皇子 - みる会図書館


検索対象: 萬葉秀歌 上巻
62件見つかりました。

1. 萬葉秀歌 上巻

一一 D といふ歌を以て和、てゐる。皇子の御歌には杜鵑のことははっきり云ってないので、 この歌で、札鵑を明かに云ってゐる。そして、額田王も亦古を追慕すること痛切であるが、 そのやうに社鵑が啼いたのであらうといふ意である。この歌は皇子の歌よりも遜色があるの で取立てて選拔しなかった。併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。 なぜ皇子の歌に比して遜色があるかといふに、和歌は受身の位置になり、相撲ならば、受 けて立っといふことになるからであらう。贈り歌の方は第一次の感激であり、和〈歌の方は どうしても間接になりがちだからであらう。 0 ひとごと 人言をしげみ言痛みおのが世にいまだ渡らぬ あさかは 朝川わたる〔卷二・一一六〕 但馬皇女 たじま 但馬皇女 ( 天武天皇皇女 ) が穗積皇子 ( 天武天皇第五皇子 ) を慕はれた歌があって、『秋の田 こちた の穗向のよれる片寄りに君に寄りなな言痛かりとも』 ( 一一四 ) の如き歌もある。この『人言 を』の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、竊かに穗積皇子に接せられたのが露はれた時の 御歌である。 ほづみ わた

2. 萬葉秀歌 上巻

三九九一 ) と歌ってゐるのは恐らく此御歌の影響であらう。 この歌の詞書は、『長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌』とあり、左注、『右一首長皇子』で、 『御歌』とは無い。これも、中皇命の御歌 ( 三 ) の題詞を理解するのに參考となるたらう。目 次に、『長皇子御歌』と『御』のあるのは、目次製作者の筆で、歌の方には無かったものであ らう。

3. 萬葉秀歌 上巻

のであらうか。旅中にあって誦するにふさはしいもので、古調のしっとりとした、はしやが ない好い味ひのある歌である。事象としては『天の時雨の流らふ』だけで、上の句は主觀で、 それに枕詞なども入ってゐるから、内容としては極く單純なものだが、この單純化がやがて 古歌の好いところで、一首の綜合がそのために渾然とするのである。雨の降るのをナガ一フフ と云ってゐるのなども、他にも用例があるが、響きとしても實に好い響きである。 あき いま かな 秋さらば今も見るごと妻ごひに鹿鳴かむ山ぞ たかぬはら うへ 長皇子 高野原の上〔卷一・八四〕 長皇子 ( 天武天皇第四皇子 ) が志貴皇子 ( 天智天皇第四皇子 ) と佐紀宮に於て宴せられた時の 御歌である。御二人は從兄弟の關係になってゐる。佐紀宮は現在の生駒郡平城村、都跡村、 伏見村あたりで、長皇子の宮のあったところであらう。志貴皇子の宮は高圓にあった。高野 原は佐紀宮の近くの高地であっただらう。 一首の意は、秋になったならば、今二人で見て居るやうな景色の、高野原一帚に、妻を慕 って鹿が鳴くことだらう、といふので、なほ、さうしたら、また一段の風趣となるから、二 つま やま へいじゃう みあを

4. 萬葉秀歌 上巻

すべきであるが、人麿が作って哭れたといふ詭はどうであらうか。よく讀み味って見れば、 少し樂でもあり、手の足りないところもあるやうである。なほ二十三首のうちには次の如き もある。 朝日てる佐太の岡べに群れゐつつ吾が哭く涙やむ時もなし ( 一毛七 ) 御立せし島の荒磯を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも ( 一八一 ) あさぐもり日の入りぬれば御立せし島に下りゐて嘆きつるかも ( 一八八 ) そでか しきたへ きみたまだれ 敷妙の袖交へし君玉垂のをち野に過ぎぬ亦も 柿本人屆 逢はめやも〔卷二・一九五〕 かはしま はっ世べ おさかべ この歌は、川島皇子が薨ぜられた時、柿本人麿が泊瀬部皇女と忍坂部皇子とに獻った歌で ある。川島皇子 ( 天智天皇第二皇子 ) は泊瀬部皇女の夫の君で、また泊瀬部皇女と忍坂部皇子 とは御兄妹の御關係にあるから、人麿は川島皇子の薨去を悲しんで、御兩人に同時に御見ぜ 中したと解していい。『敷妙の』も、『玉垂の』もそれぞれ下の語に懸る枕詞である。『袖へ し』のカフは波行下二段に活用し、袖をさし交して寢ることで、『白妙の袖さし ~ 父へて靡き また 113

