〔入三〕ひさかたの・あめのかぐやま ( 柿本人窘歌集 )••・ 二八一 0 こらがなに。かけのよろしき ( 柿本人麿歌集 ) : 〔一公一一〕はるがすみ・ながるるなべに ( 作者不詳 )••・ 〔一全五〕はるされば・きのこのくれの ( 作者不詳 ) : ・ 〔一分凸かすがぬに・けぶりたつみゆ ( 作者不詳 ) : ・ 〔一穴一 = 〕も当しきの。おほみやびとは ( 作者不詳 ) ・ : 〔一九一とはるさめに・ころもはいたく ( 作者不詳 ) ・ : 〔一を六〕うのはなの・さきちるをかゆ ( 作者不詳 ) ・ : 〔一一 0 九六〕まくずはら。なびくあきかぜ ( 作者不詳 ) : ・ 〔一一三 0 あきかぜに・やまとへこゆる ( 作者不詳 ) ・ : 〔三一宅〕あさにゆく。かりのなくねは ( 作者不詳 ) ・ : 〔三呈〕やまのべにゞいゆくさつをは ( 作者不詳・ 〔三人〕あきかぜの・さむくふくなべ ( 作者不詳 ) ・ : 〔三と〕あきはぎの・えたもとををに ( 作者不詳 ) : ・ 〔三合〕ながっきの・しぐれのあめに ( 作者不詳 ) 〔ニ一分〕おほさかを・わがこえくれば ( 作者不詳 ) ・ : 〔二一九 0 〕わがかどの・あさちいろづく ( 作者不詳 )•• 〔一 = 三さをしかの・つまよふやまの ( 作者不詳 ) ・ : ・四六 ・四六
つまりは同じことに歸著するのである。 きみ あさしぬはら かむなび 艸南備の淺小竹原のうるはしみ妾が思ふ君が こゑしる 作者不詳 をく〔卷十一・二士七四〕 の著ナ あさしぬはら 一首の、『神南備の淺小竹原のうるはしみ』は下の『うるはしみ』に績いて序詞となった。 併し現今も飛鳥の電岳あたり、飛鳥川滑岸に小竹林があるが、そのころも小竹林は繁って立 派であったに相違ない。當時の人 ( この歌の作者は女性の趣 ) はそれを觀察してゐて、『うる はし』に績けたのは、詩的力量として觀察しても驚くべく鏡敏で、特に『淺小竹原』と云っ アサジメ たのもこまかい觀察である。もっとも、この語は古事記にも、『阿佐士怒波良』とある。併 しる しそれよりも感心するのは、一首の中味である、『妾が思ふ君が聲の著けく』といふ句である。 をつと 自合の戀しくおもふ男、印ち夫の聲が人なかにあってもはっきり聞こえてなっかしいといふ ので、何でもないやうだが短歌のやうな短い抒情詩の中に、かう自山にこの氣持を詠み込む といふことはむつかしい事なのに、萬葉では平然として成し遂げてゐる。
あなた 悲しむのです、といふので、この歌の『人』は貴方といふぐらゐの意味である。この歌は女 としての心の働き方が特殊で、今までの相聞歌の心の動き方と違ふところがあっていい。こ の歌の長歌は、『敷島の大和の國に人さはに滿ちてあれども藤波の思ひ纏はり若草の思ひっ きにし君が目に戀ひやあかさむ長きこの夜を』 ( 三二四八 ) といふので、この反歌と餘り印き 過ぎぬところが旨いものである。この長歌の『人』は人間といふぐらゐの意だが、やはり男 といふ意味が勝ってゐるであらう。 略解で、『わがおもふ人のふたりと有ものならば、何かなげくべきと也』と云ったのは簡潔 ナラビョノナガニヒトリ′ ~ でいい。なほ、この短歌の、『人二人』云々につき、代匠記で遊仙窟の『天上無」雙入間有」一』 といふ句を引いてゐたが、この歌の作られた頃に、遊仙窟が渡來したか奈何も定めがたいし、 『人二人ありとし念はば』といふやうないひ方は相聞心の發露としてそのころでも云ひ得た ものであらう。明治新派和歌のはじめの頃、服部躬治氏は、『天地の間に存在せるはたゞ一一 人のみ。二人のみと觀ぜむは、夫婦それ自身の本能なり。觀ぜざるべからざるにあらず、お のづからにして觀ずべしとす。夫婦はしかも一體なり。大なる我なり。我を離れて天地あら ザ、天地の相は我の相なり。既に我の相を自識し、我の存在を自覺ぜらば、何をもとめて何 かなげかむ。我は長へに安かるべく、世は時じくに樂しかるべし。蓋しこの安心は絶對なり』 109
