あまぢ とほ いへ びさかたの天道は遠しなほなほに家に歸りて なり 山上憶良 業を爲まさに「卷五・八〇一〕 山上憶良は、或る男が、兩親妻子を輕んずるのをみて、その不心得を論して、『惑情を反 さしむる歌』といふのを作った、その反歌がこの歌である。長歌の方は、『父母を、見れば おほきみ うつく ことわリ 曾し、妻子見れば、めぐし愛し、世の中は、かくぞ道理』、『地ならば、大王います、この咫 き - 」を むかふ きはみたにぐく らす、日月の下は、天雲の、向伏す極、谷蟆の、さ渡る極、聞し食す、國のまほらぞ』とい ふのが、その主な内容で、現實社會のおろそかにしてはならぬことを云ったものである。 反歌の此一首は、おまへは靑雲の志を抱いて、天へ昇るつもりだらうが、天への道は遼 遠だ、それよりも、普通並に、素直に家に歸って、家業に從事しなさい、といふのである。 なほなは 『なほなほに』は、『直直に』で、素直に、尋常に、普通並にの意、『延ふ葛の引かば依り來 なりし した ね下なほなほに』 ( 卷十四・三三六四或本歌 ) の例でも、素直にの意である。結句の、『業を爲ま なりし さに』は、『業を爲まさね』で、『ね』と『に』が相通ひ、當時から共に願望の意に使はれる から、この句は、『業務に從事しなさい』といふ意となる。 196
〔今〕たまくしげ・おほふをやすみ ( 鏡王女 )••・ 〔一尺〕あをまっと・きみがぬれけむ ( 石川郎女 )••・ 「二二〕いにしへに・こふらむとりは ( 額田王 )•• 「二四〕あきのたの・ほむきのよれる ( 但馬皇女 ) : 〔一一毛〕あきやまに・おつるもみちば ( 柿本人營」 : 〔一蝨〕みまくほり・わがするきみも ( 大來皇女 ) : 〔一七〕あさひてる・さだのをかべに ( 日並皇子宮の舍人 )•• 〔一へ一〕みたちせし・しまのありそを ( 日並皇子宮の舍人 ) ・ : 〔ズ 0 あさぐもり・ひのいりぬれば ( 日並皇子宮の舍人 ) : 〔三一〕こぞみてし・あきのつくよは ( 柿本人窘 ) : 〔三二〕ふすまちを・ひきてのやまに ( 柿本人麿 ) ・ 〔二業〕けひのうみの・にはよくあらし ( 柿本人窘 ) ・ 〔二三一〕しはつやま・うちこえみれば ( 高市黒人 ) : 〔を三〕いそのさき・こぎたみゆけば ( 高市黒人 ) : 〔一石四〕わがふねは・ひらのみなとに ( 高市黒人 ) : ・ 〔一石六〕いももわれも・ひとつなれかも ( 高市黒人 ) : 〔元六〕いほはらの・きよみがさきの ( 田口益人 ) : 〔三 C こなぐはしき・ いなみのうみの ( 柿本人 )•• / 、一ヒフナぐ 一三四
この一首の莊重な歌調は、さういふ手輕な心境では決して成就し得るものでないことを知ら ねばならない。抒情詩としての歌の聲調は、人を欺くことの出來ぬものである、爭はれぬも のであるといふことを、歌を作るものは心に愼み、歌を味ふものは心を引締めて、覺悟すべ きものである。現在でも電岳の上に立てば、三山をこめた大和平野を一望のもとに眼界に入 れることが出來る。人麿は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であったといふことを、吾等も ゃうやくにして知るに近いのであるが、賀茂眞淵此歌を評して、『岳の名によりてただに天 皇のはかりがたき御いきほひを中せりけるさまはただ此人のはじめてするわざなり』 ( 新探百 首解 ) と云ったのは、眞淵は人麿を理會し得たものの如くである。結句の訓、スルカモ、セ ひさおゅ スカモ等があるが、セルカモに從った。此は荒木田久老 ( 眞淵門人 ) の訓である。 いかづちゃまみや この歌、或本には忍壁皇子に獻ったものとして、『大君はにしませば雲隱る雷山に宮 たるみやこ 敷きいます』となってゐる。なほ『大君はにしませば赤駒のはらばふ田井を京師となし みぬまみやこ っ』 ( 卷十九・四二六 0 ) 、『大君は紳にしませば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ』 ( 同卷・四ニ 六一 ) 、『大君は飾にしませば眞木の立っ荒山中に海をなすかも』 ( 卷三こ一四一 ) 等の參考歌が ある。 右のうち卷十九 ( 四二六〇 ) の、『赤駒のはらばふ田井』の歌は、壬中亂平定以後に、大將
