みなひと え やすみこえ 吾はもや安見兒得たり皆人の得がてにすとス やすみこえ 藤原鎌足 安見兒得たり〔卷二・九五〕 内大臣藤原卿 ( 鎌足 ) が采女安見兄を娶った時に作った歌である。 一首は、吾は今まことに、美しい安見兄を娶った。世の人々の容易に得がたいとした、美 しい安見兄を娶った、といふのである。 『吾はもや』の『もや』は詠歎の助詞で、感情を強めてゐる。『まあ』とか、『まことに』 とか、『實に』とかを加へて解せ・ばいい。奉仕中の采女には厳しい規則があって濫りに娶る ことなどは出來なかった、それをどういふ機會にか婆ったのだから、『皆人の得がてにすと ふ』の句がある。もっともさういふ制度を顧慮せずとも、美女に對する一般の感情として此 句を取扱ってもかまはぬだらう。いづれにしても作者が歡喜して得意になって歌ってゐるの が、率直な表現によって、特に、第二句と第五句で同じ句を繰返してゐるところにあらはれ てゐる。 この歌は單純で明快で、濁った技巧が無いので、この直截性が讀者の心に響いたので從來
ほく 大津皇子が薨じ給うた後、大來 ( 大伯 ) 皇女が伊勢の齋宮から京に來られて詠まれた御歌 である。御二人は御姉弟の間柄であることは既に前出の歌のところで云った。皇子は朱鳥元 年十月三日に死を賜はった。また皇女が天武崩御によって齋王を退き ( 天皇の御代毎に交代す ) 歸京ぜられたのはやはり朱鳥元年十一月十六日たから、皇女は皇子の死を大體知ってゐられ たと思ふが、歸京してはじめて事の委細を聞及ばれたものであっただらう。 一首の意。風の ( 枕詞 ) 伊勢國にその儘とどまってゐた方がよかったのに、君も此世を去 って、もう居られない都に何しに遺って來たことであらう。 『伊勢の國にもあらましを』の句は、皇女眞實の御聲であったに相違ない。家鄕である大 和、ことに京に還るのだから喜ばしい筈なのに、この御詞のあるのは、強く讀む者の心を打 つのである。第三句に、『あらましを』といひ、結句に、『あらなくに』とあるのも重くして 悲痛である。 なほ、同時の御作に、『見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか來けむ馬疲るるに』 ( 卷 ・一六四 ) がある。前の結句、『君もあらなくに』といふ句が此歌では第三句に置かれ、『馬 疲るるに』といふ實事の句を以て結んで居るが、この結句にもまた愬へるやうな響がある。 以上の二首は迚作て二つとも選っておきたいが、今は一つを從屬的に取扱ふことにした。 107
一首の意は、伊豫の跿田津で、御船が進發しようと、月を待ってゐると、いよいよ月も明 月となり、潮も滿ちて船出するのに都合好くなった。さあ榜ぎ出さう、といふのである。 『船乘り』は此處ではフナノリといふ名詞に使って居り、人麿の歌にも、『船乘りすらむ をとめらが』 ( 四 0 ) があり、また、『播磨國より船乘して』 ( 遣庸使時奉幤祝詞 ) といふ用例が ある。また、『月待てば』は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は滿潮を待 つのであらう。月と潮汐とには關係があって、日本近海では大體月が東天に上るころ潮が滿 始るから、この歌で月を待っといふのはやがて滿潮を待っといふことになる、また書紀の、 『庚戌泊一一于伊豫燹田津石湯行宮一』とある庚戌は十四日に當る。三津濱では現在陰暦の十四 日頃は月の上る午後七八時頃八合滿となり午後九時前後に滿潮となるから、此歌は恰も大潮 の滿潮に當ったこととなる。すなはち當夜は月明であっただらう。月が滿月でほがらかに潮 も滿潮でゆたかに、一首の聲調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。そして 五句とも句割がなくて整調し、句と句との績けに、『に』、『と』、『ば』、『ぬ』等の助詞が極 0 0 0 0 0 0 めて自然に使はれてゐるのに、『船乘せむと』、『榜ぎいでな』といふ其合に流動の節奏を以 て緊めて、それが第二句と結句である點などをも注意すべきである。結句は八音に字を餘し、 『今は』といふのも、なかなか強い語である。この結句は命令のやうな大きい語氣であるが、
