憶良 - みる会図書館


検索対象: 萬葉秀歌 上巻
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1. 萬葉秀歌 上巻

かねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを』 ( 卷十七・三九五九 ) といふのがある。こ れは弟の書持の死を悼んだものであるが、この憶良の歌から影響を受けてゐるところを見る と、大伴家に傅はった此等の歌をも讀味ったことが分かる。 この日本抑歌一首 ( 長歌反歌 ) は、憶良が旅人の心になって、旅人の心に同感して、旅人 の妻の死を哀悼したといふ説に從ったが、これは、憶良の妻の死を、憶良が直接悼んでゐる のだと解釋する説があり、岸本由豆流の萬葉集攷證にも、『或入の説に、こは憶良の妻身ま かりしにはあるべからず、こは大伴卿の心になりて、憶良の作られけるならんといへれど、 さる證もなければとりがたし』と云ってゐる程である。 ( なほ、大柳直次氏の同詭がある。 ) 併し、 歌の中の妻の死んだのも夏であり、その他の種々の關係が、旅人の妻の死を悼んだ歌として 解舅する方が穩かのやうに思へる。『筑前國守山上憶良上』をば、憶良自身の妻の死を悼ん だ歌を旅人に示したものとして、『大伴獅も同じ思ひに歎かるころなれば、かの卿に見せ られけるなるべし』 ( 攷證 ) といふのであるが、ただそれだけでは證據不充分であるし、憶良 の妻が筑紫で歿したといふ記録が無いのだから、これを以て直ぐ憶良の妻の死を悼んだのだ と斷定するわけにも行かぬのである。併し全體が、自分の妻を哀悼するやうな口吻であるか ら、蠍に兩説が對立することとなるのであるが、鑑賞者は、憶良が此歌を作っても、旅人の 】 92

2. 萬葉秀歌 上巻

特色である。またさういふ滑かでない歌調が、當時の人にも却って新しく響いたのかも知れ ない。憶良は、大正昭和の歌壇に生活の歌といふものが唱へられた時、いち早くその代表的 歌人のごとくに取扱はれたが、そのとほり億良の歌には人間的な中味があって、億良の僵値 を重からしめて居る。 諧謔微笑のうちにあらはるる實生活的直接性のある此歌だけを見てもその特色がよく分か るのである。この一首は憶良の短歌ではやはり傑作と謂ふべきであらう。憶良は歌を好み勉 強もしたことは類聚歌林を編んだのを見ても分かる。併し大體として、日本語の古來の聲調 に熟し得なかったのは、漢學素養のために亂されたのかも知れない。卷一 ( 六三 ) の、『いざ やまとおぼともみつ 子どもはやく大和へ大伴の御津の濱松待ち戀ひぬらむ』といふ歌は有名だけれども、調べが しらすゅまぬ 何處か弱くて物足りない。これは寧ろ、黒人の、『いざ兄ども大和へ早く白菅の眞野の榛原 たを 手折りて行かむ』 ( 一一八〇 ) の方が優ってゐるのではなからうか。さういふ具合であるが、億 良にはまた憶良的なものがあるから、後出の歌に就いて一言費す筈である。 大伴家持の歌に、『春花のうつろふまでに相見ねば月日數みつつ妹待つらむぞ』 ( 卷十三 九八二 ) といふのがある。此は天平十九年三月、戀緖を述ぶる歌といふ長短歌の中の一首で あるが、結句の『妹待つらむぞ』はこの憶良の歌の模倣である。なほ『ぬばたまの夜渡る月 159

