野の菟子採みて煮らしも』 ( 卷十・一八七九 ) といふ歌のやうに - 直ぐ食用にして居る野菜とし て菫を聯想せずに、第一には可憐な菫の花のきつづく野を聯想すべきであり、また共處に 戀人などの關係があるにしても、それは奧にめる方が鑑賞の常道のやうである。 この歌で、『吾ぞ』と強めて云ってゐても、赤人の歌だから餘り目立たず、『野をなっかし み』といっても、餘り強く響かず、從って感情を強ひられるやうな點も少いのだが、そのう ちには少し甘くて物足りぬといふことが含まってゐるのである。赤人の歌には、『渇をなみ』、 『野をなっかしみ』といふやうな一種の手法傾向があるが、それが淸潔な聲調で綜合せられ てゐる點は、人の許す萬葉第一流歌人の一人といふことになるのであらうか。併しこの歌は、 富士山の歌ほどに優れたものではない。卷七 ( 一三三一 l) に、『磐が根の凝しき山に入り初め て山なっかしみ出でがてぬかも』といふ歌があり、これは寄」山歌だからかういふ表現にな るのだが、寧ろ民謠風に樂なもので、赤人の此歌と較れば赤人の歌ほどには行かぬのである。 けもも したごころ また、卷十 ( 一八八九 ) の、『吾が屋前の毛桃の下に月夜さし下心よしうたて此の頃』といふ 歌は、譬喩歌といふことは直ぐ分かって、少しうるさく感ぜしめる。此等と比較しつつ味ふ と赤人の歌の好いところもおのづから分かるわけである。なほ、赤人の歌には、この歌の次 に、『あしひきの山櫻花日ならべて斯く唹きたらばいと戀ひめやも』 ( 一四二五 ) ほか二首が つくよ
はっきりと、などの意で、この句はやはり一首にあっては大切な句である。なぜ家持はかう あが 当 - みまろ いふ歌を作ったかといふに、その時來た勠使 C 安倍沙美麿 ) が、『朝なさな揚る雲雀になり てしか都に行きてはや歸り來む』 ( 四四三三 ) といふ歌を作ったので共に和したものである。 勅使の歌が形式的申訣的なので家持の歌も幾分さういふところがある。併し勅使の歌がまづ いので、家持の歌が目立つのである。なほ此時家持は、『含めりし花の初めに來しわれや散 りなむ後に都へ行かむ』 ( 四四三五 ) といふ歌をも作ってゐるが、下の句はなかなか旨い。 つるぎたち いにしへさや 劍刀いよよ研ぐべし古ゅ淸けく負ひて来にし 大件家持 その名ぞ〔卷二十・四四六七〕 大伴家持は、天平勝寶八歳、『族に喩す歌』長短歌を作った。これは淡海眞人三船の讒言 によって、出雲大伴古慈悲が任を解かれた、古慈悲は大件の一家で寶龜八年八月に薨じた 者だが、出雲守を罷めさせられた時に家持がこの歌を作った。歌は句々緊張し、寧ろ悲痛の あたら おはろが 聲といふことの出來る程であり、長歌には、『聞く人の鑒にせむを惜しき淸きその名ぞ凡に むなことおや 心思ひて虚言も褪の名斷つな大伴の氏と名に負へる健男の伴』といふやうな句がある。この ま才らを 193
し けふふ ゆき あらたしき年の始めの初春の今日降る雪のい よごレ J や重け吉事〔卷二十・四五一六〕 大件家持 天平寶字三年春正月一日、因幡國廳に於て、國司の大伴家持が國府の島僚郡司等に饗した 時の歌で、家持は二年六月に因幡守に任ぜられた。『新しき』はアラタシキである。新年に 降った雪に瑞兆を託しつつ、部下と共に前途を祝語した、寧ろ形式的な歌であるが、「の』を 以て績けた、伸々とした調べはこの歌にふさはしい形態をなした。『いや重け吉事』は、益々 吉事幸輻が重なれよといふので、名詞止めにしたのも、やはりおのづからなる聲調であらう よごと か。また、『吉事』といふ語を使ったのも此歌のみのやうである。謝惠連の雪賦に、盈」尺財 呈 = 瑞於豐年一云々の句がある。 此歌は新年の吉祚歌であるばかりでなく、また萬葉集最後の結びであり、萬葉集編輯の最 大の功勞者たる家持の歌だから、特に選んで置いたのであるが、この「萬葉秀歌」で、最初 に選んだ、『たまきはる字智の大野に馬なめて』の歌に比して歌品の及ばざるを私等は感ぜ ざることを得ない。家持の如く、歌が好きで勉強家で先輩をび遜って作歌を學んだ者にし はじ はつはる 割 1
