事は「鴨山後考」 ( 昭和十三年文學六 / 一 ) で發表した。 この歌は、謂はば人麿の辭世の歌であるが、いつもの人麿の歌程威勢がなく、もっと平几 でしっとりとした悲哀がある。また人麿は死に臨んで悟道めいたことを云はずに、ただ妻の ことを云ってゐるのも、なかなかよいことである。次に人麿の歿年はいつごろかといふに、 眞淵は和銅三年ごろだらうとしてあるが、自分は慶雲四年ごろ石見に疫病の流行した時では なからうかと察想した。さすれば眞淵詭より數年若くて死ぬことになるが、それでも四十五 歳ぐらゐである。
この一首の莊重な歌調は、さういふ手輕な心境では決して成就し得るものでないことを知ら ねばならない。抒情詩としての歌の聲調は、人を欺くことの出來ぬものである、爭はれぬも のであるといふことを、歌を作るものは心に愼み、歌を味ふものは心を引締めて、覺悟すべ きものである。現在でも電岳の上に立てば、三山をこめた大和平野を一望のもとに眼界に入 れることが出來る。人麿は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であったといふことを、吾等も ゃうやくにして知るに近いのであるが、賀茂眞淵此歌を評して、『岳の名によりてただに天 皇のはかりがたき御いきほひを中せりけるさまはただ此人のはじめてするわざなり』 ( 新探百 首解 ) と云ったのは、眞淵は人麿を理會し得たものの如くである。結句の訓、スルカモ、セ ひさおゅ スカモ等があるが、セルカモに從った。此は荒木田久老 ( 眞淵門人 ) の訓である。 いかづちゃまみや この歌、或本には忍壁皇子に獻ったものとして、『大君はにしませば雲隱る雷山に宮 たるみやこ 敷きいます』となってゐる。なほ『大君はにしませば赤駒のはらばふ田井を京師となし みぬまみやこ っ』 ( 卷十九・四二六 0 ) 、『大君は紳にしませば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ』 ( 同卷・四ニ 六一 ) 、『大君は飾にしませば眞木の立っ荒山中に海をなすかも』 ( 卷三こ一四一 ) 等の參考歌が ある。 右のうち卷十九 ( 四二六〇 ) の、『赤駒のはらばふ田井』の歌は、壬中亂平定以後に、大將
み、『今本、淸明の字を追て、すみあかくと訓しは、萬葉をよむ事を得ざるものぞ、紀にも、 淸白心をあきらけきこ、ろと訓し也』と云った。古義では、『アキ一フケクといふは古言にあ らず』として、キョクテリコソと訓み、明は照の誤寫だらうとした。なほその他の訓を記せ ば次のごとくである。スミアカリコソ ( 京大本 ) 。サヤケシトコソ ( 春滿 ) 。サヤケクモコソ ( 私 成 ) 。マサヤケクコソ ( 古泉千樫 ) 。サヤニテリコソ ( 佐佐木信綱 ) 。キョクアカリコソ ( 武田祐吉・ 佐佐木信綱 ) 。マサヤケミコソ ( 品田太吉 ) 。サヤケカリコソ ( 三矢重松・齋藤茂吉 , 森本治吉 ) 。キ ョフケクコソ ( 松岡靜雄・折ロ信夫 ) 。マサヤカニコソ ( 澤瀉久孝 ) 等の諸訓がある。けれども、 今のところ皆眞淵訓には及び難い感がして居るので、自分も眞淵訓に從った。眞淵のアキン ケクコソの訓は、古事記俥・略解・燈・檜嬬手・攷證・美夫君志・註疏・新考・講義 , 新講 等皆それに從ってゐる。ただ、燈・美夫君志等は意味を違へて取った。 さて、結句の『淸明己曾』をアキフケクコソと訓んだが、これに異論を唱へる人は、萬葉 時代には月光の形容にキヨシ、サヤケシが用ゐられ、アカシ、アキ一フカ、アキフケシの類は 絶對に使はぬといふのである。成程萬葉集の用例を見れば大體さうである。けれども『絶對 ヒッキハ アカシトイへ アガタ テリヤタマ に』使はぬなどとは云はれない。『日月波、安可之等伊倍騰、安我多米測、照哉多廱測奴』 ックョこ / アリ . 一 ( 卷五・八九二 ) といふ憶良の歌は、明瞭に日月の光の形容にアカシを使ってゐるし、『月讀明