中に入れてある。『相見ては千歳や去ぬる否をかも我や然念ふ君待ちがてに』 ( 卷十一・二五三 九 ) の『否をかも』と同じである。古樸な民謠風のもので、二つの聯想も寧ろ原始的である。 それに、『降れる』といふところを『降らる』と訛り、『乾せる』といふところを『乾さる』 と訛り、『かも』といふ助詞を三つも繰返して調子を取り、流動性進行性の聲調を形成して ゐるので、一種の快感を以て勞働と共にうたふことも出來る性質のものである。『かなしき』 は、心の切に動く場合に用ゐ、此處では可哀いくて爲方のないといふ程に用ゐてゐる。气兄 ろ』の『ろ』は親しんでつけた接尾辭で、複數をあらはしてはゐない。この歌はなかなか愛 ナベきもので、東歌の中でもすぐれて居る。 ぬの イの事だが、 ニスは原文『爾努』で舊訓ニノ。仙覺抄でニヌと訓み、考でニヌと訓んだ。ⅱ 古鈔本中、『爾』が『企』になってゐるもの ( 類聚古集 ) があるから、さうすれば、キメと訓 きぬ むことになる。印ち衣となるのである。 しなぬ な こゑ 信濃なる須賀の荒野にほととぎす鳴く聲会け ときす ば時過ぎにけり〔卷十四・三三五二〕東歌 あらの いな 115
あめっちかた くに いざ子ども戲わざな爲そ天地の固めし國ぞや しまね まと島根は〔卷二十・四四八七〕 藤原仲屆 とよのあかり 天平寶字元年十一月十八日、内裏にて肆宴をしたまうた時、藤原朝臣仲麿の作った歌で ある。仲麿は印ち惠美押勝であるが、橘奈良麿等が仲麿の専横を惡んで事を謀った時に、仲 あんじん 途の安心を望むが如くであって、實は悲哀の心の方が深く滲みこんでゐる。また佛教的の本 性淸淨観をただ一氣にいってゐるやうで、實は病痾を背景とする實感が強いのであるから、 讀者はそれを見のがしてはならない。この歌と並んで、『渡る日のかげに競ひて尋ねてな清 きその道またも遇はむため』 ( 四四六九 ) といふ歌をも作ってゐる。『わたる日の影に競ひて』 は、日光のはやく過ぎゅくにも負けずに、印ち光陰を惜しんでの意。『またも遇はむため』は 來世にも亦この佛果に逢はむためといふ意で、やはりカづよいものを持ってゐる。かういふ ものになると一種の思想的抒情詩であるからむづかしいのだが、家持は一種の感傷を以てそ れを統一してゐるのは、既に古調から脱却せんとしつつ、なほ古調のいいものを保持してゐ るのである。 たは 195
大體以上の如くであるが、『垂水』を普通名詞とせずに地名だとする説があり、その地名 たるみ も攝津豐能郡の垂水、播磨明石郡の垂水の兩説がある。若し地名だとしても、垂水印ち小瀧 を寫象の中に入れなければ此歌は價値が下るとおもふのである。次に此歌に寓意を求める解 釋もある。『此御歌イカナル御懽有テョマセ給フトハシラネド、垂水ノ上トシモョマセ給 ( 、若帝ョリ此處フ封戸ニ加〈賜ハリテ悅バセ給〈ル歟。蕨ノ根ニ隱リテカヾマリフレル ガ、春ノ暖氣ヲ得テ萌出ルハ、實ニ悅コバシキ譬ナリ。御子白壁王不意ニ高御座ニ昇一ノセ給 ヒテ、此皇子モ田原天皇ト追曾セ一フレ給ヒ、皇統今ニ相ッヾケルモ此歌ニモトヰセルニヤ』 ( 代匠記 ) といひ、考・略解・古義これに從ったが、稍穿鑿に過ぎた感じで、寧ろ、『水流れ草 もえて萬物の時をうるを悅び給へる御歌なるべし』 ( 拾穗抄 ) の簡明な解釋の方が當ってゐる いははし とおもふ。なほ、『石走る垂水の水のしきやし君に戀ふらく吾が情から』 ( 卷十二・三 0 二五 ) といふ參考歌がある。 たるみ ミクラ
色を保存したいのである。 この歌は、志貴皇子の他の御歌同様、歌調が明朗・直線的であって、然かも平板に墮るこ となく、細かい顫動を伴ひつつ莊重なる一首となってゐるのである。御懽びの心が印ち、 『さ蕨の ~ 明えいづる春になりにけるかも』といふ一氣に歌ひあげられた句に象徴せられてゐ るのであり、」」 ハ瀧のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覺が極めて新鮮だからである・ この『けるかも』と一氣に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざで 込さ はない。