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検索対象: 萬葉秀歌 上巻
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1. 萬葉秀歌 上巻

無事であることが出來たらといふのは、皇太子の試間に對して言ひ開きが出來たらといふ ので、皇子は恐らくそれを信じて居られたのかも知れない。『天と赤兄と知る』といふ御一 語は悲痛であった。けれども此歌はもっと哀切である。かういふ萬一の場合にのぞんでも、 たたの主觀の語を吐出すといふやうなことをせず、御自分をその儘素直にいひあらはされて、 そして結句に、『またかへり見む』といふ感慨の語を据ゑてある。これはおのづからの寫生 で、抒情詩としての短歌の態度はこれ以外には無いと謂っていいほどである。作者はただ有 りの儘に寫生したのであるが、後代の吾等がその技法を吟味すると種々の事が云はれる。例 へば第三句で、『引き結び』と云って置いて、『まさきくあらば』と績けてゐるが、そのあひ だに幾分の休止あること、『豐旗雲に入日さし』といって、『こよひの月夜』と績け、そのあ ひだに幾分の休止あるのと似てゐるごときである。かういふ事が自然に實行せられてゐるた めに、歌調が、後世の歌のやうな常識的平俗に墮ることが無いのである。 け いへ いひくさまくらた 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれは椎 有間阜子 の葉に盛る〔卷】一・一四二〕 は しひ

2. 萬葉秀歌 上巻

その つくよ 四 ) 、『誰が苑の梅の花かも久方の淸き月夜に幾許散り來る』 ( 卷十・二三二五 ) 等の例がある。 この赤人の『幾許も騒ぐ』は、主に群鳥の聲であるが、鳥の姿も見えてゐてかまはぬし、若 干の鳥の飛んで見える方が却っていいかも知れない。また、結句の『かも』であるが、名詞 から績く『かも』を据ゑるのはむづかしいのだけれども、この歌では、『ここだも騒ぐ』に績 けたから聲調が完備した。さういふ點でも赤人の大きい歌人であることが分かる。 きょ ひさきお ぬばたまの夜の深けぬれは久木生ふる淸き河 ちり 原に千鳥しば鳴く〔卷六・九二五〕山部赤人 あかめがしは 赤人作で前歌と同時の作である。『久木』は印ち歴木、楸樹で赤目柏である。夏、黄綠の ひさぎ 花が喰く。一首の意は、夜が更けわたると楸樹の立ちしげつてゐる、景色よい芳野川の川原 に、千鳥が頻りに鳴いて居る、といふのである。 この歌は夜景で、千鳥の鳴聲がその中心をなしてゐるが、今度の行幸に際して見聞した、 芳野のいろいろの事が念中にあるので、それが一首の要素にもなって居る。『久木生ふる淸 き河原』の句も、現にその光景を見てゐるのでなくともよく、寫象として浮んだのであら か 213

3. 萬葉秀歌 上巻

推測することが出來る。結句、原文『雲居立有良志』だから、クモヰタテルラシと訓んだが、 『有』の無い古鈔本もあり、從ってクモヰタッラシとも訓まれてゐる。この訓もなかなか好 いから、認容して鑑賞してかまはない。 ゆっき や、が。は あしひの山河の瀨の響るなべに弓月が嶽に くもた 柿本人歌集 雲立ち渡る「七。一〇八八〕 同じく柿本人麿歌集にある。一首の意は、近くの痛足川に水嵩が増して瀬の音が高く聞こ えてゐる。すると、向うの卷向の由槻が嶽に雲が湧いて盛に動いてゐる、といふので、二つ の天然現象を『なべに』で結んでゐる。「なべに』は、と共に、に連れて、などの意で、「雁 0 0 0 あす かすが がねの聲聞くなべに明日よりは春日の山はもみぢ始めなむ』 ( 卷十・二一九五 ) 、「もみぢ葉を散 0 0 0 よ らす時雨の零るなべに夜さへぞ寒き一人し寐れば』 ( 卷十・一三三七 ) 等の例がある。 この歌もなかなか大きな歌だが、天然現象が、さういふ荒々しい強い相として現出してゐ るのを、その儘さながらに表現したのが、寫生の極致ともいふべき優れた歌を成就したので ある。なほ、技術上から分析すると、上の句で、「の』音を績けて、迚績的・流動的に云ひ わた

