卷第十七 〔一宅一三〕あしひきの・やまぢこえむと ( 狹野茅上娘子 ) ・ : 〔三当四〕きみがゆく・みちのながてを ( 狹野茅上娘子 ) ・ : 〔毛 = 一 D あかねさす・ひるはものもひ ( 中臣宅守 ) ・ : 〔一一耄己かへりける・ひときたれりと ( 狹野茅上娘子 ) ・ : 卷第十六 〔三大六〕はるさらば・かざしにせむと ( 壯士某 ) ・ : 〔一穴冥〕ことしあらば・をはっせやまの ( 娘子某 ) ・ : 〔三合七〕あさかやま・かげさへみゆる ( 前の采女某 ) ・ : 〔一穴岩〕てらでらの・めがきまをさく ( 池田朝臣 ) : 〔天四一〕ほとけつくる・まそほたらすは ( 大神朝臣 ).. ・ 〔天四六〕ほふしらが・ひげのそりぐひ ( 作者不詳 ) ・ : 〔三三〕わがかどに・ちどりしばなく ( 作者不詳 ) : 〔三九一五〕あしひきの・やまたにこえて ( 山部赤人 ) ・ : 〔一一三〕ふるゆきの・しろかみまでに ( 橘諸兄 ) : ・ 〔三九全〕たまくしげ・ふたがみやまに ( 大伴家持 ) ・ : : 一四六 : 一五四 : 六 : 一六 0
ゐるが、娘子の歌ほど聲調にゆらぎが無い。『天地の禪なきものにあらばこそ吾が思ふ妹に あれ とこやみ 逢はず死せめ』 ( 三七四〇 ) 、『逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日まで吾戀ひ居らむ』 ( 三士四一 D などにあるやうに、『天地の』とか、『常闇』とか詠込んでゐるが、それほど響 かないのは、おとなしい人であったのかも知れない。 ひときた 歸うける人來れとい秋しかはほとほと死に き君かと思ひて〔卷十五。三七七二〕狹野茅上娘子 娘子が宅守に贍った歌であるが、罪をゆるされて都にお歸りになった人が居るといふので、 嬉しくて死にさうでした、それがあなたかと思って、といふのであるが、天平十二年罪を赦 されて都に歸った人には穗積朝臣老以下數人ゐるが、宅守はその中にはゐず、續紀にも、『不 あやふ レ在 = 赦限ことあるから、此時宅守が歸ったのではあるまい。この『殆と死にき』をば、殆し の意にして、胸のわくわくしたと解する説もあり、私も或時にはそれに從った。併し、『天の 火もがも』を肯定するとすると、『ほとほと死にき』を肯定してもよく、その方がく切實 で却っておもしろいと思って今囘は二たびさう解釋することとした。この歌は以上選んだ娘 149
たまつま れ行きて歸り來るまで散りこすなゅめ』 ( 三士 OII) といふ歌を作って居り、對馬娘子、玉槻 やまべ といふ者が、『もみぢ葉の散らふ山邊ゅ榜ぐ船のにほひに愛でて出でて來にけり』 ( 三七〇四 ) といふ歌を作ったりしてゐる。天平八年夏六月、武庫浦を出帆したのが、對馬に來るともう 黄葉が眞赤に見える頃になってゐる。彼等が月光を詠じ黄葉を詠じてゐるのは、單に歌の上 の詩的表現のみでなかったことが分かる。對馬でこの玉槻といふ遊行女婦などは唯一の慰め であったのかも知れない。この一行のある者は歸途に病み、大使秘麿のごときは病歿してゐ る。また新羅との政治的關係も好ましくない切迫した背景もあって注意すべき一聯の歌であ ながっきもみぢ る。歸途に ) 『天雲のたゆたひ來れば九月の黄葉の山もうつろひにけり』 ( 三士一六 ) 。『大件 の御津の泊に船泊てて立田の山を何時か越え往かむ』 ( 三七二一 I) などといふ歌を作って居る・ やまぢこ あしひきの山路越えむとする君を心に持ちて やす 安けくもなし〔卷十五・三七二三〕狹野茅上娘子 なかとみのあそみやかもり さぬのちがみのをとめ 中臣朝臣宅守が、罪を得て越前國に配流された時に、狹野茅上娘子の詠んだ歌である。娘 子の博は審かでないが、宅と深く親んだことは是等一聯の歌を讀めば分かる。目録に藏部 とまり きみこころ
