玉藻 - みる会図書館


検索対象: 萬葉秀歌 上巻
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1. 萬葉秀歌 上巻

いのち なみ いらご うっせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の たまもか を 廱續王 玉藻苅う食す〔卷一・二四〕 をみ をみおはきみあま 廠續王が伊勢の伊良虞に流された時、時の人が、『うちそを麻績の王海人なれや伊良虞が たまも 島の玉藻刈ります』 ( 二三 ) といって悲んだ。『海人なれや』は疑間で、『海人たからであらう か』といふ意になる。この歌はそれに感傷して和へられた歌である。自分は命を愛惜してこ のやうに海浪に濡れつつ伊良虞島の玉藻を苅って食べてゐる、といふのである。流人でも高 貴の方たから實際海人のやうな業をせられなくとも、前の歌に『玉藻苅り寸す』といったか ら、『玉藻苅り食す』と云はれたのである。なほ結句を古義ではタマモカリハムと訓み、新 考 ( 井上 ) もそれに從った。この一首はあはれ深いひびきを持ち、特に、『うっせみの命をを しみ』の句に感慨の主點がある。萬葉の歌には、『わたつみの豐旗雲に』の如き歌もあるが、 またかういふ切實な感傷の歌もある。悲しい聲であるから、堂々とせずにヲシミ・ナミニヌ レのあたりは、稍小きざみになってゐる。『いのち』のある例は、『たまきはる命惜しけどせ む術もなし』 ( 卷五・八〇四 ) 、『たきはる命惜しけど爲むすべのたどきを知らに』 ( 卷十士・三 0 ーしま

2. 萬葉秀歌 上巻

を以て顧るべき性質のものである。卷九 ( 一七三六 ) に、『山高み白木綿花に落ちたぎつ夏電 かはと の河門見れど飽かぬかも』といふのがあるのは、恐らく此歌の模倣であらうから、さうすれ ば金村のこの形式的な一首も、時に人の注意を牽いたに相違ない。 かく おき しまありを たまもしほひみ 奥っ島荒磯の玉藻潮干滿ちい隱れゆかば思ほ 山部赤人 えむかも〔卷一 ( ・九一八〕 聖武天皇、祚龜元年冬十月紀伊國に行幸せられた時、從駕の山部赤人の歌った長歌の反歌 たまっしま である。『沖っ島』は沖にある島の意で、此處は玉津島のことである。 一首の意は、沖の島の荒磯に生えてゐる玉藻刈もしたが、今に潮が滿ちて來て荒磯が隱れ てしまふなら、心殘りがして、玉藻を戀しくおもふだらうといふのである。長歌の方で、 『潮干れば、玉藻苅りつつ、祚代より、然ぞ奪き、王津島山』とあるのを受けてゐる。 第四句、板本、『伊隱去者』であるから、『いれゆかば』或は『い隱ろひなば』と訓んた が、元暦校本・金澤本・田本等に、『侵隱去者』となってゐるから、『侵』を上につけて 0 0 0 かく 『潮千みちて隱ろひゆかば』とも訓んでゐる。これは二つの訓とも奪重して味ふことが出來

3. 萬葉秀歌 上巻

この歌は、中心は、『潮干滿ちい隱れゆかば思ほえむかも』にあり、赤人的に淸淡の調で あるが、なかに情感が漂ってゐて佳い歌である。海の玉藻に對する係戀とも云ふべきもので、 『思ほえむかも』は、多くは戀人とか舊都などに對して用ゐる言葉であるが、この歌では けひ 『玉藻』に云ってゐる。もっとも集中には、例へば、『飼飯の浦に寄する白浪しくしくに妹 さほかは すがた が容儀はおもほゆるかも』 ( 卷十二・三二〇〇 ) 、『飫字海の河原の千鳥汝が鳴けばわが佐保河の おもほゆらくに』 ( 卷三・三七一 ) の如きがあって、共通して使はれてゐる。行幸に供奉し、赤 人は歌人としての意識を以てこの歌を作ったのだらうが、必ずしも『宮廷歌人』などといふ 意圖が目立たずに、自由に個人としての好みを吐露してゐるやうである。一般が自山でこだ はりのなかった聖世を反映してゐると謂っていい。また、『宮廷歌人』などと云っても、現 代の人々の持ってゐる『宮廷歌人』の西洋まがひの概念と違った氣持で供奉したことをも知 らねばならぬのである。 のうみ