4. 萬葉秀歌 上巻

そして榛の實の黒染説は、績日本紀の十月十一月といふ記事があるために可能なので、こ の記事さへ顧慮しないならば、萩の花として素直て鑑賞の出來る歌なのである。また績日本 紀の記載も絶對的だともいへないことがあるかも知れない。さういふことは少し我儘過ぎる 解釋であらうが、差し當ってはさういふ我儘をも許睿し得るのである。 さて、さうして置いて、萩の花を以て衣を薫染せしめることに定めてしまへば、此の歌の 自然で且っ透明とも謂ふべき快い聲調に接することが出來、一首の中に『にほふ』、『にほは せ』があっても、邪魔を感ぜずに受納れることも出來るのである。次に近時、『亂』字を四 段の自動詞に活用せしめた例が萬葉に無いとして『入り亂れ』と訓んだ詭 ( 澤瀉氏 ) がある が、既に『みだりに』といふ副詞がある以上、四段の自動詞として認容していいとおもった のである。且つ、『いりみだり』の方が響としてはよいのである。 次に、この歌は引馬野にゐて詠んだものだらうと思ふのに、京に殘ってゐて供奉の人を送 った作とする ( 武田氏 ) がある。印ち、武田博士は、『作者はこの御幸には留守をしてゐた ので、御供に行く人に與へた作である。多分、御幸が決定し、御供に行く人々も定められた準 備時代の作であらう。御幸先の秋の景色を想像してゐる。よい作である。作者がお供をして 詠んだとなす説はいけない』 ( 總釋 ) と云ふが、これは陰脣十月十日以後に萩が無いといふこ

5. 萬葉秀歌 上巻

至る弓从をなす入海を上代の田兄浦とする』とした。 ましろ 田兒の浦ゅうち出でて見れば眞白にぞ不盡の ゆきふ たかね 高嶺に雪は降りける〔卷三・三一八〕山部赤人 やま・ヘのナ ( ねあかひとふじのやま 山部宿禰赤人が不盡山を詠んだ長歌の反歌である。『田兄の浦』は、古へは富士・廬原の 二郡に亙った海岸をひろく云ってゐたことは前言のとほりである。『田兒の浦ゅ』の『ゅ』 は、『より』といふ意味で、動いてゆく詞語に績く場合が多いから、此處は『打ち出でて』に つづく。『家ゅ出でて三年がほどに』、『足痛の川ゅ行く水の』、『野坂の浦ゅ船出して』、『山 まいづも の際ゅ出雲の兒ら』等の用例がある。また『ゅ』は見渡すといふ行爲にも關聯してゐるから、 『見れば』にも績く。『わが寢たる衣の上ゅ朝月夜さやかに見れば』、『海人の釣舟浪の上ゅ 見ゅ』、『舟瀬ゅ見ゆる淡路島』等の例がある。前に出た、『御井の上より鳴きわたりゆく』 の『より』のところでも言及したが、言語は流動的なものだから、大體の約東による用例に 據って極めればよく、それも幾何學の證明か何ぞのやうに堅苦しくない方がいい。つまり此 處で赤人はなぜ『ゅ』を使ったかといふに、作者の行爲・位置を示さうとしたのと、『に』と 150

6. 萬葉秀歌 上巻

わた つくし しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ね 沙彌滿誓 ど暖けく見ゅ「卷三・三三六〕 かさのあそみまろ さみのまんぜいわた 沙彌滿誓が綿を詠じた歌である。滿誓は笠朝臣廱呂で、出家して滿誓となった。養老七年 滿誓に錻紫の観世音寺を造營せしめた記事が、績日本紀に見えてゐる。滿誓の歌としては、 ごと なにたと 『世の中を何に譬へむ朝びらき榜ぎ夫にし船の跡なきが如 ( 跡なきごとし ) 』 ( 卷三・三五一 ) といふ歌が有名であり、常時にあって佛敎的觀相のものとして新しかったに相違なく、また 作者も出家した後だから、さういふ深い感慨を意識して漏らしたものに相違なからうが、か ういふ思想的な歌は、縱ひ力量があっても皆成功するとは限らぬものである。この現世無常 の歌に較べると、筑紫の綿の方が一段上である。 この綿は、眞綿 ( 絹綿 ) といふ詭と棉 ( 木綿・もめん綿 ) といふ説とあるが、これは眞綿 の方であらう。眞綿説を唱へるのは、當時木綿は未だ筑紫でも栽培せられてゐなかったし、 題詞の『緜』といふ文字は唐でも眞綿の事であり、また、績日本紀に『護景雲三年三月乙 モナ 未、始毎年、運ニ太宰府綿二十萬屯一以輸一一京庫一』とあるので、九州が綿の産地であったこ あたた

7. 萬葉秀歌 上巻

しほみ わかうら 若の浦に潮滿ち來れば潟を無み葦邊をさして わた たづな 山部赤人 鶴鳴会渡る〔卷六・九一九〕 わかはま 赤人の歌績き。『若の浦』は今は和歌の浦と書くが、弱濱とも書いた ( 績紀 ) 。また聖武天 ひがた 皇のこの行幸の時、明光の浦と命名せられた記事がある。『渇』は干潟の意である。 一首の意は、若の汕にだんだん潮が滿ちて來て、千潟が無くなるから、干潟に集まってゐ た澤山の鶴が、葦の生えて居る陸の方に飛んで行く、といふのである。 やはり此歌も淸潔な感じのする赤人一流のもので、『葦べをさして鶴鳴きわたる』は寫象 鮮明で旨いものである。また聲調も流動的で、作者の氣乘してゐることも想像するに難くは ない。『渇をなみ』は、赤人の要求であっただらうが、微かな『理』が潛んでゐて、もっと 古いところの歌ならかうは云はない。例 ( ば、既出の高市黒人作、『櫻田 ( 鶴鳴きわたる年 魚潟瀚干にけらし鶴鳴きわたる』 ( 卷三・二七一 ) の如きである。つまり『潟をなみ』の第 = 一句が弱いのである。これはもはや時代的の差違であらう。この歌は、古來有名で、敘景歌 の極地とも云はれ、遂には男波・女波・片男波の聯想にまで擴大して通俗化せられたが、さ かた あしべ 210

