防人 - みる会図書館


検索対象: 萬葉秀歌 下巻
34件見つかりました。

1. 萬葉秀歌 下巻

で、その言ひ方が如何にも素朴直截で愛誦するに堪ふべきものである。このいひ方は卷十四 の東歌に見るやうな民謠風なものだから、或はさういふ既にあったものを書き記して通告し ちぶみ たとも取れるが、若しこの千文といふ者が作ったとすると、東歌なども東國の人々によって あもししことまを 作られたことが分かり、興味も亦深いわけである。『旅行に行くと知らずて母父に言中さす くや て今そ悔しけ』 ( 四三七六 ) の結句が、『悔しき』の訛で、『かなしき』を『かなしけ』と云っ たのと同じである。 かみ かしま すめらみくさ われ あられ降鹿島のを商らつつ皇御軍に吾は 防人 來にしを〔卷二十・四三七〇〕 前と同じ作者である。鹿島の前は、現在茨城縣鹿島郡鹿島町に鎭座する官整大社鹿島紳宮 たけみかづらのみこと で、祭は武甕槌命にまします。千葉縣香取郡取町に鎭座する官大社香取宮 C 祭 ふつぬしのみこと いはひぬしのみこと 經津主命印ち伊波比主命 ) と共に、軍として古代から崇敬至ったものであった。防人等 は九州防衞のため出發するのであるが、出發に際しまた道すがらその武運の長久を祈願した のであった。土屋文明氏によれば、常陸の國府は今の石岡町にあったから、そこから鹿島郡 188

2. 萬葉秀歌 下巻

卷第二十 〔四一一九一一一〕あしひきの・やまゆきしかば ( 元正天皇 )•• 〔四三 0 五〕このくれの。しげきをのヘを ( 大伴家持 ) ・ 〔四三毛〕わがつまも・ゑにかきとらむ ( 防人 ) : 〔四三一一 0 おほきみの・みことかしこみ C 防人 ) : ・ 〔四一一西九〕ももくまの・みちはきにしを ( 防人 ) ・ : 〔豊五とあしがきの・くまどにたちて ( 防人 ) : 〔四三大〕おほきみの・みことかしこみ ( 防人 ). : 〔四三充〕つくばねの・さゆるのはなの ( 防人 )••・ 〔四一 = 吉〕あられふり・かしまのかみを ( 防人 ) : 〔四四 C とひなぐもり・うすひのさかを ( 防人 ) ・ : 〔四四一一五〕さきもりに・ゆくはたがせと ( 防人の妻 )••・ 〔四四三一〕ささがはの・さやぐしもよに ( 防人 )•• 〔四四一一一巴ひばりあがる・はるべとさやに ( 大伴家持 ) : ・ 電一合〕はるのぬに・かすみたなびき ( 大伴家持 ) : ・ 〔四一一九一〕わがやどの・いささむらたけ ( 大伴家持 ) : 〔四一一九一一〕うらうらに・てれるはるびに ( 大伴家持 ) : : 一へ四 : 一七六 Xli

3. 萬葉秀歌 下巻

0 さ一キ : も - り・ ひと 防人に行くは誰が夫と間ス人を見るが羨しさ ものも 防人の妻 物思びもせず〔卷二十・四四二五〕 昔年の防人の歌といふ中にあるから、天平勝寶七歳よりもずっと前のものだといふことが 分かる。またこれは防人の妻の作ったもののやうである。一首は、見おくりの人だちの立こ んだ中に交って、防人に行くのは誰ですか、どなたの御亭主ですか、などと、何の心配もな く、たづねたりする人を見ると羨しいのです、といふので、さういふ質間をしたのは女であ ったことをも推測するに難くはない。まことに複雜な心持をすらすらと云って除けて、これ だけのそっの無いものを作りあげたのは、さういふ悲歎と羨望の心とが張りつめてゐたため であらう。『物思ひもせず』と止めた結句も不思議によい。 し、もよ ころも ささ 小竹が葉のさやぐ霜夜に七重著る衣にませる はだ 防人 子ろが膚はも〔卷二十・四四三こ せ ななへか み トも 191