とを前提とした想像詭である。そして、眞淵の如きも、『乂思ふに、幸の時は、近き國の民を めし課る事紀にも見ゅ、然れば前だちて八九月の比より遠江へもいたれる官人此野を過る時 よみしも知がたし』 ( 考 ) といふ想像説を既に作ってゐるのである。共に、同じく想像説なら ば、眞淵の想像説の方が、歌を味ふうへでは適切である。この歌はどうしても屬目の感じで、 想像の歌ではなからうと思ふからである。私かにおもふに、此歌はやはり行幸に供奉して三 河の現地で詠んだ歌であらう。そして少くも共年は萩がいまだ険いてゐたのであらう。氣温 の事は現在を以て當時の事を輕々に論斷出來ないので、切ち僻案抄に、『なべては十月には 花も過葉もかれにつ ( く ? ) 萩の、此引馬野には花も殘り葉もうるはしくてにほふが故に、 かくよめりと見るとも難有べからず。草木は氣運により、例にたがひ、土地により、遲速有 こと常のことなり』とあり、考にも、『此幸は十月なれど遠江はよに暖かにて十月に此花に ほふとしも多かり』とあるとほりであらう。私は、昭和十年十一月すゑに伊香保温泉で本萩 のいて居るのを見た。共の時伊香保の山には既に雪が降ってゐた。また大寳二年の行幸は、 尾張・美濃・伊勢・伊賀を經て京師に還幸になったのは十一月二十五日であるのを見れば、 恐らくその年はさう寒くなかったかも知れないのである。 また、『古にありけむ人のもとめつつ衣に措りけむ眞野の榛原』 ( 卷七・一一六六 ) 『白菅の眞
したが、併しこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや』と荒木川久老が信濃漫 録で云ったその模倣である。眞淵訓の『紀の國の山越えてゆけ』は、調子の弱いのは殘念で ある。この訓は何處か弛んでゐるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張してゐる。『吾 が背子』は、或は大海人皇子 ( 考・古義 ) で、京都に留まって居られたのかと解してゐる。そ して眞淵訓に假りに從ふとすると、『紀の國の山を越えつつ行けば』の意となる。紀の國の 山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた訷の森のところを、わ たくしも丁度通過して、なっかしくおもうてをります、といふぐらゐの意になる。 わがせこ かりほっく かや こまっしたかや 吾背子は假廬作らす草なくば小松が下の草を か 中皇命 苅らさね〔卷一・一一〕 中皇命が紀伊の温泉に行かれた時の御歌三首あり、この歌は第二首である。中皇命は前言 した如く不明だし、前の中皇命と同じ方かどうかも分からない。天智天皇の皇后蹊姫命だら うといふ説 ( 喜田博士 ) もあるが未定である。若し同じおん方だらうとすると、皇極天皇 ( 齊 明天皇 ) に當らせ給ふことになるから、この歌は後崗本宮御字天皇 ( 齊明 ) の處に配列せら
訓んだ。さうすれば、アキフケクコソア一フメといふ推量になるのである。山田博士の講義に、 『下にア一フメといふべきを略せるなり。かく係助詞にて止め、下を略するは一種の語格な とよみき とよあしはら とよほぎ とよあ、つしま とよくもぬのかみ り』と云ってある。『豐旗雲』は、『豐雲野紳』、『豐葦原』、『豐秋津州』、『豐御酒』、『豐祝』 などと同じく『豐』に特色があり、古代日本語の優秀を示してゐる一つである。以上のやう に解してこの歌を味へば、莊麗ともいふべき大きい自然と、それに參入した作者の氣餽と相 融合して讀者に迫って來るのであるが、如是莊大雄厳の歌詞といふものは、遂に後代には跡 を斷った。萬葉を崇拜して萬葉調の歌を作ったものにも絶えて此歌に及ぶものがなかった。 その何故であるかを吾等は一たび省ねばならない。後代の歌人等は、渾身を以て自然に參入 してその寫生をするだけの意力に乏しかったためで、この實質と單純化とが遂に後代の歌に は見られなかったのである。第三句、の『入日さし』と中止法にしたところに、小休止があり、 不印不離に第四句に績いてゐるところに歌柄の大きさを感ぜしめる。結句の推量も、赤いタ 雲の光景から月明を直覺した、素朴で人間的直接性を有ってゐる。 ( 願望とする説は、心が稍間 接となり、技巧的となる。 ) 『淸明』を眞淵に從ってアキ一フケクと訓んだが、これには番訓があって未だ一定してゐな い。舊訓スミアカクコソで、此は隨分長く行はれた。然るに眞淵は考でアキラケクコソと訓