4. 萬葉秀歌 上巻

絶ゆる日あらめや』 ( 二四三 ) と和へてゐられる。 さきふね なっくさ みぬめ たまも 玉藻かる敏馬を過ぎて夏草の野島の埼に船ち 柿本人屆 かづきぬ〔卷三・二五〇〕 これは、柿本朝臣人麻呂旅歌八首といふ中の一つである。羇旅八首は、純粹の意味の連 作でなく、西へ行く趣の歌もあり、東歸る趣の歌もある。併し八首とも船の旅であるのは 注意していいと思ふ。敏馬は攝津武庫郡、小野濱から和田岬までの一帶、戸市の灘區に編 入せられてゐる。野島は淡路の津名郡に野島村がある。 一首の意は、〔玉藻かる〕 ( 枕詞 ) 攝津の敏馬を通って、いよいよ船は〔夏草の〕 ( 枕詞 ) 淡 路の野島の埼に近づいた、といふのである。 内容は極めて單純で、ただこれだけだが、その單純が好いので、そのため、結句の、『船ち かづきぬ』に特別の重みがついて來てゐる。一首に枕詞が二つ、地名が二つもあるのだから、 普通謂ふ意味の内容が簡單になるわけである。この歌の、『船近づきぬ』といふ結甸は、客 觀的で、感慨がこもって居り、驚くべき好い句である。萬葉集中では、『ひむがしの野にか ぬじま

5. 萬葉秀歌 上巻

は、鴨の泳いでゐる夏實の淀淵の説明だが、結果から云へば一首に響く大切な匐で、作者の 感慨が此處にこもり、意味は場處の詭明でも、一首全體の聲調からいへばもはや單なる詭明 ではなくなってゐる。かういふ結句の效果については、前出の人麿の歌 ( 】一五四 ) の處でも 設明した。此歌は從來敘景歌の極致として取扱はれたが、いかにもさういふところがある。 ただ佳作と評價する結論のうちに、抒情詩としての聲調といふ點を拔きにしてはならぬので ある。また此歌の有名になったのは、一面には萬葉調の歌の中では分かり好いためだといふ こともある。一首の中に、『なる』の音が二つもあり、加行の音の多いのなども分析すれば 分析し得るところである。 いけうらみゆ かも たまも 輕の池の浦囘行めぐる鵬すらに玉藻のうへ に獨り宿なくに〔卷三・三九〇〕 紀皇女 心当の御歌で、皇女は天武天皇皇女で、穗積皇子の御妹にあられる。一首の意は、輕の 池の岸のところを泳ぎ廻ってゐるあの鴨でも、玉藻の上にただ一つで寢るといふことがない のに、私はただ一人で寢なければならぬ、といふのである。萬葉では、譬喩歌といふのに分 かる ひと

