどもさ ういふ説は一つの穿ちに過ぎないとおもふ。この歌は集中佳作の一つであるが、興に乘じて 一氣に表出したといふ種類のもので、沈灣重厚の作といふわけには行かない。同じく句の繰 返しがあっても前出天智天皇の、『妹が家も繼ぎて見ましを』の御製の方がもっと重厚であ る。これは作歌の態度といふよりも性格といふことになるであらうか、そこで、守部の説は 穿ち過ぎたけれども、『戯れ給へる也』といふところは一部常ってゐる。
シックリ そこで代作詭に贊成する古義でも、『此題詞のこ、ろは、契沖も云るごとく、中皇女のおほ せによりて間人連老が作てたてまつれるなるべし。されど意はなほ皇女の御意を承りて、天 皇に聞えあげたるなるべし』と云ってゐるのは、この歌の調べに云ふに云はれぬ愛情の響が あるためで、古義は理論の上では間人連老の作だとしても、鑑賞の上では、皇女の御意云々 を否定し得ないのである。此一事輕々に看過してはならない。それから、この歌はどういふ 太ュクジュ 形式によって獻られたかといふに、『皇女のよみ給ひし御歌を老にロ誦して父天皇の御前に て歌はしめ給ふ也』 ( 檜嬬手 ) といふのが眞に近いであらう。 一首は、豐腴にして莊潔、些の澁滯なくその歌調を完うして、日本古語の優秀な特色が隈 なくこの一首に出てゐるとおもはれるほどである。句割れなどいふものは一つもなく、第三 句で『て』を置いたかとおもふと、第四句で、『朝踏ますらむ』と流動的に据ゑて、小休止 となり、結句で二たび起して重厚莊潔なる名詞止にしてゐる。この名詞の結句にふかい盛情 がこもり餘響が長いのである。作歌當時は言語が極めて容易に自然にこだはりなく運ばれた とおもふが、後代の私等には驚くべき力量として迫って來るし、『その』などといふ績けざ までも言語の妙いふべからざるものがある。長歌といひこの反歌といひ、萬葉集中最高の 一つとして敬ふべくむべきものだとおもふのである。
むろほぎ の屋根の事だと考證し、新室を祝ふ室壽の詞の中に『み空を見れば萬代にかくしもがも』云 云とある等を證としたが、その屋根を天に準へることは、新家屋を壽ぐのが主な動機たから あめ 自然にさうなるので、また、萬葉卷十九 ( 四二士四 ) の新甞會の歌の『天にはも百っ綱はふ萬 代に國知らさむと五百っ綱延ふ』でも、宮殿内の肆宴が主だからかういふ云ひ方になるので ある。御不豫御平癒のための願望動機とはおのづから違はねばならぬと思ふのである。縱ひ、 實際的の吉凶をトする行爲があったとしても、天室を仰いでもトせないとは限らぬし、さう いふ行爲は現在俥はってゐないから分からぬ。私は、歌に『天の原ふりさけ見れば』とある から、素直に天空を仰ぎ見たことと解する舊説の方が却って原歌の眞を傳へてゐるのでなか らうかと思ふのである。守部詭は少し穿過ぎた。 この歌は『天の原ふりさけ見れば』といって直ぐ『大王の御壽は』と績けてゐる。これだ けでみると、吉凶をトして吉の徴でも得たやうに取れるかも知れぬが、これはさういふこと ではあるまい。此處に常識的意味の上に省略と單純化とがあるので、此は古歌の特微なので ある。散文ならば、蒼天の無際無極なるが如く云々と補充の出來るところなのである。この 御歌の下の句の訓も、古鈔本では京都大學本がかう訓み、近くは略解がかう訓んで諸家それ に從ふやうになったものである。
うな云ひ方をして確めるので、この云ひ方のことは既に云ったごとく、『見ゆといふものな るを』、『見ゆるものなるを』といふに落著くのである。女郎が未だ若い家持に愬へる氣持で 甘えてゐるところがある。萬葉末期の細みを帶びた調子だが、さういふ中にあっての佳作で あらうか。また序詞などを使って幾分民謠的な技法でもあるが、これも前の紀皇女の御歌と いらつめ 同じく、女郎に印したものとして味ふと特色が出て來るのである。 み かもけふ いけ ももった いはれ 百傳ス磐余の池に嗚く鵬を今日のみ見てや雲 大津皇子 隱りなむ〔卷三・四一六〕 ツツ ~ ナミダ 題詞には、大津皇子被」死之時、磐余池般流」涕御作歌一首とある。印ち、大津皇子の謀反 をさだのいへ が露はれ、朱鳥元年十月三日譯語田舍で死を賜はった。その時詠まれた御歌である。持統紀 ヤマノベ に、庚午賜二死皇子大津於譯語田舍一時 = 年一一十四。妃皇女山邊被」髮徒跣奔赴殉焉。見者皆 歔欷とある。磐余の池は今は無いが、磯城郡安倍村大字池内のあたりだらうと云はれてゐる。 もも 『百俥ふ』は枕詞で、百へ至るといふ意で五十に懸け磐余に懸けた。 一首の意は、磐余の池に鳴いてゐる鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのであるか、とい な いはれ 新 6