3. 萬葉秀歌 上巻

この歌も、その聲調が流動性でなく、寧ろ佶屈とも謂ふべきものである。然るに内容が實 生活の事に關してゐるのだから、聲調おのづからそれに同化して憶良獨特のものを成就した のである。事が娑婆世界の實事であり、いま説いてゐることが儒敎の道德觀に本づくとせば、 縹緲幽遠な歌調でない方が却って調和するのである。山來儒敎の觀相は實生活の常識である から、それに本づいて出來る歌も亦結局共處に歸著するのである。憶良は、傅誦されて來た 古歌謠、視詞あたりまで溯って勉強し、『谷ぐくのさわたるきはみ』等といふけれども、作 る憶良の歌といふものは何處か漢文的口調のところがある。併し、萬葉集全體から見れば、 憶良は憶良らしい特殊の歌風を成就したといふことになるから、その憶良的な歌の出來のよ い一例としてこれを選んで置いた。 しろがねくがねたま たからこ 銀も金も玉もなにせむにまされる寶子に如か めやも〔卷五・八〇三〕 山上憶良 山上憶良は、『子等を思ふ歌』一首 ( 長歌反歌 ) を作った。序は、『釋迦如來、金口に正しく 説き給はく、等しく衆生を思ふこと、羅喉羅の如しと。ア説き給はく、愛は子に過ぎたるは 197

4. 萬葉秀歌 上巻

るが、これも具體的でおもしろい。そして、これだけの材料を扱ひこなす意力をも、後代の 吾等は重すべきである。この歌の『絹綿』は原文『袍綿』で、眞綿の意であらうが、當時 筑紫の眞綿の珍重されたこと、また名産地であったことは沙彌滿誓の歌のところで既に云っ たとほりである。 憶良は娑婆界の貧・老・病の事を好んで歌って居り、どうしても憶良自身の體驗のやうで あるが、筑前國司であった憶良が實際斯くの如く赤貧困窮であったか否か、自分には能く分 からないが、自殺を強ひられるほどそんなに貧窮ではなかったものと想像する。そして彼は 彼の當時敎へられた大陸の思想を、周邊の現實に引き移して、如上の數々の歌を詠出したも のとも想像してゐる。 0 みちゅ まひ つかひお 稚ければ道行き知らじ整はせむ黄泉の使負ひ とほ 山上憶良 て通らせ「卷五・九〇五〕 をのこ ふるひ 『男子名は古日を戀ふる歌』の短歌である。左注に此歌の作者が不明だが、歌柄から見て ふるひ 憶良だらうと云って居る。古日といふ童子の死んだ時弔った歌であらう。そして憶良を作者 わか したべ

5. 萬葉秀歌 上巻

やまのうへのおみおくらたまか 山上巨憶良宴を罷る歌一首といふ題がある。憶良は、大寶元年造唐使に從ひ少録として 渡海、慶雲元年歸朝、靈龜二年伯耆守、龜三年筑前守、天平五年の沈痾自哀文 ( 卷五・八九 七 ) には年七十四と書いてある。この歌は多分筑前守時代の作で、そして、この前後に、大 件旅人、沙彌滿誓、防人司佑大伴四綱の歌等があるから、太宰府に於ける宴會の時の歌であ らう。 一首の意味は、この憶良はもう退出しよう。うちには子どもも泣いてゐようし、その彼等 の母 ( 即ち憶良の妻 ) も待ってゐようぞ、といふのである。『共彼母毛』は、ソノカノハ モと訓み、『その彼の C 子供の ) 母も』といふ意味になる。 憶良は萬葉集の大家であるが、飛鳥朝、藤原朝あたりの歌人のものに親しんで來た眼には、 急に變ったものに接するやうに感ぜられる。印ち、一首の聲調が如何にもごっごっしてゐて、 『もののふの八十うぢがはの網代木に』といふやうな伸々した調子には行かない。一首の中 に、三つも『らむ』を使って居りながら、訥々としてゐて流動の響に乏しい。『わが背子は 何處ゆくらむ沖っ藻の名張の山をけふか越ゆらむ』といふ『らむ』の使ひざまとも違ふし、 結句に、『吾を待つらむぞ』と云っても、人麿の『妹見つらむか』とも違ふのである。さう いふ風でありながら、何處かに實質的なところがあり、輕薄平俗になってしまはないのが共 158