6. 萬葉秀歌 上巻

ひと われも見つ人にも告げむ葛飾の眞間の手兒名 おくつきころ 山部赤人 が奧津城處〔卷三・四三二〕 ままをとめ をとめ 山部赤人が下總葛飾の眞間娘子の墓を見て詠んだ長歌の反歌である。手兄名は處女の義だ といはれてゐる。『手兄』 ( 三三九八・三四八五 ) の如く、親の手兄といふ意で、それに親しみの をとめ 「な』の添はったものと云はれてゐる。眞間に美しい處女がゐて、多くの男から求婚された ため、入水した俥説をいふのである。俥詭地に來ったといふ旅情のみでなく、評判の傅詭娘 子に赤人が深い同情を持って詠んでゐる。併し徒らに激しい感動語を以てせずに、淡々とい ひ放って赤人一流の感懷を表現し了せてゐる。それが次にある、『葛飾の眞間の入江にうち 靡く玉藻苅りけむ手兄名しおもほゅ』 ( 四三三 ) の如きになると、餘り淡々とし過ぎてゐるが、 『われも見つ人にも告げむ』といふ簡潔な表現になると赤人の眞價があらはれて來る。後に なって家持が、『萬代の語ひ草と、未だ見ぬ、人にも告げむ』 ( 卷十七・四 0 〇〇 ) 云々と云っ て、この句を學んで居る。赤人は富士山をも詠んだこと既に云った如くだから、赤人は東國 まで旅したことが分から。 かっしか てこな てこな 170

7. 萬葉秀歌 上巻

る。第三句の、『羨しかも』は小休止があるので、前の歌の『渇を無み』などと同様、幾ら か此處で弛むが、これは赤人的手法の一つの傾向かも知れない。一首は、譽旅の寂しい情を 節めつつ、赤人的諧調音で統一せられた佳作である。この時の歌に、『玉藻苅る辛荷の島に しまみ 島囘する鵜にしもあれや家思はざらむ』 ( 九四三 ) といふのがある。これは若し鵜ででもあっ たら、家の事をおもはずに濟むだらう、といふので『羨しかも』といふ氣持と相通じてゐる。 鵜を捉へて詠んでゐるのは寫生でおもしろい。 かぜふ なみ ほそえ さもらひった 風吹けば浪か立たむと伺候に都多の細江に浦 山部赤人 隱り居〔卷六・九四五〕 赤人作で前歌の績である。『都多の細江』は姫路から西南、現在の津田・細江あたりで、 世んはがは 船場川の川口になってゐる。當時はなるべく陸近く舟行し、少し風が荒いと船を泊めたので、 かういふ歌がある。一首の意は、この風で浪が荒く立つだらうと、心配して様子を見ながら、 都多のー 月ロのところに結を寄せて隱れてをる、といふのである。第三句、原文『伺候爾』は、 舊訓マッホドニ。代匠記サモ一フフニ。古義サモ一フヒニ 9 この『さもらふ』は、『東の瀧の御 216

8. 萬葉秀歌 上巻

山上憶良の『貧窮間答の歌一首井に短歌』 ( 土屋氏云、憶良上京後、部ち天平三年秋冬以後の作 せあらう ) の短歌である。長歌の方は、二人貧者の間答の體で、一人が、『風雜り、雨降る夜 ・如何にしつつか、汝が世は渡る』といへば、一人が、『天地は、廣しといへど、あ よのなか ため が爲は、狹くやなりぬる、 : 斯くばかり、術無きものか、世間の道』と答へるところで、 萬葉集中特殊なもので、また憶良の作中のよいものである。 はづ この反歌一首の意は、かう吾々は貧乏で世間が辛いの恥かしいのと云ったところで、所詮 吾々は人間の赤裸々で、鳥ではないのだからして、何處ぞへ飛び去るわけにも行くまい、と やさ いふのである。『やさし』は、恥かしいといふことで、『玉島のこの川上に家はあれど君を恥 あらは しみ顯さずありき』 ( 卷五・八五四 ) にその例がある。この反歌も、長歌の方で、細かくいろい ろと云ったから、概括的に締めくくったのだが、やはり貧乏人の言にして、その語氣が出 てゐるのでただの概念歌から脱却してゐる。論語に、邦有レ道、貧且賤焉耻也とあリ、魏文 ワタラント 帝の詩に、願」嗔安得一翼、欲レ濟河無レ梁とあるのも參考となり、憶良の長歌の句などには 支那の出典を見出し得るのである。 ハシ