4. 萬葉秀歌 下巻

などのたぐひをいふ。『まなといふ兄』は、可哀いと評判されてゐる娘といふことである。 そこで一首は、山澤人だち ( 序詞 ) おほぜいの人々が美しい可哀いと評判してゐるあの娘は、 私にはこの上もなく可哀い、戀しい、といふのである。この歌も普通と違ったところがある 9 自分の戀してゐるあの娘は人なかでも評判がいいといふので内心喜ぶ心持もあり、人なかで 評判のいい娘を私も戀してゐるので不安で苦しくもあるといふ氣持もあるのである。山間に 住ついて働く人々の中にかういふ民謠があったものと見える。『多廱河に曝す手作さらさら なに に何ぞこの兄のここだ愛しき』 ( 三三七三 ) 、『高麗錦紐解き放けて寢るが上に何ど爲ろとかも かな くへご あやに愛しき』 ( 三四六五 ) 、『垣越しに麥食む小馬のはつはつに相見し兄らしあやに愛しも』 ( 三五三士 ) 等の例がある。 うゑたけ よ いづしむ 植竹の本さへ響み出でて去なば何方向きてか いも なげ 妹が嘆かむ〔卷十四・三四七四〕 東歌 ねもと 『植竹の』は竹林のことで、竹の根本から『本』、の枕詞とした。家ぢゅう大騒ぎして私 が旅立ったら、妻は嘸歎き悲しむことだらう、といふので、代匠記以來、防人などに出立の

5. 萬葉秀歌 下巻

これも昔年の防人歌だと注せられてゐる。一首は、笹の葉に冬の風が吹きわたって音する ゃうな、寒い霜夜に、七重もかさねて著る衣の暖かさよりも、戀しい女の膚の方が暖い、と いふので、膚を中心として、『膚はも』と詠歎したのは覺官的である。また當時の民間では、 七重の衣といふ言葉さ〈羨しい程のものであっただらうから、かういふ云ひ方も傅はってゐ るのである。この歌も民謠風で防人が出發する時の歌などに似ないこと、前に出した、『か なしけ妹ぞ晝もかなしけ』 ( 四三六九 ) の場合と同じである。ただの東歌に類した民謠をば、 いはれのいみきもろきみ 蒐集した磐余伊美吉諸君が、進上された儘に防人の歌としたものであらう。 ひはり 雲雀あがる春べとさやになりぬれは都も見え かすみ ず霞たなび く〔卷二十。四四三四〕 大伴家持 これは家持作だが、天平勝寶七歳三月三日、防人を扮技する勅使、井に兵部使人等、同に 、 ) た住 集 ( る飮宴で、兵部少輔大伴家持の作ったものである。一首は、雲雀が天にのぼるやうな、 春が明瞭に來たのだから、都も見えぬまでに霞も棚びいてゐる、といふので、調がのびのび として、苦澁が無く、淸朗とでもいふべき歌である。『さやに』は淸に、明かに、明瞭に、 〇 はる みやこ 192

6. 萬葉秀歌 下巻

大伴家持が霍公鳥を詠んだもので、蒼と木立の茂ってゐる山の上に霍公鳥が今鳴いてゐ る、あの峰を越して間も無く此處にやって來るらしいな、といふので、氣輕に作った獨詠歌 だが、流石に練れてゐて旨いところがある。それは、『鳴きて越ゅなり』と現在をいって、そ れに主點を置いたかと思ふと、おのづからそれに績くべき、第二の現在『今し來らしも』と 置いて、一首の一番大切な感慨をそれに寓せしめたところが旨いのである。霍公鳥の歌は高 葉には隨分あるが、此歌は平淡でおもしろいものである。家持の作った歌の中では晩期のも のだが、稍自在境に入りかかってゐる。 わ つま あれ たびゅ 我が妻も畫にかきとらむ暇もが旅行く我は見 しぬ 防人 つつ偲ばむ〔卷二十・四三二士〕 天平寶七歳二月、坂東諸國の防人を筑紫に派遣して、先きの防人と交替せしめた。その ながのしも 時防人等が歌を作ったのが一群となって此處に輯録せられてゐる。此歌は長下郡、物部古 といふ者の作ったものである。一首は、自分の妻の委をも、畫にかいて持ってゆく、その描 く暇が欲しいものだ。遙々と邊土の防備に行く自分は、その似顏繪を見ながら思出したいの いつま ふるまろ 3

7. 萬葉秀歌 下巻

『雲の上ゅ鳴き行く鶴の』は『間遠く』に續く序詞であるから、一首は、あの娘とは昨晩 寢たばかりなのに、たいぶ日數が立ったやうな氣がするな、といふので、かういふ發想は東 欹でないほかの歌にもあるけれども、『雲の上ゅ鳴き行く鶴の』は、なかなかの技巧である。 さきもり かなとで 防人に立ちし朝けの金門出に下れ惜しみ きし兒らはも〔卷十四・三五六九〕 東歌・防人 未勘國防人の歌。『』は既にあったごとく『門』である。『手放れ』は手離で、別れる ことだが、別れに際しては手を握ったことが分かる。これは人間の自然行爲で必ずしも西洋 とは限らぬ。そこで、此處は、『た』は添辭とせずに、『手』に意味を持たせるのである。併 しそれは字面の間題で、實際の氣持は別を惜しむことで、そこで、『泣きし兄らは翦』が利く のである。これは、君命を帶びて邊土の防備に行くのだが、その別を悲しむ歌である。これ の も彼等の眞實の一面、また、『大君のにこそ死なめ和には死なじ』も眞實の一面てある。全 體がめそめそばかりではないのである。 あさ 138