になって、熊凝臨繆のつもりになって作ったのである。 一首の意は、嘗て知らなかった遙かな黄泉の道をば、おぼっかなくも心悲しく、糧米も持 たずに、どうして私は行けば好いのだらうか、といふのである。『くれぐれと』は、『闇闇と』 おぼほ いづち で、心おぼろに、おぼっかなく、うら悲しく等の意である。この歌の前に、『欝しく何方向き てか』といふのがあるが、その『おぼほしく』に似てゐる。 けんしん この歌は六首の中で一番優れて居り、想像で作っても、死して黄泉へ行く現身の姿のやう にして詠んでゐるのがまことに利いて居る。糧米も持たずに歩くと云ったのも、後代の吾等 の心を強く打つものである。糧米をカリテと訓むは、靈異記下卷に糧 ( 可里弖 ) とあるによ カレヒテ っても明かで、乾飯直の義 ( 攷證 ) だと云はれてゐる。一に云、『かれひはなしに』とあるの かれひな カレイヒ は、『餉は無しに』で意味は同じい。カレヒは乾飯である。憶良の作ったこのあたりの歌の 中で、私は此一首を好んでゐる。 よのなかう 世間を憂しと恥しと思へども飛び立ちかねっ 山上憶良 鳥にしあらねは〔卷五・八九三〕 やさ
純な獨詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奧から俥はって來るのをおぼえるの である。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった。 歌の方注に、山上憶良の類聚歌林に、一書によれば、戊申年、比良宮に行幸の時の御製云 云とある。この戊申の歳を大化四年とすれば、孝德天皇の御製といふことになるが、今は額 E 王の歌として味ふのである。題詞等につき、萬葉の編輯當時既に異傅があったこと斯くの 如くである。 ふなの にぎたづ 葵田津に船乘りせむと月待ては潮もかなひぬ い いま 額田王 今は榜ぎ出でな「卷一・八〕 齊明天皇が ( 齊明天皇七年正月 ) 新羅を討ちたまはむとして、九州に行幸せられた途中、暫 にぎたづ 時伊豫の燹田津に御滯在になった ( 田津石湯の行宮 ) 。共時お伴をした額田王の詠んだ歌で ある。跿田津といふ港は現在何處かといふに、松山市に近い三津濱だらうといふ説が有力で あったが、今はもっと道後温泉に近い山寄りの地 ( 御幸寺山附近 ) だらうといふことになっ てゐる。印ち現在はもはや海では無い。 つきま しほ 9
事ノ成ナラズモ覺東ナク、又ノ對面モ如何ナ一ノムト思召御胸ョリ出レ・ハナルペシ』とあ るのは、或は當ってゐるかも知れない。また、『君がひとり』とあるがただの御一人でなく 御件もゐたものであらう。 やま しづくいもま あしひきの山の雫に妹待っとわれ立ち沽れぬ しづく やま 大津皇子 山の雫に〔卷二・一 0 七〕 いしかはのいらつめ 大津皇子が石川郎女 ( 傳未詳 ) に贈った御歌で、一首の意は、おまへの來るのを待って、山 の木の下に立ってゐたものだから、木からおちる雨雫にぬれたよ、といふのである。『妹待 っと』は、『妹待っとて』、『妹を待たうとして、妹を待っために』である。『あしひきの』は、 萬葉集では卷二のこの歌にはじめて出て來た枕詞であるが、詭がまちまちである。宣長の ひきは あしひきき 『足引城』説が平儿だが一番眞に近いか。『足は山の脚、引は長く引延へたるを云。城とは ところ たひら ひとかまへ 凡て一構なる地を云て此は印ち山の平なる處をいふ』 ( 古事記傳 ) といふのである。御歌は、 繰返しがあるために、内容が單純になった。けれどもそのために親しみの情が却って深くな ったやうに思へるし、それに第一その歌調がまことに快いものである。第二句の「雫に』は