かすみ あめ かぐやま びさかたの天の香具山このゆスペ霞たなびく 柿本人歌集 春立つらしも〔卷十・一八一一一〕 春雜歌、人麿歌集所出である。この歌は、香具山を遠望したやうな趣である。少くも歌調 からいへば遠望であるが、香具山は低い山だし、實際は割合に近いところ、藤原京あたりか ら眺めたのであったかも知れない。併し一首全體は伸々としてもっと遠い感じだから、現代 の人はさういふ具合にして味ってかまはぬ。それから、『このタベ』とことわってゐるから、 はじめて霞がかかった、はじめて霞が注意せられた趣である。春立っといふのは暦の上の立 春といふのよりも、春が來るといふやうに解していいだらう。 この歌は或は人麿自身の作かも知れない。人麿の作とすれば少し樂に作ってゐるやうだが、 極めて自然で、佶屈でなく、人心を引入れるところがあるので、有名にもなり、後世の歌の 本歌ともなった。併しこの歌は未だ實質的で寫生の歌だが、萬葉集で既にこの歌を模倣した 卷第十
こころかな はるび ひはり うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも ひとり 大作家持 獨しおもへは〔卷十九・四二九二〕 同じく家持が天平勝寶五年二月二十五日に作ったものである。一首は、麗らかに照らして をる春の光の中に、雲雀が空高くのぼる、獨居して、物思ふとなく物思へば、悲しい心が湧 くのを禁じ難い、といふので、萬葉集の大部分の歌が對詠歌、相待的な愬への歌であるのに、 この歌は、不思議にも獨詠的な歌である。歌に、『獨しおもへば』といふのが共を證してゐ るが、獨居沈思の態度は既に支那の詩のおもかげでもあり、佛敎的靜觀の趣である。これ も家持の到り著いた一つの歌境であった。 前言にもいった天平二年の旅人宅の歌に、山上憶良の、『春されば先づ喰く宿の梅の花ひ とり見つつや春日くらさむ』 ( 卷五・八一八 ) には、ややこの歌と類似點があるが、それ以外の ものの多くは戀愛情調で、對者 ( 男女 ) を豫想したものが多い、從って人間的肉體的なもの が多い。然るにこの歌になると、すでにその趣がちがって、自然観入による、その反應とし ての詠歎になってゐる。 179
に續けて序詞とした。『我と笑まして』は吾と顏合せてにこにこして、吾と共ににこにこし ての意。一首の意は、わたしと御一しょにかうしてにこにこしておいでになるところを、人 に知られたくないのでけ、といふので、身體的に直接な珍らしい歌である。此は民謠風な讀 人不知の歌だが、後に大伴坂上郎女が此歌を模倣して、『靑山を横ぎる雲のいちじろく吾と 笑まして人に知らゆな』 ( 卷四・六八八 ) といふ歌を作った。これも面白いが、卷十一の歌ほど 身體的で無いところに差違があるから、どちらがよいか鑑別せねばならない。 道のべのいっしば歴のいつもいつも人の許さ むことをし待たむ〔卷十一・二士士〇〕作者不詳 この歌は、『人の許さむことをし待たむ』といふのが好いので選んだ。男が女の許すのを 待つ、氣長に待っ氣持の歌で、かういふ心情もまた女に對する戀の一表現である。この卷の、 『梓弓引きてゆるさずあらませばかかる戀にはあはざらましを』 ( 二五〇五 ) は、女の歌で、 やはり身を寄せたことを『許す』と云ってゐる。なほ、卷十二 ( 三一八 (l) に、『白妙の袖の 別は惜しけども思ひ亂れて苡しつるかも』といふのがある。この、」 " 苡す』は稍趣が違ふが、 ゆる
父褪の功績をおもひ現在自分の身上を顧みての感慨を吐露したものである。長歌には、『ま すらをや空しくあるべき』といふ句が入ったり、『足引の八峰踏み越えさしまくる心さやら ず後の代の語りつぐべく名を立つべしも』といふ句が入ったり、兎に角憶良の歌を模倣して ゐるのは、憶良の歌を讀んで感奮したからであらう。 二自の意は、大丈夫たるものは、まさに名を立つべきである。後代にその名を聞く人々が、 またその名を人々に語り傅へるやうに、さうありたいものだ、といふのである。『がね』は、 さういふやうにありたいと希望をいひ表はしてゐる。『里人も謂ひ繼ぐがねよしゑやし戀ひ あやめぐさ ても死なむ准が名ならめや』 ( 卷十二。二八七三 ) 、『白玉を包みてやらば菖蒲花橘にあへも貫く ゅャゑ がね』 ( 卷十八・四一 OII) 等の例がある。なほ笠金村が鹽津山で作った歌、『丈夫の弓上ふり 起し射つる矢を後見む人は語り繼ぐがね』 ( 卷三・三六四 ) があって、家持はそれをも取入れて 居る。つまり此一首は憶良の歌と金村の歌との模倣によって出來てゐると謂ってもいい程で ある。家持は先輩の作歌を讀んで勉強し、自分の力量を段々と積みあげて行ったものである が、彼は先輩の歌のどういふところを取り用ゐたかを知るに便利で且っ有益なる歌の一つで ある。憶良の歌の、『空しかるべき』は切質な句であるが、それは長歌の方に入れたから、こ れでは『名をし立つべし』とした。憶良の歌に少し及ばないのは既にこの二句の差に於てあ 173