集中、『昔見し象の小河を今見ればいよよ淸けくなりにけるかも』 ( 卷三・三一六 ) 、 こだか のぼ 『妹として二人作りし吾が山齋は木高く繁くなりにけるかも』 ( 卷三・四五一 D 、『うち上る佐保 の河原の靑柳は今は春べとなりにけるかも』 ( 卷八・一四三 = l) 、『秋萩の杖もとををに露霜おき ま - 」と 寒くも時はなりにけるかも』 ( 卷十・二一士〇 ) 、『萩が花吹けるを見れば君に逢はず眞も久にな くれなゐやしほ りにけるかもス卷十・二二八〇 ) 、『竹敷のうへかた山は紅の八入の色になりにけるかも』 ( 卷 十五・三七〇三 ) 等で、皆一氣に流動性を持った調べを以て歌ひあげてゐる歌であるが、萬葉 の『なりにけるかも』の例は實に敬服すべきものなので、煩をいとはず書拔いて置いた。そ して此等の中にあっても志貴皇子の御歌は特にその感情を俥へてゐるやうにおもへるのであ る。此御歌は皇子の御作中でも優れてをり、萬葉集中の傑作の一つだと謂っていいやうであ
上句は序詞で、中味は、『やまずも妹がおもほゆるかも』だけの歌で別に珍らしいもので はない。また、『山菅のやまずて君を』、『山菅のやまずや戀ひむ』等の如く、『山菅の・やま みづかけ ず』と績けたのも別して珍らしくはない。ただ、山中を流れてゐる水陰にながく靡くやうに すけ して群生してゐる菅といふ實際の光景、特に、『水陰』といふ語に心を牽かれて私はこの歌 を選んだ。この時代の人は、幽玄などとは高調しなかったけれども、かういふ幽かにして奧 深いものに觀入してゐて、それの寫生をおろそかにしてはゐないのである。此歌は人麿歌集 みづかけ 出だから人麿或ト期の作かも知れない。『あまのがは水陰草の』 ( 卷十・二 0 一三 ) とあるのも、 かういふ草の趣であらうか。 あ あさゆ きみ ゅふべき 朝去きてタは來ます君ゅゑにゆゅしくも吾は なげ 作者不詳 歎きつるかも〔卷十一一・一一八九三〕 『君ゅゑに』は、屡出てくる如く、『君によって戀ふる』、印ち『君に戀ふる』となるのだ が、もとは、『君があるゆゑにその君に戀ふる』といふ意であったのであらうか。一首の意は、 いまいま 朝はお歸りになってもタ方になるとまたおいでになるあなたであるのに、我ながら忌々しく
やまと とほ 秋風に大和へ越ゆる雁がねはいや遠ざかる雲 ゝくりつつ〔卷十・二一二八〕 作者不詳 『大和へ越ゆる』であるから、大和に接した國、山城とか、紀伊とか、或は旅中にあって、 遠く大和の方へ行く雁を見つつ詠んだものであらう。室遠く段々見えなくなる光景で、家鄕 をおもふ情がこもってゐるのである。初句の、『秋風に』といふ云ひ方は、簡潔で特色のある ものだが、後世かういふ云ひ方が繰返されたので陳麕になった。やはりこの卷 ( 二一三六 ) に、 『秋風に山飛び越ゆる雁がねの聲遠ざかる雲隱るらし』といふのがあるが、この方は聲を聞 いて、『雲がくるらし』と推量してゐるので、俥誦のあひだに變化して通俗的に分かりよくな ったものであらう。印ち二一三六の方が劣るのである。 あさ かり ごと おも 朝にゆく雁の鳴く音は吾が如くもの念へかも こゑかな 彝の悲し〔卷十・二一三士〕 作者不詳 あきかぜ かり
卷向の檜林は既に出た泊瀬の物林のやうに、廣大で且っ有名であった。その檜原に未だ雨 雲が掛かってゐないに、近くの松の稍にもう雪が降ってくる、といふ歌で、『うれゆ』の『ゅ』 は、『ながる』といふ流動の動詞に續けたから、現象の移動をあらはすために『ゅ』と使った・ 清え易いだらうが、勢ひづいて降ってくる沫雪の光景が、四三調の結句でよくあらはされて ゐる。この歌は人麿歌集出の歌たから、恐らく人麿自身の作てあらう。 しらかし えだ あしひ会の山道も知らず白橿の枝もとををに ゆきふ 柿本人歌集 雪の降れれば「卷十こ一三一五〕 これも人歌集出で、『山道も知らず』は道も見えなくなるまで盛に雪の降る光景だが、近 くにある白橿の樹の枝の撓むまで降るのを見てゐる方が、もっと直接だから、さういふ具合 にひどく雪が降ったといふのを原因のやうにして、それで山道も見えなくなったと云ひあら こだち はしてゐる。前に人麿の、『矢釣山木立も見えず降りみだる』 ( 卷三・二六一 l) 云々の歌があっ たが、歌調に何處かに共通の點があるやうである。この一首は、或本には三方沙彌の作にな ってゐるといふ左注がある。 はっせ やまぢ