5. 萬葉秀歌 上巻

〔一〕あしひきの・やまのしづくに ( 大津皇子 ) : ・ 〔一二〕いにしへに・こふるとりかも ( 弓削皇子 ) : 〔二六〕ひとごとを・しげみこちたみ ( 但馬皇女 )•. ・ 〔いはみのや・たかっぬやまの ( 柿本ん麿 )••・ 〔一三三〕ささのはは・みやまもさやに ( 柿本人 )••・ 〔一三六〕あをこまの・あがきをはやみ ( 柿本人 )••・ 〔一四一〕いはしろの・はままつがえを ( 有間皇子 )••・ いへにあれば・けにもるいひを ( る間皇子 ) 〔一四セ〕あまのはら・ふりさけみれば ( 倭姫皇后 )••・ 〔一四 0 あをはたの・こはたのうへを ( 倭姻皇 k)••・ 〔一四凸ひとはよし・おもひやむとも ( 倭姫皇后 ) : 〔一大〕やまぶきの・たちよそひたる ( 高市皇子 )•• 〔一六一〕きたやまに・つらなるくもの ( 持統天皇 )•• 〔一六三〕かむかぜの ・いせのくににも ( 大來皇女 )•• 〔一六五〕うっそみの・ひとなるわれや ( 大來皇女 )••・ 〔一奕〕いそのうへに・おふるあしびを ( 大來皇女 )••• 〔一六九〕あかねさす・ひはてらせれど ( 柿本人窘 ) ・ : 〔しまのみや・まがりのいけの ( 杣ホ人 ).. ・ : ・ヘへ : ・九 0 ・九五 ・乙九 VlIi

6. 萬葉秀歌 上巻

ふので、『雲隱る』は、『雲がくります』 ( 卷三・四四一 ) 、『雲隱りにき』 ( 卷三・四六などの 如く、死んで行くことである。また皇子はこのとき、『金烏臨ニ西舍一苡聲催 = 短命泉路無ニ 賓主一此タ離」家向』といふ五言臨経一絶を作り、懷風藻に載った。皇子は夙くから文筆を 愛し、『詩賦の興は大津より始まる』と云はれたほどであった。 この歌は、臨繆にして、鴨のことをいひ、それに向って、『今日のみ見てや』と歎息して ゐるのであるが、斯く池の鴨のことを其體的に云ったために却って結句の『雲隱りなむ』が 利いて來て、『今日のみ見てや』の主觀句に無限の悲響が籠ったのである。池の鴨はその年 も以前の年の冬にも日頃見給うたのであっただらうが、死に臨んでそれに全性命を托された 御語氣は、後代の吾等の警嘆せねばならぬところである。有間皇子は、『ま幸くあらば』とい ひ、大津皇子は、『今日のみ見てや』といった。大津皇子の方が、人麿などと同じ時代なの で、主觀句に沁むものが出來て來てゐる。これは歌風の時代的變化である。契沖は代匠記で、 『歌ト云ヒ詩ト云ヒ聲フ呑テ涙フ掩フニ遑ナシ』と評したが、歌は有間皇子の御歌等と共に、 萬葉集中の傑作の一つである。また妃山皇女殉死の史實を隨伴した一悲歌として永久に遺 されてゐる。因に云ふに、山邊皇女は天智天皇の皇女、御母は蘇我赤兄の女である。赤兄大 臣は有間皇子が、『天與 = 赤兄一知』と答へられた、その赤兄である。 167

7. 萬葉秀歌 上巻

はままっ まさき また むす 磐代の濱松が枝を引結び眞幸くあらば亦か み 有間皇子 へう見む〔卷二・一四一〕 ありまカみこ 有間皇子 ( 孝德天皇皇子 ) が、齊明天皇の四年十一月、蘇我赤兄に欺かれ、天皇に紀伊の牟 の温泉 ( 今の湯崎温泉 ) 行幸をすすめ奉り、その留守に乘じて不軌を企てたが、事露現して 十一月五日却って赤兄のために捉へられ、九日紀の温湯の行宮に送られて共處で皇太子中大 兄の訊間があった。齊明紀四年十一月の條に、『於 / 是皇太子、親間二有間皇子一曰、何故謀反、 答曰、天一赤兄一知、吾全不レ解』の記事がある。この歌は行宮へ送られる途中磐代 ( 今の紀 伊日高郡南部町岩代 ) 海岸を通過せられた時の歌である。皇子は十一日に行宮から護送され、 かな 藤白坂で絞に處せられた。御年十九。萬葉集の詞書には、『有間皇子自ら傷しみて松が枝を 結べる歌二首』とあるのは、以上のやうな御事情だからであった。 一首の意は、自分はかかる身の上で磐代まで來たが、いま濱の松の枝を結んで幸を祈って 行く。幸に無事であることが出來たら、二たびこの結び松をかへりみよう、といふのである。 松枝を結ぶのは、草木を結んで幸輻をねがふ信仰があった。 いはしろ え ひ あかえ