がも』などといふ語も比較的自然にロより發したのかも知れない。そして、『燒き亡ぼさむ てんくわ 天の火もがも』といふ句は、これだけを抽出してもなかなか好い句である。天火は支那では、 1 劫火などと似て、思ひがけぬところに起る火のことを云って居る。史記孝景本記に、『三年 正月乙巳大火燔 = 維陽東宮大殿城室一』とあり、易林に『天火大起、飛鳥警駭』とある如きで あめひ ある。併しその火が天に燃えてゐてもかまはぬだらう。いづれにしても『天の火』とくだい さね たのは好い。なほ娘子には、『天地の至極の内にあが如く君に戀ふらむ人は實あらじ』 ( 三七 五 0 ) といふのもある程だから、情熱を以て強く宅守に迫って來た女性だったかも知れない。 また贈答歌を通讀するに、宅守よりも娘子の方が巧である。そしてその巧なうちに、この女 性の息吹をも感ずるので宅守は氣乘したものと見えるが、宅守の方が受身といふ氣配がある ゃうである。 ものも あかねさす晝は物思秋ぬばたまの夜はすがら に哭のみし泣かゆ〔卷十五・三七三二〕中臣宅守 これは中臣宅守が娘子に贈った歌だが、この方は氣が利かない程地味で、骨折って歌って 0 0 0 0
しろい。また所謂萬葉的常套を脱してゐるのも注意せらるべく、萬葉末期の、次の時代への 移行型のやうなものかも知れぬが、さういふ師類の一つとして私は愛惜してゐる。そして天 平十年が家持二十一歳だとせば、書持はまだ二十歳にならぬ頃に作った歌といふことになる。 かはせと ねさ 書持の兄、家持が天平勝寶一一年に作った歌に、『夜くだちに寢覺めて居れば河觀尋め情も しぬに鳴く千鳥かも』 ( 卷十九・四一四六 ) といふのがある。この『河瀬尋め』あたりの観照の 具合に、『浮びゆくらむ』と似たところがあるのは、この一群歌人相互の影響によって發育 した歌境だかも知れない。 はら おほくち ゆき まがみ いへ 大口の眞の原に降る雪はいたくな降うそ家 もあらなくに〔卷八・一六三六〕 舍人娘子 とねりのをとめ 舍人娘子の雪の歌である。舍人娘子の傅は未詳であるが、卷二 ( 一一八 ) に舍人皇子に和へ 奉った歌があり、大寶一一年の持統天皇參河行幸從駕の作、『丈夫が獵矢たばさみ立ち向ひ射 まとかた る的形は見るにさやけし』 ( 卷一・六一 ) があるから、持統天皇に仕へた宮女でもあらうか。 まがみ 眞訷の原は高市郡飛鳥にあった原で、『大口の』は、狼 ( 眞訷 ) のロが大きいので、眞の枕 さつや こころ
0 かすがぬけぶりた をとめら はるぬ うはぎつ 春日野に煙立つ見ゅ域嬬等し春野の菟芽子採 みて煮らしも〔巻十・一八七九〕 作者不詳 うはぎ 菟芽子は卷二の人麿の歌にもあった如く、和名鈔に薺蒿で、今の嫁菜である。春日野は平 城の京から、東方にひろがってゐる野で、その頃人々は打連れて野遊に出たものであった。 『春日野の淺茅がう、に思ふどち遊べる今日は忘らえめやも』 ( 一八八〇 ) といふ歌を見ても 分かる。この歌で注意をひいたのは、野遊に來た娘たちが、嫁菜を煮て食べてゐるだらうと いふので、嫁菜などは現代の人は餘り珍重しないが、當時は野菜の中での上品であったもの らしい。和かな春の野に娘等を配し、それが野菜を煮てゐるところを以て一首を作ってゐる のが私の心を牽いたのであった。 ももしき おほみやびといとま 百礒城の大宮人は暇あれや梅を插頭してここ に集へる〔卷十・一八八三〕 作者不詳 つご