ここみ たづ 、 ) とさ らえぬに情なくこの渚の埼に鶴鳴くべしゃ』 ( 卷一・士一 ) 、『出でて行かむ時しはあらむを故ら うみち に妻戀しつっ立ちて行くべしゃ』 ( 卷四・五八五 ) 、『海っ路の和ぎなむ時も渡らなむかく立っ浪 に船出すべしゃ』 ( 卷九・一七八一 ) 、『たらちねの母に障らばいたづらに汝も吾も事成るべし や』 ( 卷十一・二五一七 ) 等である。 むらさきぬゅ しめぬゅ ぬもりみ きみ あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君 みでふ 額田王 が袖振る〔谷一・二〇〕 がまふ 天響天皇が近江の蒲生野に遊獵 ( 藥獵 ) したまうた時 ( 天皇士年五月五日 ) 、皇太子 ( 大皇帝、大 海人皇子 ) 諸王・内臣・群臣が皆從った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。 田王ははじめ大海人皇子に婚ひ十市皇女を生んだが、後天響天皇に召されて宮中に侍して ゐた。この歌は、さういふ關係にある時のものである。『あかねさす』は紫の枕詞。『紫野』 むらさき は染色の原料として紫草を栽培してゐる野。『標野』は御料地として濫りに人の出入を禁じ もりべ た野で印ち蒲生野を指す。『野守』はその御料地の守部印ち番人である。 】首の意は、お慕はしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きに みあ
天然を戀ふるので、そこにこの歌の特色がある。この歌の側に、「印南野は行き過ぎぬらし ひがさ 天づたふ日笠の浦に波たてり見ゅ』 ( 一一七八 ) といふのがあるが、これも仕い歌である。 みもろとやま おもしろ たまくしげ見諸戸山を行きしかば面白くして おも いにしへ念ほゅ〔卷七・一二四〇〕作者不詳 みむろと ムもろと 『見諸戸山』は、印ち御室處山の義で、三綸山のことである。「面白し』は、感深いぐら おもしろ - ) とた 可なとも書いて居る。『生ける世に吾はいまだ見ず言絶えて斯く何怜 ゐの意で、萬葉では、 +. おもしろ く縫へる嚢は」 ( 卷四・七四六 ) 、「ぬばたまの夜わたる月を何怜み吾が居る袖に露ぞ置きにけ ふるくさにひくさ る』 ( 卷七・一〇八一 ) 、「おもしろき野をばな燒きそ古草に新草まじり生ひは生ふるがに』 ( 卷 十四・三四五一 I) 、「おもしろみ、我を思へか、さ野っ鳥、來鳴き翔らふ』 ( 卷十六・三士九一 ) 等 の例があり、現代の吾等が普段いふ、『面白い』よりも深みがあるのである。そこで、此欹 は、三輪山の風景が佳くて前秘的にも感ぜられるので・『いにしへ思ほゅ』即ち、帥代の事 もおもはれると云ったのである。平賀元義の歌に、『鏡山雪に朝日の照るを見てあな面白と 歌ひけるかも』といふのがあるが、この歌の『面白』も、『おもしろくして古おもほゅ』の感 あま
みがある。その直接性があるために、私等は十三首の第一にこの歌を置くが、族入の作った 最初の歌がやはりこれでなかっただらうか。 こと ひじりおほ いにしへはひじり 酒の名を聖と負せし古の大き聖の言のよろしさ ( 三三九 ) さか さけ ひとたち いにしへなな 古の七の賢しき人等も欲りせしものは酒にしあるらし ( 三四〇 ) さけ 当 - か ものい まさ ゑひなき 賢しみと物言ふよりは酒飲みて醉哭するし益りたるらし ( 三四一 ) たふと さけ 言はむすべせむすべ知らに ( 知らず ) 極まりて貴きものは酒にしあるらし ( 三四二 ) ひと さかつま し さけ なかなかに人とあらずは酒壺に成りてしかも酒に染みなむ ( 三四三 ) さけの さる みにくさか あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似るよ にかも仙三四四 ) たナら あたひな ひとっき さけ あに 價無き寶といふとも一坏の濁れる酒に豈まさらめや ( 三四五 ) よるひか さけの こころや あにし 夜光る玉といふとも酒飲みて情を造るに豈如かめやも ( 三四六 ) みち すず ゑひなき 世の中の遊びの道に冷しきは醉哭するにありぬべからし ( 三四七 ) たぬ むし われ この代にし樂しくあらば來む世には蟲に鳥にも吾はなりなむ ( 三四八 ) し このよ いけるものつひ たぬ 生者遂にも死ぬるものにあれば今世なる間は樂しくをあらな ( 三四九 ) さか もだを さけの ゑひなき 默然居りて賢しらするは酒飲みて醉泣するになほ如かずけり ( 三五 0 ) 殘りの十二首は印ち右の如くである。一種の思想ともいふべき感懷を詠じてゐるが、如何 なか あそ ま とり
