伊勢 - みる会図書館


検索対象: 萬葉秀歌 上巻
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1. 萬葉秀歌 上巻

九六二 ) 等である。 續王が配流されたといふ記録は、書紀には因幡とあり、常陸風土記には行方郡板來村と してあり、この歌によれば伊勢だから、配流地はまちまちである。常陸の方は仲説化したも のらしく、因幡・伊勢は配流の場處が途中變ったのだらうといふ詭がある。さうすれば詭明 が出來るが、萬葉の歌の方は伊勢として味ってかまはない。 はるす きた ころも あめか 赤過ぎて夏來るらし白妙の衣ほしたう天の香 ぐやま 持統天皇 持統天皇の御製で、藤原宮址は現在高市郡鴨公村大字高殿小學校隣接の俥説地土壇を中心 とする敷地であらうか。藤原宮は持統天皇の四年に高市皇子御視察、十二月天皇御視察、六 年五月から造營をはじめ八年十二月に完成したから、恐らくは八年以後の御製で、宮殿から 眺めたまうた光景ではなからうかと拜察せられる。 一首の意は、春が過ぎて、もう夏が來たと見える。天の香具山の邊には今日は一ばい白い 衣を千してゐる、といふのである。 しろたへ

2. 萬葉秀歌 上巻

ほく 大津皇子が薨じ給うた後、大來 ( 大伯 ) 皇女が伊勢の齋宮から京に來られて詠まれた御歌 である。御二人は御姉弟の間柄であることは既に前出の歌のところで云った。皇子は朱鳥元 年十月三日に死を賜はった。また皇女が天武崩御によって齋王を退き ( 天皇の御代毎に交代す ) 歸京ぜられたのはやはり朱鳥元年十一月十六日たから、皇女は皇子の死を大體知ってゐられ たと思ふが、歸京してはじめて事の委細を聞及ばれたものであっただらう。 一首の意。風の ( 枕詞 ) 伊勢國にその儘とどまってゐた方がよかったのに、君も此世を去 って、もう居られない都に何しに遺って來たことであらう。 『伊勢の國にもあらましを』の句は、皇女眞實の御聲であったに相違ない。家鄕である大 和、ことに京に還るのだから喜ばしい筈なのに、この御詞のあるのは、強く讀む者の心を打 つのである。第三句に、『あらましを』といひ、結句に、『あらなくに』とあるのも重くして 悲痛である。 なほ、同時の御作に、『見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか來けむ馬疲るるに』 ( 卷 ・一六四 ) がある。前の結句、『君もあらなくに』といふ句が此歌では第三句に置かれ、『馬 疲るるに』といふ實事の句を以て結んで居るが、この結句にもまた愬へるやうな響がある。 以上の二首は迚作て二つとも選っておきたいが、今は一つを從屬的に取扱ふことにした。 107

3. 萬葉秀歌 上巻

やまと 我が背子を大和へ遣ると小夜更けてあかとき っゅ 露にわが立ち霑れし〔卷二・一 0 五〕大伯皇女 おほっのみこ ほくのひめみこ 大津皇子 ( 天武天皇第三皇子 ) が竊かに伊勢宮に行かれ、齋宮大伯皇女に逢はれた。皇子 が大和に歸られる時皇女の詠まれた歌である。皇女は皇子の同母姉君の關係にある。 一首は、わが弟の君が大和に歸られるを送らうと夜ふけて立ってゐて曉の露に霑れた、と アカトキッュ いふので、曉は、原文に鷄鳴露とあるが、鷄鳴 ( 四更丑刻 ) は午前二時から四時迄であり、 アカトキッュニ また萬葉に五更露爾 ( 卷十・一三一三 ) ともあって、五更 ( 寅刻 ) は午前四時から六時迄である ふけ あかとき から、夜の更から程なく曉に績くのである。そこで、歌の、『さ夜ふけてあかとき露に』の甸 が理解出來るし、そのあひだ立って居られたことをも示して居るのである。 大津皇子は天武天皇崩御の後、不軌を謀ったのが露はれて、朱鳥元年十月三日死を賜はっ た。伊勢下向はその前後であらうと想像せられて居るが、史實的には確かでなく、單にこの 歌だけを讀めば戀愛 ( 親愛 ) 情調の歌である。併し、別離の情が切實で、且っ寂しい響が一 首を流れてゐるのをおもへば、さういふ史實に關係あるものと假定しても味ふことの出來る