6. 萬葉秀歌 上巻

一首の意は、かうして妻に別れねばならぬのが分かってゐたら、筑紫の國々を殘るくまな く見物させてやるのであったのに、今となって殘念でならぬ、といふのである。 この歌の『知る』は前の歌の『知る』と稍違って、知れてゐる、分かってゐる程の意であ る。次に、『あをによし』といふ語は普通、『奈良』に懸る枕詞であるのに、憶良は『國内』 に續けてゐる。そんなら、『國内』は大和・奈良あたりの意味かといふに、さう取っては具 合が惡い。やはり筑紫の國々と取らねばならぬところである。そこで種々説が出たのである が、憶良は必ずしも俥統的な日本語を使はぬ事があるので、或は、『あをによし』の意味を ただ山川の美しいといふぐらゐの意に取ったものとも考へられる。 ( 憶良は、『あをによし奈良 の都に』 ( 八 0 八 ) とも使ってゐるじ次に、この歌は、初句から、『くやしかも』と置いてゐる のは、萬葉集としては珍らしく、寧ろ新古今集時代の手法であるが、憶良は平然としてかう いふ手法を實行してゐる。もっともこの手法は、『苦しくも降り來る雨か』などといふ主觀 句の短いものと看做せば説明のつかぬことはない。 この歌を味ふと、内容に質實的なところがあるが、聲調が訥々としてゐて、沁み透るもの が尠いので、つまりは常識の發逹したぐらゐな感情として俥はって來る。併し聲調が流暢過 ぎぬため、却って輕佻でなく、質朴の感を起こさせるのである。家持の歌に、『かからむと 191

7. 萬葉秀歌 上巻

と假定しても、古日といふ童子は憶良の子であるのか他人の子であるのかも分からない。恐 らく他人の子であらう。 ( 普通には、古日は憶良の子で、この時憶良は士十歳ぐらゐの老翁だと解せら れてゐる。なほ土屋氏は、古日はコヒと讀むのかも知れないと云って居る。 ) をさな 一首の意は、死んで行くこの子は、未だ幼い童子で、冥土の道はよく分かってゐない。冥 上の番人よ、よい贈物をするから、どうぞこの子を背負って通してやって呉れよ、といふの まひ いほよ つくよみをとこまひ である。气幤』は、『天にます月讀壯子幤はせむ今夜の長さ五百夜繼ぎこそ』 ( 卷六・九八五 ) 、 まひ 『たまぼこの道の前たち整はせむあが念ふ君をなっかしみせよ』 ( 卷十七・四〇〇九 ) 等にもあ る如く、に奉る物も、人に贍る物も、惡い意味の貨賂をも皆マヒと云った。 この一首は、童子の死を悲しむ歌だが、内容が複雜で、人麿の歌の内容の簡單なものなど なまなま とは餘程その趣が違ってゐる。然かも黄泉の道行をば、恰も現實にでもあるかの如くに生々 しく表現して居るところに、憶良の歌の強味がある。歌調がぼきりぼきりとして流動的波動 的に行かないのは、一面はさういふ素材如何にも因るのであって、かういふ素材になれば、 かういふ歌調をおのづから要求するものともいふことが出來る。 こよひ 205

8. 萬葉秀歌 上巻

うつく あをひとぐさ 無しと。至極の大聖すら倚ほ子を愛しむ心あり。況して世間の蒼生、誰か子を愛しまざらめ や』といふものであり、長歌は、『瓜食めば、子等思ほゅ、栗食めば、況してしぬばゅ、何處 きた まなかひ やすい より、來りしものぞ、眼交に、もとな懸りて、安寢し爲さぬ』といふので、この長歌は憶良 の歌としては第一等である。簡潔で、飽くまで實事を歌ひ、恐らく歌全體が憶良の正體と合 致したものであらう。 この反歌は、金銀珠寶も所詮、子の寶には及ばないといふので、長歌の實事を詠んだのに 對して、この方は綜括的に詠んだ。そして憶良は佛典にも明るかったから、自然にその影 がこの歌にも出たものであらう。『なにせむに』は、『何かせむ』の意である。憶良の語句の ふるひ 佛典から來たのは、『古日を戀ふる歌』 ( 卷五・九〇四 ) にも、『世の人の、貴み願ふ、七種の、 なか 寶も我は、なにせむに、我が間の、生れいでたる、白玉の、吾が子古日は』とあるのを見て も分かる。七寶は、金・銀・瑠璃・琿磔・碼碯・珊瑚・琥珀または、金・銀・琉璃・頗・ 車渠・瑪瑙・金剛である。さういふ佛典の新しい語感を持った言葉を以て、一首を爲立て、 堅苦しい程に緊密な聲調を以て終始してゐるのに、此一首の佳い點があるだらう。けれども 長歌に比してこの反歌の劣るのは、後代の今となって見れば言語の輪廓として受取られる弱 點が存じてゐるためである。併し、旅人の讚レ酒歌にせよ、この歌にせよ、後代の歌人とし ふるひ 198