トックニハナホサヤゲリトイへドモウチックニハヤスラケシ 同紀に、雖邊土米清餘妖荷梗而、中洲之地無風塵てふと同意なるにて知ぬ。かくてその隣と は、此度は紀伊國を也。然れば莫囂國隣之の五字は、紀乃久爾乃と訓べし。又右の紀に、 邊上と中州を對云しに依ては、此五字を外っ國のとも訓べし。然れども云々の隣と書しから は、遠き國は本よりいはず、近きをいふなる中に、一國をさ乂では此哥にかなはず、次下に、 三棆山の事を綜廱形と書なせし事など相似たるに依ても、猶上の訓を取るべし』とあり、な ソザウタ ほ眞淵は、『こは荷田大人のひめ哥也。さて此哥の初句と、齊明天皇紀の童謠とをば、はや き世よりよく訓人なければとて、彼童謠をば己に、此哥をばそのいろと荷田 ' 信名 , 宿禰に傳 へられき。共後多く年經て此調をなして、山城の稻荷山の荷田の家に間に、全く古大人の訓 に均しといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隱しおかば、荷田大人の功も徒に成なん と、我友皆いへればしるしつ』といふ感慨を漏らしてゐる。書紀垂仁天皇卷に、伊勢のこと うましくに を、『傍國の可怜國なり』と云った如くに、大和に隣った國だから、紀の國を考へたのであ っただらうか。 みもろヤマ メグラス 古義では、『三室の大相土見乍湯家吾が背子がい立たしけむ厳橿が本』と訓み、奠器圓」隣 モロノイッカシガモ でミモロと訓み、紳祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登を參考と イタッラゴト した。そして眞淵説を、『紀 , 國の山を超て何處に行とすべけむや、無坿説といふべし』と評 をツツュケ
〔一一六一一〕まとかたの・みなとのすどり ( 作者不詳 ) ・ : 〔一一六五〕ゅふなぎに・あさりするたづ ( 作者不詳 ) : ・ 〔二大〕いなみぬは・ゆきすぎぬらし ( 作者不詳 ) : ・ 〔一二六一一〕あしひきの・やまつばきさく ( 作者不詳 ) : ・ 〔三穴〕こらがてを・まきむくやまは ( 柿本人麿歌集 ) : 〔一三〕あすかがは・ななせのよどに ( 作者不詳 〔四一一六 0 〕おほきみは・かみにしませば ( 大伴御行 ) : ・ 拾麒抄 : 代匠記・ 僻案抄 : ・ 槻落葉 : ・ 略解、 參照註釋書略表 ・仙覺「萬葉集抄」 ・北村季吟「萬葉拾穗抄」 : ・契沖「萬葉代匠記」 ・ : 荷田春滿「萬葉集僻案抄」 ・ : 賀茂眞淵「萬葉考」 ・ : 荒木田久老「萬葉考槻蘒葉」 ・桶千陵「萬葉集略解」
いけ りびとめ いけ みや 島の宮がりの池の放ち鳥人目に戀ひて池に かづ 柿本人屆 潛かず〔卷二・一七〇〕 人麿が日並皇子殯宮の時作った中の、或本歌一首といふのである。『勾の池』は島の宮 の池で、現在の高市郡高市村の小學校近くだらうと云はれてゐる。一首の意は、勾の池に放 ち飼にしてゐた禽鳥等は、皇子曾のいまさぬ後でも、なほ人なっかしく、水上に浮いてゐて くぐ 水にることはないといふのである。 眞淵は此一首を、舍人の作のまぎれ込んだのだらうと云ったが、舍人等の歌は、がの二十 三首でも人の作に比して一般に劣るやうである。例、ば、『島の宮上の池なる放ち鳥荒び な行きそ君坐さずとも』 ( 一七二 ) 、『御立せし島をも家と住む鳥も荒びなゆきそ年かはるま で』 ( 一八 0 ) など、内容は類似してゐるけれども、何處か違ふではないか。そこで參考迄に 此一首を拔いて置いた。 はな うへ LII
してゐるのは偉いとおもふ。それから人詈は、第三句で小休止を置いて、第四句から起す手 法の傾を有ってゐる。そこで、伊藤左千夫が、『かへり見すれば』を、『俳優の身振めいて』 と評したのは稍見當の違った感がある。 あづまの 此歌は、訓がこれまで定まるのに、相當の經過があり、『東野のけぶりの立てるところ見 て』などと訓んでゐたのを、契沖、眞淵等のカで此處まで到達したので、後進の吾等はそれ を忘却してはならぬのである。守部此歌を評して、『一夜やどりたる曠野のあかっきがたの けしき、めに見ゆるやうなり。此かぎろひは旭日の餘光をいへるなり』 ( 緊要 ) といった。 とき みこと ひなみしみこ みかワた 日並の皇子の奪の馬竝めて御獵立たしし時は きむか 柿本人 來向ふ〔卷一・四九〕 これも四首中の一つで、その最後のものである。一首は、いよいよ御獵をすべき日になっ た。御なっかしい日並皇子なが御生前に群馬を走らせ御獵をなされたその時のやうに、いよ いよ御獵をすべき時になった、といふのである。 この歌も餘り細部にこだはらずに、おほゃうに歌ってゐるが、ただの腕まかせでなく、丁