8. 萬葉秀歌 下巻

さむゅふべな かも ゅふぎりた 葦の葉にタ霧立ちて鴨が音の寒きタし汝をば しぬ 東歌・防人 偲はむ〔卷十四・三五七〇〕 これ防人の歌で、葦の葉にタ霧が立って、そこに鴨が鳴く、さういふ寒い晩には、とい ふので、具象的にいってゐる。そして、『汝をば偲ばむ』といふのだから、いまださういふ場 合にのぞまない時の歌である。東歌の歌調に似ない巧なところがあるから、幾らか指導者が あったのかも知れない。併しもとの作はやはり防人本人で、哀韻の迫ってくるのはそのため であらう。『葦ペゆく鴨の羽交に霜ふりて寒きタは大和しおもほゅ』 ( 卷一・六四 ) といふ志貴 子の御歌に似てゐる。 0 東歌の選鈔は大體右の如くであるが、東歌はなほ特殊なものは幾つかあり、秀歌といふ程 でなくとも、注意すべきものだから次に記し置くのである。 なるさはごと さ寢らくはたまの緖ばかり戀ふらくは富士の高嶺の鳴澤の如 ( 三三五八 ) 足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに兄ろが言はなくに ( 三三六八 ) 0 139

9. 萬葉秀歌 下巻

だ、といふので、歌は平凡だが、『我が妻も畫にかきとらむ』といふ意嚮が珍らしくもあり、 人間自然の意嚮でもあらうから、此に選んで置いた。『父母も花にもがもや草枕旅は行くと ささ も擎ごて行かむ』 ( 四三二五 ) も意嚮は似てゐるが、この方には類想のものが多い。また、『母 いただ みづら 刀自も王にもがもや頂きて角髮の中にあへ纏かまくも』 ( 四三七七 ) といふのもある。 ちちはは 大君の命かしこみ磯に觸海わたる父母を 防人 置きて〔卷二十・四三二八〕 はつか・ヘの表やっこひとまろ これも防人の歌で、助丁、丈部誥人麿といふ者が作った。一首は、天皇の命を畏こみ 體して、船を幾たびも磯に觸れあぶない思をし、また浪あらく立っ海原をも波って防人に行 父も母も皆國元に殘して、といふのであるが、かしこみ、觸り、わたる、おきてといふ 具合に稍小きざみになってゐるのは、作歌的修練が足りないからである。併し此歌では、『磯 に觸り』といふ語と、『父母を置きて』といふ語に心を牽かれて取っておいた。この男は妻 のことよりも『父母』のことが第一身に應へたのであっただらう。また『磯に觸り』の句は 1 かへ かへ 『大船を榜ぎの進みに磐に觸り覆らば覆れ妹によりてば』 ( 卷四・五五七 ) といふ例があるが、 おほきみみこと いそ は

10. 萬葉秀歌 下巻

『磯毎にあまの釣舟泊てにけり我船泊てむ磯の知らなく』 ( 参十七・三八九一 l) があるから、幾 度も碇泊しながらといふ意もあるだらう。しかし『觸り』に重きを置いて解釋してかまはな い。一寸前にも云ったが、防人の歌に父母のことを云ったのが多い。『水鳥の立ちのいそぎ ものは に父母に言ず來にて今ぞ悔しき』 c 四三三七 ) 、『忘らむと野行き山行き我來れど我が父母は みえり 忘れぜぬかも』 ( 四三四四 ) 、『橘の美衣利の里に父を置きて道の長道は行きがてぬかも』 ( 四三 かしら 四一 ) 、『父母が頭かき撫で幸く在れていひし言葉ぞ忘れかねつる』 ( 四三四六 ) 等である。 〇 みち さら やそします 百隈の道は來にしをまた更に八十島過ぎて別 れか行かむ〔卷二十・四三四九」 防人 すけのよにろおさ 3 べのあたひみぬ 防人、助丁刑部直三野の詠んだ歌である。一首の意は、これまで陸路を遙々と、いろ いろの處を通って來たが、これからいよいよ船に乘って、更に多くの島のあひだを通りつつ、 とほく別れて筑紫へ行くことであらうといふので、難波から船出するころの歌のやうである。 専門技倆的に巧でないが、眞卒に歌ってゐるので人の心を牽くものである。この歌には言語 の訛が目立たず、聲調も順當である。 わか