9. 萬葉秀歌 上巻

る。なほ、大件坂上郎女の歌に、『ひさかたの天の露霜置きにけり宅なる人も待ち戀ひぬら む』 ( 卷四・六五一 ) といふのがあり、これも憶良の歌の影響があるのかも知れぬ。斯くの如く 憶良の歌は當時の人々に敬せられたのは、恐らく彼は漢學者であったのみならす、歌の方 でもその學者であったからだとおもふが、そのあたりの歌は、一般に分かり好くなり、常識 的に合理化した聲調となったためとも解釋することが出來る。印ち憶良のこの歌の如きは、 細かい額動が足りない、而してたるんでゐるところのあるものである。 あし 葦べ行く鵐の羽がひに霜降りて寒きタベは大 志貴皇子 和し国 5 ほゅ〔卷一。六四〕 しきの 文武天皇が慶雲三年 ( 九月二十五日から十月十二日まで ) 難波宮に行幸あらせられたとき志貴 皇子 ( 天智天皇の第四皇子靈他二年薨 ) の詠まれた御歌である。難波宮のあったところは現在 明かでない。 大意。難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の翼に、霜降るほどの寒い夜には、 大和の家鄕がおもひ出されてならない。鴨でも共寢をするのにといふ意も含まれてゐる。 れへ

10. 萬葉秀歌 上巻

て見つつ來し御津の松原浪越しに見ゅ』 ( 卷七・一一八五 ) があるから、大きい松原のあったこ とが分かる。 『いざ子ども』は、部下や年少の者等に對して親しんでいふ言葉で、既に古事記應神卷に、 まぬ ひる ぬびる 『いざ兄ども野蒜つみに蒜つみに』とあるし、萬葉の、『いざ子ども大和へ早く白菅の眞野 まりま・り の手折りて行かむ』 ( 卷三・二八〇 ) は、高市黒人の歌だから憶良の歌に前行してゐる。 『白を取らば清ぬ・〈し」ざ子ども露に競ひて萩 0 遊びせむ』 ( 卷才 = 一 ~ = ) もまたさうで ある『いざ兄ども香椎の潟に白妙の袖さへぬれて朝菜採みてむ』 ( 卷六・九五七 ) は旅人の歌で 憶良のよりも後れてゐる。つまり、旅人が億良の影響を受けたのかも知れぬ。 この歌は、環境が唐の國であるから、自然にその氣持も一首に反映し、さういふ點で規模 の大きい歌だと謂ふべきである。下の句の歌調は稍弛んで弱いのが缺點で、これは他のとこ ろでも一言觸れて置いたごとく、憶良は漢學に逹してゐたため、却って日本語の俥統的な聲 調を理會することが出來なかったのかも知れない。一首としてはもう一歩緊密な度合の聲調 を要求してゐるのである。後年、天平八年の造新羅國使等の作ったものの中に、『ぬばたま とまり よあか の夜明しも船は榜ぎ行かな御津の濱松待ち戀ひぬらむ』 ( 卷十五・三七二一 ) 、『大伴の御津の泊 に船泊てて立田の山を何時か越え往かむ』 ( 三七】一・ D とあるのは、この億良の歌の模倣であ