8. 萬葉秀歌 上巻

「山背にて作れる』歌の一首である。「渡せを』の『を』は呼びかける時、命令形に附く 助詞で、「よ』に通ふ。一首は、字治河の岸に來て、船を渡せと呼ぶけれども、呼ぶのが聞 こえないらしい、榜いで來る櫂の音がしない、といふので、多分夜の景であらうが、字治の 急流を前にして、規模の大きいやうな、寂しいやうな變な氣持を起させる歌である。これは、 『喚ばへども聞えざるらし』のところにその主點があるためである。 あじろびと よどせ なほ此歌の處に、『宇治河は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ聲をちこち聞ゅ』 ( 一一三五 ) 、 たびゅ がて はやびと 「千早人字治川浪を淸みかも旅行く人の立ち難にする』 ( 一一三九 ) 等の歌もある。網代人は うぢ うち ちはや 網代のをする人。千早人は氏に績き、同音の字治に績く枕詞である。皆、旅中感銘したこ とを作ってゐるのである。 ありまやまゆふぎりた や りゐなぬ しなが鳥猪名野を來れば有間山タ霧立ちぬ宿 作者不詳 は無くして〔卷七・一一四〇〕 にほり 攝津にて作れる歌である。『しなが鳥』は猪名につづく枕詞で、しなが鳥印ち鳰鳥が、居 並ぶの居と猪とが同音であるから、猪名の枕詞になった。猪名野は攝津、今の豐能川邊兩郡 なら ゐな

9. 萬葉秀歌 上巻

御井のほとりを啼きながら飛んで行く、といふのである。 いにしへ 『古』印ち、過去の事といふのは、天武天皇の御事で、皇子の御父であり、吉野とも、ま た額田王とも御關係の深かったことであるから、そこで社鵑を機縁として追懷せられたのが、 『古に戀ふる鳥かも』といふ句で、簡淨の中に情緖充足し何とも言へぬ句である。そしてそ の下に、社鵑の行動を寫して、具體的現實的なものにしてゐる。この關係は藝術の常道であ るけれども、かういふ具合に精妙に表はれたものは極く稀であることを知って置く方がいい。 『弓弦葉の御井』は既に固有名詞になってゐたたらうが、弓弦葉 ( ゅづり葉 ) の好い樹が清 泉のほとりにあったためにその名を得たので、これは、後出の、『山吹のたちよそひたる山 淸水』と同様である。そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られてゐるのである。 『上より』は經過する意で、『より』、『ゅ』、『よ』等は多くは運動の語に績き、此處では『啼 きわたり行く』といふ運動の語に績いてゐる。この語なども古調の妙味實に云ふべからざる ものがある。既に年老いた纐田王は、この御歌を讀んで深い感慨にふけったことは既に言ふ ことを須ゐない。この歌は人麿と同時代であらうが、人麿に無い簡勁にして靜和な響をたた へてゐる。 いにしへ はととぎす 田王は右の御歌に『古に戀ふらむ鳥は霍公鳥けだしゃ啼きしわが戀ふるごと』 ( 卷ニ・一

10. 萬葉秀歌 上巻

0 いも いっしな ほはら 大原のこの市柴の何時しかと吾が念ス妹に今 よひあ 志貴皇子 夜逢へるかも〔卷四 " 五一三〕 いっしば いっしは 志貴皇子の御歌で『市柴』は卷八 ( 一六四三 ) に『この五柴に』とあるのと同じく、鰲っ た柴のことだといはれてゐる。『いっしかと』に績けた序詞だが、實際から來てゐる序詞で ある。『大原』は高市郡小原の地なることは既に云った。この歌で心を牽いたのは、『今夜逢 あまのがはかはと へるかも』といふ句にあったのだが、この句は、卷十 ( 一一〇四九 ) に、『天漢川門にをりて年 月を戀ひ來し君に今夜逢へるかも』といふのがある。 むし なほ、この卷 ( 五二四 ) に、『蒸ぶすまなごやが下に臥せれども妹とし寐ねば肌し寒しも』 といふ藤原廱呂の歌もあり、覺官的のものだが、皇子の御歌の方が感深いやうである。此等 の歌は取立てて秀歌といふ程のものでは無いが、ついでを以て味ふの便となした。 こよひ はだ 0 0 0