4. 萬葉秀歌 上巻

なはりやま おき わがせこ 吾背子はいづく行くらむ奥っ藻の名張の山を 當廠の妻 今日か越ゆらむ〔卷一・四三〕 たぎまのまひとまろ 當麻眞人麿の妻が夫の旅に出た後詠んだものである。或は伊勢行幸にでも扈從して行った 夫を偲んだものかも知れない。名張山は伊賀名張郡の山で伊勢へ越ゆる道筋である。『奥っ 藻の』は名張へかかる枕詞で、奥っ藻は奧深く隱れてゐる藻だから、カクルと同義の語ナ・ハ ル ( ナマル ) に懸けたものである。 一首の意は、夫はいま何處を歩いてゐられるだらうか。今日ごろは多分名張の山あたりを 越えてゐられるだらうか、といふので、一首中に『らむ』が二つ第二句と結句とに置かれて 調子を取ってゐる。この『らむ』は、『朝踏ますらむ』あたりよりも稍輕快である。この歌 は古來秀歌として鑑賞せられたのは萬葉集の歌としては分かり好く口調も好いからであった が、そこに特色もあり、清極的方面もまたそこにあると謂っていいであらうか。併しそれで も古今集以下の歌などと違って、厚みのあるところ、名張山といふ現實を持って來たところ 等に注意すべきである。 をつと

5. 萬葉秀歌 上巻

形式でなされたものか不明であるが、戀愛贈答歌には縱ひ切實なものでも、底に甘美なもの を藏してゐる。ゆとりの遊びを藏してゐるのは止むことを得ない。なほ、卷十二 ( 二九 0 九 ) に、『おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に戀ひつつあらめや』といふ歌があって類似 の歌として味ふことが出來る。 かはかみ くさ ゆっいはむら つね 河上の五百箇磐群に草むさず常にもがもな常 をとめ 吹黄刀自 處女にて〔卷一こ三〕 とをちのひめみこ ふ、の 十市皇女 ( 御父大海人皇子御母額田王 ) が伊勢紳宮に參拜せられたとき、皇をに從った吹黄 はた はたよこやまいには 刀自が波多橫山の巖を見て詠んだ歌である。波多の地は詳でないが、伊勢壹志郡八太村の邊 だらうと云はれてゐる。 一首の意は、この河の邊の多くの巖には少しも草の生えることがなく、綺麗で滑かである。 そのやうにわが皇女の君も永久に美しく容色のお變りにならないでおいでになることをお願 ひいたします、といふのである。 『常少女』といふ語も、古代日本語の特色をあらはし、まことに感歎せねばならぬもので ほとり とこ

6. 萬葉秀歌 上巻

て深みを増して居る。次に『靑雲』といふのは靑空・靑天・蒼天などといふことで、雲とい こさめ ふのはをかしいやうだが、『青雲のたなびく日すら霖そぼ降る』 ( 三八八一、『靑雲のいでこ 我妹子』 ( 三五一九 ) 、『靑雲の向伏すくにの』 ( 三三二九 ) 等とあるから、暙れた蒼天をも ~ 円い 雲と信じたものであらう。そこで、『北山に績く靑空』のことを、『北山につらなる雲の靑雲 の』と云ったと解し得るのである。それから、星のことも月のことも、單に『物變星移幾度 秋』の如きものでなく、現質の星、現實の月の移ったことを見ての詠歎と解してゐる。 面倒な歌だが、右の如くに解して、自分は此歌を敬し愛誦してゐる。『春過ぎて夏來る らし』と殆ど同等ぐらゐの位置に置いてゐる。何か渾沌の氣があって二二ケ四と割切れない ところに心を牽かれるのか、それよりももっと眞實なものがこの歌にあるからであらう。自 分は、『北山につらなる雲の』だけでももはや奪敬するので、それほど古調をなんでゐるの だが、少しく偏してゐるか知らん。 かむかぜ 神風の伊勢の國にもあらしを何しか來けむ あ きみ 大來皇女 君も有らなくに〔卷二・一六三〕 いせ ょに 106

7. 萬葉秀歌 上巻

きて』などの例もあり、注意すべき表現である。結句の、「見えずかもあらむ』の「見えす』 といふのも、感覺に直接で良く、この類似の表現は萬葉に多い。 あめ しぐれ うらさぶる情さねしひさかたの天の時雨の なが 長田王 流らふ見れば〔卷一・八ニ〕 やまべ みる ながれのおほきみ 詞書には和銅五年夏四月長田王 ( 長親王の御子か ) が、伊勢の山邊の御井 ( 山浸離宮の御井 か壹志郡新家村か ) で詠まれたやうになってゐるが、原本の左注に、この歌はどうもそれらし くない、疑って見れば共常時誦した古歌であらうと云ってゐるが、季節も初夏らしくない。 こころさび ウフサプルは『心寂しい』意。サマネシはサは接頭語、マネシは『多い』、『頻り』等の語に 當る。ナガフフはナガルといふ良行下二段の動詞を二たび波行下二段に活用せしめた。事柄 の時間的繼績をあらはすこと、チル ( 散る ) からチ一フフとなる場合などと同じである。 さび しぐれ 一首の意は、天から時雨の雨が降りつづくのを見ると、うら寂しい心が絶えずおこって來 る、といふのである。 しぐれ 時雨は多くは秋から冬にかけて降る雨に使ってゐるから、やはり共時この古歌を誦したも こころ