( 代匠記 ) であるが、古義では第四句を、『い立たしけむ』と六音に訓み、それに從ふ學者が いっかしごそ 多い。厳橿は厳かな橿の樹で、紳のいます橿の森をいったものであらう。その樹の下に嘗て 私の戀しいお方が立っておいでになった、といふ追憶であらう。或は相手に送った歌なら、 『あなたが嘗てお立ちなされたとうかがひましたその橿の樹の下に居ります』といふ意にな るだらう。この句は厳かな氣持を起させるもので、單に句として抽出するなら萬葉集中第一 流の句の一つと調っていい。書紀垂仁卷に、天皇以二倭姫命一爲二御杖一貢二奉於天照大一是以 ィッカシガモ をモロノ 倭姫命以二天照大一鎭二坐磯城厳橿之本一とあり、古事記雄略卷に、美母呂能、伊都加斯賀母 カシ カシガモト ュュシキカモ 登、加斯賀母登、山山斯伎加母、加志波良袁登賣、云々とある如く、神聖なる場面と關聯し 橿原の畝火の山といふやうに、橿の木がそのあたり一帯に茂ってゐたものと見て、さういふ ことを種々念中に持ってこの句を味ふこととしてゐた。考頭注に、『このかしは紳の坐所の 齋木なれば』云々。古義に、『淸淨なる橿といふ義なるべければ』云々の如くであるが、私 は、大體を想像して味ふにとどめてゐる。 さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむづかしくて私の心に遠いので、向き眞 コエテュケ 訓に從った。眞淵は、『圓』を『國』だとし、古兄岻湯氣だとした。考に云、『こはまづ紳 サヤギ 武天皇紀に依に、今の大和國を内っ國といひつ。さて共内っ國を、こに囂なき國と書たり。
たび來られよといふ意もこもってゐる。 この歌は、『秋さらば』といふのだから現在は未だ秋でないことが分かる。『鹿鳴かむ山 ぞ』と將來のことを云ってゐるのでもそれが分かる。共處に『今も見るごと』といふ視覺上 の句が入って來てゐるので、種々の解釋が出來たのだが、この、『今も見るごと』といふ句 を直ぐ『妻戀ひに』、『鹿鳴かむ山』に績けずに寧ろ、『山そ』、『高野原の上』の方に關係せ しめて解釋せしめる方がいい。印ち、現在見波してゐる高野原一帶の佳景その儘に、秋にな るとこの如き興に添へてそのうへ鹿の鳴く聲が聞こえるといふ意味になる。『今も見るごと』 は『現在ある从態の佳き景色の此の高野原に』といふやうになり、單純な視覺よりももっと 廣い意味になるから、そこで視覺と聽覺との矛盾を避けることが出來るのであって、他の諸 學者の新々の解釋は皆不自然のやうである。 この御歌は、豐かで緊密な調べを持ってをり、感情が濃やかに動いてゐるにも拘らず、さ ういふ主観の言葉といふものが無い。それが、『鳴かむ』といひ、『山そ』で代表せしめられ てゐる観があるのも、また重厚な『高野原の上』といふ名詞句で止めてゐるあたりと調和し て、萬葉調の一代表的技法を形成してゐる。また『今も見るごと』の插入句があるために、 却って歌調を常識的にしてゐない。家持が『思ふどち斯くし遊ばむ今も見るごと』 ( 卷十七。
單純に過ぎてしまはないため、餘韻おのづからにして長いといふことになる。 ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり み つき 見すれば月かたぶき箞一・四八〕柿本人 これも四首中の一つである。一首の意は、阿騎野にやどった翌朝、日出前の東天に既に曉 の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。その時西の方をふりかへると、 もう月が落ちかかってゐる、といふのである。 この歌は前の歌にあるやうな、『古へおもふに』などの句は無いが、全體としてさういふ 感情が奧にかくれてゐるもののやうである。さういふ氣持があるために、『かへりみすれば 月かたぶきぬ』の句も利くので、先師伊藤左千夫が評したやうに、『稚氣を脱せず』といふ のは、稍酷ではあるまいか。人麿は斯く見、斯く感じて、詠歎し寫生してゐるのであるが、 それがち犯すべからざる大きな歌を得る所以となった。 『野に・かぎろひの』のところは所謂、句割れであるし、『て』、气ば』などの助詞で績け て行くときに、たるむ虞のあるものだが、それをたるませすに、却って一種渾沌の調を成就 み