まかりち の語で複數を示すのではない。『罷道』は此世を去って死んで黄泉の國、行く道の意である。 ささなみしがっ きびつのうねめ 一首は、樂浪の志我津にゐた吉備津采女が死んで、それを送って川の瀬を渡って行く、ま ことに悲しい、といふのである。『川瀬の道』といふ語は古代語として注意してよく、實際 の光景であったのであらうが、特に『川瀬』とことわったのを味ふべきである。川瀬の音も 作者の心に沁みたものと見える。 この歌は不思議に悲しい調べを持って居り、全體としては句に屈折・省略等も無く、むつ かしくない歌であるが、不思議にも身に沁みる歌である。どういふ場合に人麿がこの采女の 死に逢ったのか、或は依賴されて作ったものか、さういふことを種々間題にし得る歌だが、 おはっ 人麿は此時、『あまかぞふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき』 ( 二一九 ) とい ふ歌をも作ってゐる。これは、生前縁があって一たび會ったことがあるが、その時にはただ 何氣なく過した。それが今となっては殘念である、といふので、これで見ると人麿は依賴さ れて作ったのでなく、采女は美女で名高かった者のやうでもあり、人麿は自ら感激して作っ てゐることが分かる。 118
穴へ 0 つねしらぬ・みちのながてを ( 山上憶良 ).. ・ 〔兊三〕よのなかを・うしとやさしと ( 山上憶良 ) : 穴九 0 なぐさむる・こころはなしに ( 山上憶良 ) : 穴究」すべ、なく・くるしくあれば ( 山上憶良 ) : 〔き五〕わかければ・みちゅきしらじ ( 山上憶良 ) : ( 九冥〕ふせきて・われはこひのむ ( 山上憶良 ).•・ 卷第六 〔九兄〕やまたかみ・しらゆふはなに ( 笠金村 )•• 〔九一 0 おきっしま・ありそのたまも ( 山部赤人 ) ・ 〔九一九〕わかのうらに・しほみちくれば ( 山部赤人 ) : 〔九一一四〕みよしぬの・きさやまのまの ( 山部赤人 ) : 〔九二五〕ぬばたまの・よのふけぬれば ( 山部赤人 ) : 〔九四四〕しまがくり・わがこぎくれば ( 山部赤人 ) : 〔会五〕かぜふけば・なみかたたむと ( 山部赤人 ) : 〔九穴〕ますらをと・おもへるわれや ( 大伴旅人 . ) : ・ 〔九当〕ちょろづの いくさなりとも ( 高橋蟲麿 ) : 〔空四〕ますらをの - ゆくとふみちぞ ( 聖武天皇 )••・ ・一三 0 ・一 60 一一 0 四 を 11 】
すべきであるが、人麿が作って哭れたといふ詭はどうであらうか。よく讀み味って見れば、 少し樂でもあり、手の足りないところもあるやうである。なほ二十三首のうちには次の如き もある。 朝日てる佐太の岡べに群れゐつつ吾が哭く涙やむ時もなし ( 一毛七 ) 御立せし島の荒磯を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも ( 一八一 ) あさぐもり日の入りぬれば御立せし島に下りゐて嘆きつるかも ( 一八八 ) そでか しきたへ きみたまだれ 敷妙の袖交へし君玉垂のをち野に過ぎぬ亦も 柿本人屆 逢はめやも〔卷二・一九五〕 かはしま はっ世べ おさかべ この歌は、川島皇子が薨ぜられた時、柿本人麿が泊瀬部皇女と忍坂部皇子とに獻った歌で ある。川島皇子 ( 天智天皇第二皇子 ) は泊瀬部皇女の夫の君で、また泊瀬部皇女と忍坂部皇子 とは御兄妹の御關係にあるから、人麿は川島皇子の薨去を悲しんで、御兩人に同時に御見ぜ 中したと解していい。『敷妙の』も、『玉垂の』もそれぞれ下の語に懸る枕詞である。『袖へ し』のカフは波行下二段に活用し、袖をさし交して寢ることで、『白妙の袖さし ~ 父へて靡き また 113
の照る月は滿ち闕けしける』 ( 四四二 ) がある。『おして照ら止一る』の表現も萬調の佳いと - 」よひ レ一よ ころで、『我が屋戸に月おし照れりほととぎす心あらば今夜來鳴き響もせ』 ( 卷八・一四八 0 ) 、 0 0 0 0 0 0 『窓越しに月おし照りてあしひきの嵐吹く夜は君をしぞ思ふ』 ( 卷十一・二六士九 ) 等の例があ る。此歌で、『この月は』と、『妹が庭にも』との關係に疑ふ人があったため、古義のやうに、 さや 『妹が庭にも淸けかるらし』の意だらうといふやうに解釋する説も出でたが、これは作者の 位置を考へなかった錯誤である。 みちとほ 海原の道遠みかも月讀の明すくな夜はふけ につつ〔卷七・一〇七五〕 作者不詳 作者不詳。海岸にゐて、夜更にのぼった月を見ると、光が淸明でなく幾らか霞んでゐるや うに見える。それをば、海上遙かなために、月も能く光らないと云ふやうに、作者が感じた から、斯ういふ表現を取ったものであらう。卷三 ( 二九〇 ) に、「倉橋の山を高みか夜ごもり に出で來る月の光ともしき』とあるのも全體が似て居るが、この卷七の歌の方が、何となく 稚く素朴に出來てゐる。それだけ常識的でなく、却って深みを添へてゐるのだが、常識的に つくよみあかり