女嬬とあるから、低い女官であっただらう。一首の意は、あなたがいよいよ山越をして行か れるのを、しじゅう心の中に持ってをりまして、あきらめられず、不安でなりませぬ、とい ふ程の歌である。『君を心に持っ』は貴方をば心中に持っこと、心に抱き持っこと、戀しくて 忘れられぬこと、あきらめられぬことといふぐらゐになるが、『君を心に持っ』と具體的に云 ったので、親しさが却って增したやうにおもはれる。『吾妹子に戀ふれにかあらむ沖に住む うきね 鴨の浮宿の安けくもなし』 ( 卷十一・二八 0 六 ) 、『今は吾は死なむよ吾妹逢はずして念ひわたれ ば安けくもなし』 ( 卷十二・二八六九 ) 等、用例は可なりある。 ほろ あめ きみ ゅ みち ながて 君が行く道の長路を繰う疊ね燒会亡ばさむ天 侠野茅上娘子 の火もがも〔卷十五・三士二四〕 たぐ 同じく續く歌で、あなたが、越前の方においでになる遠い路をば、手繰りよせてそれを疊 てんくわ んで、燒いてしまふ天火でもあればいい。さうしたならあなたを引き戻すことが出來ませう、 といふ程の歌で、強く誇張していふところに女性らしい語氣と情味とが存じてゐる。娘子は 古歌などをも學んだ形跡があり、文藝にも興味を持っ才女であったらしいから、『天の火も や たた 7
こも いはき をはっせやま 事しあらは小泊瀨山の石城にも隱らは共にな おも わカせ 娘子某 思ひ吾背〔卷十六・三八〇六〕 むかし娘がゐたが、父母に知らせず竊かに一人の靑年に接した。靑年は父母の呵嘖を恐れ て、稍猶豫のいろが見えた時に、娘が此歌を作って靑年に與へたといふ傅説がある。『小泊瀬 いはき 山』の『を』は接頭詞、泊瀬山、今の初瀬町あたり一帶の山である。『石城』は石で築いた廓 で此處は墓のことである。この歌も普通の歌で、男がぐづぐづしてゐるのに、女が強くなる 心理をあらはしたものである。前の歌は實德の上からいへば、貞になり、これもまた貞の一 種になるかも知れない。親をも措いて男に從ふといふ強い心に感動せられて傅説が成立する こと、他の歌の例を見ても明かである。『な思ひ、我が背』の口調は強いが、女らしいい味 セム ひがある。毛詩に、『死則同レ穴』とあるのは人間共通の合致であるだらう。 こと
かざし 春さらば插頭にせむと我が思ひし櫻の花は散 りにけるかも〔卷十六・三七八六〕 壯士某 をとめ むかし櫻子といふ娘子がゐたが、二人の靑年に挑まれたときに、ひとりの女身を以て二つ の門に往き適ふ能はざるを嘆じ、林中に尋ね入ってつひに縊死して果てた。二人の靑年がそ れを悲しみ作った歌の一つである。櫻子といふ娘の名であったから、櫻の花の散ったことに なして詠んだ、取りたてていふ程のものでない、妻爭ひ傅説歌の一つに過ぎないが、素直に 歌ってあるので見本として選んで置いた。この俥詭は眞間の手兄名、葦屋の菟原處女の俥説 などと同じ種類のものである。『かざしにぜんとは、我妻にせんとおもひしと云心也』 ( 宗祗 抄 ) とある如く、また櫻兄といふ名であったから、『散りにけるかも』と云った。 卷第十六 癶一くらこ はる はな
こころよいこの春の野を燒くな。去年の冬枯れた古草にまじって、新しい春の草が生えて 來るから、といふので、『生ふるがに』は、生ふべきものだからといふぐらゐの意である。 『おもしろし』も今の語感よりも、もっと感に入る語感で、萬葉で柯怜の字を當ててゐるの を以ても分かる。こころよい、なっかしい、身に沁みる等と翻していい場合が多い。阿冷を 『あはれ』とも訓むから、その情調が入ってゐるのである。この歌の字面はそれだけたが、 この歌は民謠で、野の草を哀憐する氣持の歌だから、引いて人事の心持、古妻といふやうな 心持にも聯想が向くのであるが、現在の私等はあっさりと鑑賞して却って有谷な歌なのかも 知れない。 いねっ かが て との わくご 稻畚けば皹る我が手を今宵もか殿の稚子が取 東歌 て嘆かむ〔卷十四・三四五九〕 ひび 『皹る』は、皹のきれることで、アカガリ、アカギレともいふ。『殿の稚子』は、地方の國 守とか郡守とか豪族とかいふ家柄の若君をいふので、歌ふ者はそれよりも身分の賤しい農婦 として使はれてゐる者か、或は村里の娘たちといふ種類の趣である。一首の意は、積を春い かが なげ あ こよひ 131