しら ~ 、・もみ あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見 作者不詳 れど飽かぬかも〔巻十五 , 三六〇二〕 新羅に使に行く入新羅使以下の人々が、出帆の時には別を惜しみ、海上にあっては故鄕を 懷ひ、時には船上に宴を設けて『古歌』を吟誦した。その古歌幾つかが纏まって載ってゐる が、此歌もその一つで雲を詠じた歌だと注してある。一首は、奈良の都の上にたなびいて居 る、天の白雲の豐大な趣を讚美した歌であるが、作者も分からず、どういふ時に詠んだもの かも分かってゐない。ただ雲を詠んだものとして、豐かな大きい調子があるので吟誦にも適 し、また奈良の家鄕を偲ぶのにふさはしいものとして選ばれたものであらう。この新羅使は 天平八年であるが、その時にもうこの歌の如きは古調に響いたのであったのかも知れない。 此處に、人麿作五つばかり幾らか變化しつつ載って居り、左注でその事を注意してゐるとこ ろを見ると、この歌も、上の句の、『あをによし奈良の都に』の句は變化したもので、原作は、 卷第十五 みやこ あま 142
しをしを れを聞くとわが心萎々とする、といふのである。後世の歌なら、助詞などが多くて弛むと ころであらうが、そこを緊張せしめつつ、句と句とのあひだに、間隔を置いたりして、端正 で且っ感の深い歌調を全うしてゐる。『心も萎に』は、直ぐ、『白露の置く』に績くのではな く、寧ろ、『蟋蟀鳴く』に關聯してゐるのだが、そこが微妙な手法になってゐる。いづれにし ても、分かりよくて、平凡にならなかった歌である。 もみぢはこよひ やま うか あしひ会の山の黄葉今夜もか浮びゆくらむ山 大件書持 の瀨に〔卷八・一五八七〕 ふみもち 大津書持の歌である。書持は旅人の子で家持の弟に當る。天平十八年に家持が書持の死を 痛んだ歌を作ってゐるから大體その年に死去したのであらう。此一首は天平十年冬、橘宿禰 奈良麿の邸で宴をした時諸人が競うて歌を詠んだ。皆黄葉を内容としてゐるが書持の歌ひ方 が稍趣を異にし、夜なかに川瀬に黄葉の流れてゆく寫象を心に汀べて、『今夜もか汀びゆく らむ』と詠歎してゐる。ほかの人々の歌に比して、技巧の足りない穉拙のやうなところがあ って、何時か私の心を牽いたものだが、今讀んで見ても幾分象徴詩的なところがあっておも やま
いま わがせこひ ひとよひとひ やす 今は吾は死なむよ我背戀すれば一夜一日も安 けくもなし〔卷十二・一一九三六〕 作者不詳 一首の意は、あなたよ、もう私は死んでしまふ方が谷しです、あなたを戀すれば日は日ぢ ゅう夜は夜ぢゅう心の休まることはありませぬ、といふので、女が男に愬へた趣の歌である。 『死なむよ』は、『死なむ』に詠歎の助詞『よ』の添はったもので、『死にませう』となるの であるが、この詠歎の助詞は、特別の響を持ち、女が男に愬へる言葉としては、甘くて女の 聲その儘を聞くやうなところがある。この歌を選んだのは、さういふ直接性が私の心を牽い たためであるが、後世の戀歌になると、文學的に間接に墮ち却って惡くなった。 卷四 ( 六八四 ) 、大件坂上郎女の、『今は吾は死なむよ吾背生けりとも吾に縁るべしと言ふと いはなくに』といふ歌は、恐らく此歌の模倣だらうから、當時既に古歌として歌を作る仲間 わぎも に參考せられてゐたことが分かる。なほ集中、『今は吾は死なむよ吾妹逢はずして念ひわた わぎも れば安けくもなし』 ( 卷十二・一一八六九 ) 、『よしゑやし死なむよ吾妹生けりとも斯くのみこそ吾 が戀ひ渡りなめ』 ( 卷十三・三二九八 ) といふのがあり、共に類似の歌である。『死なむよ』の語 ニ一口 おも 加 0