8. 萬葉秀歌 上巻

くだして來て、下の句で『ュッキガタケニ』と屈折せしめ、結句を四三調で止めて居る。こ とに『ワクル』といふ音で止めて居るが、さういふところにいろいろ留意しつつ味ふと、作 歌穡古上にも有畚を覺えるのである。次に、此歌は河の瀬の鳴る音と、山に雲の動いてゐる 現象とを詠んだものだが、或は風もあり雨も降ってゐたかも知れぬ。併し共風雨の事は字面 には無いから、これは奥に隱して置いて味ふ方が好いやうである。さういふ事をいろいろ詮 議すると却って一首の氣勢を損ずることがあるし、この歌の季についても亦同様であって、 夏なら夏と極めてしまはぬ方が好いやうである。この歌も人麿歌集出だが恐らく入麿自身の とよ あまぐもがけ 作であらう。卷九 ( 一七〇〇 ) に、「秋風に山吹の瀬の響むなべ天雲翔る雁に逢へるかも』と あって、やはり人麿歌集にある歌だから、これも人麿自身の作で、上の句の同一手法もその ためだと解釋することが出來る。 なみた おほうみ 大海に島もあらなくに海原のたゆたふ浪に立 作者不詳 てる白雲〔卷士・一〇八九〕 作者不明だが、「伊勢に駕に從へる作』といふ左注がある。代匠記に、「持統天皇米鳥六年 しま うなはら

9. 萬葉秀歌 上巻

ある。今ならば、『永遠處女』などといふところたが、到底この古語には及ばない。作者は 恐らく老女であらうが、皇女に對する敬愛の情がただ純粹にこの一首にあらはれて、單純古 調のこの一首を吟誦すれば寧ろ莊厳の氣に打たれるほどである。古調といふ中には、一つ一 つの語にいひ知れぬ味ひがあって、後代の吾等は心その吟味に努めねばならぬもののみで あるが、第三句の『草むさず』から第四句への聯絡の其合、それから第四句で切って、結句 を『にて』にて止めたあたり、皆繰返して讀味ふべきもののみである。この歌の結句と、『野 守は見ずや君が袖ふる』などと比較することもまた極めて有益である。 とこはつはな 『常』のついた例には、『相見れば常初花に情ぐし眼ぐしもなしに』 ( 卷十七・三九七八 ) 、 とこなっ しらとほ をにひた 『その立山に常夏に雪ふりしきて』 ( 卷十七・四 0 〇〇 ) 、『白砥掘ふ小新田山の守る山の米枯れ 爲無な常葉にもがも』 ( 卷十四・三四三六 ) 等がある。 十市皇女は大友皇子 ( 弘文天皇 ) 御妃として葛野王を生んだが、壬中亂後大和に歸って居ら れた。皇女は天武天皇七年夏四月天皇伊勢齋宮に行幸せられむとした最中に卒然として薨ぜ られたから、この歌はそれより前で、恐らく、四年春二月參宮の時でもあらうか。さびしい 境遇に居られた皇女だから、老女が作ったこの祝福の歌もさびしい心を背景としたものとお もはねばならぬ。

10. 萬葉秀歌 上巻

いのち なみ いらご うっせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の たまもか を 廱續王 玉藻苅う食す〔卷一・二四〕 をみ をみおはきみあま 廠續王が伊勢の伊良虞に流された時、時の人が、『うちそを麻績の王海人なれや伊良虞が たまも 島の玉藻刈ります』 ( 二三 ) といって悲んだ。『海人なれや』は疑間で、『海人たからであらう か』といふ意になる。この歌はそれに感傷して和へられた歌である。自分は命を愛惜してこ のやうに海浪に濡れつつ伊良虞島の玉藻を苅って食べてゐる、といふのである。流人でも高 貴の方たから實際海人のやうな業をせられなくとも、前の歌に『玉藻苅り寸す』といったか ら、『玉藻苅り食す』と云はれたのである。なほ結句を古義ではタマモカリハムと訓み、新 考 ( 井上 ) もそれに從った。この一首はあはれ深いひびきを持ち、特に、『うっせみの命をを しみ』の句に感慨の主點がある。萬葉の歌には、『わたつみの豐旗雲に』の如き歌もあるが、 またかういふ切實な感傷の歌もある。悲しい聲であるから、堂々とせずにヲシミ・ナミニヌ レのあたりは、稍小きざみになってゐる。『いのち』のある例は、『たまきはる命惜しけどせ む術もなし』 ( 卷五・八〇四 ) 、『たきはる命惜しけど爲むすべのたどきを知らに』 ( 卷十士・三 0 ーしま