きた 『らし』といふのは、推量だが、實際を目前にしつついふ推量である。『來る』は良行四 キタレド ハルキタルラ・ ) 段の動詞である。『み冬つき春は吉多禮登』 ( 卷十七・三九〇一 ) 『冬すぎて暖來良思』 ( 卷十 , 一 八四四 ) 等の例がある。この歌は、全體の聲調は端厳とも謂ふべきもので、第二句で、『來る 0 0 0 0 らし』と切り、第四句で、『衣ほしたり』と切って、『らし』と『たり』で伊列の音を繰返し、 一踵の節奏を得ているが、人麿の歌調のやうにくゆらぐといふのではなく、やはり女性に まします御語氣と感得することが出來るのである。そして、結句で『天の香具山』と名詞止 めにしたのも一首を整正端厳にした。天皇の御代には人麿・黑人をはじめ優れた歌人を出し たが、天皇に此御製あるを拜誦すれば、決して偶然でないことが分かる。 この歌は、第二句ナッキニケ一フシ ( 舊訓 ) 、古寫本中ナッゾキヌ一フシ ( 元脣校本・類聚古集 ) で あったのを、契沖がナッキタル一フシと訓んだ。第四句コロモサラセリ ( 舊訓 ) 、古寫本中、コ ロモホシタリ ( 古葉略類聚抄 ) 、コロモホシタル ( 神田本 ) 、コロモホステフ ( 細井本 ) 等の訓が 0 0 0 0 0 0 あり、また、新古今集や小倉百人一首には、『春過ぎて夏來にけらし白妙の衣ほすてふあまの 香具山』として載ってゐるが、これだけの僅かな差別で一首全體に大きい差別を來すことを 知らねばならぬ。現在鴨公村高殿の土壇に立って香具山の方を見渡すと、この御製の如何に 實地的卲ち寫生的だかといふことが分かる。眞淵の萬葉考に、『夏のはじめつ比、天皇埴安
まって來た。この語には、『朝日かげにほへる山に照る月の飽かざる君を山越に置きて』 ( 卷 四・四九五 ) の例が參考となる。また、『かけて偲ぶ』といふ用例は、その他の歌にもあるが、 心から離さずにゐるといふ氣持で、自然的に同感を伴ふために他にも用例が出來たのである。 併しこの『懸く』といふ如き云ひ方はその時代に發達した云ひ方であるので、現在の私等が 直ちにそれを取って歌語に用ゐ、心の直接性を得るといふ訣に行かないから、私等は、語そ のものよりも、その語の出來た心理を學ぶ方がいい。なほこの歌で學ぶべきは全體としての その古調である。第三句の字餘りなどでもその破綻を來さない微妙な點と、『風を時じみ』 の如く壓搾した云ひ方と、結句の『っ』止めと、さういふものが相待って綜合的な古調を成 さき 就してゐるところを學ぶべきである。第三句の字餘りは、人の歌にも、『幸くあれど』等 があるが、後世の第三句の字餘りとは趣がちがふので破綻云々と云った。『っ』止めの參考 歌には、『越の海の手結の浦を旅にして見ればともしみ大和しぬびつ』 ( 卷三・三六七 ) 等があ やまごし
『ぬばたまの夜わたる月の隱らく』といふのは日並皇子の薨去なされたことを申上げた ので、そのうへの、『あかねさす日は照らせれど』といふ甸は、言葉のいきほひでさう云っ たものと解釋してかまはない。つまり、『月の隱らく惜しも』が主である。全體を一種象徴 的に歌ひあげてゐる。そしてその歌調の渾沌として深いのに吾々は注意を拂はねばならない。 この歌の第二句は、『日は照らせれど』であるから、以上のやうな解釋では物足りないも のを感じ、そこで、『あかねさす日』を持統天皇に譬へ奉ったものと解釋する説が多い。然 るに皇子な薨去の時には天皇が米だ印位し給はない等の史實があって、常識からいふと、實 は變な辻褄の合はぬ歌なのである。併し此處は眞淵が萬葉考で、『日はてらせれどてふは月 の隱るるをなげくを強むる言のみなり』といったのに從っていいと思ふ。或はこの歌は年代 の明かな人營の作として最初のもので、初期 ( 想像年齡廿士歳位 ) の作と看僘していいから、 幾分常識的散文的にいふと腑に落ちないものがあるかも知れない。特に人麿のものは句と句 との連績に、省略があるから、それを顧慮しないと解釋に無理の生ずる場合がある。 110
ひ方である。黑人のには上半にかういふ主觀句のものが多い。それが成功したのもあればま づいのもある。 〇 われ いづく たかしまかちぬ 何處にか吾は宿らむ高島の勝野の原にこの日 高市黒人 暮れなば〔卷三・二七五〕 黒人作。羇旅歌っづき。『高島の勝野』は、近江高島郡三尾のうち、今の大溝町である。 里 ( 人の譽旅の歌はこれを見ても場處の移動につれ、その時々に詠んだことが分かる。これは 勝野の原の日暮にあって詠んだので、それが現實的内容で、『何處にか吾は宿らむ』はそれ に伴ふ自然的詠歎である。かく詠歎を初句第二句に置くのは、黒人の一つの傾向とも謂ふこ とが出來るであらう。この詠歎は率直簡單なので却って效果があり、全體として旅中の寂し い心持を表現し得たものである。黒人作で、近江に關係あるものは、『磯の埼榜ぎたみゆけ あふみみやそ たづ ひら ば近江の海八十の湊に鶴さはに鳴く』 ( 二七三 ) 、『吾が船は比良の湊に榜ぎ泊てむ沖へな放り さ夜ふけにけり』 ( 二七四 ) がある。『沖へな放かり』といふのは、餘り沖遠くに行くなとい ふので特色のある句である。『わが舟は明石の浦に榜ぎはてむ沖へな放かりさ夜ふけにけり』 さか