8. 萬葉秀歌 上巻

あひだ もほゅ』、卷十五 ( 三七八五 ) に宅守の、『ほととぎす間しまし置け汝が鳴けば吾が思ふここ いたすべ ろ甚も術なし』があるが、皆人麿のこの歌には及ばないのみならず、人の此歌を學んだも のかも知れない。 もと やま さつを 鼠は木ぬれ求むとあしひきの山の獵夫にあ 志貴皇子 ひにけるかも〔卷三・二六七〕 し、のみこ 志貴皇子の御歌である。皇子は天智天皇第四皇子、持統天皇 ( 天智天皇第二皇女 ) の御弟、 光仁天皇の御父といふ御關係になる。 むささび 一首の意は、鼬鼠が、林間の相を飛渡ってゐるうちに、獵師に見つかって獲られてしまっ た、といふのである。 この歌には、何處かにしんみりとしたところがあるので、古來寓意説があり、徒らに大望 を懷いて失脚したことなどを寓したといふのであるが、この歌には、鼠の事が歌ってある のだから、第一に鼠の事を詠み給うた歌として受納れて味ふべきである。寓意の如きは の奥へ潛めて置くのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。さうして味へば、この歌 むささ 0

9. 萬葉秀歌 上巻

しらくも この歌は、卷四 ( 五一一 ) に重出してゐるし、又集中、『後れゐて吾が戀ひ居れば白雲の棚 引く山を今日か越ゆらむ』 ( 卷九・一六八一 ) 、『たまがつま島熊山の夕暮にひとりか君が山路越 あづま いきを ゆらむ』 ( 卷十二・三一九三 ) 、『息の緖に吾が思ふ君はが鳴く東の坂を今日か越ゆらむ』 ( 同・ 三一九四 ) 等、結句の同じものがあるのは注意すべきである。 あき たびびと 阿騎の野に宿る旅人うちなびき寐も寢らめや 柿本人屆 も古おもふに〔卷一・四六〕 ろのみこ ひなみし 輕皇子が阿騎野 ( 字陀郡松山町附近の野 ) に宿られて、御父日並知皇子 ( 草壁皇子 ) を憶せ られた。その時人の作った短歌四首あるが、その第一首である。輕皇子 ( 文武天皇 ) の御 印位は持統十一年であるから、此歌はそれ以前、恐らく持統六七年あたりではなからうか。 一首は、阿騎の野に今夜旅寐をする人々は、昔の事がいろいろ思ひ出されて、安らかに眠 りがたい、といふのである。『うち靡き』は人の寐る時の體の形容であるが、今は形式化せ られてゐる。『やも』は反語で、強く云って感慨を籠めてゐる。『旅人』は複數で、輕皇子を 主とし、從者の人々、その中に人營自身も居るのである。この歌は響に句々の搖ぎがあり、 や

10. 萬葉秀歌 上巻

やまと 我が背子を大和へ遣ると小夜更けてあかとき っゅ 露にわが立ち霑れし〔卷二・一 0 五〕大伯皇女 おほっのみこ ほくのひめみこ 大津皇子 ( 天武天皇第三皇子 ) が竊かに伊勢宮に行かれ、齋宮大伯皇女に逢はれた。皇子 が大和に歸られる時皇女の詠まれた歌である。皇女は皇子の同母姉君の關係にある。 一首は、わが弟の君が大和に歸られるを送らうと夜ふけて立ってゐて曉の露に霑れた、と アカトキッュ いふので、曉は、原文に鷄鳴露とあるが、鷄鳴 ( 四更丑刻 ) は午前二時から四時迄であり、 アカトキッュニ また萬葉に五更露爾 ( 卷十・一三一三 ) ともあって、五更 ( 寅刻 ) は午前四時から六時迄である ふけ あかとき から、夜の更から程なく曉に績くのである。そこで、歌の、『さ夜ふけてあかとき露に』の甸 が理解出來るし、そのあひだ立って居られたことをも示して居るのである。 大津皇子は天武天皇崩御の後、不軌を謀ったのが露はれて、朱鳥元年十月三日死を賜はっ た。伊勢下向はその前後であらうと想像せられて居るが、史實的には確かでなく、單にこの 歌だけを讀めば戀愛 ( 親愛 ) 情調の歌である。併し、別離の情が切實で、且っ寂しい響が一 首を流れてゐるのをおもへば、さういふ史實に關係あるものと假定しても味ふことの出來る